2018年1月16日火曜日

センター試験終わる 不正で4人の試験結果無効に

センター試験終わる 不正で4人の試験結果無効に

大学入試センター試験は14日、2日間の日程を終了しました。今回の試験で大学入試センターは、試験が終了したあとにマークシートの解答を書き直すなどの不正をしたとして4人の受験生の試験結果を無効としました。
ことしの大学入試センター試験は雪などの影響で試験の開始時間を繰り下げる会場が相次ぎましたが、2日間の日程を終了しました。

大学入試センターによりますとことしの試験では愛媛県の会場で、試験監督が誤って2分ほど早く試験を終わらせるなどのトラブルにより、全国で合わせて141人の受験生が再試験の対象となりました。

一方、ことしは全国4か所の会場で合わせて4人の受験生の不正が明らかになりました。

内訳は、東京と京都の会場で試験の終了後にマークシートの解答を書き直したのが2人、大分県の会場で英語のリスニング試験で試験開始の前に機器を操作するなどしたのが1人、さらに福岡県の会場で数学の試験で使用が認められていない分度器を使ったのが1人でした。

大学入試センターはこれら4人の試験結果をすべて無効としたということです。今回のセンター試験の平均点は今月17日に発表され、そのあと、国公立大学の2次試験の願書の受付が22日から始まります。https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180115/k10011289071000.html

再生核研究所声明902012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察

世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。

再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する

センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
 
1)     センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2)     教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3)     センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4)     永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5)     2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6)     センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7)     センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8)     共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。

以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては

1)     大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2)     逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3)     センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。

等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。

以上



特に次の観点を指摘して置きたい:

1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。

上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで  画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以  上

再生核研究所声明 407(2018.1.9):  大阪大学の入試ミス対応についての
一考察
再生核研究所は良い社会を作るには教育が大事であると述べ、教育はもちろん、教育に大きな影響を与える入試の在り様についても考察し、いろいろ具体的に提案を行ってきている:
再生核研究所声明329(2016.10.31): 大学入試の在り様について ― 現実と負担の視点から
再生核研究所声明210(2015.2.21): 大学入試ミスにおける対応について
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
今回、大阪大学で次のような問題が生じている。外部から入試問題ついての解答がおかしいとの指摘があり、内部関係者で2度に亘り検討、初回は解答に問題はないと判断したが、2度目の検討で解答のミスを認めて公開した。それで対応について具体的に検討している段階と思われる。他の事情として、外部指摘者は、文科省にも入試採点ミスを報告しているという。既に、30名近い人が採点の変更で影響をうけると公開している。大学は正式に採点ミスを認め謝罪を表明している。 そこで、これらの経過と対応について、従来考察して来た背景で、どのように 大学は対応すべきかについて 具体的に提案を行ない今後の問題の対応について 参考にして頂きたいと考える。 ― その心は あるべき在りようを求めたいという、愛である。
上記経過で、外部指摘者の意見は 尊重されるべきであり、検討は真理の追究、事実の追求として 真摯に行うは当然である。 公開していることに誤りを認めるのは大学として当然である。 大学は誤りを認め、入試に誤りがあったことを認めるが、大学は相当に真剣に検討、対応した結果の間違いであるから、間違いが有っても 入試結果を修正しない。修正すれば混乱を起こすので修正しない。 また、詳しい事情、修正した場合の事情なども公表できないとする。 このような対応が良いのではないだろうか。 要するに、入試に間違いが有っても 簡単に修正できるような状況が無い限り、修正しないということである。大学の謝罪は当然である。
このような対応を 社会的にも関係者にとっても、あるいは受験者関係者も受け入れるのが 良いのではないだろうか。 具体的な対応を提案します。
何名が具体的に影響を与えるなどの公表は 関係者の心を乱すだけで良くないのではないだろうか。入試にはミスは有り得ると寛容に、柔軟に考え、対応できる社会の方が 良いのではないだろうか。 広く社会的な検討を求めます。
また、このような過失に対して過失に対する責任、処分などの問題が生じるが、そのような問題にも気を付ける必要がある。入試業務は大事であり、関係者が異常に気を遣ってきており、言わば最善を尽くしてきている現実があると考えられる。既に繰り返し述べてきたように大学入試業務は既に関係者にとって極めて荷重になっており、ポルトガルなどの例にも見られるように、大学の入試業務は特別の機関や高校段階に大幅に移すことによって、軽減化の方向で検討されるべきであると考える。
以 上

再生核研究所声明329(2016.10.31) 大学入試の在り様について ― 現実と負担の視点から
近年、センター試験、大学受験制度のいろいろ改革が考えられていることは、大学入試が教育界に大きな影響を与え、さらに、児童、生徒の人間形成上でも大きな影響を与える事実から、絶えざる改革は歓迎されるべきことである。これらの課題には永遠の問題を内在させているという意味で、より良い方法を模索して行くべきである。特に在り様を固定化すれば、必ず弊害が出てくる観点にも気を付けたい。入試の在り様はそのように大きな問題であるから、ここでは、主に、大学側、中規模の大学の試験業務を行う立場から、試験関係の業務軽減の立場の視点から、入試の在り様の議論の際に 気を付けて欲しい観点として 意見表明しておきたい。
共通試験やセンター試験後の特徴は 入試を2回行うことで、入試業務が増大し、他の様々な入試と法人化後はさらに、研究・教育業務以外の業務が極端に増大して、年中振り回されるような雰囲気に大学がなってしまったことである。近年、ノーベル賞受賞者が増大している状況からも分かるように日本の学術レベルの高度化は高く評価されるが、それは、20年、30年前の体制の成果である点を忘れるべきではないのではないだろうか。近年大学の環境の悪化はひどいもの、惨憺たるもので、憂慮している。時間的、資金的余裕を取り戻し、教育・研究に楽しみながら、当たれるような大学の在り様を志向したい。
入試は一身上の大事であり、その判定に携わる者の心理的な圧迫は大きく、大学教員の最も嫌な仕事に当たるのではないだろうか。 そのような業務を繰り返されては、教育・研究どころではない心理状態になってしまう。
入試の原理は、人間の能力は簡単に評価できるものではないと考え、入試は便法として簡素化すべきである。ある種の基準で輪切りにするような在り様も良くなく、ある程度のばらまきも人材の配置、多様化の精神で大事ではないだろうか。― 同じような人を過剰に集めれば、そのような組織は変な組織になるのではないだろうか。― この精神は尊敬する人物の言葉として印象深いが、富士山型より峯が乱立する八ヶ岳のような在りよう が良いと表現される。
他方、児童・生徒の立場に立てば、永い、過剰な受験勉強は修行の面があっても、やり過ぎ、不適当な学習の集中しすぎで、教育本来の理念からの乖離は、相当に広く認識されている状況ではないだろうか。
例えばポルトガルでは、大学入試業務は、高校で全国レベルの試験を行い、大学は提出された書類で選考するだけであるから、入試業務が殆どなく、大学は入試業務から解放されていると言える。― さらに、例を挙げると8月1ヶ月間は大学閉鎖、8月は大学の暦に無く、7年目毎、1年間のサバーティカルライトで一切業務無しであるから、凄い。
そのような観点からすると、日本でも主な入試は各大学ではせいぜい年1回くらいに限るべきではないだろうか。入試業務の軽減化、縮小化を強く求めたい。
具体的には、センター試験作成機関を活かして、各大学で行う2次試験の在り様を検討すべきではないだろうか。論説・記述方式・面接など問題とされているが、採点する立場からすれば、評価は難しく、荷重な業務であるから、センター試験問題の作成において、大いに工夫を考えての対応が良いのではないだろうか。 センター試験が細々とした知識の寄せ集めや、パターン化した問題解きの問題にならないような注意が大事ではないだろうか。時間に追われるような在り様も問題ではないだろうか。これらに関しては、問題を精選したり、試験時間を十分伸ばすことも考えられる。知識より考える力、創造性などをみる試験の在り様を考えて行きたい。当然、入試とは何かと関係者は、絶えず問うべきである。
論説・記述方式の客観的な評価は難しく、本質的な問題を抱えていると考えられる。そのような観点から面接で差を付けるようなことは 実際にはできず、機能しないのではないだろうか。― 他方、人事採用などでは、面接は大きな影響を与えていると考えられる。これらの差は、評価を受けるものの数、人数が影響しているのではないだろうか。― この節の問題は、言わば感覚的な評価を取り入れるべきか否かという問題であるが、画一的に数字で評価が出る方式に対して、入試に柔軟性ある種のランダム性多様性を取り入れる観点から、検討するに値する考えとも思われるが、評価は極端に荷重になる。

ここで述べようとしたことは、入試業務の軽減化、入試の簡素化、入試があまりにも細かい評価をしないような多様な視点を持ちたいということである。教育は大事であるから、再生核研究所では、次のようにいろいろ意見を表明してきた。ここで述べられたことの逆のような見解もあるが、 それは、入試の在り様の問題には、いろいろな視点、在りようがあり、全体的で総合的なバランスが 大事であるということである。

再生核研究所声明4: 競争社会から個性を活かす社会に
再生核研究所声明9: 天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明17: 教育界の改革を求める
再生核研究所声明20: 大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明 44:  梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明 60:  非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16): 教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明91(2012.5.20): 創造性についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27) 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明187(2014.12.8) 工科系における数学教育について
再生核研究所声明198(2015.1.14) 計算機と人間の違い,そしてそれらの愚かさについて
再生核研究所声明210(2015.2.21) 大学入試ミスにおける対応について
再生核研究所声明327(2016.10.) 数学教育についての提案
以 上

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