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high1902014年07月21日 09:00読売新聞「大学の実力2013」を活用した偏差値・退学率・就職率を分析した論文が興味深い
high190です。
今年も読売新聞が実施する「大学の実力」調査の結果が7月9日、10日の2日間に渡って紙面に掲載されました。大学関係者のみならず、社会的にも大きな注目を集めている調査ですが、公表された調査結果を具体的に大学改革へと活かしている大学も多くあるのではないかと思います。
また、この調査によって大きな注目を集めたのが大学の退学率と就職率です。大学からすると退学率は公表したくない指標のひとつではありましたが、この調査を通じて現在では多くの大学が退学率を公表するようになっています。今年の10月から稼働予定の大学ポートレート*1においては中途退学者数、留年者数等は公表項目から除外*2されていますが、いずれ公表が必須となるのではないか?と予想しているところです。そういった意味でも大学・受験生にとっても重要な指標である退学率ですが、読売新聞の調査データを基に社会科学系の学部*3で偏差値と退学率・就職率がどう関連しているかを分析した論文がありますので、ご紹介したいと思います。是非本文を通して読まれることをおすすめします。
大学の偏差値と退学率・就職率に関する予備的分析:社会科学系学部のケース(出典:大阪経大論集第64巻第1号(通巻第334号)2013年5月)
【論文要旨】
社会科学系学部(約400学部)の偏差値と退学率・就職率をマッチングさせたデータを分析した結果、退学率や就職率は偏差値によってかなりの部分が説明されることが分かった。大学生にとって卒業できるか(退学率が低いか)、就職できるかは、大学生活の満足度を決める主要な要因であるが、偏差値はそれらの指標をかなりの程度代理する。そのため情報の入手しやすさを考慮すると、偏差値による大学選びにはかなりの合理性があると考えられる。ただし、低偏差値の学部では偏差値水準と就職率等の実績が逆転傾向にあるため、低偏差値の学部を選ぶ際には偏差値によらない大学・学部選びにも一定の合理性がある可能性は否定できない。(P.57)
【その他、気になった部分の抜粋】
ところで『大学の実力2013』では「退学率が高い大学=悪い大学」ではないと主張する。しかし、経済的な観点からみると、退学率は顧客満足度(学生生活の満足度)であると考えられる。
(中略)
退学の原因としては、学習意欲喪失、学業不振や進路変更、経済的事情などがあげられるので、満足度とは関係ないと思うかもしれないが、そうではない。学生からみると、大学は満足できる水準の授業を提供してくれない、適切なサービスを行ってくれない、などによって学生が費やす資金と時間に見合うと思うほどの価値を提供できていないために退学するのであろう。そもそも入学する前から卒業しなくてもよいと考える受験生はいないはずだから、退学率の高い大学には入らない方が良い。(P.58)
本当に重要な指標は、入学すると途中で退学することなく卒業し、かつ、正規就職・進学できる可能性をあらわす実質就職率や実質決定率であると考えられる。その意味では、これらの指標に対する影響が大きい偏差値は、受験生にとって最も重視すべき指標であると考えられる。(P.67)
「大学の実力調査」が退学率などの情報を公開した意義は非常に大きいが、その情報内容は多くの部分が偏差値によって説明されることが分かった。また、退学率などの情報は非公開の大学等も多く、網羅性という意味でも偏差値以外の情報は使いにくい。以上から、偏差値によらない大学選びというのは、機能するのはかなり難しいように思う。
ただし、偏差値40台以下では多少事情が異なる。偏差値39のグループが比較的健闘しており、偏差値40台のグループより実質就職率・実質決定率が上回っているか、少なくとも同程度である。偏差値39グループは表3からわかるように、充足率が平均的に80%を下回っており経営的にはかなり厳しい状況であると考えられる。経営の厳しい偏差値39グループはかなりの改革を行っている可能性があり、学力・意欲の低い学生を教育し、就職させる方法論を身に着けつつあるのかもしれない。一方、偏差値40-44、45-49は充足率がそれぞれ90%以上、110%以上と比較的経営が安定しているため教育改革を行う必要性がなく、結果として、学生は学力・意欲が低いまま放置され、卒業・就職が困難になっているのかもしれない。
(中略)
充足率から分かるように、最下層の大学はマーケットの洗礼を受けており、そのためそこでは何らかの努力が行われ、実質就職率などの実績で上位校を逆転している。大学の設置の認可を柔軟にして大学数を増やし、大学間の競争をを導入することで、大学の改革意識や教育力を高めるという政策がとられてきた。その結果、一部で偏差値と実績の逆転が起こっている。これは、大学間の競争は大学の教育の質を高めることを示唆していると考えられる。安易に政策転換を行い、大学数を制限し、護送船団方式に戻すようなことを今しばらく慎むべきだと考える。(P.69)
分析の指標として提示されている偏差値、定員充足率、一般入試比率、退学率、就職率、決定率、実質就職率、実質決定率は大学経営のKPI(Key Performance Indicator)として、必ず押さえておきたいです。あと、個人的に自分の力不足だと思うのは、統計分析の結果を読み解く力に乏しいことを改めて感じました。私の場合は本当に初歩的なものから読む必要があると思いますが、統計の本をしっかり読み込まないと、こういった論文で提示されている結果を正しく理解できないように思います。
正直な感想として、かなり身も蓋もない結果が示されているので驚きましたが、とても興味深く読ませていただきました。「大学・学部選び」という点において偏差値は強力な指標であり、そのことは皆が「何となく」感じている部分ですが、こうして数値化するとより説得力を持つように感じます。また、偏差値が低い下位の大学が、実質就職率などで上位校を逆転しているという点も非常に興味深いです。具体的な例として、金沢星陵大学の名前が浮かんできました。金沢星陵大学の取り組みについては、進路支援センター長の堀口英則さん*4が書かれた「偏差値37なのに就職率9割の大学」*5に詳しく書かれていますので、こちらもご参考までにお知らせしておきます。
ちなみにこの論文を書かれた清水一先生は経営学で博士号を取得されている方です。*6今後も同種の論文等を書かれることもあろうかと思いますので、研究成果は引き続きモニタリングしていきたいと思います。こういった公表されているデータを基に分析することもIRだと思いますし、実際にIRに従事する者が分析結果をいかに意思決定支援に活かすか?という点こそ、IR担当者の腕の見せ所というところでしょうか。*7
7:米国のIR部署では何が行われているのか?意思決定支援の実際を探る http://d.hatena.ne.jp/high190/20140602
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1) 教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2) あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3) 勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4) 優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5) ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6) 簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7) 大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8) 大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
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