欧米の算数教育では19までの数とそれ以上の数をどうしても
分離して教えざるを得ない言語的理由がある / 日本語(および
朝鮮語、ハンガリー語)には、その様な『欠陥』は無い!!
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福岡県の小学校教諭のS先生は、小学校1年生の数の指導で、学習指導要領では1年
生は19迄の指導を「10といくつ」というやり方で指導することになっているけれど
も、10ずつの固まりを子どもたちに作らせて、どんどん大きな数を数えさせるように
工夫をして指導したところ、子どもたちがみんな何でもかんでも数えたがるようになり、
「20までの数」という指導要領の制限を軽く越えて、500前後の数までみんなが一
気に数えられるようになった、という驚くべき教育実践を報告しています。
日教組第60次教育研究集会数学教育分科会レポートから部分的に引用させて頂きま
す。
<S教諭のS先生のレポートからの引用開始>
1.はじめに
現任校に赴任して7年目を迎える。高学年の実態を目にして、1年生のときから数の
概念を丁寧に指導することの重要性を改めて認識した。そこで、1年生を担任して入門
期からの数との出会いを大事にしたいと考えた。
[数範囲を『60』までに広げる
教科書では、『10』までを指導した後、『20』までに区切って指導する。『20』
までの数であると、『9,10,11,12,13,...』と一続きに数えれば分か
るので、10のまとまりをつくる必要はない。だから、10ずつかためて数える良さを
実感することができない。
子どもたちは、『50』以上の数を生活の中で唱えて遊んでいる。『20』までの数
では、数える楽しさを味わうことができず、子どもたちの学習意欲を高めることもでき
にくい。そこで、数範囲を『20』までに区切らずに、『60』ぐらいまでに広げるこ
とを考えた。
[手作りカウンターを作り、位取りを教える]
教科書では、『20』までの数の指導において、『10とあといくつ』という数の構
成を捉えさせる内容になっており、位取り記数法を扱うわけではない。これでは、子ど
もたちには表記の意味はわからない。
そこで、指導にあたっては、紙粘土でたこ焼きをたくさん作らせ、10穴のうずらの
たまごパックに詰めて、パックの個数を手作り<+>カウンターに表していく。その後、
ばらを<->カウンターに表し、両者を接続して、位取りへと結びつけていくようにし
たい。
(柴田の注:要するに、『手作りソロバン』ですが、それを、子どもたちが喜ぶように
たこ焼きと、それを詰め込む穴あきのうずらたまごパックで実現したところが、小学校
の先生でないと思いつかないような生活臭あふれる教材。)
[百の位を数えて、500前後まで数えさせる]
新教科書では、120前後の読み書きは扱うが、百の位は教えていない。子どもたち
は、一の位、十の位は、すでに学んでいるので、「十」が10個で「百」を学ぶときに、
百の位を教えるのが好機であろうと考える。数える体験として、120前後にとどめず
に、500前後の身の回りにある具体物を数えさせていきたい。
[十ずつ、百ずつまとめて数える体験を重視する]
子どもたちは、数えることそのものに興味をもつ。たくさんの物を目の前にすると、
自然に数え出す。そこで、子どもたちの興味に即し、身の回りにある様々なものをでき
るだけ多く準備することで、10ずつ、100ずつ数える活動を仕組んでいく。10ず
つまとめる道具として、ぴったり10個入るケースを使う段階、10個数えて自分で閉
じる段階、10個を別物と置き換える段階、動かない物を10個ずつ囲む段階へと発展
させていくようにしたい。
(中略: 授業の実際の様子が、豊富な写真と絵図で詳しく解説されています。『たこ
焼きやさんごっこ』楽しそうですよ!)
5.成果と課題
●10ずつまとめて数えるという体験があまりないこどもたちにとって、たくさんの
数を数えることを楽しんだ体験が、かたまりを実感しながら数をとらえていくことにつ
ながり、本当の意味での理解につながるということを痛感した。
●手作りカウンターを作って位取り記数法を捉えさせることを重視したことによって、
どの子にも理解を助けることとなった。さらに、数が苦手な子が自分の力で位取り記数
法をとらえていく手助けとなり、手作りカウンターは大変有効な手だてであると感じた。
●1年生で数の学習を進めていく際に、指導主事が「20までのかずで『10といくつ』
の数の構成をおさえた後にそれ以上の数を扱うという順番は替えられない」と断言した
が、この実践を通して十進位取り記数法のしくみを初めから丁寧に扱っていけば、あえ
て『10といくつ』の数の構成を扱わなくても十分理解できることが明らかになった。
<S先生のレポートからの引用、終わり
うーん、すごい! 驚くべき実践報告ですね。いや、本当に恐れ入りました。『目か
ら鱗が...』という感じです。
ところで、最後の方に書いてある、指導主事が「20までのかずで『10といくつ』
の数の構成をおさえた後にそれ以上の数を扱うという順番は替えられない」と断言した
のはなぜでしょうか。それは、もちろん、学習指導要領に、そのように教えろ、と書い
てあるから、「変えられない」わけです。それではなぜ、学習指導要領には、そんなお
かしなことが書いてあるのでしょうか。それはもちろん、日本の数学教育研究者が、そ
んな愚かなことを猛烈に主張しているからです。それではなぜ、日本の数学教育研究者
は、そんな愚かなことを主張しているのでしょうか。それは、欧米の数学教育研究者が
そのように主張しているからです。「欧米は進んでいるが、日本やアジアは遅れている
から、欧米から学ぶのだ」と、欧米の『権威』に盲従して、欧米人の書いた研究論文や
ら指導書などを引用して、カッコウを付けて(権威を付けて)いるのです。
ところが、欧米の数学教育研究者がそういう教え方をせざるを得ないのは、彼らの言
語に、アラビア式位取り記数法とは相容れない困った『欠陥』があるからなのです。日
本語や朝鮮語、そしてチョムスキーの主要部パラメータの値が『後置』になっているハン
ガリー語には、そのような『欠陥』が無いのです。そして、アラビア式位取り記数法を
用いているのだから、もちろん、アラビア語にはそのような『欠陥』はありません。と
ころが、そのアラビア語の主要部パラメーター値は、なんとヨーロッパ言語と同じ「前
置」なのです。えーっ、それならどうしてヨーロッパ言語みたいな『欠陥』が発生しな
いのですか、と思うでしょう? 思わない人はチョー鈍感。
だから、生きている言語はものすごく不思議で面白いのです。その秘密をこれから順
番に解説してゆきます。
前回の「言問いメール513号 / 児童の学習における算数の計算順序とチョムスキー
普遍文法理論の主要部パラメータ値との間の緊密な関係」で図示したように、西洋言語
(ハンガリー語を除く)では、11から19までの数詞は、1から9までの数詞を用い
て
11 12 13 14 15 16
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英語: eleven twelve thirteen fourteen fifteen sixteen
ドイツ語: elf zwelf dreizehn fierzehn funfzehn sechzehn
フランス語: onze douze tre'ze quatorze quinze seize
ポーランド語:jedenas'cie
dwanas'cie
trzynas'cie
czternas'cie
pie,tns'cie
szesnas'cie
フィンランド語:
yksitoista kaksitoista
kolmetoista neljatoista
viisitoista
kuusitoista
のように、「1の位の数詞の主格」+「10を足すことを表す接尾辞」という構成になっ
ています。太古の人類は、おそらく10までの数詞があれば、日常生活には十分だった
ことでしょう。それに、十までの数であれば、手の指を使っても計算できますから、便
利です。それで、各国の言語では、1から十までが基本数詞(複合語ではない)となっ
ているのでしょう。そして、英語、ゲルマン系諸語、ラテン系諸語、スラブ系諸語の基
本数詞は明らかに音韻的な類似が認められますから、これらの数詞が誕生したのは、ま
だこれらの言語が分離する以前だったように見えます。ただし、フィンランド語は明ら
かに違う音韻系統ですし、実際、言語分類表でも「ウラル・アルタイ系の内のウラル語
族」とされています。どちらかと言えば、アジア系の言語です。
ところが、だんだんと人々が生活する集落の規模が大きくなってくると、10までの
数では必要がまかないきれなくなります。人間も生活物資も数が増えて来たからです。
そこで、新しく、大きな基本数詞を作ったかというと、そうではなくて、既にある基本
数詞を用いて大きな数を作る、という『智の省エネ』をやったわけですね。そのときに、
主要部パラメーターが『前置』になっているヨーロッパの人々は、主要部である1の位
を前置させて、例えば英語の14ならば、「fourteen」=「4(four)」+「10(teen
= ten)」のように結合させたわけです。
ところが、ところが、さらに集落はふくれあがり、人も物もどんどん数が増えてゆく
と、20あるいはそれ以上、もっと大きな数が必要となってきます。そこで人々は、さ
らに大きな数を人工的につくりました。大きな数は位がたくさんあるので、先ず、どの
くらい大きいかが聴いていてすぐに聞き分けられる方が良いので、当然、大きい位の数
から言ったり書いたりすることになります。日本人は、それでちっとも困らないのです
が、ヨーロッパ人にとっては非常に困った事態になったわけです。英語の例で言うと、
「14」と「40」が、いずれも「4」+「10」で表されることになったわけです。
「フォーティーン」と「フォーティー」の違いだけですから、これを一度に教えると、
子どもたちは、よほど利口で注意深い子どもでないと、何が何だかわけが分からなくなっ
てしまうことになります。日本語なら、「じゅうよん」と「よんじゅう」を聞き間違え
ることは、まずありません。
ヨーロッパ言語では、20以上の数が人工的に作られた時代には、11から19まで
の数の呼び方は既に日常生活に定着してしまっていたので、いまさら語順を変更すると
返って混乱が増大するのではないか、という危惧から、昔通りの数詞が維持されたもの
と推測します。そこで、19迄の数の呼び方と20以上の数の呼び方が、完全にひっく
り返っているので、どうしても一度には子どもたちに教えることが出来ないわけです。
まず、19までの数の呼び方をしっかりと定着させた後でないと、20以上の数が教え
られない根本的な理由がここにあるわけです。これは、主要部パラメーターが『後置』
になっている日本語、朝鮮語、ハンガリー語ではまったく考えられない現象です。我々
の言語では、1から無限大に至るまで、数の表し方は完全に首尾一貫していて、これら
の言語では、数を教える際に「19まで」と「20から」なんて区切る必然性は皆無で
す。
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11 12 13 14 15 16
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ハンガリー語:tizenegy tizenketto
tizenha'rom
tizenne'gy tizenot tizenhat
御覧のように、10 (ti'z) を格変化させて tizen にして、後ろから
egy, ketto, ha'rom, ne'gy, ... (= 1,2,3,4,...)
を後置しています。
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すなわち、我々(日本人、朝鮮人、ハンガリー人など)は、主要部パラメーターが
『後置』である言語の母語話者ということで、数の理解においても、大きな数の足し算
・引き算においても、圧倒的に優位な立場に立っている、世界の少数派民族なのです。
これまでの算数教育は、そのような決定的弱点を抱えた欧米式の教育方法を強制する
ことによって、潜在的には才能があったかも知れない子どもたちを大勢落ちこぼれさせ
て来たのではないでしょうか。算数で落ちこぼれてしまうと、進学や就職において決定
的に不利になり、ひいては、社会のセーフティーネットからもこぼれ落ちて、悲惨で短
い生涯を送ることになる可能性が高いと思います。そういう人々を大勢生み出してきた、
欧米崇拝の日本の数学教育研究者たちは「万死に値する」と思います。
ところで、アラビア式位取り記数法の本家本元であるアラビア語はどうなっているの
でしょうか。実は、最初にも書いたように、アラビア語は主要部パラメーターが『前置』
なのです。それではなぜ、アラビア語の、例えば、14は「4」+「10」ではなく、
「10」+「4」のように見えるのでしょうか???
ヒント:かなり前の話しになりますが、NHKの朝の連続テレビドラマで、太平洋戦
争以前の醤油造りの一家が主人公のものがありました。私もときどき見ていたのですが、
あるとき、鉄道の駅の看板が「しふて」となっていました。さあ、どこの駅でしょう?
上の問題へのヒント:「太平洋戦争以前」ということと、「醤油造り」という所が重
要なポイントです。
[正解]戦前の醤油は、野田の「キッコーマン」と銚子の「ヒゲタ」が2大銘柄でした。
(2011年12月27日追記:銚子にはもう一つ有名な「ヤマサ」という醤油会社が
ありました。)
はい。正解は「銚子」です。日本人は、太平洋戦争以前には、横書きは右から左へ書い
ていたのです。すなわち、「てふし = ちょうし」です。「てふてふ」なんていうのを、
若い人は見たことが無いかも知れませんね。現在でも、左利きの人は、横書きを左から
書くよりも右から書く方が書きやすいかもしれません。日本人には左利きが多かったの
かも知れません。左利きということは、右脳型の人間である、ということです。欧米人
は、言語活動が発達・進化している(簡単にウソがつけるし、言葉による詐欺に騙され
にくい)ので、左脳型の人が相対的に多いと思います(言語野は左脳に遍在している)。
で、アラビア語は右から横書きするので、「14」というのは、彼らは右から見てい
るのです。だから、右にある「4」が先頭だから、主要部パラメーターが『前置』なの
です。他動詞の目的語の名詞は左側に書かれるので、日本人が単語の列だけを見ると、
日本語と同じ語順だなあ、と錯覚するかも知れませんが、彼らは右から横書きするので、
動詞が右にある、ということは、「前」にあることになるのです。
太平洋戦争直後に日本を軍事占領したアメリカの占領軍司令部の人たちが、「横書き
を右から書くなんてけしからん。これこそが日本が軍国主義国家になった原因の1つだ」
とか考えて、強制的に横書きを「右から書き」から「左から書き」に改めさせたのは、
日本の数学・算数教育にとって天佑でした。この大改正によって、我々の言語的なパラ
メーター値と数字の表現や足し算・引き算の順序が完膚無きまでに一致するという、世
界にも例を見ないような文化を持つ民族が誕生したわけです。欧米文化が、ちょっとや
そっとで、この世界史的偶然によって産まれた、世界に比類のない日本の文化に追いつ
けるとは、私にはとうてい想像ができません。
(2011年12月30日追記: 上の「アメリカの占領軍司令部の人たち...」の部分は私
の記憶に頼って書いたので、ちょっと心配になって調べなおしてみました。「当たらず
と言えども遠からず」という感じで、占領期にアメリカから日本の教育を非軍国主義化
するための視察団が来て、漢字を廃止してローマ字書きにしろとか、いろいろな勧告を
出し、いくつかは採用され、また、いくつかは採用されませんでした。そんなご時勢の
中で、日本語の横書きについては、「左から書き」を主張するのは進歩的、「右から書
き」を主張するのは保守的という風潮が生まれ、その結果、「左から書き」に改められ
たようです。詳しくは「言問いメール528号・日本語横書きの顛末」
をご参照ください。
再生核研究所声明171(2014.7.30)
掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
(2014.7.11小柴誠一、山根正巳氏との会合で、道脇裕氏の 割り算と掛け算は別であり、ゼロ除算100/0=0は自明であるとの考えを分析して得た考えを纏めたものである。)
ゼロ除算100/0=0は2014.2.2 偶然に論文出筆中に 原稿の中で発見したものである。チコノフ正則化法の応用として、自然に分数、割り算を拡張して得られたものであるが、歴史上不可能であるとされていること、結果がゼロであると言う意味で、驚嘆すべきことであること、さらに、高校生から小学生にも分る内容であると言う意味で、極めて面白い歴史的な事件と言える。そればかりか、物理学など世界の理解に大きな影響を与えることも注目される。詳しい経過などは 一連の声明を参照:
再生核研究所声明148(2014.2.12)100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22)新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8)知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
しかるに いろいろな人たちと広く議論しているところであるが、世界の指導的な数学者でさえ、高校生でも理解できる発表済みの論文 その後の結果について、現代数学の常識を変えるものであり、受け入れられない、と言ってきている。まことに不思議なことであり、如何に驚くべき結果であるかを示していると言える。
多くの数学者は、内容を理解せず、100/0=0 は100=0 x 0 =0 で矛盾であると即断している。しかるに論文は 100/0 は 割り算の意味を自然に拡張するとゼロの結果を得るのであって、ゼロ除算の結果は 100=0 x 0 =0を意味しないと説明している。 逆に、無限大、無限遠点は数と言えるかと問うている。
ところが面白いことに 既に3月18日付文書で、道脇裕氏は 掛け算と割り算は別であり、ゼロ除算100/0は 自明であると述べていた。しかし、その文書は、一見すると
矛盾や間違いに満ちていたので、詳しく分析してこなかった。しかるに上記7月11日の会合で、詳しい状況を聞いて、道脇氏の文書を解読して、始めて道脇氏の偉大な考えに気づいた。結論は、ゼロ除算100/0は分数、割り算の固有の意味から、自明であると言うことである。これはチコノフ正則化法や一般逆とは関係なく、分数、割り算の意味から、自明であるというのであるから、驚嘆すべき結果である。千年を越えて、未明であった真実を明らかにした意味で、極めて面白い知見である。またそれは、割り算が掛け算の逆であり、ゼロ除算は不可能であるという長い囚われた考えから、解放した考えであると評価できる。
原理は日本語の表現にあるという、掛け算は 足し算で定義され、割り算は 引き算で定義されるという。割り算を考えるのに 掛け算の考えは不要であるという。
実際、2 x3 は 2+2+2=6と繰り返して加法を用いて計算され、定義もできる。
割り算は、問題になっているので、少し詳しく触れよう。
声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるかと考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数は50であると考える。100を2つに分ければ50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。a がゼロでなければ、分数b/aは 現代数学の定義と同じに定義される。
そこで、100/0 を上記の精神で考えてみよう。 まず、
100 - 0 = 100,
であるが、0を引いても 100は減少しないから、何も引いたことにはならず、引いた回数は、ゼロと解釈するのが自然ではないだろうか (ここはもちろん数学的に厳格に そう定義できる)。ゼロで割るとは、100を分けないこと、よって、分けられた数もない、ゼロであると考えられる。 この意味で、分数を定義すれば、分数の意味で、
100割るゼロはゼロ、すなわち、100/0=0である。(ここに、絶妙に面白い状況がある、0をどんどん引いても変わらないから、無限回引けると解釈すると、無限とも解釈でき、ゼロ除算は 0と無限の不思議な関係を長く尾を引いている。)
同様に0割る0は ゼロであること0/0=0が簡単に分かる。
上記が千年以上も掛かったゼロ除算の解明であり、 ニュートンやアインシュタインを悩ましてきたゼロ除算の簡単な解決であると 世の人は、受けいれられるであろうか?
いずれにしても、ゼロ除算z/0=0は 既に数学的に確定している と考えられる。そこで、結果の 世への影響 に関心が移っている。
以 上
文献:
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on 100/0=0 and on 0/0=0,
Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
S. Saitoh, Generalized inversions of Hadamard and tensor products for matrices, Advances in Linear Algebra \& Matrix Theory. Vol.4 No.2 (2014), 87-95.http://www.scirp.org/journal/ALAMT/
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