2017年3月10日金曜日

ああ、フロンティアなき科学よ──最新号「サイエンスのゆくえ」発売記念ミニカンファレンスで語られたこと

ああ、フロンティアなき科学よ──最新号「サイエンスのゆくえ」発売記念ミニカンファレンスで語られたこと

細分化が進みタコツボ化した科学の未来を考えた『WIRED』日本版の最新号・特集「サイエンスのゆくえ」。その発売を記念し開催されたミニカンファレンスでは、科学の過去・現在を語り、その未来に肉薄するため、4人の科学者・研究者を迎えて激論が交わされた。満員御礼となったイヴェントのレポート。
「フロンティアが消えたあとの科学に、科学者はどう立ち向かうべきなのか?」
2017年2月18日、雑誌『WIRED』日本版の最新号VOL.27の発売を記念して、Red Bull Studios Tokyo Hallで開催されたミニカンファレンス「科学はどこからきて、どこへいくのか?」。特集「サイエンスのゆくえ」に登場した学者・研究者らを迎えた本イヴェントでは2つの対談が行われ、現代そして過去の科学を見つめ直し、その未来が考えられた。
在野で独立系の物理学者として活動を続ける長沼伸一郎が、科学の限界に直面したときの自らの体験をもとに発した冒頭の言葉は、会場が追い求めていた問いを代弁するものだったといえる。
対談の相手は京都大学・学際融合教育研究推進センターで科学をはじめとする学問の脱タコツボ化に取り組んできた宮野公樹。近代における発展の基礎となった科学をがなぜ細分化し、向かうべき「フロンティア」を失い、ときに視野狭窄に陥るのかについて議論が行われた。
学生時代の長沼は「世界は細分化すれば理解できる」と考え、物理学に耽溺した。「とにかく物事を分割することが、すべてなのだと思い込んでいました。科学はむしろ暴走させた方が、人類を神に近づけることにつながって望ましいぐらいに思っており、そういったことに対して強い信仰心のようなものをもっていました」
長沼によれば物理学者の多くが、多かれ少なかれそんな考えをもっているという。
「天体の動きがわかれば、物体の動きにまつわる法則がすべてわかります。そうすれば飛行機などすべての機械を設計できるはずです。また、社会全体を機械として捉えれば、物理法則から世界のすべてを説明できることにもなるでしょう。つまり、物理の研究によって世界のすべてを解き明かすツールが手に入るはずだという考えに至るわけです。
さらに実際に天体の運行などの問題を数式で解けたという体験を得ることで、世界そのものが自分の手のうちに収まっているような感覚に陥る。ほかの分野、たとえば生物学はフィールドワークで得たデータや実験結果によって初めて物事の原理を知ることができます。しかし物理の場合はそうではない。すべての外部情報をシャットアウトして、自分の頭だけですべてを考えることができるのは物理だけなのです。それを一度味わってしまうと、何か『神への梯子』を登っているような感覚になって、ほかの学問など取るに足らないものだと思えてしまいます」

指揮者としての科学者

だが、大学に入ったのちに長沼は、18世紀から物理学者のあいだで議論されつづけてきた歴史的難問の「三体問題」に取り組むなかで、「世界を分割することはできない」という結論に至る。言い換えるなら、それまで信じていた科学に無限の進歩が存在しないことに気がついてしまったということだ。これは、物理学者・長沼にとっては「なかば人間性を捨ててまで追い求めつづけていた神自体を、突如失ってしまうほどの衝撃」であった。
そもそも「人間性を捨てた」本物の科学者は、長沼の言葉で言い換えるならば「科学という国に生まれた」人たちだ。学問の脱タコツボ化に長年取り組んできた宮野は、「ソクラテスがデーモン(悪魔)と言ったように、知の探求に捕らわれたのが科学者だが、それと同じ状況は文学や哲学といったほかの分野の学者のあいだにも存在する」と応じた。さらに宮野は、そこから科学を含めた学問の未来を構想してみせる。「科学がいまのようになってしまったのは、科学を特別視してきたからです。同じ枠組みのなかで、科学に文学や哲学を代入して思考をしてみることが、結果的に科学の置かれた状況もよくすると思います」
細分化が進み、複雑さを増す世界に取り組まざるをえなくなった科学は、何のために存在するべきなのか? 長沼は天文学者でSF作家のフレッド・ホイルを引き合いに出し、ほかの学問にない科学の特性は、粒子の存在などを予言できるレンジの長い思考能力だと述べる。
「人間の短期的願望を『欲望』と呼び、長期的願望を『理想』と呼びます。そして社会全体の長期的願望を集めたものがいわゆる『一般意思』ですが、現代の資本主義社会ではひとびとの目標が短期的願望の追求に向けられ、日に日に世界のすべてがそこに吸い込まれています。科学もそれに奉仕している。しかしそこからの脱出法を発見する能力を備えているのは政治家ではなく科学者の頭脳なのであり、新世代の科学者はその力を『一般意思』のためにこそ用いなければなりません。
しかし、そのためには科学だけでなく歴史、軍事、経済、哲学、宗教、国際情勢などをすべて1個の頭脳に収めることが必要です。いわばいままでの専門分化した科学者は各楽器のプレーヤーでしたが、今後は『指揮者』に相当する存在を育成することによって、科学者はその新しい役割を積極的に担えるようになるでしょう」
人類がこれまで積み重ねてきた知の連環をみてとり、われわれがどこに向かっていくのかを指し示すことが、これからの科学者の役割のひとつなのかもしれない。

つながり、融合せよ

約200年前に、その指揮者としての役割を実践した人物が、詩人・ゲーテとも親交が深く「科学界のシェイクスピア」と呼ばれた博物学者、アレクサンダー・フォン・フンボルトだ。ミニカンファレンスでは、彼の評伝『フンボルトの冒険―自然という〈生命の網〉の発明』を手がけた編集者、松島倫明と、昨年8月に上梓された著書『「百学連環」を読む』にて、明治時代の知の体系を現代に蘇らせた文筆家、山本貴光が、「博物学の巨人」といわれたこの科学者をめぐって対談を行った。フンボルトの試みをなぞることで、あらゆる分野の知識の系譜を俯瞰して、分散された知の関連性を再発見していくフンボルトの試みをたどることで、科学のなかに新たなカウンターアクションを生み出すことができる可能性を2人は示した。
フンボルトは大作『コスモス』のなかで、人間もふくめた宇宙全体の知識すべてを描こうとした。山本は、その約100年前にフランスで刊行された『百科全書』と『コスモス』を比較することで、その偉大さを解説してくれた。『百科全書』も『コスモス』と同じように、サイエンスとアート、学と術について、当時の人類が知っていることすべてを集めたとされる書物だ。当時としては画期的なことにアルファベット順に項目を並べ、読者が検索しやすいように編纂されていた。
しかし、それによって項目同士の関連づけが読者の知識にゆだねられるかたちとなり、『百科全書』は利便性とのトレードオフで「知ろうとしたものしか知ることができない」という欠点をもってしまったと山本は指摘する。一方でフンボルトの『コスモス』は、知識と知識のつながりを可視化できるように編纂されていた。フンボルトの残した最大の功績のひとつは、一見バラバラにみえる知識それぞれの特徴を比較により明らかにしたことだといえる。
科学をはじめとする諸学問の細分化は、フンボルトの時代にもすでに存在する問題だった。いわば彼の業績は当時の学術の置かれた状況に対するカウンターだとも捉えられるだろう。松島はフンボルトを60年代のカウンターカルチャーになぞらえた。
「南米から北米までを何年もかけて旅したフンボルトが書いた何冊もの本は、熱狂的に当時のヨーロッパ社会に受け入れられました。これは、たとえばビートルズやスティーブ・ジョブズがインドを旅したことで、欧米の文化に新しいパラダイムがもたらされたことになぞらえることができます。さらにフンボルトは、それを正統な科学的記述と自分の感性とを融合させるかたちで表現しました。これも当時としては斬新なことでした」
フンボルトが構想した科学は、どのように記述され受容されていたのだろう。山本によれば、当時の科学はちょうど分岐点に位置していたという。
「フンボルトと親交の深かったゲーテは、色彩論や形態学を研究していた科学者でもありました。彼はサイエンスとアートがもっと融合するべきではないかと考えていましたが、フンボルトが、まさにそれを自著のなかで試みたのです。そうしたところ、科学がエンターテインメントとして世界中で読まれた。
他方で、ニュートンが会長を務めたことでも知られるイギリスの王立協会では、『フィロソフィカルトランザクションズ』といういまでも続く科学雑誌を舞台に、現代に至る科学のフォーマットづくりが進んでいました。科学的な記述から個人的な意見や感情を取り除かなければならないという文体がつくられ始めていたのです。これは言い換えるならば、サイエンスからアートと人間を取り除くということです。主観を排し、誰もが妥当だといえるかたちで知識を取り出そうというのが、近代以降の科学で一般的な記述の仕方となり、いまでもそれは続いています」

彼はひとりインターネットだ

フンボルトのもうひとつの特徴として松島は、知のネットワークづくりを挙げた。「フンボルトは生涯5万通ぐらいの手紙を書いていて、その倍以上の手紙を受け取っており、情報のハブとなる、いわばひとりインターネットみたいなことをしていました。とにかく科学的な研究成果を独り占めせずに、必要な科学者にはどんどんその成果を与えたのです。学者たちの知のネットワークは当時も国境を越えて存在していましたが、自分自身がその中心となって学術的な情報を世界に広げていったのが、彼の特徴だと思います」
フンボルトのやり方とは対照的な、細分化され向かう先を失った科学に対して、山本は「これから改めてキーワードになるのは、エコロジーという発想」だと指摘する。エコロジーは、フンボルトからも多大な影響を受けたドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルが提唱した概念だ。
日本語では「生態学」と訳されるこの言葉は、ある生物のことを知りたければ、単体で調べるのではなく、その生物の周りにある地形や気候、ほかの生物との関係の全体を考える必要性を示す。「遠く離れた物事の必ずしも見えない関係を捉えるのがエコロジーの発想です。フンボルトが書簡で多くの人たちとやりとりをして惜しみなく知を共有したのも、いまこのボール(知識)を彼にパスしておけば、あとで誰かがゴールしてくれる、世界の見方と重なっているように思います」
松島によれば、フンボルトは南米の地からアフリカや欧米との連環に目をむけたことで、植民地開発がもたらす環境破壊など、地球規模で捉えるべき「自然」を見通す視座を獲得したという。「フンボルトには、すべてのつながりを見なければ、それらの問題が解決しないことがわかっていたと思います。いまで言えば、人類はAIとどう付き合うべきかとか、環境問題といった、一国だけでは取り組むことが難しい課題を解決するヒントが、フンボルトの知と向き合う姿勢を紐解くことで得られるように思います。いまの時代に科学が直面していることも、まさに同じなのです」http://wired.jp/2017/02/27/wired-on-wired-dx-vol27/

とても興味深く読みました:

再生核研究所声明286(2016.02.11) 細分化、専門家、単細胞、孤立化から総合化、統一へ

平和が長く続けば、社会は発展して自由な活動が進み、人々はおのれの関心、興味に従ってどんどんおのが世界を深化、拡大できる。社会が貧しければ、人間は居・食・住など,生物の基本的な欲求を満たす努力に多くの労力を掛けざるを得ない。世界史を顧みれば、愚かな人類史、闘争、戦争等のために如何に大きな労力を払ってきたかを 人類の愚かさの象徴として理解できよう。
個性に基づく、道の追求、興味の追求は 研究の発展と同様、細分化、専門化を多くの場合招き、相互の共感、共鳴、理解を得るのが難しくなる。数学などの抽象的な理論の世界など典型であるが、宗教、茶道、芸術などにも世に多いが、分からなくても理解し易い世界も、スポーツや音楽、美術など世に多い。理解しやすい分野では、評価もしやすく、社会的に大きな影響を与える現実がある。
スポーツなど内実的にはそれほどの深い意義があるわけではないが、関与している人々が所謂有名人になる要素が強いために、発言の影響力が大きい現実がある。それらの延長で、政界への出進も世情をににやかにしている。有名人でなければ、大統領候補にもなれない現実は 民主国家では基本的に存在する。
政治は大きな世界であり、個々の人生、世界を結びつける外面的には中心的な課題ではないだろうか。
専門家、個別化、趣味の世界に深まっても政治の大事な問題については、共通の話題の世界として、重視して行きたい。政治とは 国家とはどのようにあるべきか、社会はどのようにあるべきか の問題と理解できる。
個人の問題では、人生、世界、生命、宗教など共通の基本的な関心が深いが、 それらは人間の真智への愛に基づく共感、共鳴が個々の人間を結びつける素になるのではないだろうか。 実際、 人間の共通の真の話題とは、生物的な本能を超えては、次のようになるだろう:
人間と人生についても、人間存在の原理として、人間とは 知り、求めていく存在であるとして、
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
 人間は何でも知りたい、究めたい、それが本能である。これは要するに 神の意思を知りたい ということである。
人間は 所詮は個人としては、単細胞的能力、視野、独断と偏見に満ちた存在であるが、上記2面の共通の課題についても、自分の世界を超えて、関心、興味を抱いて行きたい。

以 上

再生核研究所声明3532017.2.2) ゼロ除算 記念日

2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは

再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志

で、最新のは

Announcement 352 (2017.2.2):  On the third birthday of the division by zero z/0=0 

である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。

1)     ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2)     予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3)     ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4)     この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5)     いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6)     ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上

追記:

The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:

Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue  1, 2017), 1-16. 
http://www.scirp.org/journal/alamt   http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html

http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf

再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する

アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更 かつて無かった事である。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の注意を換気したい。― この文脈では稀なる日本人数学者 関孝和の業績が世界の数学に活かせなかったことは 誠に残念に思われる。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。山田体の導入。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童に歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直角座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象接線などの新しい性質解析幾何学との美しい関係と調和すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること行列式と破壊現象の美しい関係など。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し、広範な応用を展開する。特に微分係数が正や負の無限大の時微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。
複素解析学においては 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円の鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考えの修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上に置ける大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響が期待される。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、人類の名誉にも関わることである。ゼロ除算の発見は 日本の世界に置ける顕著な貢献として世界史に記録されるだろう。研究と活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。
以 上
追記:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra & Matrix Theory6, 51-58.

再生核研究所声明325(2016.10.14) 
ゼロ除算の状況について ー 研究・教育活動への参加を求めて

アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における初歩的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の初歩的な部分の期待される変更 かつて無かった事である。ユークリッドの考えた空間と解析幾何学などで述べられる我々の空間は実は違っていた。いわゆる非ユークリッド空間とも違う空間が現れた。不思議な飛び、ワープ現象が起きている世界である。ゼロと無限の不思議な関係を述べている。これが我々の空間であると考えられる。
そこで、最近の成果を基に現状における学術書、教科書の変更すべき大勢を外観して置きたい。特に、大学学部までの初等数学において、日本人の寄与は皆無であると言えるから、ゼロ除算の教育、研究は日本人が数学の基礎に貢献できる稀なる好機にもなるので、数学者、教育者など関係者の協力、参加をお願いしたい。
先ず、数学の基礎である四則演算において ゼロでは割れない との世の定説を改め、自然に拡張された分数、割り算で、いつでも四則演算は例外なく、可能であるとする。数学はより美しく、完全であった。さらに、数学の奥深い世界を示している。ゼロ除算を含む体の構造、山田体が確立している。その考えは、殆ど当たり前の従来の演算の修正であるが、分数における考え方に新規で重要、面白い、概念がある。その際、小学生から割り算や分数の定義を除算の意味で 繰り返し減法(道脇方式)で定義し、ゼロ除算は自明であるとし 計算機が割り算を行うような算法で 計算方法も指導する。― この方法は割り算の簡明な算法として児童・生徒たちにも歓迎されるだろう。
反比例の法則や関数y=1/xの出現の際には、その原点での値はゼロであると 定義する。その広範な応用は 学習過程の進展に従って どんどん触れて行くこととする。応用する。
いわゆるユークリッド幾何学の学習においては、立体射影の概念に早期に触れ、ゼロ除算が拓いた新しい空間像を指導する。無限、無限の彼方の概念、平行線の概念、勾配の概念を変える必要がある。どのように、如何に、カリキュラムに取り組むかは、もちろん、慎重な検討が必要で、数学界、教育界などの関係者による国家的取り組み、協議が必要である。重要項目は、直交座標系で y軸の勾配はゼロであること。真無限における破壊現象接線などの新しい性質解析幾何学との美しい関係と調和すべての直線が原点を代数的に通り、平行な2直線は原点で代数的に交わっていること行列式と破壊現象の美しい関係など。三角関数や初等関数でも考え方を修正、補充する。直線とは、そもそも、従来の直線に原点を加えたもので、平行線の公理は実は成り立たず、我々の世界は、ユークリッド空間でも、いわゆる非ユークリッド幾何学でもない、新しい空間である。原点は、あらゆる直線の中心になっている。
大学レベルになれば、微積分、線形代数、微分方程式、複素解析をゼロ除算の発展の成果で修正、補充して行く。複素解析学におけるローラン展開の学習以前でも形式的なローラン展開(負べき項を含む展開)の中心の値をゼロ除算で定義し ― ゼロ除算算法、広範な応用を展開する。最も顕著な例は、tan 90度 の値がゼロであることで、いろいろ幾何学的な説明は、我々の空間の認識を変えるのに教育的で楽しい題材である。特に微分係数が正や負の無限大に収束(発散)する時微分係数をゼロと修正することによって、微分法の多くの公式や定理の表現が簡素化され、教科書の結構な記述の変更が要求される。媒介変数を含む多くの関数族は、ゼロ除算 算法統一的な視点が与えられる。多くの公式の記述が簡単になり、修正される。新しい、関数の素性が見えてくる。
複素解析学において 無限遠点はゼロで表現されると、コペルニクス的変更(無限とされていたのが実はゼロだった)を行い、極の概念を次のように変更する。極、特異点の定義は そのままであるが、それらの点の近傍で、限りなく無限の値に近づく値を位数まで込めて取るが、特異点自身では、ゼロ除算に言う、有限確定値をとるとする。その有限確定値のいろいろ幾何学的な意味を学ぶ。古典的な鏡像の定説;原点の 原点を中心とする円に関する鏡像は無限遠点であるは、誤りであり、修正し、ゼロであると いろいろな根拠によって説明する。これら、無限遠点の考え方の修正は、ユークリッド以来、我々の空間に対する認識の世界史上における大きな変更であり、数学を越えた世界観の変更を意味している。これはアリストテレスの世界の連続性の概念を変えるもので強力な不連続性を示している。 ― この文脈では天動説が地動説に変わった歴史上の事件が想起される。
ゼロ除算は 物理学を始め、広く自然科学や計算機科学への大きな影響があり、さらに哲学、宗教、文化への大きな影響がある。しかしながら、ゼロ除算の研究成果を教科書、学術書に遅滞なく取り入れていくことは、真智への愛、真理の追究の表現であり、四則演算が自由にできないとなれば、数学者ばかりではなく、人類の名誉にも関わることである。実際、ゼロ除算の歴史は 止むことのない闘争の歴史とともに人類の恥ずべき人類の愚かさの象徴となるだろう。世間ではゼロ除算について不適切な情報が溢れていて 今尚奇怪で抽象的な議論によって混乱していると言える。― 美しい世界が拓けているのに、誰がそれを閉ざそうと、隠したいと、無視したいと考えられるだろうか。我々は間違いを含む、不適切な数学を教えていると言える: ― 再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判 ―。
地動説のように真実は、実体は既に明らかである。 ― 研究と研究成果の活用の推進を 大きな夢を懐きながら 要請したい。 研究課題は基礎的で関与する分野は広い、いろいろな方の研究・教育活動への参加を求めたい。素人でも数学の研究に参加できる新しい初歩的な数学を沢山含んでいる。ゼロ除算は発展中の世界史上の事件、問題であると言える。
以 上
追記:
*156  Qian,T./Rodino,L.(eds.): Mathematical Analysis, Probability and
 Applications -Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China.
 (Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 177)  Sep. 2016 305 pp.            (Springer)
Paper:Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Dear Prof. Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
With reference to above, The Editor-in-Chief IJMC (Prof. Haydar Akca) accepted the your paper after getting positive and supporting respond from the reviewer.
Now, we inform you that your paper is accepted for next issue of International Journal of Mathematics and Computation 9 Vol. 28; Issue  1, 2017),
数学基礎学力研究会のホームページ
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