2017年6月22日木曜日

加藤一二三・九段が引退、「神武以来の天才」

加藤一二三・九段が引退、「神武以来の天才」

 将棋の最年長棋士・加藤一二三ひふみ九段(77)は20日、東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われた竜王戦6組昇級者決定戦で、高野智史四段(23)に98手で敗れ、同日付での引退が決まった。
 福岡県出身の加藤九段は14歳7か月で四段に昇段、当時のプロ入り最年少記録をつくった。18歳で順位戦A級に昇級し、「神武以来の天才」と呼ばれた。得意戦法は矢倉や棒銀で、十段や名人など、通算8期のタイトルを獲得。通算成績は1324勝(歴代3位)、1180敗(歴代1位)。
 早口でおしゃべりな独特のキャラクターがテレビのバラエティー番組などでも人気になり、「ひふみん」の愛称でも親しまれた。昨年12月には、竜王戦6組で史上最年少棋士・藤井聡太四段(14)のデビュー戦の相手となった。
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2017年06月20日 22時10分 Copyright © The Yomiuri Shimbun

「神武以来の天才」と呼ばれた。

再生核研究所声明80(2012.03.20)  挑戦 とは 何か

(この声明は 朝日新聞 『天声新語』 募集の課題 「挑戦」から ヒントを得て、考えられたものである)
およそ、人生も世界も慣性の法則で動いているものと言える。これは 世の中は物理学の慣性の法則に従っているように、大きな流れの上にあるということである。実際、人は気づいてみたらこの世に生を享け、ある流れの上で生かされていると言える。今日在るは昨日の延長上にあり、昨日はその前の延長上にあると遡って行ける。明日の多くは連続性に従って今日の延長として、相当に決まっていると言える。人間が生きたいと思うのは 今まで生きてきたから、明日も生きたいと 慣性の法則で志していると言える(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)。
しかしながら、面白いことには、人間存在の神秘性であるが、人間には自由意志があって、その流れに少し逆らうような有り様が可能である。 顕著な例が、挑戦である。すなわち、戦い挑む、やってみる、試みるということは 人間の自由意志の顕著な例である。冒険、競争、求道、研究、芸術などの営みは、人間であることの証であるとも言え、挑戦とは人間としての存在の本質を表しているところの、人間固有の人間らしい営みである。 
されば、人間の存在の意義とは何か? まず、生きること、生きて存在しなければ始まらない ― 生命の基本定理、人生、世界、生物界において 実際これくらいしか、確かなことは、無い。 逆に考えてみよう、生きて、存在しなければ、生まれて来る前のように 何も認識できず、したがって何も知らず、何も伝えられず、全ての前提は 消えてしまうだろう(再生核研究所声明13: 第1原理 ― 最も大事なこと)。
さらに1歩進めて、人間として生きることの意義とは何だろうか。 それは、つきるところ、人生の意義は感動することにある ― 人生の基本定理 にあると言える。 人間が何に感動するかは、個性にもよるが、本能に基づくものは当然として、真、善、美、聖などを求めているときであると言え、知ることと、自由を求めることが それらの基礎である。 その本質は、気づくことと、喜びを感じることに他ならない。 人間として生きることの本質ではないだろうか(再生核研究所声明12: 人生、世界の存在していることの意味について)。 
そこで、いま、日本国において、取り組むべき挑戦課題を提案したい。
まず、国家財政を立て直すこと、国だけの債務をみても、1000兆円に迫り、3年続けて 歳入の2倍を超える歳出である。 更に大震災、原発事故、放射能対策の膨大な経費である。このような財政を続けていける道理は 世に無いから、国は大胆に財政問題を国民に明らかにして、官民挙げて 財政問題に挑戦すべきである。もちろん増税だけではなく、国民に理解を求めるための 節税や行政改革なども断行すべきである。ここで大事な観点は、縮小方向ばかりではなく、財政再建の積極的な展開も多方面に志向すべきであるということである。新しい職場の開拓、ビジネス効果志向などである。国の活動に人材の活用によるビジネス感覚の導入も必要ではないだろうか。これらは、同時多発的に広範に取り組む必要があり、ここでの挑戦とは、正しく時間との戦いであると言える。何事も追い込まれる前に先手を打つのが 賢明な対応の在りようではないだろうか。世界は 世界混乱前夜の状況にあると言えるのではないだろうか(再生核研究所声明 45: 第2次世界大戦と第3次世界混乱)。
次に、原発事故を鎮圧して、放射能対策をしっかり行うこと。これは当然であるが、より真剣に取り組むべきではないだろうか。世に 反原発についての意見やデモ等が行われているが これほど無意味で、無駄な行動は無い。誰でも原発など無いにこしたことはないと考えるのは当然であり、また、東電その他関係者自身が、一般国民よりははるかに、原発事故の重大さと危険性を明確に自覚していることは 当たり前である。 世に騒がれるまでもない当然のことではないだろうか。当然のことを騒いでいて、何か建設的、生産的なことが有るだろうか。 逆に、原発を何とか活用すべく、挑戦的に取り組むことは 自明ではない、やりがいのある挑戦課題ではないだろうか。それこそが、およそ人間存在の原理ではないだろうか。 実際、人類は、未知の世界に冒険し、新世界を開拓し、次々と世界を拡大、深化させてきたのではないのか。不可能と思えることを可能ならしめ、宇宙の隅々まで、神の意思までをも 究めたいというが、そもそも人間存在の原理ではないだろうか。もちろん、これは安易に取り組むことを意味せず、慎重に、慎重に進めるのは当然であるが、原発を諦めるということは、それに対する人類の敗北を意味し、人間存在の本質に抵触すると言わなければならない。何時かは原子力ネルギーを自由に制御して、広大な宇宙に飛び出し、新天地を拓こうではないか(再生核研究所声明 32: 夜明け―ノアの方舟)。
次に教育の問題である。 日本の教育は何を目指しているのかと問いたい。 ただ大学受験を目指して、大学に入る為の勉強に ほとんどの部分を占めているように見える。受験のための塾、専門の学校の繁茂がそれらを示してはいないだろうか。 教育を教育の在るべき姿に戻って、検討し直すことが 中長期的には日本国における大事な挑戦課題ではないだろうか。 教育の在るべき姿などは既に教育基本法その他で 確立しているが 弊害は、本末転倒の教育の在り様になっている実情、実体にある(再生核研究所声明 70 本末転倒、あべこべ ― 初心忘れるべからず)。教育の原理についても注意を喚起したい(再生核研究所声明76 教育における心得、教育原理)。
挑戦とは人間の自由意志の明確な表現として、決断による情熱の伴った生命の燃焼であり、志である。 そこに良い感動が伴えば、より良い人生と言えるだろう。

以 上

再生核研究所声明3702017.5.30) 細胞のような存在、個人 ― 生態系、環境

人間の存在について、個人の存在について、ふと思うことがある。人生とは結局 如何なるものであろうか。雄大な人間社会において、個人の存在はあまりにも小さく、それはまるで生体における細胞のような存在に感じられる。個人は知識、視野、思考の幅や深さにおいても貧しく 大きな社会で、ほんの一部しか見えず、感じられない。そこで、個人の世界、世界観は 周辺の環境に大きく左右され、雑草の中の一つの植物のようである。 思えば、生まれて生きてきた、心持ちなど みな周りの人々や得た情報、環境によって形成され、それは雑草のなかの一つの植物のようである。大事な就職、結婚など みなその折り折りに環境によって 相当に定められてきたのではないだろうか。― ふと思う、本質的には、個性はあっても 相当に人間は共通に作られていて、多くの違いは 生い立ちや環境で相当に定められてきたと言えるのではないだろうか。― このことは 人間は誰でも同じようで、環境、生い立ちでそうなっていると思えば、相手の立場に思いを致し、全面的否定や絶対的な正義をかざすことを躊躇させるだろう。最近の世相は、全面的な否定と独善的な姿勢が目立ち、是か非、白黒の判断が多いのではないだろうか。
人間の社会は 実際は、そうは単純ではなく、微妙なバランスの上に成り立っていることに気を付けたい。
典型的な実例は 開発と自然環境の保護である。山地を開拓して美しい街を作ろうとすれば、永く続いてきた自然環境を破壊することになる。豊かな食生活を営もうと魚をとりすぎれば、魚の保護が難しく、勝手に振る舞えば、やがて魚は絶滅しかねない。 このような例はいたるところに有って、我々の存在の基本的な在ようの問題に繋がるだろう。
― 原罪とは何か。
我々個人の存在は 大河の中の一滴のようであるから、大きな流れには逆らえず、 多くは運命づけられていることを認め、受け入れざるを得ない。そこで、謙虚さを持って周辺に気遣い、できるだけ、大きな視野に立って、内なる世界と外なる世界の中で 調和のとれた存在でありたいと考える。
放し飼いになっている猫や犬をみる。人間の生き様も猫や犬と本質的には同じではないかと感じられる。いや雑草たちとも人間の在りようは本質的に同じようで、草木たち、動物たちの存在の方が逆に完全であるように見える。結局、人生、動物や植物たちと同じようであった となるだろう。
犬がよく通りをぼんやりと眺めている。人間も本質的には、そのような存在ではないだろうか。この世に生をうけて、結局は、ぼんやりと過ぎ去っていくだろう。

以 上

再生核研究所声明3672017.5.18)数学の真実を求める方、数学の研究と教育に責任を感じる方へ

(「明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは」 ― 親鸞聖人)
そもそも数学とは何だろうかと問うことは大事である。しかしながら、生きる意味を問うことは より根源的で大事な問いである。数学についても人生についても述べてきた:(No.81、2012年5月(PDFファイル432キロバイト) -数学のための国際的な社会...www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)。
数学とは、公理系、仮定系を設定すると、このようなことが言えるというものである。公理系の上に、いろいろな概念や定義を導入して数学は発展するがその全貌や本質を捉えることは何時まで経っても人間の能力を超えた存在で不可能であろう。しかしながら、人それぞれの好みを越えて、完成された理論は人間を越えて存在する客観性を有すると信じられている。万有引力の法則など物理法則より数学の理論は不変で確かな存在であろう。
数学が関係の編みのようなものであると見れば、数学の発展の先や全貌は 人間を越えて本質的には存在すると言える。例えばニュートンの万有引力の発見は、物理学の発展から必然的と言えるが、数学の発展の先はそれよりも必然的であると考えられる。その意味では、数学では特に要求されない限り、じっくりと落ち着いて楽しむように研究を進められるであろう。
ところで、ゼロで割る問題、ゼロ除算であるが、これは誠に奇妙な歴史的な事件であると言える。
ゼロで割れないは 小学校以来の世界の常識であり、アリストテレス以来の考えであると言う。オイラーやアインシュタインなども直接関わり、数学的には確定していたが、不可能性に対する興味とともに、計算機科学と相対性の理論の関係で今でも議論が続けられている。
ところが、誠に奇妙な事実が存在する。ゼロの発見者、マイナスの数も考え、算術の四則演算を確立されたBrahmagupta (598 -668 ?) は 既に、そこで628年、0/0=0 と定義していたという。しかしながら、それは間違いであると 今でも判断されていて今日に至っている。今でもゼロ除算について諸説が有って、世界やグーグルの世界でも混乱している。何十年も研究を続けて、本を出版したり、論文を公表している者が4,5人、あるいはグループで研究している者もいるが、それらは間違いである、不適当であると説得を続けている。ゼロ除算について無駄な議論や情報が世界に氾濫していると言える。
再生核研究所では、ゼロ除算発見3周年を経過し、広く議論してきたので、ゼロ除算の発見を宣言している(Announcement 362: Discovery of the division by zero as $0/0=1/0=z/0=0$ (2017.5.5)})。詳しい解説も3年間続け
(数学基礎学力研究会のホームページ
URL
、論文も発表、学会、国際会議などでも報告してきている。
何と創始者の結果は実は正しく、適当であることが沢山の数学の具体的な例と発展から、明らかにされてきた。ところがゼロ除算は、アリストテレスの連続性の概念を変え、2000年以上の伝統を有するユークリッド空間に全く新しい面が加わり、現代数学の初歩全般に大きな影響を与えることが分かってきた。
我々の空間の認識は間違っており我々が学んでいる数学は、基本的なところで、欠落していて、真実とはかなり程遠く、実は数学はより完全でもっと美しいことが分かってきた。我々は年々不完全で不適当な数学を教えていると言える。
このような多くの大きな変化にはとても個人では対応できず、対応には大きな力が必要であるから、数学の愛好者や、研究者、教育者などの積極的な協力、教育、研究活動への参画、理解、援助などをお願い致したい。ゼロ除算の歴史は 人類の恥になるだろう。人々はゼロ除算の発展から、人間とはどのようなものかを沢山 学べるのではないだろうか。
以 上

再生核研究所声明3662017.5.16微分方程式論の不備 ― 不完全性

(2017.5.14.9 時頃 山間部を散歩している時に 自然に構想が湧いた。)
数学の論理の厳格さ、厳密性は ジョルダンの閉曲線定理 が有名であるが、デデキンドの連続性公理、ワイエルシュトラスの最大値、最小値の存在定理、中間値の定理なども有名である。数学専攻学生の初期における ゼミナールの指導精神は、厳格な論理的思考の訓練にあると考えられる。この態度は 数学者の精神の基礎で、世情でも数学者との論争は手ごわいと見られているのではないだろうか。論理に隙や飛躍がないからである。逆に見ると、数学者が確立した理論は 恰も不滅の、不変の真理のように思われている、考えられているのではないだろうか。
この観点で、日本の著名な代表著書 高木貞治氏の解析概論は、模範的な数学書で、完璧な記述でまるで芸術作品のようである。
年々数学の著書が数多く出版されているが、著者たちは まずは、間違いのない記述に気を遣ってきていると考えられる。
ここ2年くらい、ゼロ除算の発見で、主に初等数学、学部レベルの教科書を相当参照してきている。実際、ゼロ除算が 数学にどのような影響を与えるかの基礎を見るには、基礎的な数学への関係を見れば、基本的な状況が捉えられると考えたからである。 
ゼロ除算の影響は、初等幾何学、解析幾何学、線形代数学、微積分学、微分方程式、複素解析学、力学など広範囲に及び、初等数学全般に及ぶことが明らかにされてきた。
ところが、数学の多くの著書のうちでも、微分方程式論では、現在の版でも相当に隙や論理の飛躍、扱いの不統一さなど、数学書としては 他の分野の著書に比べて ちぐはぐ、隙だらけに見えて来た。微分方程式論は不完全な状況であると言える。このことを簡潔に、具対的に指摘したい。未知の相当な世界にも触れたい。
先ず、微分方程式の定義である。普通は導関数を含む方程式を微分方程式と称する。このとき導関数とは何だろうか。関数に微分係数を対応させて、微分によって導かられた関数が導関数であるから、微分方程式には関数が定義されていなくてはならない。普通は1変数関数ならばxの関数 y=f(x) などと考え、その導関数を含む方程式を考えるだろう。例として考えられるのは、原点を中心とする半径aの円群が満たす例として多くの教科書の初期に 微分方程式の例が挙げられる。このとき、円はy軸に平行な接線を持つから その点で微分係数は存在しないと考えられるから、ただでは円群の満たす微分方程式とは言えず、微分方程式を満たさない点が存在することになってしまう。数学としては初めから、格好が悪いと言える。多くの微分方程式でこのことは広く問題になる。― ここの説明を上手くするために 都合の悪いところで、独立変数と従属変数を変えて、そこで考えれば良いという意見を頂いたが、少し人為的、最初の議論としてはあまり良いとは言えないのではないだろうか。
ところがゼロ除算で考えると、何とy軸に平行な接線の接点で、関数は微分可能で、微分係数の値、勾配はゼロであることが ゼロ除算の拓いた重要な知見、結果である。すると、微分方程式 dy/dx= - x/y は至るところで、円によって満たされるとなる。念のため、(a,0) で (dy/dx)(a)= - a/0=0 である。
この初歩的な結果は、微分方程式論に大きな影響を与える。解析関数の孤立特異点で、自然な意味で、値と微分係数を定義できるから、微分方程式を孤立特異点そのものでも考えることができるという、広い世界が拓かれてくる。微分方程式論を孤立特異点まで含めて議論する広い世界である。そもそも従来は、孤立特異点の孤立点を除いた近傍で数学を議論してきた。孤立特異点そのところでは数学を考えて来なかったのである。
ゼロ除算が拓いたゼロ除算算法は 解析関数の孤立特異点で有限確定値を与え、それらが自然な意味を持つから、微分方程式と微分方程式の解の孤立特異点での値の性質を調べる雄大な分野が存在する。
要するに、数理科学の数式で、分母がゼロになる膨大な数式で、ゼロ除算算法で孤立特異点で考える新しい世界が出現し、その影響は甚大であると考えられる。
もちろん、偏微分方程式論でも同様であるが、多変数のゼロ除算の定義から既に多変数解析関数論における難解な問題に繋がっていて、殆ど未知の世界である。
ゼロ除算算法の微分方程式論における影響は広範で、甚大であると考えられる。学術書の全般的な書き換えが求められている。
以 上

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1
-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…

1/0=0、0/0=0、z/0=0

http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html



1/0=0、0/0=0、z/0=0

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