よく、分不相応の批判や誹謗中傷をする人達に対して「じゃあ、お前はどうなんだよ」とか「じゃあ、お前がやってみろよ」とか「社会に対して結果を出してない奴が偉そうに言うな」とか言います。
これって論理的には正しいですが、なんか違う気もします。
テレビに出ているある芸人が面白くないとします。大衆は「あの芸人は面白くない」と感じているわけです。芸人というのは人を笑わせてなんぼの人達ですから、大衆の反応がないと自分が面白いのか、面白くないのか分からないわけです。
言うなればその芸人を評価するのは、面白くない大衆なんですよね。その面白くない大衆を対象としている以上、面白くない大衆が評価を下すしかないと思うのです。
人を笑わせるのは難しいことですし、よくそういう資格がある人だけが批判をするものだと言いますが、なんか違うなと。政治家に大衆がピーピーギャーギャー偉そうに語っていますが大衆なんてほとんどアホです。
なんかよく言ってることが分からなくなりましたが、全ての仕事の対象は偉そうな事を言える立場にない大衆だと思うのです。
芸人の仕事はいかに面白くない大衆を笑わせることができるか。
料理人の仕事はいかに味の分からない、料理の下手な大衆を満足させることができるか。
小説家や物書きの仕事は、いかに文才のない、浅学の大衆を感動させ、納得してもらう事ができるか。
スポーツ選手は、いかにその超人的なプレーで大衆を驚かせ、感動させる事ができるか。
いちいち資格がなんだの、それだけの偉そうなことを言えるだけの人物になってからものを言えとかいうのはちょっとおかしい気がします。
どう見ても、評価する人達はそのようにできてないし、大衆とは分不相応の発言をするものだと思うからです。また、分不相応でも評価しないと、専門家の自分がどのような評価を受けているのか分からない以上、その仕事をしている人達もこれから良くなるためにどのように工夫したらいいか分からなですよね?
よろしくお願い申し上げますm(__)mhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13132006188
貴重な意見ですね。大いに参考になります。
大衆が適切な評価や 判断を示せるとは言えないですから、選挙の結果が適切だとは、 人気が適切だとは言えないですね。
声明36(恋の原理と心得)で、元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。 人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。
と述べて、人類は 人間存在の原理(人間である限り否定できない、不変的な原理を述べているもので、人間である限り、存在していること、そして、存在していることを知っていること、そして、求めているという三位一体の、デカルトのコギトエルゴスム(我れ思う、故にわれ在り)を基礎に置いた考え方: 夜明け前 よっちゃんの想い:211ページ)によって、世界の歴史を発展、拡大、深化させていくであろう。
個々の人間の目標は、 人生における基本定理 (声明12) に述べられているように 生きること、感動できるように生きることであるが、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在であり、個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみれば 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である (声明36)。
そこで、人間にとって真に価値あることとは、人類の目標のために貢献することではないだろうか。 人類の営みは世界史によって、表現されるから、世界史のため、人類のため、元祖生命体のために貢献することこそが、真の意味における大義と言えよう。 人類が、世界史が進化していけば、過去の元祖生命体の営みの総体を次第に明らかにして、物事の真相と評価、位置づけ、位置関係を明瞭にしていくであろう。- すでに、グーグルの世界に それらの初歩を見ることができる。
神とは全知、全能の存在とされるが、世界の全体を捉えられるのは現在、人類以外に存在せず、未来において、進化した元祖生命体こそが、神に相当する存在ではないであろうか。
進化した未来人は 現代人の能力のレべルを あたかも幼稚園生くらいとみ、現在のコンピュータのレベルを 手動計算機程度くらいとみるだろう。
そのとき、世界の歴史は、個々の人間の存在の関係 (評価) をきちんと明らかにするであろう。
この声明の趣旨は、先ずは 世界の政治家の皆さんに、世界史に耐えられるような上記大義に基づいて、行動して頂きたいと要請しているのです。 小さな自分たちの立場ではなくて、より大きな世界のために高い志の基に、行動して頂きたいということです。 同時に、不正や不義は 歴史的に明らかにされ、真実は必ず、明らかにされるということに注意を喚起することにある。 研究者や芸術家たちは 近視眼的なことに拘らず、己が道を進めばいいのであって、適切な評価は必ず下されると考えるべきです。 マスコミ関係者や解説者の皆さん、思想家たちの皆さん、世界史の評価に耐えられるような高い視点と志で、重要な職務を果たして頂きたいと考えます。 人間にとって価値あることとは、小さな自己の世界に閉じこもらず、上記大義の基に努力することではないであろうか。
将来、世界史が明らかにする、世界史の全体における個々の関係こそが、最後の審判ではないだろうか。 それは同時に 未来ではなく、現在、いまの 個々の人間の 深奥に普遍的に存在する神性と良心 に通じていると考える。 それらを捉え、それらに調和し 忠実に生きることこそ、良く生きることに他ならない。 悪いことは苦しいことである。必ず、良心の呵責として、その深奥から湧いてくるからである。他方、大義に生きることは 上記永遠の生命の中に生きることを意味するから、楽しいことである。 滅ぶことも消えることもない。
以上
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