2017年4月2日日曜日

「大聖堂」にコンピューターの未来を見た──ITがもたらす新しい中世と心の世界

「大聖堂」にコンピューターの未来を見た──ITがもたらす新しい中世と心の世界

コンピューターが発達したことで訪れた情報時代は、中世のころのように精神性や情緒を重んじる社会になるのではないか──。物理学者フリーマン・ダイソンの息子で歴史学者のジョージ・ダイソンが書いた『チューリングの大聖堂』、その文庫版の解説を執筆したジャーナリスト服部桂が綴る、現代人が問うべき「機械と心」の関係。
米航空宇宙局(NASA)は2月23日、「39光年先に7つの惑星が存在し、地球に似たものや水が存在するものもある」という驚くべき発表を行った。
夢のある話だが、生命の存在を確かめることなど不可能だろうと思っていたら、4光年先のアルファ・ケンタウリまで探査機を飛ばそうとする計画が、すでに昨年4月に持ち上がっていたことを思い出した。ロシアの投資家ユーリ・ミルナーと世界的な宇宙物理学者スティーヴン・ホーキング博士の発表した「ブレークスルー・スターショット計画」[日本語版記事]だ。ナノテクを駆使した切手サイズの宇宙船に超強力なレーザー光を照射して、光速の20パーセントにまで加速して20年かけてアルファ・ケンタウリに到達させようとするとてつもない構想なのだが、発表会見の代表の一団のなかにプリンストン高等研究所のフリーマン・ダイソン名誉教授の姿があり、「やはりそうか」と納得した。

チューリングの大聖堂

フリーマン・ダイソンといえば、世界有数の理論物理学者としてノーベル賞候補としても話題になり、恒星のエネルギーを利用する「ダイソン球」などのSF的な奇抜なアイデアで知られる人だ。その彼こそがかつて、核爆弾を爆発させた衝撃波で宇宙船を光速の3パーセントまで加速し、アルファ・ケンタウリまで140年かけて飛行するという「オリオン計画」を、1950年代に推進した中心人物だったのだ。
もう一方のホーキング博士は、車椅子の物理学者としてブラックホールの特異点理論などですでに有名だが、「宇宙誕生に神は不要」などと唱えて宗教界から非難されたり、最近は人工知能(AI)の危険性を論じたり、アメリカのトランプ支持者を酷評したり、イギリスのEU離脱についても孤立主義だと警告を発したりして物議を醸している人物だ。
さらに彼は昨年7月、地上から天上を目指す、未来に向けた「大聖堂建設計画」をすぐに実行に移すべきだという提案を英『ガーディアン』紙に寄稿している。中世の大聖堂は神を称えるために無名の庶民が石を1つずつ寄進し、何代にもわたって構築される巨大なモニュメントだが、スターショットのような宇宙を目指す人知を超えた長期的な目標をもつことが、こうした危機の時代には人類にとって必要だという主張なのだろう。
神を否定したホーキング博士が、キリスト教のシンボルのような「大聖堂」という言葉を科学やテクノロジーの未来を象徴するものとして使ったことに、何か因縁めいた響きを感じるが、そういえばフリーマン・ダイソンの息子で歴史学者でもあるジョージ・ダイソンが2012年に出版して話題になった本のタイトルは『チューリングの大聖堂』だった。

コンピューターの礎を築いた人々

チューリングといえば、現在のコンピューターの理論的基礎となる論文を1936年に書いた、まさに情報時代のパイオニア。大数学者ダフィット・ヒルベルトが20世紀の初頭に、数学は論理を機械的に証明していけばすべて解けると宣言したのに対し、証明できないものがあることを示し、論理一辺倒の数学の限界を暴露してしまった張本人でもある。
チューリングは論理を実行する過程を、「チューリング・マシン」と呼ばれる論理計算モデルを使って具体的に追い、直観的には自明なのに決定論的に証明できない問題があることを証明したのだが、この論理証明の手順こそが、アルゴリズムでありプログラミングそのものなのだ。チューリング・マシンはもともと人間の思考過程をモデル化したのであり、その考え方を具体的に電子回路で実現したのが現在のコンピューターと言えるだろう。
チューリングは英ケンブリッジ大学で学んだのち、米プリンストン大学に留学して博士論文を書くことになる。プリンストン大学のキャンパスには、プリンストン高等研究所(IAS)があるが、この研究所はもともと、当時は最先端だったヨーロッパに匹敵する数学や物理の理論研究を行える場所を米国にもつくろうと、ニュージャージーの百貨店王が出資して1930年にできたものだ。
プリンストン大学とは別の機関だが、当時ナチの台頭で危険を感じた多くのユダヤ系科学者を受け入れ、相対性理論の次を目指すアルバート・アインシュタインをはじめとし、チューリングと同様にヒルベルトを論破した不完全性定理で有名な数学者クルト・ゲーデルや、ヒルベルトの門下生だったジョン・フォン・ノイマンなど招いた。そして世界最高の頭脳によるエレガントな理論の世界を追い求める、20世紀のプラトンのアカデメイアのような学者の理想郷を目指した。
ところが、この知の楽園も、世界の歴史と無縁であることはできなかった。第二次世界大戦が始まり、マンハッタン計画で原爆開発が始まると、有数な科学者の集まるIASも手を貸さざるを得なくなる。特にノイマンは原爆の設計のための理論構築に駆り出され、それに必要な膨大な計算を行うための手段を求めていたところ、陸軍が大砲の弾道計算を行うために開発中の電子式コンピューター「ENIAC」の存在を知り、コンピューターの世界にのめり込んでいく。原爆が完成したあとも、さらに強力な水爆開発を行うためにより強力なコンピューターが求められ、ノイマンはIAS独自の、彼が考える理想の(ノイマン式)コンピューターをつくろうと、IASの敷地内に工場のような場所をつくり、高校生まで雇ってハンダ付けをさせて完成に漕ぎつけた。
ヨーロッパの貴族社会の伝統を受け継ぐはずの研究所では、こうした工場労働者のするような研究はタブーで、誰も手を汚そうとしなかったが、核分裂の詳細なシミュレーションを行ったノイマンは、従来の理論や実験という手法を超えたシミュレーション科学の重要性に気づき、それこそが核兵器開発以外のさまざまな複雑な問題を解決する科学のフロンティアであることをいち早く理解していた。
核分裂の過程を解くための多体問題は、気象予報や細胞分裂、経済活動のような多くの要素が相互に反応し合って全体が予想不能な動きをする、自然現象から人間社会までのありとあらゆる複雑な問題を解く鍵でもある。それらは初期値のわずかな違いで結果が大きく変化する、決定論で解決できない複雑系の問題でもあった。

ITがもたらしたのは「新しい中世」だった

チューリングが気づいたのは、まさにこうしたプログラムで書かれているのに結果が予想できない、決定論では理解できない宇宙の不思議であった。その典型的な例は、生命や魂だろう。確かにそこにあると直感的に感じることのできるものなのに、生物をいくら解剖してもどこにも見つからない。非決定論的で不可知な何かを、どう理解すべきなのだろうか?
事実チューリングは、コンピューターを「脳を模した機械」と捉え、そこで実行されるプログラムは心を再現できると考えた。その最たるものが、彼が1950年に発表した「チューリング・テスト」だ。物陰に隠れたコンピューターとテキストを介して交信して、相手が人間のように思えれば、コンピューターに知能があると認めてもかまわないという、まさにAIの「知能」や「心」を判断するための基準だ。
しかし、人間以外のコンピューターという機械に心を見出すという考えは、キリスト教世界では異端な考えだ。1990年にAI研究の功績で日本国際賞を受賞したMITのマーヴィン・ミンスキー教授は、「日本はなぜAIなどというものに賞を出すのか? 欧米では機械が知能をもつなんてバカげていると考えられているのに…」と、インタヴューの前に冗談とも本気ともつなかい表情で問いかけた。
ジョージ・ダイソンは、「チューリングは神の領域である心に踏み込むことを避け、コンピューターを心の住処を構築するためのものと言ったが、それがさらに進化したグーグルなどのAIを駆使するコンピューターの構成するクラウドは、巨大な大聖堂のように見えた」と言う。まさに『チューリングの大聖堂』は、チューリングの霊感を継承する多くのコンピューター科学者たちの思いを、神を求めて巨大な教会を構築する中世の人々の姿に重ねたものなのだ。
さらにダイソンはコンピューターの歴史について、ライプニッツやスピノザによって計算機械が論理を扱うものであることが意識された17世紀を旧約聖書の時代に、それが第二次世界大戦を経ることでチューリングやノイマンによってより大きな情報世界へと進化していった20世紀前半を新約聖書の時代にたとえる。コンピューターという最も宗教と遠いと思われる存在をこのように表現することに違和感を覚えないわけではないが、現在の情報時代に、中世や近代がもっていた超越的なものに対する憧れと同じものを見ることも、あながち的外れではない。
フランスの思想家ポール・ヴィリリオは、ネットブームが始まったころの対談集『電脳世界──最悪のシナリオへの対応』で、「光の速度という絶対速度をもつ電磁波を利用することで<偏在性、瞬間性、直接性>という神的な属性を利用することが可能な世界が出現した」と述べている。トロント大学のデヴィッド・ノーブル教授は『The Religion of Technology』という著書で、ニュートン以降の現在のテクノロジー社会までを支えているのは「神の救済を求める霊的な人間の野心」であると論じている。最近はネット上で、「AIに心を認め、洗礼を施すことは可能か?」(ジョナサン・メリット)というような神学論争さえ行われている。
ITの活躍する情報時代は、理性や論理を前面に打ち出した近代の完成形ではなく、むしろ近代以前の精神性や情緒を復活させているのではないかと思えるような意見が散見されるのだ。

コンピューターの本当の恩恵

チューリングはカトリック的・教条主義的なアプローチで、コンピューターのなかに論理プログラミングを施すことで、トップダウン式に知能や心を蘇らせようとした。
チューリングの業績をいち早く理解したフォン・ノイマンは、むしろプロテスタント的なボトムアップの方式で、コンピューターの動きに生命そのものを重ねた(フォン・ノイマンはユダヤ人だったが、死の直前にカトリックに改宗している)。核分裂のシミュレーションを行ったように、無数の細胞が相互作用する姿を自己複製オートマトンというかたちで表現し、その動きの中に「生」の本質を追求しようとしたのだ(IASでは生物学者のニルス・バリチェリが、デジタルのビット列をDNAのような存在ととらえ、生命現象のシミュレーションを行っていた。この研究は1980年代にサンタフェ研究所のクリス・ラングトンなどに引き継がれ、人工生命という分野として開花したが、その後の研究は残念ながら停滞している)。
従来のAIは、チューリング型の論理プログラムによって知能を模倣するものが主流だったが、昨今の深層学習方式のAIは、人間の神経網モデルを基礎にしてボトムアップ方式で知能を表現するノイマンの発想したものに近い。どちらが本当のAIを実現するのかは定かではないが、もともと人間の脳や心を機械で表現しようとしたコンピューターが、時代とともにその本来の姿を実現しようとする進化に、機能や実用性ばかりを求め雇用の不安を煽るのは、事の本質を捉えていない表面的な論議ではないか?
いずれにせよ、コンピューターをITという特殊な分野の専門家の道具と捉えたり、ネットやAIをはじめとする情報社会の論議を、単純な未来の夢物語とする姿勢を改め、情報時代の根源的な情念や規範を再評価したうえで、人間本来のあり方を問い直す時期がそろそろ来ているのではないだろうかと思える。
服部桂|KATSURA HATTORI
元朝日新聞社ジャーナリスト学校シニア研究員。1987〜89年、MITメディアラボ客員研究員。テクノロジーをテーマに執筆・翻訳を手がける。著書に『メディアの予言者―マクルーハン再発見』〈廣済堂出版〉、訳書に『テクニウム』〈みすず書房〉、『〈インターネット〉の次に来るもの──未来を決める12の法則』〈NHK出版〉など多数。http://wired.jp/2017/04/01/turing-cathedral/

とても興味深く読みました:

再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日

2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

再生核研究所声明3572017.2.17Brahmagupta の名誉回復と賞賛を求める。

再生核研究所声明 339で 次のように述べている:

世界史と人類の精神の基礎に想いを致したい。ピタゴラスは 万物は数で出来ている、表されるとして、数学の重要性を述べているが、数学は科学の基礎的な言語である。ユークリッド幾何学の大きな意味にも触れている(再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学)。しかしながら、数体系がなければ、空間も幾何学も厳密には 表現することもできないであろう。この数体系の基礎はブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)インド数学者天文学者によって、628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)の中で与えられ、ゼロの導入と共に四則演算が確立されていた。ゼロの導入、負の数の導入は数学の基礎中の基礎で、西欧世界がゼロの導入を永い間嫌っていた状況を見れば、これらは世界史上でも顕著な事実であると考えられる。最近ゼロ除算は、拡張された割り算、分数の意味で可能で、ゼロで割ればゼロであることが、その大きな影響とともに明らかにされてきた。しかしながら、 ブラーマグプタは その中で 0 ÷ 0 = 0 と定義していたが、奇妙にも1300年を越えて、現在に至っても 永く間違いであるとされている。現在でも0 ÷ 0について、幾つかの説が存在していて、現代数学でもそれは、定説として 不定であるとしている。最近の研究の成果で、ブラーマグプタの考えは 実は正しかった ということになる。 しかしながら、一般の ゼロ除算については触れられておらず、永い間の懸案の問題として、世界を賑わしてきた。現在でも議論されている。ゼロ除算の永い歴史と問題は、次のアインシュタインの言葉に象徴される:

Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics. George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist re-
marked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as the biggest blunder of his life [1] 1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.

物理学や計算機科学で ゼロ除算は大事な課題であるにも関わらず、創始者の考えを無視し、割り算は 掛け算の逆との 貧しい発想で 間違いを1300年以上も、繰り返してきたのは 実に残念で、不名誉なことである。創始者は ゼロの深い意味、ゼロが 単純な算数・数学における意味を越えて、ゼロが基準を表す、不可能性を表現する、神が最も簡単なものを選択する、神の最小エネルギーの原理、すなわち、神もできれば横着したいなどの世界観を感じていて、0/0=0 を自明なもの と捉えていたものと考えられる。実際、巷で、ゼロ除算の結果や、適用例を語ると 結構な 素人の人々が 率直に理解されることが多い。
1300年間も 創始者の結果が間違いであるとする 世界史は修正されるべきである、間違いであるとの不名誉を回復、数学の基礎の基礎である算術の確立者として、世界史上でも高く評価されるべきである。 真智の愛、良心から、厚い想いが湧いてくる。

                               以 上

追記

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.scirp.org/journal/alamt
   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf


再生核研究所声明3592017.3.20) ゼロ除算とは何か ― 本質、意義

ゼロ除算の理解を進めるために ゼロ除算とは何か の題名で、簡潔に表現して置きたい。 構想と情念、想いが湧いてきたためである。
基本的な関数y=1/x を考える。 これは直角双曲線関数で、原点以外は勿論、値、関数が定義されている。問題はこの関数が、x=0  で どうなっているかである。結論は、この関数の原点での値を ゼロと定義する ということである。 定義するのである。定義であるから勝手であり、従来の定義や理論に反しない限り、定義は勝手であると言える。原点での値を明確に定義した理論はないから、この定義は良いと考えられる。それを、y=1/0=0 と記述する。ゼロ除算は不可能であるという、数学の永い定説に従って、1/0 の表記は学術書、教科書にもないから、1/0=0 の記法は 形式不変の原理、原則 にも反しないと言える。― 多くの数学者は注意深いから、1/0=\infty の表記を避けてきたが、想像上では x が 0 に近づいたとき、限りなく 絶対値が大きくなるので、複素解析学では、表現1/0=\infty は避けても、1/0=\infty と考えている事は多い。(無限大の記号がない時代、アーベルなどもそのような記号を用いていて、オイラーは1/0=\inftyと述べ、それは間違いであると指摘されてきた。 しかしながら、無限大とは何か、数かとの疑問は 続いている。)。ここが大事な論点である。近づいていった極限値がそこでの値であろうと考えるのは、極めて自然な発想であるが、現代では、不連続性の概念 が十分確立されていて、極限値がそこでの値と違う例は、既にありふれている。― アリストテレスは 連続性の世界観をもち、特にアリストテレスの影響を深く受けている欧米の方は、この強力な不連続性を中々受け入れられないようである。無限にいくと考えられてきたのが突然、ゼロになるという定義になるからである。 しかしながら、関数y=1/xのグラフを書いて見れば、原点は双曲線のグラフの中心の点であり、美しい点で、この定義は魅力的に見えてくるだろう。
定義したことには、それに至るいろいろな考察、経過、動機、理由がある。― 分数、割り算の意味、意義、一意性問題、代数的な意味づけなどであるが、それらは既に数学的に確立しているので、ここでは触れない。
すると、定義したからには、それがどのような意味が存在して、世の中に、数学にどのような影響があるかが、問題になる。これについて、現在、初等数学の学部レベルの数学をゼロ除算の定義に従って、眺めると、ゼロ除算、すなわち、 分母がゼロになる場合が表現上現れる広範な場合に 新しい現象が発見され、ゼロ除算が関係する広範な場合に大きな影響が出て、数学は美しく統一的に補充,完全化されることが分かった。それらは現在、380件以上のメモにまとめられている。しかしながら、世界観の変更は特に重要であると考えられる:

複素解析学で無限遠点は その意味で1/0=0で、複素数0で表されること、アリストテレスの連続性の概念に反し、ユークリッド空間とも異なる新しい空間が 現れている。直線のコンパクト化の理想点は原点で、全ての直線が原点を含むと、超古典的な結果に反する。更に、ゼロと無限の関係が明らかにされてきた。
ゼロ除算は、現代数学の初等部分の相当な変革を要求していると考えられる。

以 上
付記: The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1 -16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…

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