ジョルダーノ・ブルーノ(Giordano Bruno, 1548年 - 1600年2月17日)は、イタリア出身の哲学者、ドミニコ会の修道士。それまで有限と考えられていた宇宙が無限であると主張し、コペルニクスの地動説を擁護した。異端であるとの判決を受けても決して自説を撤回しなかったため、火刑に処せられた。思想の自由に殉じた殉教者とみなされることもある。彼の死を前例に考え、二の轍を踏まないようにガリレオ・ガリレイは自説を撤回したとも言われる。
目次 [非表示]
1 生涯
1.1 ナポリ時代(1548年–1575年)
1.2 放浪時代(1576年–1592年)
1.3 ローマ時代(1593年–1600年)
2 死後
3 ブルーノと宇宙論
3.1 当時の人々の宇宙観
3.2 ブルーノの宇宙論
4 ブルーノに関連する事物
5 日本語文献
5.1 著作の訳書
5.2 研究書
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
生涯[編集]
ナポリ時代(1548年–1575年)[編集]
1548年にナポリ王国のノーラ(現在のイタリア・カンパニア州)で生まれた。もともとはフィリッポ・ブルーノ (Filippo Bruno) という名前であり、父ジョヴァンニ・ブルーノは兵士であった。1562年、14歳のときナポリに移り、ナポリ大学で学んだ。1565年、17歳でドミニコ会に入会、ジョルダーノを名乗った。1572年に司祭に叙階され、1575年にはトマス・アクィナスおよびペトルス・ロンバルドゥスについての論文によって神学博士となった。
ブルーノがトマス・アクィナスへ向けた尊敬は生涯にわたるものであったが、ナポリ時代にすでに独自の思想を育みはじめていた。エラスムス、偽ディオニシウス・アレオパギタ、ニコラウス・クザーヌス、ライムンドゥス・ルルスなどの神学者たち、プラトンおよび新プラトン主義(プロティノス、ポルピュリオス、イアンブリコス、プロクロスなど)やエピクロス主義(とくにルクレティウス)やピュタゴラス主義やセネカといった古代哲学、さらにはヘルメス主義、カバラやアヴィセブロンなどのユダヤ思想、イブン=ルシュド(アヴェロエス)はじめアラビア思想、フィレンツェ・プラトン主義(マルシリオ・フィチーノ、ピコ・デラ・ミランドラ)というように、ブルーノの哲学思想の源泉は多岐にわたっている。後年は一貫して批判し続けるアリストテレスについても、ナポリ時代に熱心に研究し、多くのことを学んだ。
放浪時代(1576年–1592年)[編集]
1576年、異端の嫌疑をかけられたブルーノは、異端審問所の追及を逃れようとナポリを離れ、しばらくのローマ滞在を経て、北イタリア各地で文法や天文学などを教えながら放浪生活を送った。1578年にはアルプス山脈を越えてフランスに入り、翌1579年にはスイスのジュネーヴに滞在した。ジュネーヴ大学に在籍し、一時的にカルヴァン派に接近するが、改宗までしたかどうかは定かでない。また、すぐにジュネーヴ大学のカルヴァン派哲学者と論争を巻き起こし、名誉毀損で訴えられて有罪となり、ジュネーヴを離れた。同年、トゥールーズに移ったブルーノは、トゥールーズ大学の正規の講師となり、アリストテレス『魂について』の講読註解をおこなった。以後、2年近くをトゥールーズで過ごした。
1581年、パリに移住し、優れた記憶力が話題となって、フランス国王アンリ3世とも会見した。ソルボンヌ大学で正規の教授職を得ることはできなかったが、翌1582年に王立教授団(コレージュ・ド・フランスの前身)の講師に任命された。1583年、ブルーノはアンリ3世の推薦書を持ってイギリスに赴き、オックスフォード大学での教授職を得ようとしたが、同地で受け入れられず、イギリスで教壇に立つという望みは果たされなかった。だが、ロンドンに滞在する2年半のあいだに、ブルーノ前半期の主著とされる6つの対話篇『聖灰日の晩餐』『原因・原理・一者について』『無限・宇宙・諸世界について』『傲れる野獣の追放』『天馬のカバラ』『英雄的狂気』を上梓した。
1585年、パリに戻ったが、アリストテレスの自然哲学を批判した120のテーゼが問題とされた上、数学者ファブリツィオ・モルデンテとの裁判に巻き込まれ、ドイツへと去った。ドイツではマールブルク大学での教授職は得られなかったが、ヴィッテンベルク大学での教授許可を得ることができ、アリストテレスについて2年間講義した。1588年にヴィッテンベルクを去り、今度はボヘミアのプラハに現れた。そこでルドルフ2世に300テーラーという年俸を保証されたが、教授職は得られなかった。どうしても教壇に立ちたいブルーノはヘルムシュタットに移ったが、ルター派の権威者たちの反感を買い、ここも立ち去ることになった。
1591年、放浪を繰り返していたブルーノはフランクフルト・アム・マインにいた。ブルーノ後半期の主著とされる3部作『三つの最小者について』『モナド論』『測り知れざる巨大者について』はこのとき刊行された。同年、ブルーノは、ヴェネツィアの貴族ズアン・モチェニゴから記憶術の指南を受けたいという招請を受けた。モチェニゴ家はヴェネツィアでも屈指の大貴族であり、ブルーノはイタリアに戻る決意をした。ヴェネツィアに向かう途中、パドヴァに滞在し、空席となっていたパドヴァ大学の数学教授の座を得ようとするも、結局ガリレオ・ガリレイに教授職を持っていかれてしまった。ヴェネツィアに来たブルーノは、モチェニゴの家庭教師を2か月つとめた。だが、そのモチェニゴによって訴えられ、1592年、ヴェネツィア官憲によって逮捕された。さらに、ブルーノのことを聞きつけた異端審問所が介入し、最終的にローマの異端審問所に引き渡された。
ローマ時代(1593年–1600年)[編集]
カンポ・デ・フィオーリ広場にある像
同上
1593年にローマに移されて以降、裁判はなかなか実施されず、ブルーノは7年を獄中で過ごした。彼への告発理由は神への冒瀆、不道徳な行為、教義神学に反する教説であり、ブルーノの哲学と宇宙論にみられるいくつかの点も問題とされた。ブルーノは教皇クレメンス8世に直接面会して自説の一部を撤回することを明言すれば嫌疑は晴れると考えていたがこれはかなわなかった。
ようやく異端審問が行われると、当時の異端審問所の責任者であった枢機卿のロベルト・ベラルミーノはブルーノに対し、自説の完全な撤回を求めた。ブルーノは断固としてこれを拒絶したため、1600年1月8日に異端判決が下った。24に及ぶ罪状には、上記に加えて魔術・占術の信奉、マリアの処女性の否定、輪廻説の支持などが挙げられていた。1600年2月17日、ローマ市内のカンポ・デ・フィオーリ広場に引き出されたブルーノは火刑に処されて命を落とした。処刑の様子はブレスラウの学生ガスパール・ショップ (Gaspar Schopp) が目撃し、家族へ送った手記により後世に伝えられている。それによると、ブルーノは処刑を宣告する執行官に対して「私よりも宣告を申し渡したあなたたちの方が真理の前に恐怖に震えているじゃないか」と言い、結果舌枷をはめられた。さらに、刑の直前に司祭が差し出した十字架へは侮蔑の一瞥をくれただけで顔を背け、死の際には1つも声を発さなかったという。ブルーノの遺灰はテヴェレ川へ投げ捨てられた。
死後[編集]
ブルーノの著作のすべては1603年に禁書目録に加えられた。それでも、著作のほとんどはパリ・ロンドン・フランクフルトなどイタリア半島の外で出版されていたため、わずかではあったが流通しつづけた。
17世紀から18世紀にかけては、ピエール・ベールやマラン・メルセンヌが、著作のなかでブルーノ哲学をとりあげた。ヨハン・ベルヌーイはゴットフリート・ライプニッツ宛の書簡で、ルネ・デカルトの渦動説がブルーノ宇宙論の剽窃だと書いた。ジョン・トーランド (哲学者)(英語版)は、ブルーノの著作を英語訳し、積極的な普及活動を行った。そのトーランドの影響もあってか、フランスの匿名の自由思想家によって地下文書『ジョルダーノ・ブルーノ復活』が書かれ、広範な読者を得た。
19世紀からは、ドイツでの汎神論論争のなかで『原因・原理・一者について』の抜粋がドイツ語訳され、ドイツ語圏の哲学者たちの関心を惹くことになった。なかでもフリードリヒ・シェリングは、ブルーノを主人公とした対話篇『ブルーノ』を著した。また、イタリア統一運動(リソルジメント)が高揚するなかで、イタリアでもブルーノへの関心が高まり、著作集の編纂や伝記考証など実証研究が行われるようになった。
20世紀になると、カトリック教会の歴史における負の遺産の清算を訴えた教皇ヨハネ・パウロ2世のもとで、ブルーノに対する裁判過程も再検証され、「処刑判決は不当であった」という判断が下された。この動きはもともとナポリ大学の神学部のドメニコ・ソレンティーノ教授らによって始められたもので、カトリック教会が公式に判決を取り消したことでジョルダーノ・ブルーノの名誉が完全に回復された。[要出典]
ブルーノと宇宙論[編集]
当時の人々の宇宙観[編集]
16世紀の後半、コペルニクス・モデルはヨーロッパ全域で知られるようになっていた。ブルーノはコペルニクスが観察よりも数学的整合性を重要視したことを批判していたが、地球が宇宙の中心ではないという点についてはコペルニクスに賛同していた。ただブルーノはコペルニクスの理論の中にある「天界は不変不朽で地球や月とは異なった次元のものである」という意見には賛同しなかった。ブルーノは「世界の中心は地球か太陽か」などという議論を超越し、3世紀のプロティノスやさらに後の時代のブレーズ・パスカルのような思想、すなわち宇宙の中心などどこにも存在しないという立場にたっていた。
ブルーノの在世時、コペルニクスのモデルにはまだまだ欠陥が多く、天動説の方が明快に説明できることが多かったため、コペルニクスの説に賛同した天文学者はほとんどいなかった。わずかにミヒャエル・メストリン(1550年 - 1631年)、クリストフ・ロスマン(英語版)(1550年代 - 1600年以降)、トーマス・ディッグス(1546年 - 1595年)などが挙げられる程度である。ヨハネス・ケプラー(1571年 - 1630年)とガリレオ・ガリレイ(1564年 - 1642年)はまだまだ若く無名の存在だった。ブルーノは本当の天文学者とはいえないが、もっとも早い時期に地球中心説を退けてコペルニクスの世界観を受け入れた著名人であった。1584年から1591年にかけて執筆した著作の中でブルーノは盛んにコペルニクスを擁護している。
アリストテレスとプラトンは、宇宙は完全な球体であり、さまざまな球体が入れ子構造になっていて回転していると考えた。その回転力を与えているのは超越的な神であり、神は宇宙とは別次元に存在しているとされた。恒星は最も外側の天球に貼り付けられており、全宇宙の中心こそが地球であるというのが2人の宇宙観であった。プトレマイオスは恒星を1,022個数え、48の星座に分類している。惑星もそれぞれ透明な球体の上にあって運動していると考えられていた。
コペルニクスの宇宙論も決して完全なものではあったわけではなく、古代以来の概念を多く継承していた。たとえばプトレマイオスからは惑星が球面上に固定されているという考え方を受け継いでいたが、その不可解な動きの原因は地球の公転であることは見抜いていた。また、コペルニクスは宇宙には不動の中心が存在するという概念も持ち続けていたが、中心にふさわしいのは地球よりも太陽であると考えていた。恒星はかつて天球上に貼り付けられているため地球から等距離にあると信じられていたが、そのことについてコペルニクスは特に言及していない。
ブルーノの宇宙論[編集]
ブルーノの主張でもっとも画期的だったものは「地球自体が回転しており、それによって地球上からは見かけ上天球が回転しているように見える」ということであった。ブルーノはまた、「宇宙が有限であること」あるいは「恒星は宇宙の中心から等距離に存在している」と考える理由はないとした。
ブルーノの宇宙論は先行するトーマス・ディッグスの1576年の著作『天界論』(A Perfit Description of the Caelestial Orbes) とも共通する部分がみられるが、ディッグスは中世において信じられていたように、恒星天の外側が神と天使の世界であると考えていた。またディッグスは宇宙の中で地球だけが生命と知性の存在しうる場所であること、不変の天界に対して地球だけが変化する世界であると考えた。
1584年、ブルーノは二つの重要な著作を出版した。ブルーノはその著作の中で惑星が天球の上に階層をなして存在しているという説を批判した。2年後の1586年にロスマンが同様の主張を行い、さらに1587年にはティコ・ブラーエも続いた。ブルーノは無限宇宙が「純粋気体」で満たされていると考えた。これは後に創案される「エーテル」概念のはしりであり、この気体は惑星や恒星の動きに一切影響を及ぼすことはないとされた。ブルーノの宇宙論で特筆すべきことは、それまで信じられていた宇宙が特定の中心から広がる階層球によって成り立っているという考え方を否定し、地球も太陽も宇宙の1つの星にすぎないと主張したことにあった。
地球だけが特別な星であるという当時の常識に挑戦するかのように、ブルーノは神が宇宙の一部だけに特別に心を配ることはないと考えた。彼にとって神とは心の中に内在する存在であって、宇宙のどこかにある天国にいて地球を見ているものではなかった。
ブルーノは四元素説(水、気、火、土)は信じていたものの、宇宙が特別な物質でできているのではなく地球とおなじ物質からなっているとし、地球上でみられる運動法則が宇宙のどこでも適用されると考えた。さらに宇宙と時間は無限であると考えていたことは、宇宙の中で地球だけが生命の存在できる空間であるという当時のキリスト教的宇宙観を覆すものとなった。
このような考え方に従うなら、太陽も決して特別な存在でなく、あまたある恒星の1つにすぎないことになる。ブルーノは太陽を惑星が囲む太陽系のようなシステムは宇宙の基本的な構成要素であると考えた。ブルーノにしてみれば神が無限の存在である以上、無限の宇宙を創造することはなんらおかしなことではないということであった。ブルーノはアリストテレス以来、伝統的に信じられてきた「自然は真空を嫌う」ことを信じていたため、宇宙にある無数の太陽系の間はエーテルによって満たされていると考えていた。彗星は神の意志を伝える役割をもって天界から到達するというのもブルーノのアイデアであった。
ブルーノの宇宙論の特徴は宇宙の無限性と同質性の提示、さらに宇宙には多くの惑星が存在していると考えたことにあったといえる。ブルーノにとって宇宙とは数学的計算によって分析できるものでなく、星達の意志によって運行しているものであった。このようなアニミズム的宇宙観はブルーノの宇宙論のポイントの1つである。
ブルーノに関連する事物[編集]
月の北緯36度、東経103度にはジョルダーノ・ブルーノと名づけられた直径20 kmのクレーターがある。このクレーターは1178年にイングランドの修道士によって目撃・記録された[1]、隕石の衝突によってできたものと考えられていたが、2007年に打ち上げられた日本の月探査機かぐやの観測によって、実際には100万年から1,000万年前に形成されたことが明らかになった。しかし、月面にある直径10 km以上のクレーターの中で最も新しいことに変わりはない[2][3]。
日本語文献[編集]
著作の訳書[編集]
『無限、宇宙と諸世界について』 清水純一訳、現代思潮社〈古典文庫〉、1967年。
『無限、宇宙および諸世界について』 清水純一訳、岩波書店〈岩波文庫〉、1982年4月。ISBN 4-00-336601-8。 ※上記の改訳版
『ジョルダーノ・ブルーノ著作集』 加藤守通訳、東信堂。
『カンデライオ』 加藤守通訳、東信堂〈ジョルダーノ・ブルーノ著作集 1〉、2003年7月。ISBN 4-88713-500-9。
『原因・原理・一者について』 加藤守通訳、東信堂〈ジョルダーノ・ブルーノ著作集 3〉、1998年4月。ISBN 4-88713-290-5。
『傲れる野獣の追放』 加藤守通訳、東信堂〈ジョルダーノ・ブルーノ著作集 5〉、2013年9月。ISBN 4-7989-1188-7。
『英雄的狂気』 加藤守通訳、東信堂〈ジョルダーノ・ブルーノ著作集 7〉、2006年6月。ISBN 4-88713-691-9。
研究書[編集]
清水純一 『ジョルダーノ・ブルーノの研究』 創文社、2003年11月(原著1970年3月)。ISBN 4-423-17022-1。
清水純一 『ルネサンスの偉大と頽廃 ブルーノの生涯と思想』 岩波書店〈岩波新書〉、1972年。
根占献一編・共著、伊藤博明・伊藤和行・加藤守通 『イタリア・ルネサンスの霊魂論 フィチーノ・ピコ・ポンポナッツィ・ブルーノ』 三元社、1995年9月。ISBN 4-88303-028-8。 - 加藤守通「第4部 ジョルダーノ・ブルーノ」[4]
ヌッチョ・オルディネ 『ロバのカバラ ジョルダーノ・ブルーノにおける文学と哲学』 加藤守通訳、東信堂、2002年6月。ISBN 4-88713-439-8。
ハンス・ブルーメンベルク 『近代の正統性3 時代転換の局面』 村井則夫訳、法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス 608〉、2002年6月。ISBN 4-588-00608-8。
フランセス・イエイツ 『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』 前野佳彦訳、工作舎、2010年5月。ISBN 978-4-87502-429-3。
岡本源太 『ジョルダーノ・ブルーノの哲学』 月曜社〈古典転生 第7巻〉、2012年3月。ISBN 978-4-901477-92-5。 - 附録:ジェイムズ・ジョイス「ブルーノ哲学」「ルネサンスの世界文学的影響」。
脚注[編集]
[ヘルプ]
^ ジェイ・イングラム 『天に梯子を架ける方法 科学奇想物語』 中村和幸訳、紀伊国屋書店、2000年4月、[要ページ番号]。ISBN 4-314-00865-2。 - 原タイトル:The barmaid’s brain and other strange tales from science.
^ 諸田智克ほか (2009年11月18日). “月面クレータ、ジョルダノ・ブルーノの形成年代に関する研究成果” (日本語). 会津大学先端情報科学研究センター. 2012年5月13日閲覧。
^ 『月のかぐや』 宇宙航空研究開発機構編、新潮社、2009年11月、22頁。ISBN 978-4-10-320021-5。
^ 他は、根占献一「第1部 マルシリオ・フィチーノ」、伊藤博明「第2部 ピコ・デッラ・ミランドラ」、伊藤和行「第3部 ピエトロ・ポンポナッツィ」。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%8E%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%8E
Announcement 179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}
\numberwithin{equation}{section}
\begin{document}
\title{\bf Announcement 179: Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics\\
}
\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
Kawauchi-cho, 5-1648-16,\\
Kiryu 376-0041, Japan\\
E-mail: kbdmm360@yahoo.co.jp\\
}
\date{\today}
\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we shall introduce the zero division $z/0=0$. The result is a definite one and it is fundamental in mathematics.
\bigskip
\section{Introduction}
%\label{sect1}
By a natural extension of the fractions
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
for any complex numbers $a$ and $b$, we, recently, found the surprising result, for any complex number $b$
\begin{equation}
\frac{b}{0}=0,
\end{equation}
incidentally in \cite{s} by the Tikhonov regularization for the Hadamard product inversions for matrices, and we discussed their properties and gave several physical interpretations on the general fractions in \cite{kmsy} for the case of real numbers. The result is a very special case for general fractional functions in \cite{cs}.
The division by zero has a long and mysterious story over the world (see, for example, google site with division by zero) with its physical viewpoints since the document of zero in India on AD 628, however,
Sin-Ei, Takahasi (\cite{taka}) (see also \cite{kmsy}) established a simple and decisive interpretation (1.2) by analyzing some full extensions of fractions and by showing the complete characterization for the property (1.2). His result will show that our mathematics says that the result (1.2) should be accepted as a natural one:
\bigskip
{\bf Proposition. }{\it Let F be a function from ${\bf C }\times {\bf C }$ to ${\bf C }$ such that
$$
F (b, a)F (c, d)= F (bc, ad)
$$
for all
$$
a, b, c, d \in {\bf C }
$$
and
$$
F (b, a) = \frac {b}{a }, \quad a, b \in {\bf C }, a \ne 0.
$$
Then, we obtain, for any $b \in {\bf C } $
$$
F (b, 0) = 0.
$$
}
\medskip
\section{What are the fractions $ b/a$?}
For many mathematicians, the division $b/a$ will be considered as the inverse of product;
that is, the fraction
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
is defined as the solution of the equation
\begin{equation}
a\cdot x= b.
\end{equation}
The idea and the equation (2.2) show that the division by zero is impossible, with a strong conclusion. Meanwhile, the problem has been a long and old question:
As a typical example of the division by zero, we shall recall the fundamental law by Newton:
\begin{equation}
F = G \frac{m_1 m_2}{r^2}
\end{equation}
for two masses $m_1, m_2$ with a distance $r$ and for a constant $G$. Of course,
\begin{equation}
\lim_{r \to +0} F =\infty,
\end{equation}
however, in our fraction
\begin{equation}
F = G \frac{m_1 m_2}{0} = 0.
\end{equation}
\medskip
Now, we shall introduce an another approach. The division $b/a$ may be defined {\bf independently of the product}. Indeed, in Japan, the division $b/a$ ; $b$ {\bf raru} $a$ ({\bf jozan}) is defined as how many $a$ exists in $b$, this idea comes from subtraction $a$ repeatedly. (Meanwhile, product comes from addition).
In Japanese language for "division", there exists such a concept independently of product.
H. Michiwaki and his 6 years old girl said for the result $ 100/0=0$ that the result is clear, from the meaning of the fractions independently the concept of product and they said:
$100/0=0$ does not mean that $100= 0 \times 0$. Meanwhile, many mathematicians had a confusion for the result.
Her understanding is reasonable and may be acceptable:
$100/2=50 \quad$ will mean that we divide 100 by 2, then each will have 50.
$100/10=10 \quad$ will mean that we divide 100 by10, then each will have 10.
$100/0=0 \quad$ will mean that we do not divide 100, and then nobody will have at all and so 0.
Furthermore, she said then the rest is 100; that is, mathematically;
$$
100 = 0\cdot 0 + 100.
$$
Now, all the mathematicians may accept the division by zero $100/0=0$ with natural feelings as a trivial one?
\medskip
For simplicity, we shall consider the numbers on non-negative real numbers. We wish to define the division (or fraction) $b/a$ following the usual procedure for its calculation, however, we have to take care for the division by zero:
The first principle, for example, for $100/2 $ we shall consider it as follows:
$$
100-2-2-2-,...,-2.
$$
How may times can we subtract $2$? At this case, it is 50 times and so, the fraction is $50$.
The second case, for example, for $3/2$ we shall consider it as follows:
$$
3 - 2 = 1
$$
and the rest (remainder) is $1$, and for the rest $1$, we multiple $10$,
then we consider similarly as follows:
$$
10-2-2-2-2-2=0.
$$
Therefore $10/2=5$ and so we define as follows:
$$
\frac{3}{2} =1 + 0.5 = 1.5.
$$
By these procedures, for $a \ne 0$ we can define the fraction $b/a$, usually. Here we do not need the concept of product. Except the zero division, all the results for fractions are valid and accepted.
Now, we shall consider the zero division, for example, $100/0$. Since
$$
100 - 0 = 100,
$$
that is, by the subtraction $100 - 0$, 100 does not decrease, so we can not say we subtract any from $100$. Therefore, the subtract number should be understood as zero; that is,
$$
\frac{100}{0} = 0.
$$
We can understand this: the division by $0$ means that it does not divide $100$ and so, the result is $0$.
Similarly, we can see that
$$
\frac{0}{0} =0.
$$
As a conclusion, we should define the zero divison as, for any $b$
$$
\frac{b}{0} =0.
$$
See \cite{kmsy} for the details.
\medskip
\section{In complex analysis}
We thus should consider, for any complex number $b$, as (1.2);
that is, for the mapping
\begin{equation}
w = \frac{1}{z},
\end{equation}
the image of $z=0$ is $w=0$. This fact seems to be a curious one in connection with our well-established popular image for the point at infinity on the Riemann sphere.
However, we shall recall the elementary function
\begin{equation}
W(z) = \exp \frac{1}{z}
\end{equation}
$$
= 1 + \frac{1}{1! z} + \frac{1}{2! z^2} + \frac{1}{3! z^3} + \cdot \cdot \cdot .
$$
The function has an essential singularity around the origin. When we consider (1.2), meanwhile, surprisingly enough, we have:
\begin{equation}
W(0) = 1.
\end{equation}
{\bf The point at infinity is not a number} and so we will not be able to consider the function (3.2) at the zero point $z = 0$, meanwhile, we can consider the value $1$ as in (3.3) at the zero point $z = 0$. How do we consider these situations?
In the famous standard textbook on Complex Analysis, L. V. Ahlfors (\cite{ahlfors}) introduced the point at infinity as a number and the Riemann sphere model as well known, however, our interpretation will be suitable as a number. We will not be able to accept the point at infinity as a number.
As a typical result, we can derive the surprising result: {\it At an isolated singular point of an analytic function, it takes a definite value }{\bf with a natural meaning.} As the important applications for this result, the extension formula of functions with analytic parameters may be obtained and singular integrals may be interpretated with the division by zero, naturally (\cite{msty}).
\bigskip
\section{Conclusion}
The division by zero $b/0=0$ is possible and the result is naturally determined, uniquely.
The result does not contradict with the present mathematics - however, in complex analysis, we need only to change a little presentation for the pole; not essentially, because we did not consider the division by zero, essentially.
The common understanding that the division by zero is impossible should be changed with many text books and mathematical science books. The definition of the fractions may be introduced by {\it the method of Michiwaki} in the elementary school, even.
Should we teach the beautiful fact, widely?:
For the elementary graph of the fundamental function
$$
y = f(x) = \frac{1}{x},
$$
$$
f(0) = 0.
$$
The result is applicable widely and will give a new understanding for the universe ({\bf Announcement 166}).
\medskip
If the division by zero $b/0=0$ is not introduced, then it seems that mathematics is incomplete in a sense, and by the intoduction of the division by zero, mathematics will become complete in a sense and perfectly beautiful.
\bigskip
section{Remarks}
For the procedure of the developing of the division by zero and for some general ideas on the division by zero, we presented the following announcements in Japanese:
\medskip
{\bf Announcement 148} (2014.2.12): $100/0=0, 0/0=0$ -- by a natural extension of fractions -- A wish of the God
\medskip
{\bf Announcement 154} (2014.4.22): A new world: division by zero, a curious world, a new idea
\medskip
{\bf Announcement 157} (2014.5.8): We wish to know the idea of the God for the division by zero; why the infinity and zero point are coincident?
\medskip
{\bf Announcement 161} (2014.5.30): Learning from the division by zero, sprits of mathematics and of looking for the truth
\medskip
{\bf Announcement 163} (2014.6.17): The division by zero, an extremely pleasant mathematics - shall we look for the pleasant division by zero: a proposal for a fun club looking for the division by zero.
\medskip
{\bf Announcement 166} (2014.6.29): New general ideas for the universe from the viewpoint of the division by zero
\medskip
{\bf Announcement 171} (2014.7.30): The meanings of product and division -- The division by zero is trivial from the own sense of the division independently of the concept of product
\medskip
{\bf Announcement 176} (2014.8.9): Should be changed the education of the division by zero
\bigskip
\bibliographystyle{plain}
\begin{thebibliography}{10}
\bibitem{ahlfors}
L. V. Ahlfors, Complex Analysis, McGraw-Hill Book Company, 1966.
\bibitem{cs}
L. P. Castro and S.Saitoh, Fractional functions and their representations, Complex Anal. Oper. Theory {\bf7} (2013), no. 4, 1049-1063.
\bibitem{kmsy}
S. Koshiba, H. Michiwaki, S. Saitoh and M. Yamane,
An interpretation of the division by zero z/0=0 without the concept of product
(note).
\bibitem{kmsy}
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
\bibitem{msty}
H. Michiwaki, S. Saitoh, M. Takagi and M. Yamada,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0
(note).
\bibitem{s}
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
\bibitem{taka}
S.-E. Takahasi,
{On the identities $100/0=0$ and $ 0/0=0$}
(note).
\bibitem{ttk}
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields. (submitted)
\end{thebibliography}
\end{document}
アインシュタインも解決できなかった「ゼロで割る」問題
0 件のコメント:
コメントを投稿