2017年8月19日土曜日

どうして銅像でもめるのか 南北戦争の像の何が問題なのか 

どうして銅像でもめるのか 南北戦争の像の何が問題なのか 

米南北戦争の戦いが終わってから150年以上がたつが、敗れた側を歴史にどう残すかについて、今も激しい議論が繰り広げられてる。
全米各地には、南部連合に捧げられた像が何百と現存している。南部連合とは、米政府に反旗を翻した南部各州のことだ。そしてこの像がしばしば、奴隷制や黒人抑圧という米国のいやな歴史を思い起こさせるものとなっている。
各地の地方自治体がこのところ、こうした像の撤去を相次ぎ決定した。それに対して複数の集団が、それは米国の歴史と南部文化を破壊しようとする動きだと声高に反発している。
ドナルド・トランプ大統領は17日、論争に割って入り、議論の的となっている数々の記念碑を「美しい」とツイート。銅像の禁欲的な美が各地から失われてしまうのは、「非常に残念だ」と嘆いた。

いつ設置されたのか

南部連合の記念碑のほとんどは、南北戦争が1865年に終わった数十年後に建てられた。戦後復興期の資金不足が主な原因だ。
19世紀末から20世紀初頭にかけて、解放されたばかりの奴隷から平等な市民権を奪うため、南部の州で様々な黒人差別法が施行された時代になって、南部軍の記念碑が公共の場に次々と設置されるようになった。
記念碑建立の第2波は1950~1960年代、人種隔離廃止とアフリカ系米国人の権利平等を求める公民権運動の時代に押し寄せた。
ヘイト集団や公民権運動を追跡するアラバマの南部貧困法律センター(SPLC)による報告書は、「公民権運動は、人種分離主義者の反発を引き起こした」と指摘する。
南部連合の像は700体以上あり、そのほとんどは南部にあるが、一部は南部連合ではなかった州にもある。

どういう人たちの像なのか

記念碑の一部は南部連合の歩兵たちに捧げられたものだが、多くはロバート・E・リー将軍やトマス・「ストーンウォール」・ジャクソン将軍など、著名人の像だ。
ジャクソン将軍の子孫は16日、バージニア州議会議事堂から同将軍の像を撤去するよう求めた。バージニア州シャーロッツビルでの白人至上主義者の集会において、「南部連合の像が存在することによって、人種差別主義者に主張の拠り所を与えてしまうと分かった」からだと説明している。
将軍の子孫がバージニア州政府に宛てた公開書簡の内容が、ツイッターで広く拡散し、それと共に、「記念碑は撤去しなくては(Monuments Must Go)」というフレーズが米国のツイッターでトレンド入りした。
白人至上主義団体「クー・クラックス・クラン」(KKK)やネオナチ支持者による「右派の団結」集会の後、リー将軍の玄孫は「不寛容や憎悪のメッセージを推進する人たちが、リー将軍の思い出を間違って利用する」ことを非難した。
極右行進の参加者たちは、名目上はリー将軍像撤去の市議会決定に反対するため、シャーロッツビルに集まっていたからだ。

なぜ問題なのか

南部連合のシンボルを擁護する人のほとんどは、記念碑は奴隷制を記念するものではないという立場だ。
擁護派は、南部連合軍は奴隷制維持のために戦ったのではなく、「州の権利」を守り連邦制に反対するための戦争だったと主張する。南部連合の「戦旗」のようなシンボルは、南部の歴史と文化を記念するものだと言うのだ。
しかし歴史家のほとんどは、南北戦争の原因が奴隷制度だったと一致している。人種的少数派、特に黒人の米国人は、公共の場にそのシンボルが存在するのは、不快だし侮辱的だと感じている。
メーン州のポール・ルページ知事は17日、像の撤去は単に歴史のうわべを取りつくろうだけだと述べた。
メーン州のラジオ局WGANラジオに出演したルページ知事は、「歴史を消してしまうなら、未来の世代はどう学べるのか? 吐き気がする」と話し、像の撤去は2001年9月11日の同時多発テロ事件の記念碑を、世界貿易センターや国防総省から撤去するようなものと「そっくり」だと付け足した。
「私にしてみれば、今すぐニューヨークに行って、9/11で命を落とした人たちの記念碑を撤去するようなものだ。そう言うことだろう」
トランプ大統領もまたこの言い分を応用し、独立宣言を起草したトマス・ジェファーソン第3代大統領やジョージ・ワシントン初代大統領についても、奴隷主だったことを理由に記念碑を撤去しようとリベラル派が言い出すまで時間の問題だと主張した。

なぜ今になって像が問題に

2015年に南北戦争の終戦150周年を祝ったわずか数日後、サウスカロライナ州の黒人教会で白人男性が信者9人を殺害する事件が起こった。
南部連合旗の前でポーズを取る犯人の写真は、多くの米国人の見方を変えた。南部連合旗は無害な文化や反骨精神のシンボルだとは、もはや思われなくなったのだ。
サウスカロライナ州政府が州議会議事堂から南部連合旗を撤去すると決めた後、多くの地方自治体が、地元にあるシンボルを撤去して後に続いた。
そして今、シャーロッツビルでの暴力事件がきっかけとなり、記念碑撤去の第2波が起きている。
今週だけでもオハイオ州、ノースカロライナ州、メリーランド州で、南部連合の記念碑が次々に損壊された。
ノースカロライナ州では今週、怒る群衆が兵士の銅像を引き下ろした。しかしノースカロライナ州など一部の州では、地方自治体は議会承認なしに南部連合の記念碑を撤去できないと条例で定められている。
米マリスト大学による今週の世論調査では、米国人の62%が「歴史的なシンボル」として像を残すべきと考えており、やや意外なことに、アフリカ系米国人の44%がこれに同意していた。


再生核研究所声明 139 (2013.10.22):   
正義とは 戦争における; 短期的には 勝者が決めるが、世界史が評価の大勢を定める

(2013.10.10.16:35 休んでいるとき、構想を練る。これは声明に関心を擁く人からの 要望による。)

まず、用語を確認して置こう:
正義(せいぎ、: δικαιοσύνη、: jūstitia、: justice、: justice、: Gerechtigkeit)とは、倫理合理性法律自然法宗教、公正ないし衡平にもとづく道徳的な正しさ[要出典]に関する概念である。 正義の実質的な内容を探究する学問分野は正義論と呼ばれる。広義すなわち日本語の日常的な意味においては、道理に適った正しいこと全般を意味する。以下では、専ら西洋における概念(すなわちjusticeないしそれに類似する言葉で示されるもの)を記述する。東洋のそれについてはのページを参照。
定義[編集]

正義とは、それ自体に鑑みれば、社会における物および人に関する固有の秩序である[要出典]。この概念は、哲学的、法的あるいは神学的な影響の下で、歴史上絶え間なく論じられてきた。正義に関する問題の多くは、西洋における正義概念に依拠している。例えば、「正義とは何であるか」「正義は個人および社会に何を要求しているか」「社会における財と資源の本来的な配分方法(平等主義才能主義身分主義)は何か」などである。これらの問いに対しては、政治および哲学に関する多様な観点から様々に答えうる。 正義の概念は、多くの正義論によって極めて重要な概念であるとされている。例えば、ジョン・ロールズは次のように述べている[1]。「正義とは、思想体系が真であることとしての、社会制度の根本的な徳である」。正義は、親切、慈悲、慈愛、寛大さあるいは共感などのその他の徳と区別され、そしてそれらよりもより基本的な徳であると考えることもできる。正義は、とりわけギリシャ哲学やキリスト教においては、運命、輪廻あるいは神の予見のように、自然の摂理や超越的存在によって規律された生ないし生き方と結び付けられることがしばしばであった。しかし、現代の正義論においては、このような宇宙論的・宗教的世界観を離れて、正義を社会制度の根源を為す価値である公正さと結び付けて人間社会の枠組みの問題であると捉える傾向が強い。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E7%BE%A9より)

また、

義 
 「己の威儀なり。我+羊の会意」 ・・・ 「羊+我声」 と改めたほうがよい。
 「羊」 を含むのは、 にを含むのと同じく、ヒツジを神に捧げるギセイに常用した習慣に基づく。
 もともと と同じく神への供物が くっきりとかどばって美しく揃っていること。
 <書経、文侯之命> の「父義和」の鄭注に、「義とは匹(そろう)なり」とあるのは、なお原義に近い。
 <礼記、中庸> に「義とは宜なり」とある。また<礼記、祭義> に「義とはこれに宜(よろ)しきなり」ともある。
 転じてすべてかどあるさまを という。(美しい女) とも同系。※ 『漢字語源辞典』(学燈社) p.592
また、
ここで再び唐漢氏に登場願う。彼曰く、
甲骨文字「義」

金文「義」
「義」という字は、羊と我という文字から成り立っている。ここで「羊」はこの種の頭上にある大きく湾曲した角を指す。その意味は羊の統率指導権や交配優先権を表すものだと解釈されている。そして「我」というのは古代の長い柄の一種の兵器のことであるが、形が美しく作られ実際の戦闘には不向きで、軍隊の標識用に作られたものだとしている。したがって「義」という字は、本来は「羊」の頭を指し自分あるいはグループの権力、戦闘に向かう集団の権力の誇示に並べたものであろうということである。
このことから「義」は情理・正義に合致した名目の立つ出兵を示し、公正適切な言行を指すようになったということである。
 このことから考えると先ごろのアメリカ・イギリスなどのイラク攻撃には一体いかなる「義」が存在したのだろう。一旦この「義」が地に捨てられてしまうと、後は強肉弱食のカオスの世界しか残らない。
 このことを「天地人」の作者は最も言いたかったのではないだろうか。
また、
「義(ただしい)」は、犠牲として神に捧げる「羊」と、これを切る鋸(のこぎり)「我」の合体した文字。「義」には悲劇がつきまとう。【『一日一書』石川九楊二玄社、2002年)】

上記のように “正義” は 実に曖昧な言葉であることが分る。 義の語源から、戦闘を大義名分にするときに掲げる言語で、重い意味を有する言語ではないだろうか。そこで、正義の意味をきちんとさせたい。 きちんとした解釈を与えたい。
まず、世の道徳や、法や慣習が確立している範囲ならば正義は 次の 公正の原則 で定められるのではないだろうか:
再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、 美しい社会とは:
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。(公正の原則

1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。

ところが、合戦や戦争では いわゆる約束ごと、ルールを越えて 行われるので、世の一切の法やルール、慣習を越えている。それで、その戦いを正当化する言語、正義は、極めて難しい言語であると言える。ルールは何も無く、ただ戦争の勝利者が正義を定められる と考えるべきである。これは既に 定着している 勝てば官軍 の諺に表現される。合戦には 不意打ち、だまし討ち、陰謀などは常識であり、侵略どころか、虐殺、皆殺しなども世界史には存在する。第二次世界大戦でも 戦闘力のない 敗戦真近かの国に 非戦闘員、民間人の大量虐殺を始めから意図した原爆投下などが 存在するが、戦争だから仕方がないと 世界では受け止められている。 非戦闘員は 巻添えにはしない などの慣習や道義など、一切のルールは 機能していないのが 世界史である。 ― (いわゆる戦時における 慰安婦問題などが 問題にされているが、原爆投下などの 大きな非道に目をつぶって、そのような問題を論じているのは、誠におかしいのでは?(再生核研究所声明 101 慰安婦問題 ― おかしな韓国の認識、日本の認識))。
そこで、勝てば官軍 の現実を受け止め、勝利者が正義を定める としたい。戦争、合戦は 無条件の戦いであり、生きるか死ぬかの 究極の選択と考える。これは生物界に厳然と存在する、食うか食われるかの戦いであり、究極の局面である。(そのような戦争は したくはない。戦争は ゲームのようなものではない、兵士は 権力者の消耗品ではないと言うことである。)。大和朝廷の平定、アレキサンダー大王の遠征、南アメリカへの侵略、北米の支配などなども いろいろ批判されるべき点が有っても、いわば自然法に基づいた 強い者が正義を定める を述べている。
その原理は、今でも同じで、戦いには法は無く、総合的な力が世界を動かしている現実がある。イラク進攻を見れば、歴然であり、法も無く、国連安保理事会も 未だに機能していない。若いアメリカ合衆国は 力の信仰、自由競争による自然法的発想が、もっとも強い国であるように見える。
これで、正義 は 確定し、正確に定義された。
それで、戦争に 正義を掲げるのは、この意味で意味を失うことになる。― もちろん、対立する双方が大義を掲げるのは、当然である。―
世界史は 勝利者によって書かれ、作られて来たと言えるが、その勝利者は、その時代における総合戦による勝利者であって、単に軍事だけで世界が動いたのではないと言える。植民地支配をしたり、侵略して来たのは、勝者として、それだけの力を有していたと、評価できる面が有ることを 認めざるを得ない。自然の生物界の現実が そうであると考えられる。自己防衛は あらゆる生物に与えられた、本能であり、当然の義務、基本的な義務であると考えられる。国防の戦略や災害に対する対策が無い国などは、国家の基本を疎かにしていると批判されるだろう。
再生核研究所は それでは 軍備拡張で富国強兵を考えているのかと言えば、逆である。現在の世界の状況を総合的に理解して、世界史を進化させて、和によって、夜明け前の暗い時代を 終わらせ明るい時代を築こうと いろいろ世界の平和の問題についても 具体的に 提案を行っている:

再生核研究所声明8: 日本国の防衛の在り方について
再生核研究所声明10: 絶対的な世界の平和の為に
再生核研究所声明 25: 日本の対米、対中国姿勢の在りようについて
再生核研究所声明 53: 世界の軍隊を 地球防衛軍 に
再生核研究所声明 111: 日本国憲法によって、日本国および日本軍を守れ、― 世界に誇る 憲法の改悪を許すな

また、戦いに勝利しても、永い歴史のうちでは、文化力で敗北して、結局は 事実上、逆に支配されてしまったような現象は 世に多いのではないのだろうか。幾ら戦争だからと言っても 何をやっても良いでは、戦争には、戦いには勝てず、人間存在の原理や文化、慣習の尊重などは、官軍になるためには 時代に受け入れられる、それなりの大義名分が必要ではないだろうか、全体的な評価は、世界史が 判断するだろう(再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判)。
これからの戦争では 完全な勝利を得るものは無く、共倒れの可能性が高いのではないだろうか。大きな本格的な戦争に至れば、人類絶滅の可能性が高いのではないだろうか(再生核研究所声明 137: 世界の危機と 権力者の選出)。

以 上

正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。
正義も理屈をつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。


再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙

(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)

猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。

何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:

再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること

言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。 
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上

再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと

世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。

国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。

特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。

この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。

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