2018年6月25日月曜日

トヨタ、NECが難題解決で頼った「ある学問」とは?

トヨタ、NECが難題解決で頼った「ある学問」とは?

週刊ダイヤモンド』6月30日号の第一特集は「必修 使える!数学」です。「数学」という言葉を聞くだけで、嫌になる人も多いかもしれません。ですが、AI(人工知能)や仮想通貨、自動運転とはじめとする、未来を変える技術の根幹は数学の塊。未来を先取りしたい企業たちが、数学の世界にどっと押し寄せてきています。

トヨタ、NECが難題解決で頼った
イノベーションを生む数学

トヨタやNECが難題解決で頼り、メルカリでは“部活”もやっているという「学問」とは?
 6月18日、仙台市の東北大学材料科学高等研究所。日米から選ばれた10人の学生・大学院生たちに、二つの課題が提示された。
「次世代エネルギーとモビリティプラットフォームのデザイン」
「産業用IoT(モノのインターネット)向けの信頼性の高い無線ネットワークシステムの構築」
 まるで未来の社会の姿を占うようなテーマで、どう手を付けていいのかさえ悩む難問だろう。この難題を解決してもらおうと、数学を扱う若き才能に頼ったのはトヨタ自動車とNECである。
 この日始まったのは、学生が数学を使って企業が出した課題に取り組む教育プログラム「GRIPS-仙台」だ。参加者たちは二つのグループに分かれ、今後約2ヵ月間にわたって集中的に課題に向き合う。学生側の負担は時間だけ。企業は課題を解いてもらう代わりに、滞在費などを支援する。
 GRIPSの元となったRIPSは、米カリフォルニア大学ロサンゼルス校の純粋応用数学研究所(IPAM)が17年前に始めたプログラムだ。
 米国でこれまで参加したスポンサーは、グーグルやIBM、ツイッター、ウォルト・ディズニー・カンパニーといった大企業や、ロスアラモス研究所、米空軍研究所、ロサンゼルス市警察など一流ぞろい。過去には人工衛星の最適な配置や、警察官と職務質問した相手との会話が激しさを増すタイミングを探る問題が出たという。https://diamond.jp/articles/-/173149

ゼロ除算の発見は日本です:
∞???
∞は定まった数ではない・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:

とても興味深く読みました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所


ゼロ除算関係論文・本

再生核研究所声明327(2016.10.18)  数学教育についての提案
次で、数学教育の重要性、効用性について触れている:

再生核研究所声明313(2016.08.01) 良い数学教育の推進を
― 数学を通して、人類が交流でき、世には道理、秩序が 存在すると理解できるだろう。分かり易いスポーツを通して、ドラマを見て、芸術を通して理解するは 世に多いが、数学の効用をここでは強調したい。道理、秩序に対する認識には 数学の効用は大きく、上記 公正の原則の理解にも 大きく寄与するのではないだろうか。数学教育の充実を国際的な視点で提案したい。その留意点を纏めて置きたい:
1) 世には共通の論理があることを理解し、論理的な思考を学習する。
2) 数学の論理的な面には、美しさとuniverseの、世の秩序を述べていることを学ぶ。
3) 非ユークリッド幾何学の出現過程を良く学び、真理を追求する精神感情と論理の関係を学ぶ。批判精神、理性、客観性について学ぶ。予断と偏見、思い込み、囚われやすい人間の精神を掘り下げる。
ここで、数学教育の充実とは、いわゆる数学の学力、問題解決に重点をおいた従来の学習ではなく、上記のような数学教育を通して身に付く数学の精神に重点をおいた教育である。他方数学の学力を付けることに偏りすぎたり、学力を競争させたりして 世に多くの数学嫌いな人たちを育てていることを大いに反省したい。数学の美しさ、楽しさを教えることが第一であると心がけなければならない。
数学愛好者の増大は かつて和算が広く民衆に普及していたように、環境にも優しく、人間の修行にも、精神衛生上も、また創造性を養い、考える力を育成するにも大いに貢献するのではないだろうか。囲碁や将棋、歌会、俳句会など良い趣味集団を構成しているが、数学愛好者クラブなど大いに進められるべきではないだろうか。新聞やテレビ、マスコミ、週刊誌などでもどんどん話題を取り上げ、また奨励されるべきではないだろうか。社会の浄化と低俗化防止にも貢献するのではないだろうか。―

と述べた。古くはプラトン学派の門に、幾何学知らざる者この門をくぐるべからず、ナポレオンが軍隊を強くするには数学の教育が大事であると述べていることや、現中国政府の数学重視の姿勢も注目される。
ここでは、明確な提案が閃いたので纏めて置きたい。まず現状の分析と問題であるが、数学は選別、能力を評価する重要な科目になっていて、受験勉強の強い枠に縛られてカリキュラムは相当に厳格に範囲が定められている。そのため限られた範囲での特訓の要素が強く、現実には理想的な教育の有り様からの乖離が甚だしい状態と言える。標語的には、ゆっくり面白いところを追求しようとすれば、そんなことでは、時間内に解答できない、そのようなものは型として、このように対応すれば良いと、薄っぺらな教育内容になり、多くの場合才能ある学生の みずみずしい知的好奇心 を失なわせ、薄っぺらな学習で数学そのものを嫌う学生を多く育てている現実があると考えられる。これは創造性や好奇心を育てる教育と いわゆる学力をつけるための勉強の乖離の問題である。さらに顕著な事実として、高校までの数学と大学での数学の大きな乖離は 相当に広く認められる現象ではないだろうか。多くの高校生は、大学に入って、数学とはそんなに広く、深く、雄大なものであるかと知って驚くのではないだろうか? また、教育現場の感じも相当に違う感じを受けるだろう。
― このような乖離は、研究成果と学部教育の内容についても言えることに注意しておきたい ―。
背に腹は変えられない、受験勉強は無視できない現実であるから、この問題を改善する具体的な提案として、例えば、週1時間とか、月1時間、カリキュラムにとらわれない数学の時間を用意して、カリキュラムに関係する素材や、新しい話題、面白い歴史的な話題から題材をとり、本来数学の教育に求められるような方向での教育を行うようにする。このような時間は、先生の新鮮な研究、研修にも繋がる面があって 先生の柔軟な精神の涵養にも良いのではないだろうか。さらに視野を広げるためにも、いろいろな講演会の企画なども良いのではないだろうか? 提案したい。数理科学の文化の裾野を広げる努力をしたい。近年は教育・研究環境の厳しさと専門の深さ、困難さで、専門的に深くなりすぎて、数理科学など幅の広さや基礎への関わりが薄くなっているように感じられる。その様な事情を反映させて、教育が疎かになる傾向にもなっているのではないかと危惧される。成果が数字に表されるような貧しい教育である。

数学の教育については、下記も参照:

再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学
再生核研究所声明283 (2016.2.8)  受験勉強が過熱化した場合の危惧について
再生核研究所声明260 (2015.12.07) 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
再生核研究所声明 187 (2014.12.8)工科系における数学教育について                 
以 上

再生核研究所声明 408(2018.1.25):  数学を越えて ― 価値あるものとは
(ゼロ除算の研究に専念してきた物理学者と興味深い議論をしてきた。 それで気づかされた視点である。)
数学の本質論:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
から、最近でも数学についていろいろな意見を表明してきている:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ゼロ除算の研究者は我々の研究グループを除いて世界で大体15名くらいいて、彼らの研究は今でも混乱していると言える。大きく分けると数学の基礎が無くて、論理が通じず、混乱している数学の愛好者たち、ゼロ除算不可能性に満足できず ― この元は多くは計算機がゼロ除算に会うと計算機障害を起こすが、それを回避することに動機がある ― 公理論的に独自の数学を建設している者、そして物理学上の立場からゼロ除算の研究に取り組んでいる者である。この最後のグループとの相当な議論をして感じたことを述べたい。― 尚、我々の研究グループは、内外大体8名である。ゼロ除算は本質的に解明され、基本は既に確定していると考えている。― 我々の存念を繰り返し内外に広く送っているが、上記グループからも批判が寄せられず、我々の主張を相当理解され、認めてきていると判断している。
特に二人の研究者はゼロ除算と物理学の関係を 人生をかけて、研究しているように見えるほど、研究活動が活発である。ところが繰り返し確認しているが、この二人はゼロ除算の定義、0/0の定義は何かとの質問に 定義はないと繰り返し言明している。それで数学者の立場からは議論はできず、論理的に考えられない状況になってしまう。論理的に矛盾であると言っても自分たちの立場を変えようとしないのである。事実は我々の結果に反して0/0=1 であると物理的な裏付けで主張され、数学がおかしいという考えを抱いていることが分かる。物理的な事実は数学を超えていると考えていることが分かる。多くの数学者はこの辺で交流を打ち切るのが 普通ではないだろうか。- 実際、彼らの理論は数学界でも物理学界でも受け入れられていないようである。
そこで、数学についてそのような視点から考えさせられることがある。いろいろな理論が提起されて、いろいろな結果が導かれる。何をもってそれらを評価し、価値あるものと判断できるかという視点である。公理系や論理も、仮定もいろいろ存在して、様々な研究成果が得られている。ここで、評価をどのようにするかである。ある純粋数学者は人類の名誉のためにこの問題を解いたと表現するが、他の人はそんなことは分からず、また興味も関心もないという。興味、関心の前に 結果そのものが分からないは 今や純粋数学ではほとんどであると言えよう。
数学とは何かを論じ、数学とは関係の集まりであるとして、良い結果とは、
基本的であること、
美しく感動させること、
そして 
世の中に良い影響を与えるものとして、
オイラーの公式が数学上の最高の結果であると表現した:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
T. M. Rassias, Editor, Nonlinear Mathematical   Analysis and Applications, HadronicPress,Palm Harbor,FL34682-1577,USA:ISBN1-57485-044-X,1998,   pp.223–234: Nonlinear transforms and analyticity of functions, Saburou Saitoh.

それで、結局は世界史に貢献できる結果こそが良い結果であると言えよう。
上記物理学者に 理論を越えてそれでは貴方の研究成果の効用、価値はどこにあるのかと 問う。すると反作用で、私たちの研究成果の効用、意義はこうであると応えなければならない。言わば、その証拠を分かり易く、明示する必要がある。- この精神で ゼロ除算の新奇な結果の位置づけ、重要性を説明するために 具体的な証拠を沢山探す必要性に迫られた。
数学者は、数学の自由な精神で自由に研究を進めても良いが、評価を求めるためには得た成果の意義、意味、価値を具体的に示すことが要求されると言える。
そこで、ゼロ除算の重要性を示すために多角的な取り組みを始め、いろいろな表現を考え、意見表明を行っている。数学者の名誉のために、人類の名誉ためにである。― 実際、数学には恥ずかしい初歩的な欠陥があると主張している。さらに、人はゼロ除算の真相から、人間の愚かさを自覚することが出来るから、人間の精神の開放に ゼロ除算は大きく貢献できると考えている。
以 上

再生核研究所声明 405(2017.12.31):  ゼロ除算が拓いた幾何学の現象 ― 堪らなく楽しい新奇な現象 - デカルトの円定理から
図と式の表現が表しにくいので 簡単に参照されるサイトhttps://arxiv.org/abs/1711.04961
を挙げて その中の図と式を参照して頂いて、ゼロ除算が如何に面白いかを解説したい。
まず、始めにデカルトの円定理と呼ばれる美しい定理を参照して下さい。3つの円が外接するときに、それらに内接したり、外接する円の半径の間の関係を確立した定理です。
式は美しいのですが、表現で4つの半径は、完全に対称になっていることに気づけばさらに 美しさを深く理解できます。
論文の発想は、そもそも、点や直線は円の特別な場合と見なせるという数学を想起して、デカルトの円定理で述べた基の3つの円を 点や直線に置き換えた場合にも成り立つかと問題にしました。 点は半径ゼロの円ですが、直線も半径ゼロの円だということはゼロ除算の結果導かれた発見です。すると、デカルトの円定理の式で、1/0  が出てきますが、それらはゼロと解釈すれば 良いとなります。それで、2つが円で、もう一つが共通接線である場合を考えると、図1-2のようですが、きれいに成り立っていることが分かります。 この辺の定理、事実は和算の得意とする分野で、デカルトの円定理も含めて和算でも広く知られていたということです。3つの円が、点や直線になった場合をすべて考えてみて何時でも成り立てば、デカルトの円定理は 一層美しいと言えます。 あらゆる場合を考えるのですが、2つが円で、一つが点の場合、それらに接する円は存在しないようですので、その場合デカルトの円定理は成り立たないようにみえます。
そこで、点では成り立たないので、小さな円の場合を考えて、その円を点にした場合にどうなるかを考えてみました。どんな小さな円でもデカルトの円定理は成り立っていますから、その小さな円の半径がゼロに近づいた場合を 考えてみるとどうなるかと考えたくなります。
数学的に厳格に議論するために、3つの円と内接円(外接円)をきちんと方程式で書いて議論しました。 円を点にするとき、 円の表現は孤立特異点を有していて、そこでは考えられないというのが 現代数学です。 ゼロ分の式はゼロのところで考えられないからです。 例えば、定理7の円の方程式で、z = 1,-1 の場合が考えられる。そこで、意味のある図形が出てくる。 ゼロ除算算法では孤立特異点で有限確定値を与えることができますので、今まで考えられなかった特異点で考えみました。― 無限の彼方が、特異点に成る場合も多い。その結果、驚嘆すべきことが起きていることが分かりました。(この辺の記述は厳密な表現より情念に思いを入れました)。
その特異点から、点円原点と、赤い円と青い円が出て来ることが分かりました。点がこれらの3つに分かれて出てきたという実に面白い現象です。 原点の場合にはデカルトの定理が成り立ちませんが、赤い円では、何とデカルトの円定理が成り立っていることが、ゼロ除算算法での計算の結果から確認できます。 青い円は美しい状況に置かれた円ですが、それは点に近づけた円が、突然、元の2つの円に外接する、しかもちょうどそれらの円を直径にする円に変形したと解釈すると、ちょうど内接する円が 緑の円で、デカルトの定理が成り立っているという、驚嘆すべき現象です。
点に成って定理が成り立たない場面で、点が突然変異を起こして定理をそのまま成り立たせている現象が現れたと発想すると、この現象は世の一般的な現象における新規な現象として注目すべきではないでしょうか。 見かけ上成り立たない場合、そこが変形して成り立たせる世界が存在する。 ― ものは燃焼で変形する、変形以前のあるものは変形してもそのまま、引き継がれている。意味深長では ないだろうか。― 山根現象を想起して下さい。 ― これは、運動エネルギーが一定であったものが ある時、物質は突然消えて、物質は消えて運動エネルギーが熱エネルギーに変化する現象を表しています。
赤い円は、美しいので、その分野の有名なバーコフの円と呼ばれる円ですが、2つの円に直交していますが、点に近づいていくとき、 円は接していたのですが、出てきた円は接するのではなくて、直交でしょうか。 実に面白いことは ゼロ除算が発見した典型的な結果として、y軸の勾配はゼロ、\tan(\pi/2) =0 ですから、バーコフの円は2つの円に接しているということを述べていますから、 堪らなく楽しいと言えます。― 直交は接していると解釈できるという新発見です。 緑の円は美しく3つの円に接しています。
論文では、あらゆる場合を考えたと述べていますので、3つの円が3つの点でも、3本の直線の場合も考えて、デカルトの定理は成り立っていると述べていますので、さらに面白いです。それには、ゼロの意味を考えてゼロとは何かを発見する必要が有ります。
以 上                                           

再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
数学の本質論については 次で相当深く触れた:
ここでは、現実の問題から、研究姿勢、路線について具体的に考察したい。
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる関係の全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになる. しかし、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、未来人が高い評価を与える場合もある。また、
デカルトの円定理:
定理は3つの外接する円に対して、それらに内接する円と外接する円の半径を、3つの円の半径で表わす公式を与えたものであるが、その公式は美しい形を有している。ところで、円の半径がゼロならば、点円、半径が無限大ならば、直線になると考えられる。後者の解釈については、ゼロ除算算法の導入で、直線とは中心が原点、半径ゼロの円と見なせるという知見をもたらした。点も直線も円の1種であるという考えから、それではデカルトの美しい定理で、円を直線や点の場合にも成り立つかと考えた。ゼロ除算算法で、2つが円で1つが点以外は、そのまま成り立つことが確認され、この例外である場合に、驚嘆すべきことが分った。3つの円が接しているとき、デカルトの定理は成り立っている。そこで、1つを点に近づけ、点に成ったときにデカルトの定理がどうなるかを調べた。点のときは内接円も外接円も存在しないから、デカルトの定理は成り立たないと考えられる。ところが、点に成ったとき、ゼロ除算算法で解析すると、その点は3つの場合に突然、変化する現象が現れた。点以外に、美しい円が2つ現れる。これらの円について、デカルトの定理を成り立たせる解釈が存在することが分った。― 点が変化して、変化した円で、デカルトの定理が成り立っている。専門家 奥村博博士と論文を執筆中である(2017.11.5.6.57)。この予稿版は2017.11.14に公刊された:https://arxiv.org/abs/1711.04961
そこで、次の研究課題として、如何に進めるべきかを考えている。当面研究課題が無い場合には、課題を探すことになる。しかし今回の場合には、次々と研究課題が存在することが分る。まずは、デカルトの円定理、外接する3つの円が、2つ交わった場合、3つ交わった場合どうなるかの問題が存在する。さらに、今回考えたように、その円の幾つかが、点や直線になった場合にはどうなるかの問題がある。それらの研究内容は今回の論文の6倍から、12倍以上の内容が存在することが予想される。数学の常道である多次元化を考えれば、それらはそれらの研究課題は20倍を超える世界で、挑戦すれば、1冊の著書と生涯の仕事に成り得ると考えられる。そこで如何に進むべきかと思案することになる。論文を出版する事が要求されている場合など、特に他に挑戦する課題が無い場合には、とりあえず、それらの大きな計画の最初の2,3歩を歩み出したいと考えるだろう。より良い課題を持っていれば、その課題に当面挑戦したいと成るだろう。その時の価値判断は 純粋な個人の思いと社会的な影響や共同研究者の意見、希望等が影響するものと考えられる。純粋な個人の価値判断と対社会的な反響に影響されることになる。このとき、その個人の数学観、人生観、価値観などが影響を与え、そのような経緯がその個人の数学を発展させていく原理になる。
今回の場合には、ユークリッド幾何学の世界は、やれば何でもできるので もはや興味も、関心もないという考えが基礎にあるが、全く新奇な現象が出ると分かれば、新規な現象になれるまでは、研究を続行したくなるだろう。人間の心とは極めて微妙で やればできるとなれば、大きな魅力は失われ、予想できない難しい分野に心が向く、真智への愛 が目覚めてくる。創造とは何か、生命とは何か、人工知能の発展とともに絶えず問われることになるだろう。人間にとって真に価値あるものとは何か。人間はどのようなものに感動を覚えるか。絶えず問うていくことになる。
                                       以 上


再生核研究所声明 401(2017.11.18):  数学の全体、姿、生命力


ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
No.81, May 2012(pdf 432kb) - International Society for Mathematical ...
www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れ、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べた。さらに
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、逆に、未来人が高い評価を与える場合もある。
この文脈で数学の全体と生命力について言及して置きたい。数学とは、時間にもエネルギーにもよらない関係の全体であるから、数学的な論理思考を備えた高度な人工知能が自動的に数学を発展させていく可能性を否定できない。初歩的な数学では、実際、そのような試みがなされているという。人間を離れた、数学の全体像はどのようになるだろうか。基本的な仮説の上に何でも考えて、- これはいろいろな場合に当たって 何でも試行していく方法がとられるだろう。- しかしながら、人工知能が新しい概念や、定義を与えられるかは本質的な問題ではないだろうか。このような思いで数学の全体像を想像すると、基本的な仮定からどんどんいろいろな関係を導き、それは大樹のような姿に成るのではないだろうか。数学の客観的な存在はそのようであると考えられる。
ところが現在数学は人が展開して、発展させている状況から、数学の発展は 人間によるという現実がある。数学の客観的な在りように人間が関与してくる。そこで、関与する人間の興味と関心でどんどん進む状況と他からの要請でどんどん進む方向が存在する。後者は位置づけが明瞭であるが、前者の純粋数学の発展の様は大いに注目される。共通的な興味、関心で研究者の多い分野が存在し、いわゆる権威ある者の影響で門下生が多く、深く研究が進む状況は良くみられる。有名な難問に挑戦する相当な研究者集団も顕著である。数学にもブームや流行が有って、ある時期、相当に流行って研究会などで大きな話題になった話題が20年や30年くらい経つと関与する研究者が殆どいなくなってしまう状況がみられる。
それで、数学が大きな生命力をもって発展する華やかな時代と、細分化が進み、他との関係、他に影響や関心を与えない程になって、衰退していく、いわば大木では幹の部分から小さな枝や葉の部分になって数学は終末を迎えるのではないだろうか。数学は時間やエネルギーにもよらない不変なものであるが 数学の担い手である、人間に関与していて、人間が命ある生命であるように 数学も人間の影響を受けていると考えられる。
その意味で純粋数学者は、現在の 数学の位置づけ と 自分の心 をしっかりと捉えることが大事ではないだろうか。
以 上



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