いじめ、不登校、自殺未遂……。SEALDs奥田愛基の壮絶な過去と、「生きる」ために読んだ本との出会い
2016年6月28日 6時30分 ダ・ヴィンチニュース
奥田愛基氏
写真拡大
2015年夏、安保法案反対を訴え10万人規模のデモの中心的存在になり、今も7月10日の参院選に向けて投票の呼びかけを続けているSEALDs(シールズ:自由と民主主義のための学生緊急行動)。その創設メンバーの奥田愛基さんが初の著書『変える』(河出書房新社)で壮絶な過去からSEALDs解散までを綴っている。いじめ、不登校、自殺未遂と、いくつもの絶望を経験してきた彼はなぜ「生きる」ことを選んだのか? インタビュー前編ではその生い立ちと彼に影響を与えた本の読書遍歴に迫る。
■自分の過去を振り返って活字にしていく作業はかなりしんどかった
――『変える』を書こうと思った理由からお聞かせください。
奥田愛基さん(以下、奥田) 最初は「14歳のための政治学」みたいな、自分よりちょっと年下の子どもたちに向けた、政治への関わり方を考えるような本を書きたいと思っていたんです。そこでまず、なぜデモや政治的なものに関わりはじめたか、という自分の過去のことを書きはじめたらそっちの比重が高くなってしまった。
でも編集の方も「1冊目の本だからまずは奥田さんにしか書けないことを書いたほうがいい」と言ってくれたのでそのまま絞りだすような気持ちで書き進めました。今でもちょっと恥ずかしいんですけど。
去年の中学生の自殺者数が過去最多の102人になったというニュースも(※) 、中学生当時の苦しかった自分のことをちゃんと書かないといけないと思った理由のひとつです。日本人の自殺率は減っているのに中学生の自殺は増えている。本にも書きましたが、自分も不登校だったとき、苦しくてしんどくて、あのとき死んでしまっていたとしてもまったくおかしくなかった。
そういう僕自身の経験を書かずに、ただ政治の話をストレートに書いたところで、「どうせ恵まれた大学生が書いた話でしょ」って思われるのもちょっと違うなって思って。ただ改めて自分の過去を振り返って活字にしていく作業はかなりしんどかったです。
10年、20年の人生を限られた字数で書かなきゃいけないのに気持ちがついていかなかったというか。いじめられて部屋から一歩も出られなかった自分が、国会内外でスピーチをしている状況が不思議ですね。
■ホームレスを見て見ぬふりする世の中と、見て見ぬふりできない自分の家庭
――ご実家はキリスト教の教会で、牧師のお父様はホームレスや未成年の自立支援をずっと続けている方です。ご自宅にもそういった“家族”が常に寝泊まりしていて一緒にごはんを食べたりする環境をどう思っていましたか?
奥田 当時はあんまり特別だとは思ってなくて、父親がやってる仕事もほかの人と大きく違っているとは思わなかったです。ただ今日出会った人が次の日に死んじゃうとか、父親が助けたかった人の葬式に一緒に行かなきゃいけないとか日常的にあるので、人ってこんなに簡単に死ぬんだって思いました。
そういう現実を知るとやっぱり、食べるものがない人がいればごはん を差し出したいって思うし、泊まるところなければうちに来ればいいじゃんって思う。今は笑い話のように「家にマザー・テレサがいるとうざかった」とか言ってますけど、当時はそういう環境が当たり前だと思っていました。
――奥田さんの原点はそこでしょうか。
奥田 誰でもそうだと思いますが、父親の影響は免れないかもしれません。ホームレスが路上にいても見て見ぬふりする世の中と、見て見ぬふりできない自分の家庭。中学にあがった頃からそのギャップを感じはじめました。「これ自分で実際にやるのはムリ、絶対ムリ。何やっても誰かがどこかで死んでいくし、うちで数千人のホームレスをみることはできないし」って。
社会に対する思いも同じで、路上で「貧困で困っている子どもたちのために募金をお願いしまーす!」とか叫んでる人に、「じゃあ、あなたたちがその子どもたちを引き取れますか?」って言ったら「それは無理でしょ」ってなりますよね。
父親のことは尊敬してるけど、自分はああはなれない、そんな器用じゃない。でも自分が飯食って布団で寝ているとき、飯も食えず布団に寝ることもできない人がたくさんいる現実は自覚している。そういう中学時代はすごくしんどかったです。
■「そうか、逃げるという手もあるのか」と気がついて沖縄に転校
――そんななか、奥田さん自身がいじめに遭ってかなり深刻な状況に陥っていきます。今 はだいぶ客観視できるようになりましたか。
奥田 うーん、平べったくはまだ客観視できないですけど、本当にしんどいことって記憶からスコーンって抜け落ちたりするので、時間とかいろんな距離感ができたこともあってあのときの自分に向き合えたんだと思います。主観的には絶対にあのときの自分には戻れないし、そうなったら多分生きてられないですね。
――絶望の淵から救ってくれたのは、ふらっと自宅に来てくれた友人やたまたま目にした鴻上尚史さんの言葉で、どれも自分から求めたわけでなく偶発的に起きた ことばかりですね。
奥田 ほんとすべて偶然です。なにか決定的な瞬間があったから自殺を踏みとどまったわけじゃなくて、いろんな偶然が積み重なって流れるように時間が進んでいっただけで。
でも人間ってそういうもんなんじゃないかな。友だちと明け方まで遊んで『木更津キャッツアイ』や『池袋ウエストゲートパーク』について語り明かしたりしているうちに気がついたら学校に行けるようになったり。
鴻上尚史さんの新聞連載の「いじめられている君へ」ってタイトルを見たときは「超上から目線でウザい」って思ったんですけど、あのメッセージに誘発されて「そういう手もあるのか」って沖縄行きを決めましたから。
「いじめられてる君へ
あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げ続けることです。学校に行かない自分をせめる必要はありません。
だいじょうぶ。この世の中は、あなたが思うより、ずっと広いのです。あなたが安心して生活できる場所が、ぜったいにあります。それは、小さな村か南の島かもしれません」―劇作家・鴻上尚史さんの朝日新聞の連載より
この言葉を目にしなかったら今頃どうなってたかわかりません。西鉄バスジャック事件のネオ麦茶や黒子のバスケ事件の犯人みたいに、どうせ死んじゃうんだから人殺しちゃおうっていう気持ちになるのもわかるし、自分だってそうなっていたかもしれない。
僕のことを「確固たる意思 を持った強いメッセージを発信している人」みたいに言う人もいますけど、そんな人間じゃないですよ。死んでてもおかしくないし、一歩間違えたらネトウヨとか引きこもりニートとか十分ありえたと思う。中学時代の自分が今の自分を見たらウザいだろうともいまだに思ってます。
――中2で沖縄の鳩間島に転校していじめから解放されて、海で毎日遊ぶような生活をしているなかで自殺未遂してしまいますね。あれはショックでした。
奥田 そんなに簡単に人は変われないです。学校に行って勉強するだけでかなり進歩したけど、小さな島の狭いコミュニティのなかで生きていくのもそれなりに大変でしんどかったので。
――その時期むさぼるように本を読んでますね。森絵都、伊坂幸太郎、夏目漱石、太宰治、宮澤賢治……。読書で生きるためのバランスをとっているように見えました。
奥田 年間百数十冊は読んでました。図書館にあるものを片っ端から手にとって『リング』文庫版とかまで読んだ(笑)。太宰の『人間失格』を読んだときは1週間ぐらいボーッとして、何やってても見透かされてるような気がしました。自分では普通の人になろうとしてるんだけど、「どこまで行ってもお前は普通にはなれないよね」って言われているような絶望感、劣等感をものすごく感じてた。
一方で、金城一紀の『GO』、石田衣良の『4TEEN』、白岩玄の『野ブタ。をプロデュース』とかの面白い小説も好きで、100%共感はしなくても早く帰ってあの続きを読まなきゃみたいな、そういうところに救われた部分はあります。繰り返し読んだ『GO』に出てくる「広い世界を見ろ。あとは自分で決めろ」っていう言葉とか素直に「ああ、そうかもな」って思えました。
取材・文=樺山美夏
【後編へ続く】(6/28更新)http://news.livedoor.com/article/detail/11695104/
学校に下記のような状況で、いじめが沢山あるという世相だと思います。
ところが、先生は、忙しすぎて、個々の問題に関わりたくない 或いは、事なかれ主義のように、対応して逃げの姿勢が、あるのではないでしょうか。
このような状況は、先生の忙しさから、批判できないような状況があると考えます。
そこで、今朝考えたのですが、退職した先生方や関係者たちとボランティアの精神で、学校のいろいろな問題に協力してくれるようなコミュニティを学校ごとに作って、そのような問題について、個々に生徒の相談にのってあげるような体制が望まれます。
実際そのような事で悩んでいる親子さんが、いろいろ悩んで相談にきています。
このような問題は、結構気苦労が多く、ある程度のグループで、対応してあげるような体制が必要だと考えます。
学校は、保護者を中心に開き、そのようなコミュニティを作る様に、努力すべきだと考えます。
現在 逆に学校は、社会から隔離しているような心持がないでしょうか。
再生核研究所声明 4 (2007/03/17):競争社会から個性を活かせる社会に:
現在、日本を覆っている不安な状況を打破し、明るい未来を切り拓く第1歩として、憲法第25条の精神を高揚させ 最低生活の保障による連帯を確認する事の必要性を訴えている(声明3)。いじめ、犯罪、モラルの低下、そして全国に広がる財政赤字など、それらの大きな原因として、経済環境の厳しさとともに、貧しい競争意識と受験勉強に代表される貧しい戦後の教育内容にあると考えます。考え方を変えるのは簡単ではありませんが 精神、考え方を競争社会から個性を活かせる社会に変えていく必要性があるのではないでしょうか。
その理由は:
1)まず競争とは、1つの価値、ある判断の下での順位になり、その点では個性や、特殊性を排除した価値観の画一化に繋がる危険性を有している。例えば現在の受験制度では多くの場合に受験科目の得点で順位が定められ、概ねそれによって合格、不合格が定まり、その流れで入学の大学が定まり、そして同様に大学の伝統的な序列で一定の評価が定まっていく流れになっていると考えられる。もちろん伝統的に行われてきた体制はそれなりの理由があり尊重されなければならないと考えますが、評価をこれらで1元的に考えることには大きな問題があると思います。例えばそのような流れ以外の道を選んだ人たちの立場です。 スポーツ選手や、芸術家、芸能関係者、技術者、職人、棋士、実業家などなどです。
2)スポーツなどの世界では競争はかなり明確に理解でき、競争の世界として、もちろん結構だと思います。例えばお相撲さんは優勝を目指して努力されているわけです。しかし歌い手さんたちは それぞれの個性と持ち味を活かしていろいろな人が活躍されていますが、それとて、いろいろな評価が下されますが、その時の競争とは考えられてもお互いに芸を高めていくような いわば精進の競争であり大いに勧められるべき競争と言えます。
3)これに対して貧しい競争とは、相手との比較ばかりに気を取られ、自分を見失った競争であり、自分の個性を活かせないところで、相手より優位に立とうする競争の事です。自分のむかないところで、無理して競争に駆り立てられている状況はないでしょうか。
4)日本の教育の重点が いわゆる学力中心で、知識中心になっていないでしょうか。そして、いわゆる頭のよい人、学力のある人がすべてのような1元的な価値判断が余りにも強すぎはしないでしょうか。 勉強の嫌いな子や勉強のできない子、いわゆる優秀でない人と言われている人が それゆえに低く見られてはいないでしょうか。勉強ができず、学力がなくても、いわゆる優秀でなくてもいろいろな長所があって、よい個性を持っているのにそれらが評価されず、また無視されるようにはなっていないでしょうか。これでは、勉強のできない子は学校が嫌いになり、やがて社会から疎外されるようになってしまわないでしょうか。絵が得意で感銘させる人や、工作がうまく名人的と思われる人の才能を引き出せない社会は社会の大きな損失にはならないでしょうか。運動会などやキャンプ生活などで多くの体験授業などがあれば いろいろな才能が発揮され、学力以外のいろいろな個性や、才能を発見できる機会が出て来るのではないでしょうか。もちろん実社会は大きな世界です。
5)学力中心による教育では、生徒の個性を活かせず、1元的な価値判断で多くの個性と才能をうずもらせてしまうだけではなく、才能を活かせない生徒は社会から疎外され、不満が増大する事になり、社会は不安定になると思います。
6)個性を活かせる社会とは 社会にはいろいろな人が必要であり、それぞれ自分の得意な分野や好きな分野で、個性が活かせるようなところで社会に参加して、助け合っていくような社会のことです。強い人も弱い人も、考える事が得意な人も苦手な人もそれぞれ長所もあり短所もありそれぞれが補完し、助け合っていく社会です。このような社会では、苛めも、犯罪も生じる土壌がないのではないでしょうか。
7)財政赤字について触れましたが、無いお金を使うという事自体が無責任の結果ではないでしょうか。短期的に赤字という事は仕方がないことですが、赤字を増大させていくというのは余りにも無責任と言われても仕方がないのではないでしょうか。これらの背後には学力を付けることばかりに走り、責任感の無い自己中心的な教育が生み出した日本人全体の精神的な土壌から起きているという根強い原因があるのではないでしょうか。
8)何かというと経済効果や活力のある社会という観点が問題になりますが、少数の自爆テロを起す人を抱える社会はどれほど、経済的にマイナスを生むことでしょうか。そのよう状況では例えば新幹線を守るにはどれほどの経費がかかることになるでしょうか。あらゆる所で、厳重な警備を必要とする社会になってしまいます。それに対して 社会に強い不満を持つ人を生み出さない社会とは何と素晴らしい社会でしょうか。この観点からも憲法第25条の精神を思い出すことは大変いい状況を生むのではないでしょうか。
国が衰退したら、勝ち組も負け組みも、公務員も、もちろん、検察庁も、マスコミ関係者も みんな困るのでは? 1代自分だけうまく行っても、2代、3代 お孫さんたちは?日本人には、必ず愛国心が湧いて来ると信じています。
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10114138890
【仏国ブログ】日本のいじめ「単一民族社会が生み出した副産物か」
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0915&f=national_0915_086.shtml
【台湾ブログ】素晴らしい日本、でもいじめなどの厳しい問題もあり
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0531&f=national_0531_241.shtml
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
http://www.cnn.co.jp/business/35035799.html
国の借金1024兆円=国民1人当たり802万円―11年度末見込み
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111028-00000162-jij-bus_all
日本の財政を考える より
http://www.zaisei.mof.go.jp/
再生核研究所声明182(2014.11.26) 世界、縄張り、単細胞、宇宙
(初秋、猿の家族が2日間 20頭くらい訪れ まだ渋い 3本の甘柿を食べ尽くして 近くの山に姿を消した。2014.11.9 仕事の区切りがついて、研究室から山を眺めていて 今頃どこで何をしているだろうかと気遣って 人生を想って構想が湧いたが、焦点が絞れなかった。)
猿の1団には 生息領域が 相当にしっかり有ると言える。人間でも、江戸時代以前では概ね、終日歩いて行ける距離 概ね半径40キロメートル以内くらいに 普通の人の生活圏は限られていたと言えよう。生涯でもそれを越えた世界に立ち入るのは、希なことであったのではないだろうか。婚姻なども その範囲に多くは限られていたと言える。 多くの動物には 縄張りなどの生活圏が存在していると言える。
そこで、一人の人間Aの存在範囲に思いを巡らしたい。A の存在し、想像し、活動する世界全体を Aの世界Bとして、それは、B の世界、宇宙と考えよう。勿論、B はいわゆる外なる大きな 世界と複雑に関係しているが、A が認知できる一切の世界を Bと考えよう。
何が言いたいのか。それは、大きな世界に於ける 個人の存在の小ささである。特に、個人が大きな世界、人間社会に与える影響は 普通は極めて小さいと言うことである。基本的に次のように捉えられる:
再生核研究所声明 35: 社会と個人の在りよう ― 細胞の役割
再生核研究所声明85: 食欲から人間を考える ― 飽きること
言わば、個人の物理的な制限である。
歌の世界で例えてみよう。 日本には素晴らしい歌があって、歌謡界のレヴェルは高く、愛好者も実に多く、歌については 日本は世界最高の文化ではないだろうか。俳句や、生花、盆栽、折り紙などについても言えるのではないだろうか。
そこで、Aの好みであるが、美空ひばり様の多くの歌などは、多くの日本人を感動させるだろうが、好みには個性が有って、人それぞれ、また、好みはA 自身でも時や、状況、年代でも変化して、 共感,共鳴出来る人、真の理解者は ほとんど探せない状況ではないだろうか。 これは同じく、共感、共鳴している間でも微妙に感じるところが 違うのではないだろうか。言語、文化、習慣の違う外国人などには、美空ひばり様の歌の受け止め方は相当に違っている。 そう、この声明の趣旨は見えてきた:
世界B は Aにしか分からず、本質的に人間は孤独であり、己の世界をしっかりと捉える(治める)ことの重要性 の確認である。
しかしながら、人間は本能的に、共感、共鳴し、群がりたい存在であるから、自分の世界と相手の世界の調和、相性、関係をよく捉えて、 交流を図るべきである。 その時の鍵は 社会は多様であり、個性は様々であるから、相手の選択が大事だという視点である。
声明の題名にある縄張りとは、2つの世界が交流するときの お互いの干渉に於ける、相手の世界に与える影響の微妙な評価に対する気遣いである。― これは要するに、自分の価値観や世界観を押し付けないという配慮である。
そこで、類は友をなす諺のように、いろいろ気の合う仲間による いろいろな絆を大事に育てて行くのが、人生であるとも言える。
以 上
再生核研究所声明305(2016.06.17) 出産の報に接して
友人が出産の喜びを伝えてきたが、これは友人に関わらず、一般に出産の問題から、人生の問題を考えて置きたい。
多くの人は自分の子の出産に際して、明かりが灯されたような希望、夢が湧いてくるのではないだろうか。人生の意義は感動することにあると 言い切ったことに対して、ある女性が 出産した時が人生で最も感動した瞬間だったと回想したという。よく理解できる。 生命とは何だろうか、人生とは何だろうか、生きるということが どのようなことかに関わっているからである。
なぜ、生命は、人生は始まったのか。両親の思いは代々、世代 世代くり返されてきたが、
それらは 同じようではないだろうか。多くは子供たちの将来の問題に関わらず、自然に極めて基本的な生命の営みの結果、恋などを通して出産を迎えていると言える。もの心付けば 異性に興味を抱き、片割れである人間は
(No.81, May 2012(pdf 432kb) - International Society for Mathematical ...www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf
Traduzir esta página19/03/2012 ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。骨格は .... の上に立って判断されるべきです (再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の. 審判)。実際、何十年も経って、...
)
異性に惹かれて、自然に出産に至る。大事なことは これらは、声明303などに述べられているように、そのように、生物、動物、人間は作られているという事実である。人生には意義が有るだろうか、意味が有るだろうかの問題ではなく、生物の基本的な営みとして、そのように作られているということである。
人生、苦しい時は、どうして苦しい人生を苦労して、生きなければならないのかと、生まれてきたことを恨みたくなったり、生まれて来なければ良かったと思うときは 少なからず有るのではないだろうか。苦労して、子供のために心配し、尽くしている両親を恨みたくなることさえあるのではないだろうか。
真実は、両親さえ、そのような心情には答えられず、生命の切ない定めで、現在に至ったと哀しい想いをするだけでは ないだろうか。
出産について言いたいことは、それは生命の基本的な営みで、強い必然性があって、我々の思考を超えたところにあるということである。それは、人生や、世界の存在の問題は 我々の思考を超えたところに存在するということである。
出産という慶事に際して、人口問題などの難題については 改めて、考察したい。
ただ、この世に生をうけたからには、人生を肯定できるような人生をおくって欲しいと願わずにはおれない。 人生の肯定である。
次も参照:
再生核研究所声明304(2016.06.16): いじらしい人間
再生核研究所声明301(2016.05.23): 人間の愚かさ―人間の賢さ
再生核研究所声明273(2016.01.06): つくられた人間 ― 人間とは何だろうか; 人生とは何か
以 上
0 件のコメント:
コメントを投稿