「論理」が「体力」を凌駕する!あの「数学屋さ ん」シリーズ作者が描く、新感覚の“理詰め”剣道小説『ショダチ!』
竹刀に全身全霊を込め、一瞬の時を裂く。剣道の魅力は、体力の有無が勝敗を決めるわけではないということだろう。町道場などを覗けば、男女が交ざって稽古をするのは当たり前。それどころか、老いも若きも勝敗を決める要素にはならない。すべての人が平等に戦えるのが、剣道なのだ。
そんな剣道の魅力を新しい側面から描き出した小説がある。4月5日に発売された向井湘吾さんの『ショダチ! 藤沢神 明高校 でこぼこ剣士会』(ポプラ社)は剣士たちのまっすぐな想いが胸を打つ青春スポーツ小説。向井さんといえば、「数学屋さん」シリーズ、「トリプル・ゼロの算数事件簿」シリーズなど、「数学」「理系」をテーマとした小説で知られるが、今回、舞台となったのは、ある高校の剣道同好会。向井氏自身の剣道経験をもとに、知力・論理力で剣道に向き合う主人公を描き出すことで、今までどの小説でも描けていなかった、剣道の新しい側面が照らし出されていく。
主人公は、中学時代に起きた“ある出来事”をきっかけに、大好きだった剣道から離れた、貧弱男子高校生・慧一。趣味のパズルに没頭する日々を過ごしていた慧一は、ある日突然、隻腕の同級生・龍心に声をかけられ、「でこぼこ剣士会」なる剣道同好会への強引な勧誘を受ける。
片腕というハンデを負いながらも、そのハンデをもろともしない剣道をする龍心。「自分は、剣道には向いていない」と思い、剣道への思いから目を背けてきた慧一だったが、どんな個性も受けいれるという「でこぼこ剣士会」に次第に惹かれていく。
同好会のメンバーは、類まれなる瞬発力を持ちながらも、ペース配分ができず、すぐにバテてしまう中本や極度のアガリ症の柴崎など、はたから見れば問題児ばかりの6人。この同好会のなかで、慧一は、本当の強さを手に入れることができるのか。本当の強さとは何なのだろうか。
誰にだって、長所があれば、短所もある。欠けている部分を他の人の出っ張った個性で補ってこそ、強いチームは生まれる。長所も短所も活かそうという「でこぼこ剣士会」のなかで、慧一は自分の弱さと向き合い、論理という強みを実感する。まるで将棋やチェスのように次の一手を考え抜く剣道をする慧一。個の力。チームの力。ライバルの存在…。今まで知らなかった剣道のおもしろさがぎゅっと詰まった新感覚の“理詰め”剣道小説は、今まさに青春時代を過ごしている人、そして、かつて青春時代を過ごした人、すべての心を打つに違いない。
文=アサトーミナミ
興味深く読みました:
再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは, 視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 362: Discovery of the division by zero as \\
$0/0=1/0=z/0=0$\\
(2017.5.5)}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
Kawauchi-cho, 5-1648-16,\\
Kiryu 376-0041, Japan\\
}
\date{\today}
\maketitle
{\bf Statement: } The Institute of Reproducing Kernels declares that the division by zero was discovered as $0/0=1/0=z/0=0$ in a natural sense on 2014.2.2. The result shows a new basic idea on the universe and space since Aristotelēs (BC384 - BC322) and Euclid (BC 3 Century - ), and the division by zero is since Brahmagupta (598 - 668 ?).
In particular, Brahmagupta defined as $0/0=0$ in Brāhmasphuṭasiddhānta (628), however, our world history stated that his definition $0/0=0$ is wrong over 1300 years, but, we will see that his definition is suitable.
For the details, see the references and the site: http://okmr.yamatoblog.net/
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. {\bf 27} (2014), no 2, pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{msy}
H. Michiwaki, S. Saitoh, and M.Yamada,
Reality of the division by zero $z/0=0$. IJAPM International J. of Applied Physics and Math. {\bf 6}(2015), 1--8. http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
\bibitem{ms}
T. Matsuura and S. Saitoh,
Matrices and division by zero $z/0=0$, Advances in Linear Algebra
\& Matrix Theory, 6 (2016), 51-58. http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007 http://www.scirp.org/journal/alamt
\bibitem{mos}
H. Michiwaki, H. Okumura, and S. Saitoh,
Division by Zero $z/0 = 0$ in Euclidean Spaces.
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
\bibitem{osm}
H. Okumura, S. Saitoh and T. Matsuura, Relations of $0$ and $\infty$,
Journal of Technology and Social Science (JTSS), 1(2017), 70-77.
\bibitem{romig}
H. G. Romig, Discussions: Early History of Division by Zero,
American Mathematical Monthly, Vol. 31, No. 8. (Oct., 1924), pp. 387-389.
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. {\bf 4} (2014), no. 2, 87--95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{s16}
S. Saitoh, A reproducing kernel theory with some general applications,
Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and Applications - Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China, Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, {\bf 177}(2016), 151-182 (Springer).
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operations on the real and complex fields, Tokyo Journal of Mathematics, {\bf 38}(2015), no. 2, 369-380.
\bibitem{ann179}
Announcement 179 (2014.8.30): Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics.
\bibitem{ann185}
Announcement 185 (2014.10.22): The importance of the division by zero $z/0=0$.
\bibitem{ann237}
Announcement 237 (2015.6.18): A reality of the division by zero $z/0=0$ by geometrical optics.
\bibitem{ann246}
Announcement 246 (2015.9.17): An interpretation of the division by zero $1/0=0$ by the gradients of lines.
\bibitem{ann247}
Announcement 247 (2015.9.22): The gradient of y-axis is zero and $\tan (\pi/2) =0$ by the division by zero $1/0=0$.
\bibitem{ann250}
Announcement 250 (2015.10.20): What are numbers? - the Yamada field containing the division by zero $z/0=0$.
\bibitem{ann252}
Announcement 252 (2015.11.1): Circles and
curvature - an interpretation by Mr.
Hiroshi Michiwaki of the division by
zero $r/0 = 0$.
\bibitem{ann281}
Announcement 281 (2016.2.1): The importance of the division by zero $z/0=0$.
\bibitem{ann282}
Announcement 282 (2016.2.2): The Division by Zero $z/0=0$ on the Second Birthday.
\bibitem{ann293}
Announcement 293 (2016.3.27): Parallel lines on the Euclidean plane from the viewpoint of division by zero 1/0=0.
\bibitem{ann300}
Announcement 300 (2016.05.22): New challenges on the division by zero z/0=0.
\bibitem{ann326}
Announcement 326 (2016.10.17): The division by zero z/0=0 - its impact to human beings through education and research.
\bibitem{ann352}
Announcement 352(2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0.
\bibitem{ann354}
Announcement 354(2017.2.8): What are $n = 2,1,0$ regular polygons inscribed in a disc? -- relations of $0$ and infinity.
\end{thebibliography}
\end{document}
0 件のコメント:
コメントを投稿