2017年9月5日火曜日

VUCAの時代に「対話」が必要なワケ

VUCAの時代に「対話」が必要なワケ

初めまして、江上広行と申します。電通国際情報サービス(ISID)で主に金融機関をお客さまとするコンサルタントをしています。7月3日に金融財政事情研究会から『対話する銀行〜現場のリーダーが描く未来の金融』という書籍を発表しました。
この本は、タイトルの通り「金融」をテーマにした本ですが、そこで描いたことは、金融業界にとどまらない、どのビジネスにおいても適用できる対話の大切さについてです。そこで、この連載では、あえて金融という領域を離れて、複雑化したビジネス環境における「対話」の大切さについて、6回に分けてつづっていこうと思います。
本コラムは次の三つのパートで構成しています。
■VUCAの時代に「正しい」はあるのか?
V:Volatility、U:Uncertainty、C:Complexity、A:Ambiguity

■「議論」と「対話」はどう違う?
■対話の中から立ち現れる創発(Emergence)とは

VUCAの時代に「正しい」はあるのか?

「VUCA(ブーカ)」とは、 Volatility(変動)、Uncertainty(不確実)、 Complexity(複雑)、Ambiguity(曖昧)の頭文字をとった造語です。これら四つの要因により、今日のビジネス環境が、極めて予測困難な状況に直面しているという時代認識を表したものです。
このVUCAの時代、われわれのビジネスを取り巻くステークホルダーも多様化しています。そんな中でも誰もが「正しい」とい言いきれるようなビジネスの戦略は存在するのでしょうか?
数学など公理が確立されている領域では、「正しい」という概念は人によって異なるということはありません。しかし、ビジネスの意思決定おいての「正しい」は、人の数だけ存在しています。人には人の数だけの立場や経験、そして大切にしている価値観の土台があり、その上に乗っているのがその人にとっての「正しい」です。そしてVUCAとは、さらに「正しい」の多様性が増していく複雑な時代であるということを意味します。
そもそも一人一人の「正しい」は違っていて当たり前なのです。むしろ、違っていて、分かり合えないものだからビジネスは面白いのです(人との出会いがある、あなたの人生もそうでしょう)。それぞれにとっての「正しい」が摩擦を起こしながらも混じり合い、カタチが変わっていくところにイノベーションが起こります。もし、全員の「正しい」が同じもので、お互いに分かり合えるものであったら、われわれのビジネスは人工知能とコンピューターで代替できてしまいます。
われわれが持っている「正しい」という決め付けには厄介な一面もあります。「正しい」という決め付けは、しばしば「人より劣っていたくはない」というような恐れの感情からやってきます。「正しくない自分には価値がない」と思う気持ちが「自分が正しくなくてはいけない」という抵抗となって表れるのです。
実はビジネスにおける「正しい」という意見の大半は、表向きは市場調査や経営分析などから合理的に説明されているようで、根っこのところは人の中にある「自分が正しくありたい」という欲求とその裏側にある恐れの感情からきていることが多いのです。
この恐れの感情が強くなるほど、組織の中で「正しい」と主張するもの同士の対立は激しくなります。自分の「正しさ」を否定されたくないと思っている者同士が会話するのですから当然のことでしょう。

「議論」と「対話」はどう違う?

対立を対立のままにしておいてはビジネスが前に進みませんから、私たちは「対立」をなんとか収めようとします。偉大な物理学者にして思想家のデヴィッド・ボームはこの対処方法について、二つに区分して説明しています(参考『ダイアローグ』英治出版2007)。
一つは、誰の意見が「正しい」かについて勝敗をつけることです。これを「議論」といいます。英語ではディスカッション(discussion)です。ディスカッションの語源はパーカッション(percussion)と同じ「たたく」「壊す」ということ、つまり「相手を打ち負かす」というところからきています。
議論とは、自分が正しいことを証明するための戦いです。引き分けになったり、落としどころが決まったりする場合もありますが、いずれにせよ、そこで勝敗は決します。負けた方は、自分が「正しい」という矛を収めるか、またはそのフリをすることで議論が収束するのです。実は、われわれが企業や組織の会議でやっていることの大半はこの議論です。淡々と進んでいるような会議でも静かに、勝ち負けがその場で決められていきます。
議論の場でいつも用いる武器は「分析」です。そして、PDCAという管理手法を使いながら、KPI(重要業績評価指標)という勝敗のスコアボードの上で戦います。われわれが慣れ親しんでいるいつものやり方です。しかし、そのやり方だけでは失われているものがあります。
対立を収束させるもう一つの方法は、「対話」です。英語でいうとダイアログ(dialogue)です。ダイアログの語源は「意味や言葉(logos)の流れをつくること(dia)」だといわれています。対話には、誰かが誰かの「正しい」を打ち負かすというような戦いはありません。「対話」は全ての意見がその人にとっての真実であるという考え方に立ちます。
「対話」の手法にはいろいろなものがありますが、全ての意見をテーブルの上に乗せて、話し、聴き、そして感じるという基本の所作は同じです。「対話」でテーブルに乗せる全ての意見とは、そこに参加する人全ての意見ということですが、もう一つの意味もあります。それは、ずっと言わずにいた、抑圧されていたもう一人の自分の中にあった感情も開放させるという意味での「全て」です。「対話」では表層にある意見だけではなく、裏にある感情さえもがテーブルに乗せられ分かち合われていくのです。
ネーティブアメリカンは持続的な社会を形成していくために、対話という手法が有効であることを知っていました。車座でたき火を囲んで行われる対話の場では、長老の意見が特に重視されるわけではありません。一人が話しているときは、その話が終わるまで誰かがそこに割って入るようなこともしません。皆が平等の立場に立ち、話し合いを進めながら、コミュニティーの課題を解決していったのです。

対話の中から立ち現れる創発とは

対話を重ねていくと、元々各人が持っていた意見の単純な総和にとどまらない性質が全体として現れてくることがあります。相手の立場に立ち、多様な見え方を受け入れることによって、モノの見え方がガラっと変わってしまう、あんなに自分が一生懸命に証明しようしていたことさえバカバカしく思えてくる、つまりパラダイムシフトが起こるのです。そして、最初には存在していなかった、新たな意味のようなものが、突然立ち現れる、この現象を創発(emergence)といいますが、この創発は「議論」をどれだけ繰り返しても絶対に起こり得ません。
創発されるものは、これまでの概念を超えた価値であるイノベーションだったり、新たな組織文化だったり、チームワークだったりします。参加者が元々持っていた範囲を超えずにその内側で物事が決着していくか、そこに新たな創発が立ち上がってくるかどうかが、「議論」と「対話」の大きな違いです。
鳥の大群に例えられる創発
「創発」は鳥の大群にも例えられる。一羽ずつは周りの鳥との距離を保って飛行しているだけなのだが、それが一貫性を持って行われると、集合として新しいカタチが立ち現れる。
今というVUCAの時代に「対話」が必要であるのは、過去の延長ではない未来をわれわれが「創発」するタイミングに来ているからです。われわれが「議論」の中で証明しようとしていた「正しい」とは、小さな器の中にある私という個人の過去の体験の中で築かれた概念でしかありません。その思考だけではVUCAの時代には、「過去の延長としての未来」しか設定することができません。その「設定された未来」の範囲でわれわれは縮小するパイを奪い合うビジネスを行っているのです。
しかし、こと日本のビジネスの領域おいては残念なことに、「対話」という手法はなじんでいません。これからこのコラムでは、ビジネスの領域での「対話」について扱っていきたいと思います。
本コラムの筆者、江上広行氏が金融業界におけるパラダイムシフトを「対話」の中から引き起こすさまを描いたのが、7月に刊行された書籍『対話する銀行〜現場のリーダーが描く未来の金融』です。「対話」されるテーマは「リーダーシップ」や「分権経営」「貨幣の本質」など盛りだくさん、金融業界に関係がない方も、ぜひ手に取ってみてください。https://dentsu-ho.com/articles/5433

とても興味深く読みました:

再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間

公理系、公準とは数学の述語で 数学を展開する最も基礎をなす、仮定系のことである。
数学ではそれらを基礎に論理的に、厳格に数学が展開されると考えられている。すなわち、数学の基礎である。 2千年以前に考えられた、ユークリッドの平行線の公理、すなわち、 任意の直線に対して、直線外の一点を通ってその直線と交わらない直線がただ一つ(平行線)存在する が有名である。約2千年経って、そうではない幾何学(非ユークリッド幾何学)が現れて、平行線が存在しない幾何学と、無数の平行線が存在する2つの型の幾何学が現れて、現在それらの幾何学も日常の研究で どんどん使われている。
公理系が異なる数学では、世界が違っているので、一応は別数学、別世界と考えられる。そこで、違いは論じられても、相互の直接的な関係は、ほとんど考えられていないと言える。別公理系では、議論できない。
人間が交流できたり、議論できるのは共通の前提、基礎が存在するから、それらの基礎の上にできるということである。 確かに人間は 動物として存在する基礎として、動物の本能や、基本的な基礎が広範に共通するものとして存在している。 これらは、確認するまでもない。 それらは もちろん、本能に基づく面は 共通の基礎として、人間社会の公理系のように基礎になるだろう。衣、食、住を整え、良い市民社会に住みたい、まともな生活を送りたいなどは 誰でも願う共通の基礎と言えるだろう。
本声明の意図は、より上位の、いろいろな判断の基礎をなす、前提となる基礎について言及することである。我々は、何を基礎に物事の判断を行うであろうか?
我々は、その様な基礎を、生い立ちにおける教育、文化、習慣、伝統、あるいは影響を受けた、共感、共鳴する思想、などに見出すことができるだろう。 それは、テレビや新聞、環境の影響を強く受けていると考えられる。すなわち、環境の影響である。
我々が交流をどんどん深めていくと、結局、人生観、世界観、宗教観まで行き着き、最後には、それらの点における相違を認める場面に至るは多い。 そこで、相違をしっかりと認識することになる。時として、見解の相違であるとして、議論や討論、交流を打ち切る場合は 世に多い。議論や討論はそのような形相を帯びる事が多い。
ところが、他方、人間界には 好みや感情がもろに出てくる場合も世に多い。8歳で巨大素数の構造が好きだとか、6歳で、無限に興味がある。 冬山が好きで、危険を顧みず、雪の中でテントを張って過ごしてくる。サーフィン、岩登り、冒険など、世にはいろいろな興味に、関心に強い情念を抱くは多い。これらの個性と多様性には議論の余地が無くて、好きだから仕方がないと表現できるかも知れない。
上記で、人間の基礎をなす の背景を考察した。 いずれも基礎が異なれば、理解や共感、共鳴は 難しいということを述べている。
そこで、本声明の要点は、人間関係でお互いの基礎、数学で言う公理系に当たる部分について 相手と自分の基礎を確認して、さらにそれらの公理系のようなものまでも その是非を慎重に検討して行く必要性に思いを至らしめることである。
我々の前提は、大丈夫だろうか。適切であろうか。我々の基礎は適切であろうか。疑い、他の立場は有り得ないであろうか? 基礎の基礎を省察していきたい。それこそが, 真智への愛と言える。
公理系は、変わる可能性がありいろいろな世界が有り得る。いろいろな公理系を超えて、我々はより自由になり、広い大きな世界を観ることができる。
これは、民族や国家には固有の基礎があり、違えば、違う基礎が有る。人種、性別でも基礎が相当に違い、宗教によっても、学歴や能力、貧富の差や、地域でも基礎について相当な違いが有る。 それらの違い超えて、しっかり背景を捉えて、行こうということを述べている。
さらに言えば、予断、独断、偏見、思い込み、決めつけ、習慣、慣習、それらも時として、省察が必要である。
この声明の背景には 最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の発見がある。 長い間確立されていた定説の変更、新発見である。

以 上

再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙

(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)

猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。

何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:

再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること

言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。 
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上

再生核研究所声明3702017.5.30) 細胞のような存在、個人 ― 生態系、環境
人間の存在について、個人の存在について、ふと思うことがある。人生とは結局 如何なるものであろうか。雄大な人間社会において、個人の存在はあまりにも小さく、それはまるで生体における細胞のような存在に感じられる。個人は知識、視野、思考の幅や深さにおいても貧しく 大きな社会で、ほんの一部しか見えず、感じられない。そこで、個人の世界、世界観は 周辺の環境に大きく左右され、雑草の中の一つの植物のようである。 思えば、生まれて生きてきた、心持ちなど みな周りの人々や得た情報、環境によって形成され、それは雑草のなかの一つの植物のようである。大事な就職、結婚など みなその折り折りに環境によって 相当に定められてきたのではないだろうか。― ふと思う、本質的には、個性はあっても 相当に人間は共通に作られていて、多くの違いは 生い立ちや環境で相当に定められてきたと言えるのではないだろうか。― このことは 人間は誰でも同じようで、環境、生い立ちでそうなっていると思えば、相手の立場に思いを致し、全面的否定や絶対的な正義をかざすことを躊躇させるだろう。最近の世相は、全面的な否定と独善的な姿勢が目立ち、是か非、白黒の判断が多いのではないだろうか。
人間の社会は 実際は、そうは単純ではなく、微妙なバランスの上に成り立っていることに気を付けたい。
典型的な実例は 開発と自然環境の保護である。山地を開拓して美しい街を作ろうとすれば、永く続いてきた自然環境を破壊することになる。豊かな食生活を営もうと魚をとりすぎれば、魚の保護が難しく、勝手に振る舞えば、やがて魚は絶滅しかねない。 このような例はいたるところに有って、我々の存在の基本的な在ようの問題に繋がるだろう。
― 原罪とは何か。
我々個人の存在は 大河の中の一滴のようであるから、大きな流れには逆らえず、 多くは運命づけられていることを認め、受け入れざるを得ない。そこで、謙虚さを持って周辺に気遣い、できるだけ、大きな視野に立って、内なる世界と外なる世界の中で 調和のとれた存在でありたいと考える。
放し飼いになっている猫や犬をみる。人間の生き様も猫や犬と本質的には同じではないかと感じられる。いや雑草たちとも人間の在りようは本質的に同じようで、草木たち、動物たちの存在の方が逆に完全であるように見える。結局、人生、動物や植物たちと同じようであった となるだろう。
犬がよく通りをぼんやりと眺めている。人間も本質的には、そのような存在ではないだろうか。この世に生をうけて、結局は、ぼんやりと過ぎ去っていくだろう。

以 上

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