2015年6月26日金曜日

神は乗り越えられる試練しか与えない 本当にそう思いますか?h

神は乗り越えられる試練しか与えない
本当にそう思いますか?http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12147109017

それは曖昧な言葉ですが、大いに真実では?
深い意味がある。


再生核研究所声明227(2015.5.2) 日本の仏教の在り様についての疑問、キリスト教との奇妙な違い

(これは 90歳のおばあさんが 散歩の折り 休んで行かないと椅子を用意してくれたとき、神の問題と人間の終末における仏教とキリスト教の違いを話し、意見が一致した点における 仏教の在り様についての問題提起である)
その時、神様は存在しますか と聞いたのであるが、きっぱりと にこやかに 存在すると言明されたのは印象深い。しかし、神についてさらには詳しくは聞かなかった。記憶は何でもどんどん薄れていくといっていた。しかしながら、次の神の概念は 諒として微笑みをもって受け入れられたと思う:

再生核研究所声明122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。

そのときは、マリア様と幼児キリストの代わりに、お母さんと懐かれている赤ちゃんの喩えで話した。本声明の趣旨を述べる背景として、次の文脈を参照したい:

再生核研究所声明221(2015.4.3) ある数学者の仏教解説
― (前略): このように素晴らしい仏教の世界を みると、日本の仏教界の現状については 返す がえすも 残念に思われることがある。
日本の仏教が、葬式や先祖さまの供養ばかりの存在に 感じられて、生きた生活や社会に十分活かされていないのではないであろうか。仏教はもともと、人を救い、社会に活かすべきものとして、発祥、発展したのではないだろうか。日常に起きる、心の悩みや社会の問題に 仏教が本質的に大きな役割を果たせる思想を持っているのは自明であり、社会に活かせない状況は、誠に残念であると言わざるを得ない。
カトリック教の熱心なヨーロッパの田舎街で5年間暮らしたが、そこでは日常的に 教会は活動していて、土曜日や日曜日、祭日など教会は人々で溢れ、街は沢山の教会を有し、祭司様は 街の尊敬と親愛、信頼を受けていて、代表的な国立大学の卒業式にも臨席される程である。教会が街の精神的な支柱、中枢になっていることが良く分かる。
人々は人生を肯定され、安心して魂を天に返され、その際、親族の嘆きはそうは深くはなく、淡々としており、間をとってから、親しい友人たちをレストランに招待して、心を切り替えているようであった。教会はいろいろな相談や悩みなどを議論するサロンのような機能さえ果たしていた。

本声明の趣旨を 簡潔に次のように表現したい: キリスト教では 終末 人が生きている内に天にかえる心構えをさとし、人は人生を肯定して安心して 逝かれるに対して、多くの仏教の場合は如何であろうか。死んだ後に お経をあげているのが現状ではないだろうか? 一番大事な時にいなくて、済んでから何かされているようではないだろうか? ― ここは、生きている人に、みなさんもこのようになると 実は生きている人に対してさとしているのであろうか。 先祖さまの供養も 同じような意味を持つとも考えられる。 仏教徒は ゆかしいからそうかも知れない。― 他方、多くの宗教の大きな意義が 死からの解放、自由 にあるのではないだろうか。お釈迦様は 死者を弔うために、先祖さまを供養するために いろいろ教えられたのではなくて、 人々を救うために努力されたのではないだろうか。
この観点、多くの仏教徒に 仏教の在り様について、検討して頂きたいと考える。 折角の素晴らしい宗教が、お釈迦様の精神 が活かされていないのではないかと、感じている。この観点は 上記90歳の素晴らしい おばあさんの気持ち と一致していると感じた。
日本の神道も 素晴らしいのに、上記のように活かされていない面が多いのではないだろうか。― もっとも、神道は 無言で 雰囲気で伝えようとしているようにもみえる。

以 上

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