保守派とリベラル派が読む科学書は異なる
政治関係の書籍を購入する米国の保守派またはリベラル派の人々は、科学書に対する関心は全般的に同等なものの、同じジャンルの科学書を手に取るわけでは必ずしもないという報告が、今週のオンライン版に掲載される。オンラインでの書籍購入を数百万件にわたって解析した結果、消費者の選択には大きな差があることが判明し、リベラル寄りの書籍の購入者は、物理学や天文学などの基礎科学系の本を好むのに対し、保守寄りの書籍の購入者は、犯罪学や地球物理学などの応用科学系の本を好むことが明らかとなった。
自らの政治的信念に合致する狭い範囲の情報にのみ曝される、「反響室」や「フィルターバブル」と呼ばれる現象は、両極端に位置する政党に共鳴するそれぞれの人々の相互理解を妨げる恐れがあることから、政治学において懸念が高まっている。
Michael MacyとJames Evansの研究グループは、世界最大級の2つのオンライン書籍小売業者の購入履歴を解析することで、実験室外において同問題を調べた数少ない研究の一つについて報告している。研究グループは、「共購買ネットワーク」を構築して、どのジャンルの科学書が「保守派」寄り、または「リベラル派」寄りの政治関連本とともに購入されているかを解析した。その結果、さまざまな科学の主題に対する関心に全般的に明らかな差があるだけでなく、保守派とリベラル派が同じ主題のなかでも異なる本を選ぶことが判明した。
そして、「反響室/フィルターバブル」への選択的曝露を減じ、政治的議論への科学の寄与を回復させ、党派的な熱狂を鎮めるためには、さらなる研究が必要なことが明らかになったと研究グループは結論している。
関連するNews & Viewsの記事では、「今回の研究で見出された行動パターンは、科学および政治の異なる情報源の党派的な選択が、例えば人が、自身の見解を強化する自分と似たような考えを持つ他者の見解へと自らを選択的に曝す「反響室」へ至りかねないという、より強い懸念と軌を一にする」と政治学者のToby Bolsenが述べている。
数学書は・・・・・・・
再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは, 視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上
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