新・経済発展理論体系(2)資本主義と民主主義の共通性 第17回<経済政策大全> - 小幡 績
中国もいつかピークアウトする
前回の私の議論に対する反論がいくつか予想される。
第一に、「それは成熟国の議論に過ぎず、主役が中国を中心とした新興国に移っていくだけで、世界全体ではピークアウトなど起きない」というものだ。
確かに、中国のいわゆる成長率(GDP増加率)は低下しても6%程度だし、利子率がゼロに近いのは成熟国だけだ。
それは正しい。しかし、中国が次の資本主義の中心国になるということは、現在の成熟国と同じように中国やその他の新興経済圏もいずれはピークアウトするということだ。そうなれば、世界のすべての経済圏で資本主義の拡大の局面は終了する、つまり、資本主義の世界は衰退局面、循環のはっきりとした後退局面を迎えることになる。
より重要な反論は別のところにある。
まず、私が想定した景気循環よりも長い循環とは、「資本主義そのものの循環ではなく、その二つの中間にある循環が存在するのではないか」。そして、現在、あるいは2007年以降の金融危機で迎えたピークアウトとは、「景気循環よりは長いが、10年程度の(資本主義の循環よりは)短い循環」であり、その循環からすれば、現在は、「回復からいよいよ拡大が始まる局面であり、その拡大の力強さが足りないことが問題なのではないか」。このような反論だ。
この議論に対しては、この循環を金融バブルの循環と呼べば、部分的に私も賛成する。金融バブルが21世紀に入って拡大し、それが2007年に崩壊、2008年以降、無理矢理に崩壊過程の痛みを財政金融出動で先送りしたから、衰退局面の痛みは和らいだが、そこからの回復のときにそのコストを支払うことになり、回復は力強くない、という見方はあり得る。
ただ、これは実体経済の循環と別に(ただし独立ではない)金融市場の循環が存在し、その二つの循環が絡み合って、経済社会全体の循環を生み出していることになり、この議論はそのうちの金融市場の循環だけを切り取った議論であり、それは全体の議論ではない。
シュンペーターは、このようなことを指して言っているわけではないかもしれないが、経済の発展は部分的ではあり得ない、あくまで全体の中での動きとして起こる、と言っている。
社会の循環:民主主義も資本主義もピークアウト
より大きな次元と視野で循環を考える、つまり、社会全体の循環を考える必要がある。そこでは、資本主義とともに民主主義が危機に陥っている。そして、これは実は危機ではない。これも循環に過ぎず、単に循環の後退局面なのである。
現在、民主主義の衰退が、逆説的に民主主義の徹底によって起ころうとしている。すなわち、ポピュリズムとは民主主義をある方向に徹底した結果であるが、徹底しすぎたがゆえに、民主主義による社会の秩序安定は失われ、民主主義の衰退が始まった。すなわち、頂点を越えてピークアウトが始まったのである。
そして、それは本稿の経済発展論のモデルとも類似している。すなわち、民主主義の発展の方向性、シナリオは多数あったのだが、たまたまポピュリズムというイノベーションが実現し、それが徹底して遂行された。政治的指導者と民衆との新しい関係性の誕生、まさに「新結合の遂行」である。その結果、民主主義はさらに広まったが、深化するのではなく、対象を広げたことにより皮相化し、単純化、本能化した。しかし、本能化で原点に回帰するのではなく、むしろ発展しすぎ、徹底しすぎたために、「パンとサーカス」が進展し、パンに満たされた人々は、徹底したサーカスを求め、劇場型政治が世界の主流になり、民主主義はそのバブルが一気に崩壊しようとしているのである。
ここで疑問は、資本主義と民主主義の関係である。これは一体のものなのか、独立なのか。もちろんそれはどちらでもなく、別のものだが、関係はあり、関係がある理由は、その要素に共通項があるからだ。
「資本主義」「民主主義」とは動員メカニズム
資本主義と民主主義の共通する本質は何か。
それは、大衆を動員したことである。
大衆を動員した目的は何か。
それはギャップを生み出し、それを利用するためである。
再生核研究所声明358(2017.3.13) 政治の話しを、対話を勧める
誠におかしな日本の世相には、政治の話しを憚ったり、避けるような土壌が存在することである。それでいて選挙には投票を呼びかけ、投票年齢を下げたり、投票率などに対する関心などは高い。
そもそも、民主主義の国家では多数の意見でことを決めていこうとの精神が強く、基本的には世界の趨勢であると言える。この時、多数の意見の是非、またその反映に大きな問題が生じている。政治家の選出過程のいろいろな問題である。しかし、ここでは、選挙に臨む基本的な考え方として、所謂 あれも霞と民主主義、衆愚政治に、ならないように日頃政治に関心を抱き、いろいろ幅広い意見に接して、政治に関する素養の涵養に務めるように注意を喚起したい。
そもそも人は自分中心に世界を、社会を見て、自分の都合の良い社会を実現したいと考えがちである。しかしながら、人の考えはまちまちであり、志向する世界も様々である。そのような複雑な状況のなかで、環境が、社会が良くなければ、結局、自分だけが上手くいくようなものでないことは歴然である。戦乱に巻き込まれたり、大きな事業が活かされず、自然や社会を破壊している例は世に多い。それらの大きな要因には 政治の問題が関わっていると言える。
政治社会は大きな世界で 大事である。ぼんやりしていると、人類壊滅に導かれかねない。
人類が滅亡すれば、世界の如何なるものも 虚しくなるだろう。また、何時の間にか暗黒社会になっていたと成りかねない。
人類の生存、世界史の大義をしっかりと受け止め、絶えず、より良い社会を築くためにはどうすれば良いかと 問い、その大義のもとに いろいろな在り様を広く思考すべきである。 より良い社会を築くためには、政治はどのように在るべきか との問いに、私情、感情をむきだしにせず、真智への愛のような態度をとるべきである。 ところが、その大義がボケて、私情、感情をむきだしにして、自分たちの利益のために、反対意見や対立する意見を 初めから 否定的に 攻撃的な態度をとるようでは 対話の余地がなくなり、単なる論争、口論になりさがってしまう。 一定の組織人が自分達の組織、仲間の立場で 他の立場を批判、攻撃することは 当然存在するが 多くの人がより良い社会を築くためには、 どうすれば良いか との問いに 私情、感情をむきだしにせず、真智への愛のような態度で交流、対話して行けば 視野を広め、社会を支える民度の向上につながるのではないだろうか。 また、そのような態度は人生の大きな主題になるだろう。 逆に、社会や世界史への関心が薄くなれば、人は小さな自分の世界に閉じこもり、個々のバラバラの存在になってしまうだろう。
また、選挙で投票行為を行うからには、それに値する基本的な素養が要求されるのは 当然ではないだろうか。
社会に大きな影響を与えるマスコミや、政治家の発言に対する批判は 基本的に大事であるが、批判は、具体的で建設的であるべきであり、大義を重んじて、私情を抑え、 客観的な立場や公正の原則を重んじて行ない、多くの人の共感、共鳴が得られるような表現が望まれる。 大義に基づく意見は尊重され、共感、共鳴が得られるのではないだろうか。
より良い社会を 築いて行くために 大義に基づくと考えられる 意見表明を積極的に行って行こうではないか。
相手の立ち立場を尊重、考え方を尊重し、全面否定などは 厳に慎むべきである。
以 上
再生核研究所声明75(2012.2.10): 政治・経済の在りようについて
(この声明は 再生核研究所声明に関心を抱く方の要望によって、動機付けられたものです。他方、大谷杉郎 元群馬大学名誉教授の下記の文が気になって来ました: (新里山文明 ― 私は、基本的には、社会の制度、経済の仕組みにまで立ち入らないと解決はしないと思っています。無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組みの通用した時代は、もうあきらめたほうがいいと思っています。技術と社会制度と、それに人々との考え方と、みんな一緒にならないと循環社会、新里山文明の時代は来そうにありません。 ―( 日だまりの風景 平成18年9月15日発行 大谷杉郎著 印刷所 太陽印刷工業(株)P106~P107より )(群馬大学工業会会報・平成11年3月 99)p95~p107より)。)
上記両者の意見には いわゆる資本主義は 社会主義同様 行きづまっているのではないか、新しい社会の、経済の在りようを模索する必要が有るのではないか との考えを暗示しているようにみえる。
もちろん、政治・経済の在りようについての総合的な考察は、大きな課題であるから、考察を進めるには 重い課題ということになる。 しかしながら、歴史は連続的に流れ、慣性の法則で動いている(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)とすれば、現状の問題点を分析することによって、在るべき方向が見えて来ると考えられる。
現在の世界を、アメリカ、EU, 日本など、いわゆる自由主義経済、資本主義社会、民主主義の国々、および、 ロシア、中国など、いわゆる社会主義の変化で 社会主義と資本主義の中間に位置する国々、および いろいろな国柄を反映させているその他の国々と考えてみよう。 社会主義国では、経済活動は国によって計画され、企画されて、人々を資本家から解放し、より平等で公正な社会を目指していると考えられたが、結果は産業・経済活動が停滞し、民生の遅れをもたらし、皮肉にも自由、平等、民主主義の理念から外れ、社会主義の理念は 内部から、崩壊し、より自由な経済活動を許す、解放経済の方に向かわざるを得なかったようにみえる。 これは自由な経済活動が、産業の活性化をもたらし、国や特定の機関の管理では、庶民の力を発揮することができないという、 いわば、人間の本性に根ざした原理から出ていると考えられる。
しからば、資本主義諸国の現状における問題とは何だろうか。 いみじくも、アメリカ,EU, 日本に共通する大きな課題は、 膨大な債務を抱えて、財政破綻の危機にさらされているということである。これは、民主主義の中で、庶民の意志を尊重するあまり、各国の政府が無責任な財政運営を余儀なくされてきたということに他ならない。 民主主義は衆愚政治に陥り、国家は財政破綻を迎えたと、旧社会主義や独裁主義国家から、嘲笑されかねない由々しき事態ではないだろうか。 自由を保証する社会は、そもそも人類の理想であるから、財政の立て直しによる、復活を願わざるを得ない。
しかしながら、資本主義社会で見られる、次のような現象については、大きな歯止めと警戒、対処が必要ではないだろうか。
債務の増大と金融不安、
過熱な自由競争の国際化、
過熱な投機の在り様、
行きすぎた世界的な経済活動、
行きすぎた世界の均一化、
多くの失業者の出現、
為替の急激な変動、
貧富の大きな格差、
アメリカなどに見られる 軍事産業の力、
大量生産、大量消費の在り様、
お金、お金の風潮の増大、
社会生活まで、共生より競争の世相、成果主義や評価、評価の厳しい世相、
経済活動の環境、社会への大きな影響 など、
それらについて、関係する国際的な機関で 枠をはめ、より良い方向に誘導するような政策を進める必要が有るのではないだろうか。植物界でも動物界でも、自由に野放ししておけば良いとはならず、適当な手入れ、癌細胞などは除去するなど適切な処置が必要であるように である。― これは要するに、現状の自由を尊重する、資本主義と民主主義の在りようを評価して、そこから発する大きな歪を是正していこうとの 現実的な対応を志向するものである。
上記 (無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組み)などについては 税率によって、 調整して行く と考えるのは 如何なものであろうか。
他方、ロシアや中国における在りようの問題では、いまだ自由の保証が十分では無く、人権、人間の尊厳の観点から問題が有るのではないかとの危惧の念を抱かせるが、それぞれの国には それなりの歴史と伝統、文化が有るのだから、軽々しく内政干渉のような態度をとらない姿勢が大事ではないだろうか。 アラブや、その他の諸国についても お互いに内政干渉を控え、いろいろな国による、多様な在り様、多様な文化の存続を尊重、重視していくべきではないだろうか。 いわゆる グローバリゼーションは 地球を画一化して、貧しい均一的な 世界を作り、 傾向として良くないと評価したい。 多様な世界を志向したい。
逆に民主主義の問題点を指摘して置きたい。 上述の様に国民に慮る故に 政府が弱く、政府が責任ある政治を進めることができない状況が起きているから、政治家の身分を安定的に保証して、責任ある政治に専念できるように配慮すべきではないだろうか。そのためには、首相や国会議員の任期を長くして、その間、身分を篤く保証することも検討に値するのではないだろうか。アメリカの大統領選出過程などは あまりにも 長く、現実的ではないのではないだろうか。多数の意見が広く表現できるのは良いが、無責任なムードのようなもの、世論で、 政治が歪められやすい状況について、警戒を要するのではないだろうか。 次の危惧を参照(再生核研究所声明 33: 民主主義と衆愚政治)。
以 上
再生核研究所声明 33 (2010/04/02): 民主主義と衆愚政治
民主主義( : 諸個人の意思の集合をもって物事を決める意思決定の原則・政治体制 ― 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 )の在りよう、 特に一般選挙で代表者を選出する方法、及び多数決で決定する方法 について考察し、問題点を露にし、より良い政治、決定が行われるように注意を喚起したい。
まず、このような方法をとる原理は、重要決定について 関係者がすべて平等に固有なる権利を有するから、その固有の権利の行使として、一般選挙を行い、選出された代表者も同じような考え方から、多数で決定すること、及びそのような過程、方式で多くの意見を基に討論して、みんなで決定する考え方である。この際、少数意見でも適切な意見である可能性があるから、それらを尊重して議論し、最終的には多数決で決定する(少数意見の尊重)というところも 民主主義の重要な点である。現在世界的に考えられている政治権力の決定方式である。それに対して、中国古代で考えられた いわゆる天子様による政治は、絶対権力を有する天子様が一部の人の意見を参考にして、決定していく方式であるが、多くの王政も日本の幕藩体制も大体同じような政治体制と考えられよう。これらの問題点は、権力者のいわば大義名分、すなわち、なぜ、天子や王や将軍が権力を有するのかという理由付けに難しい点がある。また、そのような権力者の決定に本質的な問題がある。しかしながら、そのような大義名分の問題があるものの、良き天子や王の下で、理想的な政治が行われた時代は 世界の各地で見出される。
民主主義の問題点は、まず、代表者の選出過程、重要事項の決定過程に 多くの労力を有し、時間と手間がかかることである。 そこで、多くの政治家、代表者は選出されるために膨大な労力を使い、本来の政治や仕事に取り組むためのエネルギーを費やしている。 また、有権者の支持を取り付けるために、構成員のためにならないようなことであっても、約束するような状況が多々起こり得る。 顕著な例として、日本国における膨大な借金と慢性的な財政赤字が挙げられよう。国民の支持を取り付けるために、必要ではあるが、課税を強化できない状況をもたらしている。このようなことを続ければ、国家破産を迎えるのは必然ではないだろうか。民主主義の失敗例に 日本国の場合が記録される可能性を有する ゆゆしき問題である。
民主主義の問題点は、投票者が 代表者の行使する行動について、良く理解できず、適切な代表者の選出ができず、いわば考えている代表者とあべこべの代表者を選出する可能性が 高いという、事実にある。 また、代表者の本来の要務以外の能力で、たとえば感じがいいから等で、代表者を選出しがちである。また、候補者に名演説などで いわば騙されてしまうことなどは、よく有りがちである。しかしながら、選んだのであるから、それは選出者の責任であるという観点は 良く理解できる大義名分である。
みんなで、選出し、みんなで決めたことであるから、如何なる決定でも納得できるは 確かに大事な大義名分であるが、これを誤解すると何でも多数をそろえて、いわば多数の力で、政治その他を推し進めようとなりがちな弊害を生むことになる。多くの会議で、多数決で議事を決定する際、投票者が議事に対する理解と公正な判断能力を有しないために 言わば数の結果で悪い決定がなされるのが むしろ多いのが現状であろう。これは原理的にも本質的にそうなる傾向がある。一般に良いものから順に並べれば、多数の決定とは 中間くらいの決定になるのが世の法則だからである。多数による決定とは 決定の便法であり、適切とか、公正とが、正しいという種のものではないことに留意しておく必要がある。( 数学のゼミナールで討論すれば、議論している数学の結果に対する真偽を多数決で決めるのは 何の意味もなく、誰が真実を述べているかによって、自ずから客観的に決定するのとは大きな違いがある。)
さらに、難しい問題を多数の人が理解できるか、判断できるかという観点も大事である。 沖縄返還に伴う外交問題で、いろいろ密約をしていた状況が露になったが、状況を露にすると国民の反対が出て外交がうまく行かないという、高度な政治判断が行なわれたのは顕著な例である。 憲法改正や、国防の在りようなども同じように難しい問題がある。それらを素人の多くの国民に判断を求めるのは 逆に無責任で、危険であるという面も有する。
次の時代には、より進んだ政治体制が考えられなければならないが、当分は適切に適用できる方法が現実的に見当たらないから、現状の体制を維持するとして、民主主義の弊害を少なくするために、具体的に運用の在りようについて提案したい:
1)いわゆる代表者の選挙については、 選挙の広報をきちんと行うのは当然であるが、 投票しない権利を明確に認め、いわゆる投票率を上げるような行動は慎むこと。 これは投票に興味と関心を有する人に参加して頂き、興味や関心を持たない人に無理に投票しても貰うのは 無責任につながりかねないからである。特に政治や社会に関心のない人への勧誘による投票は慎むべきである。投票の案内は当然であるが、投票しましょうという勧誘は良くないと考える。これは、いわば真面目な投票人による選挙を意図していて、いわば無責任な人の投票を排除しようとする意図があることを肯定するものである。( 高校時代の世界史の 尊敬する先生の 授業中に述べられた ひっとした言葉が 今鮮やかに蘇り、ここに成文化したい: 私は、よくよく考えて 1票を投じているのに、よく考えないで投票する人と 同じ1票かと思うと 考えてしまう という嘆きの言葉です。)。
2)代表者の身分が民主主義ゆえに不安定では 責任ある政治を行うことができないから、在任中は特に厚く身分を保証して 本務に専念できるように配慮すること。
3)代表者は 広い視点に立って、自分の立場より、公の立場を優先させて考え、評価については 近視眼的ではなくて、歴史的な評価を大事にすること。
4)代表者の投票者(有権者)は 日ごろ研鑽を行い、投票に責任が負えるように努力すること。
5)特に 代表者の選出過程や代表者の立場が、マスコミの影響を受け易いのが、民主主義の特徴であるから、マスコミ関係者は 高い見識を持つように 特に努力して 次の報道の5原則にいつも留意すること:
(2010年01月31日)
原則1「推定無罪の原則」
…….(最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと)
原則2「公正な報道」
…… (検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること))
原則3「人権を配慮した報道」
…….(他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること)
原則4「真実の報道」
……(自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること)
原則5「客観報道」
…… (問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること)
…….(最初から有罪であるよう印象づける報道はしないこと)
原則2「公正な報道」
…… (検察の発表だけをたれ流すのでなく巻き込まれた人や弁護人の考えを平等に報道すること))
原則3「人権を配慮した報道」
…….(他の先進国並みに捜査権の乱用を防ぐため、検察・警察の逮捕権、家宅捜索権の行使には、正当な理由があるかを取材、報道すること)
原則4「真実の報道」
……(自主取材は自主取材として、検察・警察の情報は、あくまでも検察・警察の情報である旨を明記すること)
原則5「客観報道」
…… (問題の歴史的経緯・背景、問題の全体構図、相関関係、別の視点などをきちんと報道すること)
みなさん、民主主義は何時でも衆愚政治 に陥り易いので、 衆愚政治に落ち入らないように努力して より良い社会を築いて行こうではありませんか。
以 上
注:
衆愚政治(しゅうぐせいじ、Ochlocracy)とは、多数の愚民による政治の意で、民主政を揶揄して用いられる言葉。有権者の大半が知的訓練を受けずに参政権を得ている状況で、その愚かさゆえに互いに譲り合い(互譲)や合意形成ができず、政策が停滞してしまったり、愚かな合意が得られたりする状況をさす。 また有権者がおのおののエゴイズムを追求して意思決定する政治状況を指す。知的訓練を受けない民が意思決定に参加することで、議論が低廻したり、扇動者の詭弁に誘導されて誤った意思決定をおこない、 誤った政策執行に至る場合などをさす。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えにもとづかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定をおこなうことで、コミュニティ全体が不利益をこうむる政治状況をさす。 また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことを合意することがある(アビリーンのパラドックス)。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」
格好良すぎるぞ。升田幸三!
格好良すぎるぞ。升田幸三!
名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫) [文庫]
升田 幸三 (著)
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