記事
fujipon2016年06月28日 00:00【読書感想】ジブリの仲間たち 1/2
ジブリの仲間たち (新潮新書)
作者: 鈴木敏夫
出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 2016/06/16
メディア: 新書
この商品を含むブログ (1件) を見る
Kindle版もあります。
ジブリの仲間たち(新潮新書)
ジブリの仲間たち(新潮新書)
作者: 鈴木敏夫
出版社/メーカー: 新潮社
発売日: 2016/06/24
メディア: Kindle版
この商品を含むブログ (1件) を見る
内容(「BOOK」データベースより)
『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』etc…ジブリはなぜ常に予想を超えるヒットを生みだし続けることができたのか。そこには作品の力に加え、プロデューサーである著者と、仲間たちの力があった。「宣伝の本質は仲間を増やすこと」という思想の下、監督と激論を交わし、企業を巻き込み、駆けずりまわり、汗まみれになって体得してきた経験則とは―。秘話満載で綴る、三〇年間の格闘の記録。
プロデューサー・鈴木敏夫は、どうやってジブリ作品を売ってきたのか?
ジブリが誇る、宮崎駿、高畑勲両監督は、あまり商売っけがない人です。
ジブリの作品がここまで「国民的な人気」を博し、ジブリ映画を老若男女みんなが映画館でみるのが当たり前、という「風潮」をつくったのは、プロデューサーの鈴木さんの力が大きかったのです。
僕が子どもの頃は、「アニメ映画は子どものためのもの」でした。
映画『宇宙戦艦ヤマト』の大ヒットにより、一部の大人はアニメ映画に足を運ぶようになったのですが、「万人向けのもの」とは言い難かった。
ところが、『となりのトトロ』以降のジブリ作品というのは、「アニメなんて子どもが観るもの」と言っていた大人たちに「でも、ジブリは別」だという扱いを受けてきました。
あの宮﨑勤事件で、アニメファンがバッシングされていたときでさえも、「ジブリ作品は別格だけどな」という感じだったんですよね。
僕は、そういう「御都合主義」みたいなのは嫌いだったんですが。
ジブリだって、アニメじゃないか、って。
鈴木さんは、雑誌の編集者からジブリのプロデューサーに転身した人なので、映画界の常識に染まらない視点で、映画の宣伝というものをみてきたのです。
実際に映画の興業に携わる人の考え方というのは、一般的なイメージとちょっと違っているみたいです。
『おもひでぽろぽろ』について。
結果、配給収入は目標の4倍以上の18億7000万円。その年の日本映画でナンバーワンのヒット作となりました。興業のプロたちの見立てを大幅に裏切ったわけです。逆に、もし思うような宣伝ができずに、興行成績が東宝の予想どおりになっていたら、ジブリはなくなっていたかもしれない。そう思うとぞっとしますね。
興行関係者の間では、『もののけ姫』が登場するまでの間、『おもひでぽろぽろ』こそジブリ最大のヒット作だと言われ続けました。彼らにとっては、売り上げの額面よりも、期待値をどれだけ上回ったかのほうが重要なんです。その後、地方の劇場をまわるたびに、映画館主から「『おもひでぽろぽろ』はすごかった」とよく感謝されました。
『おもひでぽろぽろ』に関しては、「これ、誰が観るんだ?」と思った記憶があるんですよね。
興行関係者は、その作品のヒット予測に基づいて、上映館数や座席数を決めていくので、「ハリウッド発の予想された大ヒット」では、あまり心が動かないみたいです。
この新書のなかでは、鈴木さんが、いかにして公開時にたくさんの劇場を抑えたか、そして、企業とのタイアップも含めて、作品を知ってもらうために工夫を続けてきたか、が繰り返し語られています。
『平成狸合戦ぽんぽこ』(1994年)で、JA共済とタイアップした際には、大型のパンフレットを800万部も刷る、という組織の規模の大きさに驚かされたそうです。
『もののけ姫』(1997年)の項で、鈴木さんは、ある「法則」を見出します。
そのとき僕が見出したのが、「宣伝費=配給収入」の法則でした。
じつはそのころ、これまでの作品の収支の数字を見ていて、ふと思ったんです。かけた宣伝費に対して、興行成績が比例しているんじゃないか?
そこで、新聞広告やテレビスポットなどの直接的な宣伝費に加え、タイアップやパブリシティ、イベントなど、間接的な宣伝の効果も一つひとつを金銭換算してみることにしました。すると、『紅の豚』なら配給収入と同じ28億円、『ぽんぽこ』なら26億円、『耳をすませば』は18億円ぐらいの額になることが分かったんです。
つまり、60億円の配給収入をあげたいなら、60億円の宣伝をすればいい、そう説明すると、最初はみんなポカーンとしていました。そこで、具大的な項目をホワイトボードに書きだしました。
・配給宣伝費5億円(※最終的に10億円まで膨れあがった)
・製作宣伝費2億円
・日本生命とのタイアップ8億~10億円(最終的に12億円相当。ジブリ史上最大のタイアップ)
・『トトロ』『耳をすませば』のビデオ販売プロモーション
・新聞=読売新聞の特別協力、スポニチの半年連載
・テレビ=日本テレビ(スーパーテレビ特番)、ネット局、NHKスペシャル
・出版=講談社27誌連合1万人試写会、徳間書店
・音楽=徳間ジャパンコミュニケーションズによるレコード店フェア
・イベント=高島屋
・パブリシティ
これらの宣伝手段のすべての効果を金銭換算して積み上げていく。
宣伝費=配給収入だと、全然儲からないんじゃないか、と思ったのですが、スポンサーとのタイアップによる露出や日本テレビとの協力なども含めて「宣伝効果をお金に換算すると」という話なんですね。
こういう仕組みを考えると、最近公開されているほとんどの邦画に地上波のキー局が絡んでいる理由もわかります。
テレビで採りあげてもらうだけでも、お金に換算すれば、かなりの宣伝効果が期待できるのだから、協力関係を築いておいて損はありません。
だからこそ、「自社でどんどん宣伝できる、テレビ局、テレビ番組発の映画」がたくさんつくられているのです。
鈴木さんはこう仰っていますが、これはあくまでもジブリの場合であって、一般的な映画は「宣伝費をかければかけるほど客が入る」としても、お金をかけるほど、費用対効果は落ちていくはずです。
「質」がともなっていなければ、こういう「わかりやすい結果」にはならないのでしょう。
ジブリ最大のヒット作となった『千と千尋の神隠し』(2001年)について、鈴木さんは、こう振り返っておられます。
1年に及ぶロングランの結果、最終的な観客数は2350万人、興行収入は304億円。『タイタニック』に破られていた日本記録を再び更新して、マスコミは盛んにそのことを書き立てました。
ただ、僕はブームの渦中にあっても、どこか醒めた目で喧噪を眺めていました。ヒットしたことがうれしくないわけじゃない。でも、そこには功罪両方の側面があることを自覚していたからです。
ひとつは、先述したテーマの問題です。これ以降、心の問題を扱う映画がますます増えていきました。そして、いまや心の問題が大衆化され、エンターテインメントとしてそれを楽しむ時代になってしまった。それはあまり健全なことだとは思えないんです。
もうひとつは映画興行界への影響です。『千と千尋』がスクリーンを独占してしまったことで、普通ならヒットが見込めたはずの他の映画が軒並み割りを食ってしまったのです。
「『千と千尋』のような事態は二度と起こしてはならない」
興行界ではそんな話が出ているという噂が伝わってきました。もっと各社で協調して、いろんな映画に機会を与えるべきだというのです。
日本の映画市場に訪れた本当の「自由競争」は一瞬で終わることになりました。それは、その後の『ハウルの動く城』や『崖の上のポニョ』の興行にも影響を及ぼすことになります。
『千と千尋の神隠し』は、あまりにもヒットしすぎてしまったゆえの問題も生じてしまった作品なのです。
現時点では、ジブリ作品のなかで、『千と千尋』が最大のヒット作なのですが、その後のジブリ作品の興行収入の低下には、こういう「業界全体の考え方の変化」も影響しているのでしょう。http://blogos.com/article/181265/?p=1
再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
本(ほん、英: book)は書物の一種であり、書籍・雑誌などの印刷・製本された出版物である。
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは, 視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上
再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
まず、お金の述語 を確認しておこう:
貨幣とは、経済学上は(欧米のMoneyやMonnaieなどの用語に対応する訳語として用いられ)、「価値の尺度」「交換の媒介」「価値の保蔵」の機能を持ったモノのことである。
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
貨幣(として用いられるモノ)が額面通りの価値を持つためには、その貨幣を発行する政府に対して信用が存在することが必要条件である。政府は、租税の算定に通貨を用いる。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)
お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10): 政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。
以 上
https://twitter.com/SLANG_SCHC/status/667233481408184321
0 件のコメント:
コメントを投稿