2015年6月16日火曜日

全米黒人地位向上協会の女性支部長、実は白人だった 2006年頃から黒人を騙る

全米黒人地位向上協会の女性支部長、実は白人だった 2006年頃から黒人を騙る

The Huffington Post | 執筆者: Cavan Sieczkowski
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投稿日: 2015年06月15日 10時16分 JST 更新: 2015年06月15日 10時16分 JST

全米黒人地位向上協会(NAACP)ワシントン州スポケーン市の女性支部長レイチェル・ドレザル氏(37)が、白人にもかかわらず長年黒人女性と偽っていたと、彼女の家族がメディアに暴露し、騒然となっている。

naacp
レイチェル・ドレザル氏

レイチェル氏は、イースタン・ワシントン大学アフリカ研究プログラムの非常勤講師として勤務している。また彼女は、「アメリカ内陸北西部の最も著名な人権活動家の一人」と言われている。地元紙「スポークスマン・レビュー」によると、彼女はスポケーン市警察のオンブズマン委員会の委員長で、彼女の履歴書には、白人、黒人、インド系として記載されていた。また、彼女は、アメリカに住む黒人であることについて、地元紙「インランダー」のサイト上でブログを数多く投稿している。

しかし、彼女の家族は、彼女は実はヨーロッパ系の白人女性だと明かした。彼女の子供の頃の写真には、明らかにブロンド、白人の子供が写っている。

母親のルザーン ・ドレザル氏は、「レイチェルが、ありのままの自分でいないことが非常に悲しい」と「スポークスマン・レビュー」紙に語った。また、レイチェル氏が、2006年または2007年に、家族が4人の黒人の子供を養子に迎えた頃から、黒人女性に変装し始めたことを明らかにした。

「もし、彼女がみんなに正直であったならば、アフリカ系アメリカ人コミュニティのために彼女が活動してきたことはもっと効果的だったはずです」

rachel dolezal
子供の頃のレイチェル氏

レイチェル氏の父親ローレンス・ドレザル氏によると、彼女はベルヘイブン大学の在学中に、「人種間の和解コミュニティ」の一員であったいう。ワシントン・ポスト紙によると、彼女はその後、美術を勉強するために、主に黒人が通うハワード大学を受験した。その際に、「黒人の肖像画ばかり」提出していた。ハワード大学は「黒人女性と思い込んで」入学を認め、彼女は全額支給奨学金を受給していた。またハワード大学では、彼女は「黒人文化に深く同化していたため、そこで、彼女はアイデンティティを転換してしまった」という。

地元テレビ局KXLYのジェフ・ハンフリー記者は、出自に関する問題についてレイチェル・ドレザル氏に直撃した。ハンフリー記者は、彼女が年上の黒人男性の隣に立っている写真を見せた。レイチェル氏は、2015年に行われたNAACPのテープカットセレモニー前のプロモーション時に写真に写っている男は、彼女の父親だと主張していた。

「あなたは、アフリカ系ですか?」とハンフリー記者は尋ねた。

「質問の意味が理解できません」と彼女は答えた。

「私は言いましたよね。はい、それは私の父です、と。そして、彼は1月にその場に来ることができませんでした、と言ったでしょう?」


ハンフリー記者が彼女に、両親は白人なのかと尋ねたとき、彼女はマイクを外して立ち去った。

父親のローレンス氏はBuzzFeedに、自分たち両親と娘は疎遠になっていると語った。その理由は、「私たちは白人だから、スポケーン市で彼女が参加する集会の人たちに見られたくないから」だという。

レイチェル・ドレザル氏は、彼女の両親の主張に対して「スポークスマン・レビュー」紙で、こう反論した。「我々は皆アフリカ大陸に祖先がいます」。

また、彼女はこの問題が注目されたのは法的な紛争が生じたからだと語った。ワシントン・ポスト紙によると、彼女は実家の家庭内虐待を主張し、黒人である1歳の義弟のアザイア氏の監護権を得たという。現在、アザイアさんは彼女とスポーケン市に住んでいるが、レイチェル氏は、アザイア氏を息子だと主張している。

彼女は過去10年間に、9件のヘイトクライム(憎悪犯罪)の被害を受けたと警察に届け出ている。

KXLYによると、NAACPスポケーン支部長である彼女は、2月に「戦争の豚」といったヘイトクライム的な脅迫の手紙や、リンチの場面を写した写真がNAACPの私書箱に投じられていたと主張した。しかし、地元警察によると、封筒は郵便局で処理されていなかったため、私書箱の鍵を持つ人間が投函したと断定した。

また、彼女は、自分の家の周りに首吊り用の縄が置かれているのを発見したと主張した。

NAACPは6月12日、この問題について声明を発表した。

106年もの間、全米黒人地位向上協会は、すべての宗教、人種、色や信条の人々から支援を受けてきてきた。本協会はその長い誇り高き伝統を守ってきた。
NAACPワシントン州スポケーン市支部長レイチェル・ドレザルは彼女の家族との間に法的な問題を抱えており、我々はこの問題で彼女のプライバシーを尊重する。
ある人間の人種的アイデンティティは、NAACPのリーダーシップを取る上で適格基準または不適格標準になることはない。NAACPアラスカ、オレゴン、ワシントン州会議は、レイチェル・ドレザルがこれまで行ってきた擁護活動を支持する。NAACPは、この国の隅々にわたる、すべての人々のために、政治、教育、および経済的な正義の維持に努める。また、私たちはすべてのアメリカ人に会員になって、私たちの組織のリーダーとして活動するように奨励する。
協会はまた、通報された脅迫は「信頼できる」とした。

ハフポストUS版はレイチェル氏とイースタン・ワシントン大学にコメントを求めたが、回答は得られなかった。

AP通信によると、レイチェル氏は15日に声明を発表するという。http://www.huffingtonpost.jp/2015/06/14/rachel-dolezal-naacp_n_7582132.html


再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

(12月10日16時 論文精読を一通り通読したら無性に書きたくなって始めたものである)
これは声明166の延長にあるので、まず、その要点を振り返っておこう: ―
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観:
ゼロ除算の新しい結果とは 簡単に述べれば、分数、割り算の意味を自然に拡張すると、あるいは割り算の固有の意味から、何でもゼロで割れば ゼロになると言うこと、そして、
関数 y = 1/x のグラフは、原点で ゼロである、すなわち、 1/0=0 である。複素解析学では、無限遠点が数値で0、すなわち、原点に一致している ということである。驚くべきことは、原点における 強力な不連続性にある。これらの現象は奇妙にも、ユニバースの普遍的な現象として 惹きつけるものがある。永遠の彼方は、どこまでも遠く行くが、その先は、突然、現在に戻っている。始点と終点の一致、無限とゼロの一致である。理想的な2つの質点間に働く、ニュートンの万有引力F は 2つの質量をm、M、万有引力定数をGとすると、距離をrとすれば
F = G mM/r^2。
rをゼロに近づければ 正の無限に発散するが、rが ゼロに成れば突然、ゼロである。2つの質点が重なれば、力は働かず、安定しないように見えるが、2つが分離すれば、大きな力に逆らう必要が有り、実は安定していると説明できる。ゼロと無限の裏腹の関係と捉えることができる。これは意外に、2元論における 対立するもの一般における裏腹の関係と捉えることができる: 生と死、戦争と平和、男と女、表と裏、すなわち、2元論― 神は2を愛し給う:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 - ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅広く 面白く触れたい。
における 2元の奇妙な関係である。
他方、ゼロ除算は、爆発や衝突における強力な不連続性を表現しているとして、論文で触れられているが、まこと、ユニバースの普遍的な現象として そのような強力な不連続性が存在するのではないだろうか。糸でも切れる瞬間と切れるまでの現象、物体でも近づいている場合と合体した場合では、全然違う現象として考えられ、強力な不連続性は 世に見られる普遍的な現象ではないだろうか。
生も死も表裏一体である、勝利も敗北も、喜びも苦しみも、幸せも不幸も、自由も束縛も、愛も憎しみも、等々表裏一体であるとの世界観が 視野と心の在りように新しい世界観をもたらすと考えられる。―
ゼロ除算の、無限とゼロの微妙な関係に驚嘆している間に、空がどんどん晴れてくるように新しい世界の、視野がどんどん広がり、驚きの感情が湧いている。言わば、明暗が、両極端のように、明、暗と分けられたものではなく、微妙な密接な、関係である。その内容は広がりと深さを持っていて簡単に表現できるものではない。また、みえた世界をそのまま表現すれば、現在でもなお、天動説が地動説に変わったときのように、また、非ユークリッド幾何学が出現したときのように 世は騒然となるだろう。そこで、注意深く、各論を、断片を 折をみて、表現しよう。
そこで、初回、生命の本質的な問題、生と死の問題をすこし触れたい。
食物連鎖の生物界の冷厳な事実、食われるものと食うものの立場。声明36で大きな命の概念で全体を捉えようとしたが、それらは殆ど等価の立場ではないだろうか。実際、猫がねずみをくわえて誇らしげに通りすぎていくのを見た。ところが奇妙にも、ねずみは歓喜の喜びにひたって悠然としてくわえられているようにみえた。自然の理。蛇が燕の巣を襲い、全滅させられたが、蛇は悠然と上手くいきました、ごめんなさいというような表情で消えていった。襲われた燕たちは一瞬で魔神に掛かったように気を失い、蛇に飲み込まれてしまった。少し、経つと元気に巣立ち厳しい自然の中を南国まで飛んで行っていろいろ苦労するよりは、蛇のお腹で 安らかな終末の方がよほどましだというような情感を覚えた。もちろん、ヒナを襲われた親鳥は切なく天空を舞っていたが、やがて、ヒナたちは最も良い生涯を終えたと、本能的に感じて、新しい生命活動に、励み出している。このようなことを何万年と繰り返してきたのが、燕と蛇の関係である。暗(あん)という面には ちょうど明(めい)と同じような明るい面があるのではないだろうか。明暗は対立概念ではなくて、微妙に調和がとれているのではないだろうか。ユニバースにおける全体の調和を観、述べている。人類が生命のただ延長を志向しているとすれば、それは、古い世界観に基づく無明の世界だろう。夜明けを迎えた、在るべき世界観とは 生も死も殆ど等価であり、共に愛すべきものであるということである。在るも良い、消えるも良い。ゼロ除算の驚きは そのような感性を育てているように感じられる。死からの開放に寄与するだろう。生命の誕生は素晴らしく、喜びと夢が湧いてきて、大きな光が差してくるようである。世界が開かれてくる。われわれの終末も似たようなものではないだろうか。大きな世界、私たちをこの世に送り込んだものの 大きな愛に満ちた世界にとけこんでいくようなものではないだろうか。この意味で、あらゆる生命は 大きな愛に包まれて、 支えられていると感じられるだろう。これは神の予感を述べている。 私たちは、愛されている(愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra & Matrix Theory. Vol.4 No.2 2014 (2014), 87-95. http://www.scirp.org/journal/ALAMT/



再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え

ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:

再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界

ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。

と述べた。

ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。

ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。

以 上

ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・


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