2017年4月27日木曜日

西洋思考と東洋思考、東洋的「無」・「空」とは何か

西洋思考と東洋思考、東洋的「無」・「空」とは何か

西洋思考と東洋思考の根本的違い・その影響、東洋的「無」・「空」とは何か。

 どうも最近世界を眺めていると、西洋の大航海時代以来、世界を席捲・支配してきた、西洋的思考・精神に、行き詰まり感・弊害が出てきたように思われる。例えば、人間中心主義・人口爆発・環境破壊・温暖化・強者のごり押し・資本主義の弊害・経済格差などである。
 そこで、その対極にある、東洋思想のその本質(「無(む)」とか「空(くう)」)を考え、その根本的考え方の相違が、人間の今後の生き方にどうゆう変化・修正の可能性があるかを、考えてみたい。

 まず、それぞれの認識論(自己や物質あるいは自分を取り巻く世界を、西欧・東洋はどのようにそれぞれ捉え考え・認識しているのか。その単純化した本質的・概略的考え方)を示してみたい。


西洋的認識論(二元論)
 考える自己・自我を認め、これを大前提とし、これに対する対立する対象を認める。自己と物そして物と物は、非連続・分断・分離され孤立・独立・独自に存在する。そして、自己・人間の欲望をそのまま肯定し、そのコントロール・抑制・制限は、他の自己・他人との欲望調整原理としてしか現れてこない。 自己と分離され独立した対象は、人間支配の対象で、それは客観的・合理的に観察・分析される。そしてこの科学の成果は、人間の欲望の為に最大限、応用・利用される。対象(自然)は、自己・人間の有利に人間の為にだけ、効率的に利用・応用・改良すべきものである。人間以外の自然は、考慮すべき意思も精神も無く、単なる物質的世界で、人間に利用されるのを待っているだけである。更に人間の間の競争も、ダーウィンの進化論が背景となり過度に強調され、適者生存(敗者・弱者の必然消滅。)・強者の自由を最大限認める。 
 西洋社会を主導し、最近まで世界を席捲・支配してきた西洋的基本的考え方は、単純化すると、結局こうゆう考え方だと思う。


東洋的認識論(一元論)(「無」とか「空」とか言われる認識論) 
 一方、前述の西洋的認識論に対し、インド・中国に昔からあって、今なお日本人の思想に潜在的な影響を与えている、東洋的認識論の「無」・「空」の思想・認識がある。 これは、自己・自我を消し・無くし、意識は自己を越え、全体と一体(一体不二)となる認識(一元論)である。(例えば、道元の「天地一体万物同根」。)自己・物(対象)は、対立的なものではなく、全体のそれぞれ一部であり、そして全体を一時的に代表している一時的な姿・集まり、仮の姿・現象・相・影に過ぎない。そしてそれぞれは価値的にも平等である。特定のものに価値があり、他のものに価値がないということも無く、美も醜も無く、人間もその他のものも皆平等である。分離・乖離・独立・孤立・非連続なものではなく、全ては一体をなし連続的なものである。(しかし、この「自己・物」という一応の「くくり・縛り・集合体」は、全てにおいて完全に全体と同じで特徴がないかというと、そうではない。全体との関連性において、その「機能・はたらき・作用・役割」としては、それぞれ異なった特徴をもっている。だからこそ、固有に名前がつけられ、概念がある。名前は、ある瞬間の相・状態のネーミングで、不変・確定・固定的に存在するもののネーミングではない。)そして、「自己・物」、一応の「くくり・縛り・集合体」は、一時的一応のもので、確固・普遍・不変なものではなく(この身を形成する・形作る物質も常に入れ変わっている。)、常にその「くくり」は変化するものである。(確定不変と錯覚し、囚われ固執することが、人間の苦しみの原因であると考える。他人・他の生き物の死・自己の死は、これまた当然の事・歴然とした事実として起こる事で、受け入れるも受け入れないも無いことで、今あるこの意識・認識もなくなってしまうこともこれまた当然で、今から恐怖心を持たず・不安がらず・妄想する必要なく、時が来ればすっと死んでしまえば良い、そしてそのことについて今は凛とした覚悟・決意をすればよいだけの話である。至極単純・簡単な話である。それだからこそ、今を大切にしよう、出会いを大切にしよう、ということが出てくる。「一期一会」などと、ありきたりに抽象的に言葉だけで言ってしまうと、上滑りし、事実の重みを見逃してしまう。)
 
 このようなイメージ・理解が、「無」・「空」の自己を含めた世界認識である。

 この様な「無」・「空」が、東洋では、昔から言われているのであるが、普通・一般の人がなかなかイメージ・理解できない理由「物質・形を持ったもの」が空気中・生活空間の中で、他と別々・孤立・独立に存在している様に見え、とても一体・全体と不可分と見えないこと、②自己を含めた物質の変化の速度が、多くの場合、人間の普通の時間感覚では遅くあたかも静止・確定・固定・不変に見え、錯覚・幻覚する為であろう。年を取ってくると自己の経験から、物事は変化するもので永遠・不変・固定・確定的なものは無いということが、実感として分かってくるが、それでも変化の速度は遅く、不変・固定の錯覚に囚われてしまう。宇宙時間では、人間・物質のある期間の存在・消滅など、それこそ一瞬の出来事に過ぎないであるが。
  「般若心経」を何回読んでもまた何回解説書を見ても、そこに書かれている「空(くう)」が、何かしっくり来ない、分かった様な・分からない様な、ストレスのたまった・もやもやとした気持ちになるのが、大部分の人ではなかろうか。
 「般若心経」に書かかれてある内容が、はっきり・すっきり理解でき、書かれている内容が具体的・明確にイメージでき、“何だ、当たり前のことではないか”、と思える人は少ないと思う。また、「」についても、当面・目先の「食う」ことに忙しく、財布の足しにならない、「空」など考えている暇も無い、という人も多いのではないかとも思う。  

 イメージしやすいように2つの例を挙げてみたい。「大海の中の波・うねり」と今や誰もが目にするようになった「液晶内の液晶表示」である。

「大海の中の波・うねり」のたとえについて
 大海の波・うねりを見てみる。波・うねりの頂点は、ほんの一瞬で、また元の海に帰ってしまい、また別の波・うねりを形成する。(変化の時間が速く、常に変化し続けているので、不変・固定でないことが容易に理解できる。)しかも波・うねりは、海と別個のものではなく、不可一体海の一部で、海のある時点の一側面、現象・相である。波・うねり自体を海から分離して捕まえようとしても、それは出来ない。しかし、波・うねり自体には、海全体には無い、例えば乗っている船を揺らすとかの個々独自の作用・機能・全体と違った特徴がある。(海と波・うねりの関係は、その一体不可分性、全体の一部・代表・現象・相、現象・相の機能・役割、現象・相が不変・固定でなく短時間の内に常に変化・別のものになることを、よく表している。)
 
「液晶内の液晶」のたとえについて。
 更にもう一つ。今や日常生活に欠かせなくなった、コンピューター・液晶テレビ・携帯電話に、「液晶」が使われている。液晶に特定の電圧を加えて、液晶内の分子配列が規則的に変化あるいは規則性を壊し、それによって、背後からの光の透視度が変わり、形・像を結ぶ。液晶内の分子量・全体は、増えもせず減りもせず全体は何も変わらない。ただ分子の集まり状態・「くくり」・「集合状態」が変化しただけ、現象・相が変化しただけである。液晶内で内容に変化が無く一体であることは、容易に理解でき、その上時間的に瞬時に他の現象・相・形・像に変化するので、液晶上に出来た、形・像に、固定・不変・永久の固定概念・固定イメージを抱く者は少ない、と思う。(液晶内の形・像は、独自・全体と分離して別個に存在するわけではなく、全体と不可分一体と理解でき、またその一部が集まり独自の役割機能を果たすこと、それぞれの形・像は不変・固定・確定でなく、瞬時に消滅しまたすぐに別の集まり・集合を形成していく、ということが容易に理解・イメージできる。)  

 これらのイメージを広げて、この我々が生存する「この空気中の空間」も、「原子の海」とイメージする。(分子は分解され原子となり、別個の分子となり別個の物質を構成するが、原子を通常壊すのは容易ではない為、通常原子を基本要素と考えて良いと思う。そして、この空気中に原子が溢れている。この空気中の原子の海は、生活空間全てに及んでいる。真空中はとりあえず、考慮外とする。)
 そしてこの「原子の海」・空間においては、原子の総体では、同一一体でなんら変わることなく、たまたま現在の時点で、その一部が現象・相として、全体から分離せず、一応の「集まり」・「くくり」・「まとまり」として、特定の「自己」・「物質」として現れているのに過ぎない。(波・うねり、液晶の形・像と同じく。)時が経つと、やがて元の原子・もしくはより小さな分子の全体世界に戻り、また何らかの「くくり」・「まとまり」・「集団」として、別の現象・相として現れて行き、集合・離散、集合・離散を繰り返し、独自の作用を果たしていく。(その時は当然ながら、現在のこの自己認識・意識も無くなっているとは思うが。)
 更に別の比喩でいうと、もの・物質(自己も含めて)は、あたかも一時的に積み上げられた原子・分子の「積み木」で、やがて統一性・規則性・一体性を失って崩れ去り、元の原子・分子に戻りまた別のもの・物質を組成していく。もの・物質・我々も、このような原子・分子の海の中に居て、波のように形を作っては消え形を作っては消える世界に居る、ということである。そしてこれは、歴然たる事実で、個人が主観的にどう希望しようとどう思おうと変えようのないことである、ということになる。(その事の、自覚のある者が、覚者ということになろう。)

 この様にイメージすれば良いと思う。(「」・「液晶」の比喩と、現実世界の「原子の海」のイメージで多少異なるのは、「海」・「液晶」の比喩では、分子がそのまま波・うねり、形・相・像を形成するのに対し、現実世界の「原子の海」では、原子が分子を形成し物質を形成しているという、ワンクッションあることである。そして、この分子はまた原子に解体されあるいは小さい分子となり、再度別の分子に組み立てられ、別個のものを形成し、相・現象を表象する、ということである。)

 しかし、このように言うと、個人は全体に埋没してしまって、積極的意味はない・人間の個の努力は意味がない、と思う人もいるかも知れない。しかし、前に述べたように、個は全体の一部で分離・独立・遊離・非連続なものでなく、連続的なものであるが、個々の「まとまり」ごとに、それぞれ独自の役割・機能は依然としてある。これを否定するものではない。個の活動が、エゴの追求(西洋思想ではこの危険が非常に大きい。)にならない、全体との調和の中で、如何に行動するかの問題は、東洋思想の中でも、依然としてある。西洋思想の下では、「自己を越えた何かの為に」を考えるより、自己の利益を如何に最大限に図るかのみを考え、その弊害が人間の影響力が大きくなってきて、特に問題になってきたように思う。

 この様に、「無」・「空」を考えれば、理解・イメージが容易になると思う 
 また、この二元論(西洋思考)と一元論(東洋思考)の差は、言葉を使って考える、英語と日本語の思考様式にも、(古代インド・古代中国はいざ知らず)現れているのではないか、と思う。

 英語は、何が誰が(主語)・どうする(動詞)・何を(目的語)と、まず主語をたてて考える。(例外的に、There is(are) の状況説明文もあるが。)
 これに対し、日本語は、主語が無いと外国人によく言われる。これは、日本人は無意識に、個は全体と繋がっている個は全体を代表している、とりたてて主語を言うことは、特定のものを強調しすぎ、奇妙な感じ・違和感があり、表現としては、主語のない状況説明的なものになって、日本語の表現文化様式として定着してしまった、といえるのではなかろうか。(「我」が消え、個と全体が一体となった世界では、個が(を)述べることは、全体を述べること、「我」に囚われるのは、無粋・野暮・無教養・素養の無さの現われ、と東洋思想を無意識に知っている者は、思うのではなかろうか。)

 更に、日本語に習熟した日本人は、英語を使うとき、冠詞の使い方が不得意といわれる。英語では、「もの」に形・まとまり・輪郭があるかないかでまず区別(冠詞を使う)し、形・まとまりのあるもので、特定のものに「定冠詞」を、それ以外に不定冠詞を使う。(潜在意識・思考の中で)個々のものは、全体の一部ではないか、明確に区別できるのか、と考えるとなかなか「冠詞」は使えるようにはならない。

 また、外国人に、「日本語には、名詞の単数形と複数形が無い。」とも言われる。これも、東洋的一元的世界観の影響が、潜在思考の働きに影響し、「もの」個々別々に区別しない・分けて考えない、とういう東洋思考のあらわれの一つだ、と考える事は出来ないであろうか。(普通の人はそこまで意識していないであろうが。)
 更に、日本語は、言葉の概念が曖昧で、明確に概念定義を考え分類し考えを論理的に深めていく、ということが無く、「~のような」・「~みたいな」・「~な感じの」というようなぼんやり曖昧な状況説明か感覚・感情表現が多い、とも言われる。日本人でも、理系の人の中に、むしろ英語で考えていったほうが、分析的・論理思考的に楽だ、という人もいる。これも、東洋思考の言語に現れた現象といえるのではなかろうか。

西洋考え方認識の影響
  
 自己と対象を明確に分離し、対象を客観的・理性的・合理的・論理的・分析的に観察し、特徴を応用・利用する科学の発達が発達した。これにより、産業革命以降、人間は肉体労働から解放され、人間の生活に便利なものが続々登場し、人間は便利な生活を送れるようになった。反面人間中心主義で、他の物言わぬ・言えぬ動植物・自然への配慮が欠け、人間利用の為の動植物・自然となり、動植物の絶滅・人間の自然支配・自然破壊・環境破壊、人口の異常増加をもたらしている。これが人間その他の生き物の本来の生を全うする生き方・自然の中で生かされている生き物の生き方の障害になっているのではないか。また人間の利己心・自己利益・欲望・快楽の追求の為の、際限なき動物・植物その他のものの利用・消費・浪費現象。人間の欲望の肥大化・資本主義(有限財貨の効率利用のメリットはあるが。)強調で、適者生存(敗者必然消滅)強者・勝者の自由の過度の強調(自由競争といってもその前提たるスタートラインに能力・生まれた環境・その後の環境の面で立てないものも大勢いる。また自然界には適者生存以外の原理もあると思われる。調和・共生・棲み分け精神の欠如。)で、大多数の人間を含めた生き物に非常に住みにくい世界にしてしまっているのではないか。経済的自由競争の世界に全ての人を巻き込み、経済・貨幣価値では計れない価値にしたがって生きる人や経済的利益の追求はそこそこでいいという価値観を持っている人の生存を危うくしている、のではないか。(経済的価値の追求が人間の価値の追求の全てではない、と考えている人も多い。)極端な経済格差、多くの人が食べることのみに時間を奪われている状況(ごく一部の特権階級と大多数の隷属状態の人々)、自己の都合のいいように勝手に解釈した人間本位・自己本位の一神教の存在、しかもその宗教の他者への押し付け。全体調和・自然の中のごく一部の人間ということから、あまりにもかけ離れすぎているのではないか。

東洋考え方認識の影響で考えられること。

 東洋思想は、自己・対象・世界は、全て一体・同じ事の一元論である。自己事は自然事、自然事は自己事で、別の事ではない。その為、あまり自己とか人間の立場に執着・固執しない。全ての存在(自己を含めて)は、やがて消滅・滅んでしまう運命との凛とした自覚・認識があり、今ある存在は、やがては消えていく、かけがえの無い愛おしい存在との意識、そして全ての生きとし生ける物の生(せい)のはかなさへの悲しみ・いとおしみ・めぐり合えたうれしさ・慈悲心が生じる。また、自己・人間は、自然の一部なので、自然との調和を図ろうとする。自然・植物・他の動物は、皆この世のわけ隔てない仲間との感覚がある。(敵対・無関係・支配の対象ではない。ペットを飼っている人は、この感覚が分かると思う。)人権だけでなく他の物言わぬ・物言えぬ生き物(動植物)の生存への配慮へも気を配ろうとする。人間の欲望のコントロールをし、人間の生存に最低限の他の「生(せい)」の利用にとどめ、その利用の場合も、感謝と供養を心がける。人間の分際を知り、「もっともっと」でなく「足るを知る」を心がける。全体の中の自分を知り心がけ、人間だけが価値的に優れていて、他のものの優位に立つという優越的・差別的考えも生まれない。自己は全体の一時的な自己限定的現象・自然の一部を一時的に集めた現象・相で、刻々変化しまた全体自然に帰っていく存在で、自分・他の存在・自然を大切にしようとする考え方が生まれる。
 更に、概念・言葉以前の世界を知っており、勝手に概念を作り出し、持ち出し、ああでもないこうでもないと、意識のある間じゅう考え・もがき・苦しむ事のおろかさを知り、妄想・幻想しない、物事に固執しない・拘らない(全ての不幸は、そこに起因する」ということを心得ている。)という、こころの持ちように関する知恵を身に付けている。(東洋的教養人では、このようなこころの知恵・こころのしなやかさを身に付けていることが、 理想となる。)


 この様な、基本的考え方から、個々具体的な各論現象・場面で、各人がどう考え・どう行動するかは、各人が考えることであり、かつ考え行動できる力を持った人間のみの特権である。
とても興味深く読みました:

再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え
                             
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。

と述べた。

ゼロ除算は 無限遠点無限)が 実はゼロ点ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。

ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。

以 上

ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・


地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????

1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????

再生核研究所声明297(2016.05.19) 豊かなゼロ、空の世界、隠れた未知の世界

ゼロ除算の研究を進めているが、微分方程式のある項を落とした場合の解と落とす前の解を結び付ける具体的な方法として、ゼロ除算の解析の具体的な応用がある事が分かった。この事実は、広く世の現象として、面白い視点に気づかせたので、普遍的な現象として、生きた形で表現したい。
ある項を落とした微分方程式とは、逆に言えば、与えられた微分方程式はさらに 複雑な微分方程式において、沢山の項を落として考えられた簡略の微分方程式であると考えられる。どのくらいの項を落としたかと考えれば、限りない項が存在して、殆どがゼロとして消された微分方程式であると見なせる。この意味で、ゼロの世界は限りなく広がっていると考えられる。
消された見えない世界は ゼロの世界、空、ある隠された世界として、無限に存在していると考えられる。たまたま、現れた項が 表現する物理現象を記述していると言える。
これは、地球に繁茂する動植物が、大海や大地から、生まれては、それらに回帰する現象と同様と言える。大量に発生した卵の極一部がそれぞれの生物に成長して、やがて元の世界に戻り、豊かな大海や大地は生命の存在の元、隠れた存在の大いなる世界であると考えられる。無数の生命の発生と回帰した世界の様は 生物、生体の様の変化は捉えられても、人間の精神活用や生命の生命活動の様の精しい様などは 殆ど何も分からない存在であると言える。我々の認知した世界と発生して来た世界と消えて行った認知できない世界である。
このような視点で、人間にとって最も大事なことは 何だろうか。それは、個々の人間も、人類も 大きな存在の中の小さな存在であることを先ず自覚して、背後に存在する大いなる基礎、環境に畏敬の念を抱き、謙虚さを保つことではないだろうか。この視点では日本古来の神道の精神こそ、宗教の原点として大事では ないだろうか。未知なる自然に対する畏敬の念である。実際、日本でも、世界各地でも人工物を建設するとき、神事を行い、神の許しを求めてきたものである。その心は大いなる存在と人間の調和を志向する意味で人間存在の原理ではないだろうか。それはそもそも 原罪の概念そのものであると言える。
しかしながら、人類が好きなように生きたいも道理であり、巨大都市を建設して、環境を汚染して生存を享受したいも道理であるから、それらの一面も否定できず、それは結局全体的な有り様の中でのバランスの問題ではないだろうか。人類の進化の面には必然的に人類絶滅の要素が内在していると考えられる:

再生核研究所声明 144(2013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である

 そこで、結局は全体的な調和、バランスの問題である:

再生核研究所声明 56: アースデイ の理念

発想における最も大事なことに触れたが、表現したかった元を回想したい。― それは存在と非存在の間の微妙な有り様と非存在の認知できない限りない世界に想いを致す心情そのものであった。無数とも言える人間の想いはどこに消えて行ったのだろうか。先も分からず、由来も分からない。世の中は雲のような存在であると言える。
以 上

0 件のコメント:

コメントを投稿