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太郎丸博2015年12月09日 11:55片山他 2015「図書館は格差解消に役立っているのか?」
片山ふみ・野口康人・岡部晋典「図書館は格差解消に役立っているのか?」SYNODOS, 2015.12.07 Mon
図書館利用と社会階層の関係を分析した記事。いわゆる学術論文ではないが、興味のある問題なので、コメントしておく。知識や教養をすべての人にとってアクセス可能とするために、図書館は重要な役割を果たすと期待されている。それゆえ、図書館の利用と社会階層の関係は非常に重要である。著者らは図書館情報学が専門で、階層研究はあまり詳しくないと思われるので、階層研究者の視点から見ると、この研究がどう見えるかコメントしておきたい。いささか批判的なことを書くが、この研究に大きな期待を抱いているがゆえと理解していただきたい。
学歴と図書館利用が相関するのは当たり前
階層関連の変数と様々な文化活動(読書、音楽鑑賞、美術鑑賞、等々)の関連はこれまでいろいろ研究されてきており、高学歴者ほどさまざまな文化活動(特にハイカルチャーと呼ばれるようなもの)に従事しやすい、ということは繰り返し確認されている。ブルデュー風に言えば、文化活動を楽しむためには、それなりのディスポジション(性向と訳されるのか?)が必要であり、それは制度化された文化資本である学歴と相関するからである。
それゆえ、当然図書館の利用も高学歴者ほど多いということは、まともな階層研究者なら誰でも容易に予測できる。また、高学歴者ほど公的なサービスの利用に積極的であることも、繰り返し確認されている。例えば、生活に困窮したときに役所に相談するかどうかを尋ねた場合、高学歴者ほどそういう意向を示しやすい。また、質的な研究でも、低学歴者が生活保護などの公的なサービスの利用に消極的であるような事実は繰り返し報告されている。
当然、公共図書館の利用にも消極的になると予測される。これは公共サービスを利用するためには、公共施設の中で自然なふるまいをし、担当者とうまくコミュニケーションをとり、施設のルールを守ることが必要であるが、そのための経験や知識(お望みなら文化資本と言ってもよい)を低学歴者はあまり持っていないことが多いからであると考えられる(が、この辺をちゃんと研究した論文を私は知らない。誰か知っていたら教えてください)。
そして予測通り、この研究でも低学歴者のほうが公共図書館の利用率が低い事実が確認されたわけである。このような事実の確認を繰り返していくことの重要性は、いくら強調しても強調しすぎることはないのであるが、いささかインパクトに欠けることは否めない。著者らは学歴や社会関係資本(地域への愛着と地域活動)の効果を強調しているが、これらの変数が効果を持つことは私の目から見れば当然なので、いささかポイントを外している感じを受けるのである。
収入は図書館の利用に直接効果を持つのか
むしろ私がこの研究で興味を持ったのは、収入の効果がないということである。これは経済合理性という観点からは、いささか不思議な現象である。紙媒体の出版物を読みたい場合、本屋で買って読むか、図書館で読むか、の二択がある(もちろん、友人や知人から借りるとかネット上にフリーで掲載されていればそれを読むなど他にも選択肢はあろうがそれらはとりあえず無視)。図書館で新聞を読むか買って新聞を読むかの二択で考えた場合、経済的に余裕のある人ほど買って読みそうである。実際、パソコンの所有やスマホの購入など値段がある程度以上あるものは、世帯収入が高いほど購入しやすい。その理屈を敷衍すれば、無料である公共図書館は、世帯収入が低い人ほど利用しやすいはずである。しかし、この研究の成果を見ると、学歴などの効果を統制すると、世帯収入は図書館の利用率に有意な効果を持たない。このロジスティック回帰分析の結果は上で参照している SYNODOS の記事では書かれていないが、この記事の参考文献に挙がっている社会情報学会での報告資料には掲載されている。
新聞の例でもわかるように、図書館で主に借りられている本はせいぜい数千円なので、世帯収入が効果を持たないという可能性も考えられるが、文化活動の研究では、収入や職業的地位が有意な効果を持たないというケースがときどきあるので、これもその一例と考えられる。しかし、世帯収入になぜ効果がないのだろうか。一つは図書館の立地の問題である。以前、大阪の万博記念公園の中に大阪府立国際児童文学館があったが、非常に交通の便が悪く、自家用車があるとか、長い時間をかけて訪れる時間があるとか、そういう人でないと利用できそうになかった。もしも低所得者の利用しにくい場所に図書館があるなら、低所得者ほど本来無料の図書館へのニーズがあるが、不便さによって相殺されることで、世帯収入の効果が消えている可能性がある。これは想像の範囲を超えないが、私にとっては興味深いポイントである。
図書館は格差解消に役立たないのか?
著者らは、明確な結論を出すのを差し控えているものの、どちらかといえば、むしろ図書館は格差解消に役立たないどころか、階層の再生産を助長しているという論調である。その根拠は、上であげた学歴と地域愛着や地域活動と図書館利用の相関である。しかし、これはあまりにミスリーディングな議論である。確かに高学歴者ほど公共図書館の利用率は高いが、公共図書館が消滅したり、有料になったりしたら、今よりももっと階層間格差は広がるかもしれない。一時点だけで見た学歴と図書館利用率の相関は、何の証拠にもならない。公共図書館のおかげで今ぐらいの格差ですんでいるかもしれない可能性を想像してみるべきである。
例えば、図書館の充実している地域ほど学歴間の格差が大きい、とか、図書館をある地域に建てたら学歴間の格差が広まったとか、そういう証拠が得られるならば話は別だが、そうでない状況で学者が安易に図書館の機能を否定するようなことを匂わすのは慎むべきだと私は思う。確かに階層研究者の実感として言えば、「図書館は格差解消に役立つにちがいない」といった安易な断言を聞くと、「こいつバカじゃないのか」と思うのだが、逆に大した証拠もないのに「図書館は階層を再生産しているかもしれない」といわれても、やはり拙速な主張と言わざるを得ないのである。
ただし、繰り返すが、人々がなぜ、どのように、どんな本を読むのか、という問題は、個人の趣味の問題だけでなく、階層間の格差と密接に結びつ重要な問題である。図書館の利用と社会階層の関係に関する研究はあまり見かけないので、この研究成果には価値があるし、今後の発展にも期待している。http://blogos.com/article/148948/
基本的に図書館は、庶民の施設では?
文化の発展に寄与しているのでは?場所と機会を提供する機能が大事では?
インターネットの発展で、大きく有り様は変わるのでは?
再生核研究所声明75(2012.2.10): 政治・経済の在りようについて
(この声明は 再生核研究所声明に関心を抱く方の要望によって、動機付けられたものです。他方、大谷杉郎 元群馬大学名誉教授の下記の文が気になって来ました: (新里山文明 ― 私は、基本的には、社会の制度、経済の仕組みにまで立ち入らないと解決はしないと思っています。無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組みの通用した時代は、もうあきらめたほうがいいと思っています。技術と社会制度と、それに人々との考え方と、みんな一緒にならないと循環社会、新里山文明の時代は来そうにありません。 ―( 日だまりの風景 平成18年9月15日発行 大谷杉郎著 印刷所 太陽印刷工業(株)P106~P107より )(群馬大学工業会会報・平成11年3月 99)p95~p107より)。)
上記両者の意見には いわゆる資本主義は 社会主義同様 行きづまっているのではないか、新しい社会の、経済の在りようを模索する必要が有るのではないか との考えを暗示しているようにみえる。
もちろん、政治・経済の在りようについての総合的な考察は、大きな課題であるから、考察を進めるには 重い課題ということになる。 しかしながら、歴史は連続的に流れ、慣性の法則で動いている(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)とすれば、現状の問題点を分析することによって、在るべき方向が見えて来ると考えられる。
現在の世界を、アメリカ、EU, 日本など、いわゆる自由主義経済、資本主義社会、民主主義の国々、および、 ロシア、中国など、いわゆる社会主義の変化で 社会主義と資本主義の中間に位置する国々、および いろいろな国柄を反映させているその他の国々と考えてみよう。 社会主義国では、経済活動は国によって計画され、企画されて、人々を資本家から解放し、より平等で公正な社会を目指していると考えられたが、結果は産業・経済活動が停滞し、民生の遅れをもたらし、皮肉にも自由、平等、民主主義の理念から外れ、社会主義の理念は 内部から、崩壊し、より自由な経済活動を許す、解放経済の方に向かわざるを得なかったようにみえる。 これは自由な経済活動が、産業の活性化をもたらし、国や特定の機関の管理では、庶民の力を発揮することができないという、 いわば、人間の本性に根ざした原理から出ていると考えられる。
しからば、資本主義諸国の現状における問題とは何だろうか。 いみじくも、アメリカ,EU, 日本に共通する大きな課題は、 膨大な債務を抱えて、財政破綻の危機にさらされているということである。これは、民主主義の中で、庶民の意志を尊重するあまり、各国の政府が無責任な財政運営を余儀なくされてきたということに他ならない。 民主主義は衆愚政治に陥り、国家は財政破綻を迎えたと、旧社会主義や独裁主義国家から、嘲笑されかねない由々しき事態ではないだろうか。 自由を保証する社会は、そもそも人類の理想であるから、財政の立て直しによる、復活を願わざるを得ない。
しかしながら、資本主義社会で見られる、次のような現象については、大きな歯止めと警戒、対処が必要ではないだろうか。
債務の増大と金融不安、
過熱な自由競争の国際化、
過熱な投機の在り様、
行きすぎた世界的な経済活動、
行きすぎた世界の均一化、
多くの失業者の出現、
為替の急激な変動、
貧富の大きな格差、
アメリカなどに見られる 軍事産業の力、
大量生産、大量消費の在り様、
お金、お金の風潮の増大、
社会生活まで、共生より競争の世相、成果主義や評価、評価の厳しい世相、
経済活動の環境、社会への大きな影響 など、
それらについて、関係する国際的な機関で 枠をはめ、より良い方向に誘導するような政策を進める必要が有るのではないだろうか。植物界でも動物界でも、自由に野放ししておけば良いとはならず、適当な手入れ、癌細胞などは除去するなど適切な処置が必要であるように である。― これは要するに、現状の自由を尊重する、資本主義と民主主義の在りようを評価して、そこから発する大きな歪を是正していこうとの 現実的な対応を志向するものである。
上記 (無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組み)などについては 税率によって、 調整して行く と考えるのは 如何なものであろうか。
他方、ロシアや中国における在りようの問題では、いまだ自由の保証が十分では無く、人権、人間の尊厳の観点から問題が有るのではないかとの危惧の念を抱かせるが、それぞれの国には それなりの歴史と伝統、文化が有るのだから、軽々しく内政干渉のような態度をとらない姿勢が大事ではないだろうか。 アラブや、その他の諸国についても お互いに内政干渉を控え、いろいろな国による、多様な在り様、多様な文化の存続を尊重、重視していくべきではないだろうか。 いわゆる グローバリゼーションは 地球を画一化して、貧しい均一的な 世界を作り、 傾向として良くないと評価したい。 多様な世界を志向したい。
逆に民主主義の問題点を指摘して置きたい。 上述の様に国民に慮る故に 政府が弱く、政府が責任ある政治を進めることができない状況が起きているから、政治家の身分を安定的に保証して、責任ある政治に専念できるように配慮すべきではないだろうか。そのためには、首相や国会議員の任期を長くして、その間、身分を篤く保証することも検討に値するのではないだろうか。アメリカの大統領選出過程などは あまりにも 長く、現実的ではないのではないだろうか。多数の意見が広く表現できるのは良いが、無責任なムードのようなもの、世論で、 政治が歪められやすい状況について、警戒を要するのではないだろうか。 次の危惧を参照(再生核研究所声明 33: 民主主義と衆愚政治)。
以 上
再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界
(これは、最近、夢中になっているゼロ除算の発想から湧いた、逆思考である。要するに遠い将来から、人生や世界をみたら、考えたら、どのようになるかという視点である。)
主張が明確に湧いたので、結論、趣旨から述べたい。人は我々の目標や希望が未来にあり、そのためにその目標に向かって、努力、精進などと志向しているは 多いのではないだろうか。そのような意味で、我々の関心が、先に、先に有るように感じるのではないだろうか。これは自然な心情であろうが、別の視点も考えたい。成長や発展、変化には適切な有り様が有って、早ければ良い、急いで進めれば良いとはならないということである。現在は、未来のためにあるのではなく、現在、現状はそれ自体尊いという視点である。先、先ではなく、 いま、いまが大事であるという視点である。生物の成長には固有のリズム、
成長のペースがあるということである。我々は、生物としての枠、構成されている状況によって制限があり、適切な有り様が存在する:
再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること
理想的な有り様には 自然な終末もあり、大局的にみれば、大きな流れにおける調和こそ
大事ではないだろうか。次の声明
再生核研究所声明144(3013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程である
の題名も真実だろうが、そこで述べた、
そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、慌てず、 自分の心の状態を尊重する ということである。人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。
は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。
言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば
磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。
原子力発電所の開発促進は適切であろうか。
グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。
成果主義は行き過ぎではないだろうか。
経済の成長、発展 優先も大いに気になる。
などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:
再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。
以 上
再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと
世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。
国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。
特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。
この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。
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