コンピューターに「公平な判断」をさせるには? ある科学者の挑戦
コンピューターのアルゴリズムが我々の日常生活における「判断」を左右する場面が増えている。その重要性が高まるほどに、いかに「公平性」を担保するかが重要になってくる。果たしてアルゴリズムによって公平性は担保できるのか。あるコンピューターサイエンティストが挑む。
コンピューターサイエンス理論は、ときに世間の一般的な知識とかけ離れている。抽象的で、純粋な学問としての数学に近い。しかし往々にして、新しい研究課題はわたしたちの日常生活にある具体的な問題に呼応して始まることがある。シンシア・ドワークのケースも、まさにその一例である。
ドワークは彼女の卓越したキャリアの中で、人間とコンピューターとの間に山積している複雑な問題やジレンマに対して、正しく理論だった解決方法を作り上げてきた。なかでも彼女が有名なのは、2000年代の前半から中盤かけて、巨大なデータベースのなかで個人のプライヴァシーを保護する「差分プライヴァシー」と呼ばれる技術を開発したことだ。この技術は、例えば個人が遺伝子情報を医療機関に提供する際に、データを分析する側に誰の遺伝子情報であるかを特定されたり、そもそも情報を提供している事実さえ知られることがない。こうしてセキュリティが担保されたことで、研究者たちは新しい発見のために安心してデータベースを使えるようになった。
彼女が開発した最新の技術にも、これと似たような要素が見受けられる。
2011年、彼女はアルゴリズムの設計における公平性の問題について興味を抱いた。ドワークの観察によると、アルゴリズムがわたしたちの体験を左右することが増えているという。ネット上でどんな広告を目にするのか、金融機関からどの程度の融資を受けられるのか、どの大学に入れるのか…などがそうだ。この結果、ある一定の「公平性」というルールによって、アルゴリズムが人々を分類することになる。
その一方で、数学者のキャシー・オニールによる著書「Weapons of Math Destruction(数学破壊兵器)」でも示されているように、我々が日常生活において拒絶しているような差別が、アルゴリズムには潜んでいるのだ。わたしたちは、銀行がマイノリティと白人とで異なる融資条件を提示するすることが倫理的であるとは思い難い。
プライヴァシーと倫理という2つの問いの根本は哲学にある。近年、その問いの答えがコンピューターサイエンスに求められるようになっている。この5年間、ドワークはアルゴリズムの公平性に関する新しい研究領域をつくろうとしている。マイクロソフトリサーチに所属する彼女は、1月にはハーヴァード大学の教員になる。彼女はハーヴァード大学で今月上旬、コンピューターサイエンティストや法学の教授、哲学者らを招いたワークショップの開催を手伝った。
ドワークは、シモンズ財団が発行する『Quanta Magazine』のインタヴューで、アルゴリズムの公平性、社会的に大きな影響がある課題に取り組むうえで彼女が何に関心があるか、そして彼女のアルゴリズムの設計手法がいかに幼少期の音楽体験によって形成されたかについて語った。その概要は下記の通りだ。
──コンピューターサイエンスをあなたの専門領域にしたいと明確に思ったのはいつ頃ですか。
わたしは理科と数学を含め、すべての科目をいつも楽しんで学んでいました。同じように、英語や外国語を学ぶことも本当にすべて大好きでした。プリンストン大学の工学部を受験したのは、正直ちょっと面白半分だったと思います。わたしの記憶では、わたしの母が「あなたの興味関心にぴったりよ」と勧めてくれたのです。わたしもそう思いました。きっかけはともあれ、なにかを始めるにはいい場所だと感じました。その後、大学3年のときにオートマトン理論に出合って、わたしは社会に出てプログラミングの仕事に就くのではなく、博士号をとって研究者の道を進むかもしれないと悟ったのです。
──あなたは差分プライヴァシーに関する研究で知られています。なにが「アルゴリズムの公平性」の研究へと導いたのですか。
わたしは新しい分野へと研究の幅を広げて、いままでとは違う課題を見つけたかったのです。だからプライヴァシーという社会的な課題について、数学的な観点から解決することをとても楽しんで取り組んでいました。言い換えれば、多くの人にとって現実に存在する問題に対して、わたしたちが挑戦を試みていた、ということになります。数学という学問の中で終わる問題ではなく、社会的な問題を解決する研究課題を見つけたかったのです。
──それでは、なぜ「公平性」の研究にたどり着いたのですか。
それが人々が現実で直面し得る大きな懸念や関心事になると思ったからです。
──どうしてそのような考えに至ったのですか。
個人が人生で「選択」をする場面において、アルゴリズムが影響力をもつように使われる可能性があることは、はっきりしていたと思うのです。わたしたちは、誰にどんな広告を見せるかを決めるために、アルゴリズムが使われていることを知っていました。人々は日常で何気なく接した広告などに影響を受けるのです。ただし、広告がわたしたちの人生の選択の決定打になる、とは考えていなかったかもしれません。
また、少なくとも大学入試や融資の対象者を絞り込むために、アルゴリズムが使われるであろうことも予測していました。しかし、求職者や重要な役職の候補者まで選別するために使われるようになるとは見通していませんでした。これらは決してささいな問題ではないのです。
──あなたが2012年に発表した研究論文は「気づき」という概念が論点になっていました。なぜ、これが重要なのでしょうか。
論文に書いてある事例を挙げてみましょう。数学と科学の分野に進もうとしている少数派の優秀な学生達がいたとします。一方、多数派の優秀な学生たちは金融を学ぼうとしていたとします。もし誰かが手っ取り早く優秀な学生を見つけ出そうとするなら、おそらく彼らは金融を学んでいる学生を選ぶだろうと思います。多数派は少数派より人数が多いですから、その分類方法はある程度は正確と言っていいでしょう。
ただし、この結果は少数派の人達にとって不利になるだけではありません。数学を学んでいる少数派の学生を、金融を学ぶ多数派と同じく優秀な学生とみなす有用な方法を排除してしまっています。こうした事実を異文化間の問題と関連づけながら、「気付きによる公平性の実現」というタイトルで論文にしたのです。
──同じ論文で、あなたは個人を公平に扱うことと、集団を公平に扱うことの違いについて触れています。そしてこう結論づけています。ときには個人を公平に扱うことだけでは不十分な場合がある。それぞれの集団に違いがあることに気づき、類似する特徴がある集団は公平に扱わなければならない、と。これはどういったことなのでしょうか。
論文の中では、まず個人の公平性にはじまり、次に個人の公平性と集団の公平性にどのような相関性があるかを論じました。そして、個人の公平性が集団の公平性を保証する場合と、個人の公平性が成り立たなかった場合にどうすれば集団の公平性を担保できるか、数学的に検証したのです。
──個人の公平性を確立することが、集団の公平性を十分に担保できないというのは、どんな状況のときですか。
全く異なる特質をもった2つのグループがあるとしましょう。あなたが大学入試の審査をしていて、テストの点数を合否判定の基準にしようと考えたとします。もし同じテストで2つの集団が全く異なるテストの結果を出していたとすれば、同じテストの点数のしきい値が1つだけだったなら、集団の公平性は担保できないはずです。
──これはあなたが提案している「公平なアファーマティヴアクション(積極的差別是正措置)」という考え方と関連していますか?
わたしたちのアプローチは、テキサス州などで行われている特定のケースに集約されるかもしれません。テキサス州では、各高校のトップの学生達は、オースティンのトップの大学を含むどの州立大学への入学も確約されています。それぞれの異なる学校からのトップの学生をとることで、たとえ人種などの分布が偏っていたとしても、各校からパフォーマンスに優れる学生たちを選抜することになります。
このケースにとても似たことが、わたしたちの「公平なアファーマティヴアクション」のアプローチでも起こるのです。イェール大学の配分的正義の専門家、ジョン・ローマーが挙げたある提案では、学生たちを母親の受けた教育レヴェルによって階層を分け、さらにそこから毎週、宿題に対して費やした時間の量で分けました。そして、分類されたそれぞれのグループの中の優秀な学生たちを選抜しました。
──宿題に費やした時間の量によってだけ学生を分類した場合、なぜうまくいかないのですか?
その点については、ローマーがとても興味深い観察結果を提示しており、わたしはとても感動しました。それは、もしある学生が十分な教育を受けていなかった場合、彼らは1週間のうち多くの時間を宿題に費せることにさえ気づかないかもしれません。そもそも手本になる人がいなければ、誰も見てくれません。ことによると、宿題をするという考えにさえ至らないかもしれません。この結果には、とても共感できました。
──具体的にどんな点に感動したのですか?
わたしは高校時代、ある興味深い体験をしました。6歳くらいからピアノを弾いているのですが、毎日30分だけ義務をこなすように弾いていました。それで満足していたんです。ところがある日、おそらく高校1年のときだったでしょうか。わたしは講堂の前を通りがかって、誰かがベートーヴェンのピアノソナタを弾いているのを聞きました。彼は2年生でした。その演奏を聞いていて、もっと上手になるには必ずしもコンサートを開くスケールで演奏をしなくていいのだ、と悟ったのです。
それ以来、わたしは毎日4時間ピアノの練習をするようになったのです。でも、ほかの学生がピアノを上手に弾いているのを見聞きするまで、ピアノを上達させることが可能だ、ということを考えつきさえしなかった。おそらくこの経験をしたことで、ローマーの論文が心を打ったのだと思います。この経験をしたことで、人生がとても豊かになったと思っています。
──あなたの父であるベルナール・ドワークさんは数学者で、長らくプリンストン大学の教員でした。それはある意味、ピアノ奏者ではなく学者としてのロールモデルがいた、というふうに考えることもできます。彼の仕事ぶりは、何らかの形であなたにインスピレーションを与えることはありましたか。
わたしのコンピューターサイエンスに対する興味が、父の仕事に影響を受けたと考えられる直接的な思い出はありません。でも、アカデミックな家庭で育ったことは、そうでない家庭とは違って、自分の仕事に深い関心を持って常にそのことを考える姿勢のモデルになったとは思います。そして間違いなく、いくつかの行動規範を吸収したと思います。誰かと意見交換するのは自然なことでしたし、集まりに行って講義を受けたり文章を読んだりするのもそうです。でも、数学そのものではないと思います。
──ピアノの練習から得た教訓は、あなたの研究手法に影響を与えていますか。あるいは何らかの経験から、コンピューターサイエンスの分野における成功に役立ったことはありますか。
大学院で必修単位を取り終えたとき、わたしはこの先どうやって研究を進めたらいいか考え始めました。ちょうどその時、著名なコンピューターサイエンティストのジャック・エドモンズが大学を訪れていました。そこでわたしは尋ねたんです。「あなたの素晴らしい研究成果はどのように生まれたんですか? 突然ひらめいたんですか?」と。すると彼は、わたしをしばらく見つめて叫びました。「すべて努力の結晶なんだ!」
──その体験が、あなたに素晴らしい研究結果をもたらした、ということですね。
はい、そういうことになりますね。
──あなたは、異なる人々をアルゴリズムがどう扱うべきかを示す「指標」が極めて重要であり、それをコンピューターサイエンティストが開発すべきであると指摘しています。まず、指標とはどういう意味なのか、どうしてそれが公平性を担保するために重要なのかを説明していただけないでしょうか。
似たような特性の人々が同じように扱われることは、わたしが考える公平性の概念に欠かせないと思っています。すべての場合において公平性を担保することが必須というわけではありません。人によって違いはあるのですから、別のやり方で扱わなければならない場合はあります。そして一般的には、もっと複雑なのです。
それにもかかわらず、似たような境遇にある人たちを同じように扱わねばならないケースは、やはり明らかに存在します。「指標」とは、2人の異なる人物がどのくらい同じように扱われるのか、それに関する必要条件を明確にする方法を持つということです。これはどのくらい扱いが異なるか、その程度を制限することで成し遂げられます。
──あなたは以前、主にこうした指標を思いつくのが難しいという理由で、プライヴァシーに関する研究より公平性に関する研究のほうがずっと難解だと話していました。なぜそんなに難しいといえるのでしょうか。
かなり特徴が異なる2人の学生が、大学受験の願書を提出したとしましょう。彼らは学生としての能力はかなり近いと仮定します。この場合、リンゴとオレンジとを比較して、意味のある答えを得られるような類似度指標でなければなりません。
──それは前回の差分プライヴァシーの研究と比べて、どのくらい難しい挑戦なのですか。
今回のほうがより難しいと思います。もし正確な指標、すなわち人と人の違いを厳格に測る方法を見つける“魔法”があったなら、それは理想的ですよね。でも、誰と誰を同じように扱うべきかなんて、人間同士で合意を得ることはできないと思います。どうやって機械学習や統計的な手法を使って正しい解を得るのか、正直に言ってわたしは思いつきません。対象が同種の人々であろうと異なる人々であろうと、類似性に関する多様な概念が必要であるという事実に向き合わないでいる方法も、わたしにはわかりません。
──そう表現すると、永久に解決できないかもしれない途方もない仕事に思えます。
わたしはこれを希望が見えてきた状況だとみています。すなわち、使われてきている指標は一般に公開されるべきであり、人々はそのことに関して議論し、その進化を左右する権利を有するということです。すべてが元からうまくいくとは思いません。我々はベストを尽くすだけなのです。
[編註]本稿は、シモンズ財団が発行する『Quanta Magazine』の許諾を得て『WIRED』US版が転載したものを翻訳した。http://wired.jp/2017/03/03/cynthia-dwork/
興味深く読みました:公正な基準に従って:後は自動的に
再生核研究所声明198(2015.1.14) 計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて
まず、簡単な例として、割り算、除算の考えを振り返ろう:
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるか(除けるか)と考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数の商は50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。
ところで、 除算を引き算の繰り返しで計算する方法は、除算の有効な計算法がなかったので、実際は日本ばかりではなく、中世ヨーロッパでも計算は引き算の繰り返しで計算していたばかりか、現在でも計算機で計算する方法になっていると言う(吉田洋一;零の発見、岩波新書、34-43)。
計算機は、上記のように 割り算を引き算の繰り返しで、計算して、何回引けるかで商を計算すると言う。 計算機には、予想や感情、勘が働かないから、機械的に行う必要があり、このような手順、アルゴリズムが必要であると考えられる。 これは計算機の本質的な原理ではないだろうか。
そこで、人間は、ここでどのように行うであろうか。 100/2 の場合は、2掛ける何とかで100に近いものでと考え 大抵50は簡単に求まるのでは? 3/2も 3の半分で1.5くらいは直ぐに出るが、 2掛ける1で2、 余り1で、 次は10割る2で 5そこで、1.5と直ぐに求まるのではないだろうか。
人間は筆算で割り算を行うとき、上記で何回引けるかとは 発想せず、何回を掛け算で、感覚的に何倍入っているか、何倍引けるか、と考えるだろう。この人間の発想は教育によるものか、割り算に対して、逆演算の掛け算の学習効果を活かすように 相当にひとりでに学習するのかは極めて面白い点ではないだろうか。この発想には掛け算についての相当な経験と勘を有していなければ、有効ではない。
この簡単な計算の方法の中に、人間の考え方と計算機の扱いの本質的な違いが現れていると考える。 人間の方法には、逆の考え、すなわち積の考えや、勘、経験、感情が働いて、作業を進める点である。 計算機には柔軟な対応はできず、機械的にアルゴリズムを実行する他はない。 しかしながら、 計算機が使われた、あるいは用意された情報などを蓄積して、どんどんその意味における経験を豊かにして、求める作業を効率化しているのは 広く見られる。 その進め方は、対象、問題によっていろいろなアルゴリズムで 具体的には 複雑であるが、しかし、自動的に確定するように、機械的に定まるようになっていると考えられる ― 厳密に言うと そうではない考えもできる、すなわち、ランダムないわゆる 乱数を用いるアルゴリズムなどはそうとは言えない面もある ― グーグル検索など時間と共に変化しているが、自動的に進むシステムが構築されていると考えられる。 それで、蓄積される情報量が人間の器、能力を超えて、計算機は 人間を遥かに超え、凌ぐデータを扱うことが可能である事から、そのような学習能力は、人間のある能力を凌ぐ可能性が高まって来ている。 将棋や碁などで プロの棋士を凌ぐほどになっているのは、良い例ではないだろうか。もちろん、この観点からも、いろいろな状況に対応するアルゴリズムの開発は、計算機の進化において 大きな人類の課題になるだろう。
他方、例えば、幼児の言葉の学習過程は 神秘的とも言えるもので、個々の単語やその意味を1つずつ学習するよりは 全体的に感覚的に自動的にさえ学習しているようで、学習効果が生命の活動のように柔軟に総合的に進むのが 人間の才能の特徴ではないだろうか。
さらに、いくら情報やデータを集めても、 人間が持っている創造性は 計算機には無理のように見える。 創造性や新しい考えは 無意識から突然湧いてくる場合が多く、 創造性は計算機には無理ではないだろうか。 そのことを意識したわけではないが、人間の尊厳さを 創造性に 纏めている:
再生核研究所声明181(2014.11.25) 人類の素晴らしさ ― 7つの視点
そこでも触れているが、信仰や芸術、感情などは生命に結び付く高度な存在で、科学も計算機もいまだ立ち入ることができない世界として、生命に対する尊厳さを確認したい。
しかしながら、他方、人間の驚くべき 愚かさにも自戒して置きたい:
発想の転換、考え方の変更が難しいということである。発想の転換が 天動説を地動説に変えるのが難しかった世界史の事件のように、また、非ユークリッド幾何学を受け入れるのが大変だったように、実は極めて難しい状況がある。人間が如何に予断と偏見に満ち、思い込んだら変えられない性(さが) が深いことを 絶えず心しておく必要がある: 例えば、ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるという烙印のもとで、世界史上でも人類は囚われていたことを述べていると考えられる。世界史の盲点であったと言えるのではないだろうか。 ある時代からの 未来人は 人類が 愚かな争いを続けていた事と同じように、人類の愚かさの象徴 と記録するだろう。 数学では、加、減、そして、積は 何時でも自由にできた、しかしながら、ゼロで割れないという、例外が除法には存在したが、ゼロ除算の簡潔な導入によって、例外なく除算もできるという、例外のない美しい世界が実現できた(再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ― 7つの視点)。そこで、この弱点を克服する心得を次のように纏めている:
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
以 上
ゼロ除算は1+1より優しいです。 何でも0で割れば、0ですから、簡単で美しいです。 1+1=2は 変なのが出てくるので難しいですね。
1人当たり何個になるかと説いていますが、1人もいないのですから、その問題は意味をなさない。
よってこれは、はじめから問題になりません。
ついでですが、これには数学的に確定した解があって それは0であるという事が、最近発見されました。
再生核研究所声明199(2015.1.15) 世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える ― ゼロ除算100/0=0,0/0=0
ゼロ除算は 西暦628年インドでゼロが文献に記録されて以来、問題とされてきた。ゼロ除算とは、ゼロで割ることを考えることである。これは数学の基本である、四則演算、加法、減法、乗法、除法において、除法以外は何時でも自由にできるのに、除法の場合だけ、ゼロで割ることができないという理由で、さらに物理法則を表す多くの公式にゼロ除算が自然に現れていることもあって、世界各地で、今でも絶えず、問題にされていると考えられる。― 小学生でも どうしてゼロで割れないのかと毎年、いろいろな教室で問われ続いているのではないだろうか.
これについては、近代数学が確立された以後でも、何百年を越えて 永い間の定説として、ゼロ除算は 不可能であり、ゼロで割ってはいけないことは、初等教育から、中等、高校、大学そして学術界、すなわち、世界の全ての文献と理解はそうなっている。変えることのできない不変的な法則のように理解されていると考えられる。
しかるに2014年2月2日 ゼロ除算は、可能であり、ゼロで割ればゼロであることが、偶然発見された。その後の経過、背景や意味付け等を纏めてきた:
再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8) 知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
再生核研究所声明176(2014.8.9) ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
Announcement 179 (2014.8.25): Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
Announcement 185 : The importance of the division by zero $z/0=0$
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明190(2014.12.24)
再生核研究所からの贈り物 ― ゼロ除算100/0=0, 0/0=0
夜明け、新世界、再生核研究所 年頭声明
― 再生核研究所声明193(2015.1.1)―
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について
ところが、気づいてみると、ゼロ除算は当たり前なのに、数学者たちが勝手に、割り算は掛け算の逆と思い込み、ゼロ除算は不可能であると 絶対的な真理であるかのように 烙印を押して、世界の人々も盲信してきた。それで、物理学者が そのために基本的な公式における曖昧さに困ってきた事情は ニュートンの万有引力の法則にさえ見られる。
さらに、誠に奇妙なことには、除算はその言葉が表すように、掛算とは無関係に考えられ、日本ばかりではなく西欧でも中世から除算は引き算の繰り返しで計算されてきた、古い、永い伝統がある。その考え方から、ゼロ除算は自明であると道脇裕氏と道脇愛羽さん6歳が(四則演算を学習して間もないときに)理解を示した ― ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であり、ゼロで割ればゼロであるは数学的な真実であると言える(声明194)。数学、物理、文化への影響も甚大であると考えられる。
数学者は 数学の自由な精神で 好きなことで、考えられることは何でも考え、不可能を可能にし、分からないことを究め、真智を求めるのが 数学者の精神である。非ユークリッド幾何学の出現で 絶対は変わり得ることを学び、いろいろな考え方があることを学んできたはずである。そのような観点から ゼロ除算の解明の遅れは 奇妙な歴史的な事件である と言えるのではないだろうか。
これは、数学を超えた、真実であり、ゼロ除算は不可能であるとの 世の理解は間違っている と言える。そこで、真実を世界に広めて、人類の歴史を進化させるべきであると考える。特に声明176と声明185を参照。ゼロ除算は 堪らなく楽しい 新世界 を拓いていると考える。
以 上
考えてはいけないことが、考えられるようになった。
説明できないことが説明できることになった。
1+0=1 1ー0=0 1×0=0 では、1/0・・・・・・・・・幾つでしょうか。
0??? 本当に大丈夫ですか・・・・・0×0=1で矛盾になりませんか・・・・
1/0=∞ (これは、今の複素解析学) 1/0=0 (これは、新しい数学で、Division by Zero)
ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・
7歳の少女が、当たり前であると言っているゼロ除算を 多くの大学教授が、信じられない結果と言っているのは、まことに奇妙な事件と言えるのではないでしょうか。
割り算を掛け算の逆だと定義した人は、誰でしょう???
世界中で、ゼロ除算は 不可能 か
可能とすれば ∞ だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。
小学校以上で、最も知られている数学の結果は何でしょうか・・・
ゼロ除算(1/0=0)は、ピタゴラスの定理(a2 + b2 = c2 )を超えた基本的な結果であると考えられる。
原点を中心とする単位円に関する原点の鏡像は、どこにあるのでしょうか・・・・
∞ では無限遠点はどこにあるのでしょうか・・・・・
無限遠点は存在するが、無限大という数は存在しない・・・・
加(+)・減(-)・乗(×)・除(÷) 除法(じょほう、英: division)とは、乗法の逆演算・・・・間違いの元 乗(×)は、加(+) 除(÷)は、減(-)
0×0=0・・・・・・・・・だから0で割れないと考えた。
明治5年(1872)
割り算のできる人には、どんなことも難しくない
世の中には多くのむずかしいものがあるが、加減乗除の四則演算ほどむずかしいものはほかにない。
ベーダ・ヴェネラビリス
数学名言集:ヴィルチェンコ編:松野武 山崎昇 訳大竹出版1989年
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
1/0=∞ 若しくは未定義 →1/0=0
地球人はどうして、ゼロ除算1300年以上もできなかったのか? 2015.7.24.9:10 意外に地球人は知能が低いのでは? 仲間争いや、公害で自滅するかも。 生態系では、人類が がん細胞であった とならないとも 限らないのでは?
リーマン球面における無限遠点は、実は、原点0に一致していました。
Einstein's Only Mistake: Division by Zero
ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・・ 1+1=2が当たり前のように
Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.
Impact of 'Division by Zero' in Einstein's Static Universe and ...
gsjournal.net/Science-Journals/.../Download/2084
このページを訳す
Impact of 'Division by Zero' in Einstein's Static Universe and Newton's Equations in Classical Mechanics. Ajay Sharma physicsajay@yahoo.com. Community Science Centre. Post Box 107 Directorate of Education Shimla 171001 India.
Reality of the Division by Zero $z/0=0$
ビッグバン宇宙論と定常宇宙論について、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243254887 #知恵袋_
地球平面説→地球球体説
地球が丸いと考えた最初の人-ピタゴラス
地球を球形であることを事実によって証明しようとした人-マゼラン
地球を球形と仮定して初めて地球の大きさを測定した人-エラトステネス
地球を球形であることを事実によって証明しようとした人-マゼラン
地球を球形と仮定して初めて地球の大きさを測定した人-エラトステネス
天動説→地動説 アリスタルコス=ずっとアリストテレスやプトレマイオスの説が支配的だったが、約2,000年後にコペルニクスが再び太陽中心説(地動説)を唱え、発展することとなった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%B9 …
何年かかったでしょうか????
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか???
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか???
ゼロ除算の証明・図|ysaitoh|note(ノート) https://note.mu/ysaitoh/n/n2e5fef564997
ゼロ除算は1+1より優しいです。 何でも0で割れば、0ですから、簡単で美しいです。 1+1=2は 変なのが出てくるので難しいですね。
∞÷0はいくつですか・・・・・・・
∞とはなんですか・・・・・・・・
分からないものは考えられません・・・・・
Reality of the Division by Zero z/0 = 0
君に0円の月給を永遠に払いますから、喜びなさい:
1人当たり何個になるかと説いていますが、1人もいないのですから、その問題は意味をなさない。
よってこれは、はじめから問題になりません。
ついでですが、これには数学的に確定した解があって それは0であるという事が、最近発見されました。
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