2015年5月11日月曜日

記事 キャリコネニュース2015年05月09日 18:00「高学歴は親が用意した道ではない」と豪語する福田萌 1歳の娘に「英才教育」始める

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キャリコネニュース2015年05月09日 18:00「高学歴は親が用意した道ではない」と豪語する福田萌 1歳の娘に「英才教育」始める



「学歴は努力の証明書」と語り、ネットで話題を呼んでいるタレントの福田萌さん。キャリコネニュースの5月1日の記事で福田さんの「高学歴論」に対するネットの声を取り上げると、多くの読者から反響があった。
記事では、福田さんが「高学歴を掴み取ったのは親が用意した道を歩んできたのではない」と豪語し、夫の中田敦彦さんについても「慶應に入るだけの努力をしてきたから、何かあった時も頑張る馬力があるはず」と持ち上げる様子を伝えた。
炎上にも「低学歴の嫉妬乙」と擁護コメントが多いが
配信先のニコニコニュースでは、1800件を超えるコメントが殺到。当初は批判が多く炎上を起こしたネットユーザーだが、記事に対しては福田さんの発言を「どこが間違ってるの?」と一転して擁護する人も多い。
「ぐう正論」「まあ騒いでるのは学歴コンプの方たちでしょう」
「低学歴の嫉妬乙 努力すれば誰でも上がれるのが受験勉強」
「試験モノって孤独に耐えてひたすら継続しないと受からんよ」
その一方で、福田さんが使う「学歴」や「努力」の言葉に違和感を抱く人もいた。
「専門性についてカケラも話が出ないのがそもそもっていうか」
福田さんの自負は、大学合格までに多大な努力を払ったことを指しているのだろう。しかし本来、学歴とは「○○大学卒」というもの。それを誇るのであれば、大学に入って学んだ努力を踏まえたコメントがあってもいい、というわけだ。
日本の大学は入ってしまえば、よほどのことがない限り卒業できる。福田さんは横浜国立大学のミスキャンパスに選ばれ、大学在学中から芸能活動を始めたというが、「横国卒」の学歴にふさわしい専門性を身につけることができたのだろうか。
あらゆる成功には「遺伝」や「運」も関係するとして、「努力した人がすべて成功するわけじゃないことを知らんのか」と苦言を呈す人もいる。
根強い反論「親の協力もかなりの影響がある」
また、福田さんの「高学歴は親が用意した道ではない」とする意見に対しても、「親の協力もかなりの影響がある」と反論する意見が寄せられている。
「親がどれだけ教育にリソースを割いてきたかというのも同じくらいに大きい」
「親が用意してくれたのはレールじゃなくて環境を用意している」
「親はチャンス、機会を与えている」
高学歴に親の影響はない、という福田さんだが、自分の子どもにはすでに英才教育を施している。4月28日放送の「解決!ナイナイアンサー」(日本テレビ系)では、1歳の娘に知育教育など早くも3つの習い事をさせていると明かしていた。
5月8日のブログでは、1歳の娘さんが電卓にはまっていると紹介している。
「将来が楽しみですなぁ!!会計士?税理士?はたまた銀行員?(また娘に英才教育って炎上しちゃう!!)」
大学受験の合格には本人の努力が不可欠だが、やはり親が与える環境に子どもは影響される。福田さん自身が、それを子どもで証明することになるのかもしれない。http://blogos.com/article/111778/

教育とは 何か? ○とは 何か? じっくり考えたい・
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
 
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上


特に次の観点を指摘して置きたい:
1) 教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2) あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3) 勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4) 優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5) ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6) 簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7) 大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8) 大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで  画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以  上
再生核研究所声明218(2015.3.19)興味、関心、感動;人間とは
(2015.3.14:13時頃、歩けることの不思議さを感じながら、春先の 昼食後の散歩の折り、自然に湧いた考えである。)
考えの中心が 次の声明にあるので、まず要点を引用する:
再生核研究所声明 76(2012.2.16)  教育における心得 ― 教育原理:
(前略)
まず、大いに注意したいのは、 人間が教育を受けて、大きく性格、人格、価値観、感性などなどが 強い影響を受ける事実である。これは教育を受けて を 環境によってと 広く言い換えられる。 特に幼児教育の影響は甚大であるとも言える。 あたかも人間が形成されていくように思える程である。 顕著な例が、言葉の学習である。 実際、普通の人間ならば、 幼児の時代に過ごした、どのような世界の言語も 自然に話せるようになるだろう。 これは事実驚異的なことと言える。 幼児教育が、どのような環境、教育でどのような影響を与えるかの研究は ほとんど未知の研究分野ではないだろうか。
いろいろな天才の出現; 音楽や芸術の才能、スポーツの才能の開花、数学の才能の開花、などなど広範に及ぶ、才能の開花と環境の影響である。 大きな未知の分野として、触れておきたい。
次に人格形成の時期における問題である。 人は好きなことをやりたくなり、感動する分野で,価値を見出すであろう。 ここが大問題である。どうして、そのような感性がどのような環境、教育で育つのであろうか。 好き嫌いなどの感性、感動する対象がどのようにして定まって来るのであろうか。 固有の人間の生命活動と、環境の極めて複雑な関係で発達するようにみえ、その過程は極めて漠然としているのが現状ではないだろうか。
あまりにも未知のことが広くて、深いので、そこで、基本として自由放任主義や自由を尊重した教育原理が考えられるのは、当然である。また、それは、自然に帰れとも表現されるだろう。
もちろん、これでは、 良き社会人としての人間の成長が望めず、また、社会、文化の継承の面からも基本的な問題が生じる、 そこで、基本的なカリキュラムを用意して、学校生活を 調えて、教育を組織的に行うことになる。
個性を生かす、個人の能力を活かす、個人の全人的な成長を図ること; 良き社会人を育成し、文化の継承を図る、これらは教育の基本的な要素、教育原理であると考えられる。
軍国主義的な教育、偏狭な愛国主義的な教育が、 また、宗教などが 全人格に甚大な影響を与えてきた事実を振り返るまでもなく、学校教育の影響も強く、他方、いろいろな個別的な、専門教育も、特殊教育も個人に甚大な影響を与えてきた多くの例を想起したい。
特に注目したいのは、初めて受けた教育の影響の大きさである。 若いときに受けた教育の影響が 後々まで影響を与えて、3つ子の魂百までもの諺は、教育の故か、人の性格は変わらない事実を 如実に示している。 3つ子の性格は もちろん大きく、環境と教育の影響を受けているのは当然である。 狼に育てられれば、狼のようになってしまう。 大学で、ある専門に惹かれると、終生その学問・研究に惹かれ、没頭して、そこに自分の世界を見出すのは 世に多い現象である。 後で、変更できないような甚大な影響を受けるので、何事初期教育は極めて大事な観点ではないだろうか。
この声明の意図は、教育の枠をはめすぎ、型にはめすぎると、変な人間ができる危険性が高いのではないかと 注意を喚起することである。(以下略)
人間は 多くは本能原理で、生物面では共通にできているが、純粋に趣味、関心、興味、好みなどに於いては 驚くべき多様性を有し、それは社会の多様性、人間世界の広さと深さの原理である。問題は、喜びを感じる、感動することが、人によって相当に違いがあり、それが価値観の相違となって現れてくると言う事である。1日 本当に自由な日が与えられたとき、どのように過ごしたいかは、人それぞれである。価値判断もそれぞれである。そのような感性、人生観や世界観がどのように構成されるかは、人間とは愛するところのものである ともみなせるから、上記声明76のように極めて興味深く、大事な基本的な問題ではないだろうか。
人間には、共感、共鳴したい本能があるから、共通の感動を覚えたり、共通の価値観を持つ者が群がり、ある社会を構成するだろう。これは人間社会に無数に存在する、社会の細胞のようなものになる。俳句会やお花教室、談話会や教室、塾 等々。
8歳で巨大素数の構造に興味がある、6歳で無限に興味があるなど、どうしてそのような興味を抱いたかは、大いに興味がある。一般に、早く、あるいは長く関与したり、学習していると愛情が深まり、興味が深まり、 どんどん能力が進み、感性も発展して、志や夢、感動の元となるは 世に広く見られる。
このように考えて来ると、個人でも、集団でも、人間と数学は同じようなところがあることに気づく。 数学は、膨大に広がっているが、興味を持たれる部分がどんどん発展して、研究者は専門や分野の中に 人生を掛けていくことになる。個人でも、ある集団でもそうである。応用される分野では 要請される課題の研究になるが、純粋数学の場合には本質的に興味によって方向が定まると言える。そこで、なぜ、興味を抱くか、どうしてそのような数学に興味を抱くか、それは、人間とは 何者かと問うことである。何をするように人間は 作られているのだろうか。生存の問題を超えた、高いレヴェルの段階における問題を提起している。人間存在の原理; 存在、智、愛、すなわち、存在することは、 知ることであり、また、何かを求めることである。 存在することを求めるは 当然理解できるが、 しかし、それらを超えて、人間は何を求めているのだろうか。真、善、美、聖と表現されることを求めるは 古来から、知られてきているが、その背後に、感動することを求めるは、当然であるが ― 人間が好きなことをして、好きなことを求めるは当然であるから – 人間は何に感動するかと問うている。すなわち、人間は、何をするように作られているか。それが、個人の生命、もともとのものと環境によって定められていることは 確かである。
数学にいろいろな公理系が有って、いろいろな数学が有るように 人や民族にはいろいろな文化背景を持っていて、感動するもの、仕方、価値観などでも相当な違いが存在する。それらの間の関係と評価、交流などは基本的な問題があるが、人間には、新規なもの、珍しいもの、に興味と関心をもつ本能があるのは確かであるが、最終的な評価はどのようになるであろうか。
この声明は 論旨が不明瞭であるが、基本的な興味深い、未知の世界に注意を喚起させたものとして、未完の声明としたい.
人間は、何をするように作られているかの問題について、相当に良い解答を得ていることに気づく:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
関係話題について、下記の声明も参照:
再生核研究所声明 112(2013.3.14) 公理系からの脱却、論理的思考、逆思考によって、視野を高め、広めよ ― 平成暗黒時代を このまま終わらせて 良いものか
再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない
再生核研究所声明175(2014.8.8) 人間の擁く 大きな虚像
再生核研究所声明198(2015.1.14)計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
以 上

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