ビートたけし「27時間テレビ」司会 21年ぶり
今年で31回目のフジテレビ系「FNS27時間テレビ2017」(9月放送予定)の総合司会をビートたけし(70)が務めることが1日、分かった。
たけしの同番組司会は92年から96年までの5年連続以来、21年ぶり6回目。進行役を関ジャニ∞村上信五(35)が務める。お笑いだけでなく、「日本の歴史」をテーマに「学び、笑い、楽しむ」を基本スタイルにする。
楽しみです:
再生核研究所声明370(2017.5.30) 細胞のような存在、個人 ― 生態系、環境
人間の存在について、個人の存在について、ふと思うことがある。人生とは結局 如何なるものであろうか。雄大な人間社会において、個人の存在はあまりにも小さく、それはまるで生体における細胞のような存在に感じられる。個人は知識、視野、思考の幅や深さにおいても貧しく 大きな社会で、ほんの一部しか見えず、感じられない。そこで、個人の世界、世界観は 周辺の環境に大きく左右され、雑草の中の一つの植物のようである。 思えば、生まれて生きてきた、心持ちなど みな周りの人々や得た情報、環境によって形成され、それは雑草のなかの一つの植物のようである。大事な就職、結婚など みなその折り折りに環境によって 相当に定められてきたのではないだろうか。― ふと思う、本質的には、個性はあっても 相当に人間は共通に作られていて、多くの違いは 生い立ちや環境で相当に定められてきたと言えるのではないだろうか。― このことは 人間は誰でも同じようで、環境、生い立ちでそうなっていると思えば、相手の立場に思いを致し、全面的否定や絶対的な正義をかざすことを躊躇させるだろう。最近の世相は、全面的な否定と独善的な姿勢が目立ち、是か非、白黒の判断が多いのではないだろうか。
人間の社会は 実際は、そうは単純ではなく、微妙なバランスの上に成り立っていることに気を付けたい。
典型的な実例は 開発と自然環境の保護である。山地を開拓して美しい街を作ろうとすれば、永く続いてきた自然環境を破壊することになる。豊かな食生活を営もうと魚をとりすぎれば、魚の保護が難しく、勝手に振る舞えば、やがて魚は絶滅しかねない。 このような例はいたるところに有って、我々の存在の基本的な在ようの問題に繋がるだろう。
― 原罪とは何か。
我々個人の存在は 大河の中の一滴のようであるから、大きな流れには逆らえず、 多くは運命づけられていることを認め、受け入れざるを得ない。そこで、謙虚さを持って周辺に気遣い、できるだけ、大きな視野に立って、内なる世界と外なる世界の中で 調和のとれた存在でありたいと考える。
放し飼いになっている猫や犬をみる。人間の生き様も猫や犬と本質的には同じではないかと感じられる。いや雑草たちとも人間の在りようは本質的に同じようで、草木たち、動物たちの存在の方が逆に完全であるように見える。結局、人生、動物や植物たちと同じようであった となるだろう。
犬がよく通りをぼんやりと眺めている。人間も本質的には、そのような存在ではないだろうか。この世に生をうけて、結局は、ぼんやりと過ぎ去っていくだろう。
以 上
再生核研究所声明307(2016.06.22) 見かけ、表装と内実、実質
相当に高級な内容を記述しようと発想したのであるが、表現が難しいことに気づいた。そこで、表現し易い例で解説を始めよう。
選挙や代表者の投票などでは、どうしても格好の良さや感じの良さに惹かれて投票してしまう例が多いのでは ないだろうか。性格や感覚的な好みに惹かれるからである。ところが投票される者には特別な役割があって、その役割を果たすのに適任か否かを判断するのが 本来投票のあるべき姿であるとも言える。まさか、スポーツの代表選手の選出に 格好の良さや、感じの良さで選出することはないだろうが、政治家の選出などでは相当にちぐはぐになる、判断する場合は多いのではないだろうか。タレント候補者などで、本当に着く職務を果たすのに適任者か否か大いに疑問が湧く場合が多いのではないだろうか。分かり易い例として スポーツの監督者や解説者と 現役時代の実績の関係など、本来異なる才能ではないだろうが、混同してしまう傾向があるのではないだろうか? 学術の世界でも、創造的な業績をなしたものと、評価できる能力には異なる面があるのではないだろうか。芸術の世界でも、そのような観点で考察する必要があるのではないだろうか。いろいろな 権威の基 についても考察を深めることが大事ではないだろうか。この観点では、投票で、民主的に考えるも基本的な問題を抱えていると言える。良い政策か否かを素人集団で ただ投票で決めれば良いは本質的な問題を抱えていると考えるべきである。
表装と内実と捉えると、世の多くの問題に、問題を普遍化できる。現れた情報で、内実を推し量る、判断するからである。現れた情報には意図的に作られたり、歪められたり、虚偽に演じられたりする場合は多い。演出と実際、現実の乖離を心配している。
現在は、評価、評価と 賑やかであるが、評価に客観性を与えようとして、多くを数値化する傾向が強いが その数値化が評価の実態を上手く表現しているかは 大いに問題ではないだろうか。 それで、 いろいろなランキングの公表の 世界的な風潮には 大いに警戒したい。実際と現れたものの乖離、本末転倒のような現象が 世に多く現れているのではないだろうか。少し、時代が経てば、愚かなことをしていたとなりかねないことが多いのではないだろうか。
この声明の趣旨は 表装と内実の観点から、上辺だけに気を取られないで、本来のことに思いを致そうということである。見かけに囚われないように気をつけようということである。本末転倒の現象や、見かけと実質の乖離を見出して、判断や観測能力を高めたい。軽薄な世相にならないように気を付けたい。
物事の本質を見るようにしよう、本来のあるべき姿を求めていこう。もともとの在るべき姿、存り様を追求して行こうと纏められるだろう。初心や初期の精神を尊重したい。
以 上
再生核研究所声明304(2016.06.16) いじらしい人間
人間とは何ものかによって 作られた存在 であり、気づいてみたら生まれていた、存在していた。夢中で生きていたら、それらはみな言わば作られた存在として、基本的なありようは定められていたといえる。気づく以前は本能原理の基で、多くは環境に左右され、環境に合ったように多くの動物のように 生きているといえる。
作ったものに意思があるとすれば、それはちょうど作ったものの意思に従って生きているだけであるともいえる。― この観点では、人間の自由意思の存在さえ疑わしくなる。自由意志の存在しないところでは是非は 問えず、全ては神域に属することになる。
人間は生物であり、動物であり、生物や動物の本能、生きること、種の繁栄を求め、そして、人間存在の原理、感動することを求め、真智への愛などが人間の基本である。
男女の愛、家族愛、真理の追究、好奇心、新規なものに興味を抱く、愛国心や名誉心、褒められたいなどの基本的な欲求も 作ったものの意図 を想像すれば、極めて当然で、人間の本性が顕にみえてくるだろう。そのような意味では、人間すらロボットや多くの動物、子供たちのようにみえてくる。
そのような意味では、善人も悪人も 分けた意味では 本質的には存在せず、みな本質的には同じような存在であるといえよう。たまたま悪い条件、環境で育ち、歪められた精神を有して、誰でも願う基本的な欲求が満たされず、自己中心的に行動してしまう状況に追い込まれてしまっているといえる。
多くの独裁者や権力者が 自分の生命、家族を守るためなど、極めて基本的なものを守るために、異常に権力を志向して おかしい状況に追い込まれてしまっている様を本質的にみることができるだろう。裕福なものや高官達も本質的には同じようではないだろうか。基本的なこと、基本的なところを守るために過剰に発想(行動)してしまい、おかしな状況に追い込まれている様を多くみることが出来るだろう。― 庶民から見れば、おかしな異常感覚にみえる状況は世に多いのではないだろうか。
そのような視点からみえてくる人間とは、いじらしい人間である。作ったものの定められた原理に忠実に従い、行き過ぎた存在、そのような意味で、いじらしい人間として、共感、共鳴、理解できれば、俗にいう悪い人も許せる大きな心を持てるのではないだろうか。広い視野と慈しみのような心を 同じ運命を共有している者として持てるのではないだろうか。
世の悪の素とは、身勝手になってしまい、自己中心に考えてしまうことではないだろうか。
それは余裕が無い状況ともいえる。そのような意味では、 良い社会を作る原理は 次に述べられている 公正の原則にあるといえる:
再生核研究所声明1(2007.1.27): 良い社会を作るには。
作られた人間、いじらしい人間といえば、生命の基本定理、生きて存在しなければ始まらない、いつまでも存在していたい、生きていたい という原理に人間は縛られていて、この原理から、解放されず、いつまでも縛られている、哀しい人間のことである。次も参照:
再生核研究所声明301(2016.05.23) 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明 273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
哀しくとも、浅ましい存在ではなくて、賢明で爽やかな存在になりたい。
以 上
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