ゲーテとナポレオンが出会ったドイツ・ゲーテ街道沿いの花の都・エアフルト
テューリンゲン州の州都エアフルトは、ドイツ中部に位置するゲーテ街道沿いの町。
中世の時代から商業都市として栄えてきた1200年もの歴史をもつ花の都で、その華やかな町並みから、「百塔の町」「テューリンゲンのローマ」などとたたえられてきました。
エアフルトを象徴する風景が、ドーム広場から眺める大聖堂とセヴェリ教会が並び建つ光景。
742年に創建され、1465年に現在見られるような姿になった巨大な大聖堂は圧倒的な存在感を放っています。その隣には3本のとんがり屋根が印象的なセヴェリ教会が建ち、見事なアンサンブルを生んでいます。
エアフルトを「テューリンゲンのローマ」と称したのは、かの文豪ゲーテでした。
ゲーテは1765年、16歳のときに初めてエアフルトを訪れて以来、公私にわたって何度もエアフルトを訪れます。1808年、エアフルトはゲーテとナポレオンが出会った歴史的瞬間の舞台となったのです。
・カイザーザール(皇帝の間)
1806年、ナポレオン軍がエアフルトに侵攻。かつてマインツ大司教が築かせたペータースベルク要塞を軍事拠点とし、カイザーザールを議会の場としました。
「カイザーザール」は「皇帝の間」の意味で、その名前はここでナポレオンとロシア皇帝アレクサンドル1世が会談を行ったことに由来しています。
もともとは1715年に大学の舞踏ホールとして造られたもので、1791年からゲーテが監督を務めたワイマール宮廷演劇団が5シーズンにわたって公演を行ったほか、シラー作の「ドン・カルロス」の初演が行われた場所としても知られています。
それほど大きなホールではありませんが、白亜のバルコニーと柔らかな色彩で描かれたロマンティックな天井画が優美な空間。現在もイベント会場として使用されています。
・マインツ選帝侯国総督邸(現テューリンゲン州首相官邸)
1808年にゲーテがナポレオンに謁見した場所が、マインツ選帝侯国総督邸。1711年か1720年にかけてルネッサンス・バロック様式で建てられた華やかな建物で、1802年までマインツ選帝侯国総督の官邸として使用されていました。
1808年10月に開かれたエアフルト王侯会議の際には、ナポレオンは総督邸に滞在しながら仕事をこなし、ここにゲーテを招きました。ゲーテの著作の熱心な読者であったナポレオンは、戦地にまでゲーテの出世作「若きウェルテルの悩み」を持参し、7回も読み返していたといいます。
ナポレオンは、自らが「ファン」であるゲーテの姿を目にした瞬間、「ここに人あり」と大きな声で挨拶し、ゲーテの類まれなる才能をたたえ、レジオン・ド・ヌール勲章を授けました。
ゲーテとナポレオンが対面したマインツ選帝侯国総督邸は、1995年以降テューリンゲン州首相の官邸として使用されています。
・ハウス・ファーターラント
マインツ選帝侯国総督邸に隣接して建つ、白壁に黄色のアクセントが施された建物が、ハウス・ファーターラントです。1734年から1834年まで、この建物はザクセン=ワイマール=アイゼナッハ公国の所有となり、1805年までワイマール公の関係者の館として使われました。
ゲーテがザクセン=ワイマール=アイゼナッハ公国の道路建設局長であったころ、ここに事務所が置かれ、エアフルト滞在の際にはここを住居としていました。
そんな歴史を知らないとうっかり通り過ぎてしまいそうな建物ですが、あちこちにゲーテの足跡が残っているのがエアフルトという町なのです。
中世の面影を残す町並みを散策するだけでも楽しいエアフルトですが、ゲーテやナポレオンが登場するエアフルトの歴史を知れば、いっそうこの町が味わい深く感じられるはずです。
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は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。
言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば
磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。
原子力発電所の開発促進は適切であろうか。
グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。
成果主義は行き過ぎではないだろうか。
経済の成長、発展 優先も大いに気になる。
などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:
再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。
以 上
再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと
世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。
国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。
特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。
この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、
確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。
再生核研究所声明 143 (2013.12.10) グローバリゼーションの危険性
(2013.12.6.3時45分 夢の中で新しい原理を 情景を交えながら発見し、目を覚ましました。グローバリゼーションの危険性と、人類滅亡の原理です。 声明の案にできそうです。適切か検討します。 ― その夢は 農村地帯で、1軒の農家の畑だけが緑の野菜で覆われ 他の周辺の広大な農地は 灰色になって広がり、異様であったが、一人の青年が、グローバリゼーションの影響で 他の農家がやって行けず、農家では お金が入らないと言っていました。人類滅亡の概念は 哲学的、根本的な大事な原理を述べているが、それは その後 夢、うつつに考察したものである。 成文化を試みたい。)
上記で いわゆる市場主義の原理で 事を進めれば、生業が成り立たなくなると言う、根本問題を提起している。 実例でも、例えば、 広々としたベトナムの農村では、田植えを 手で、一株ずつ人海戦術で植えているが、日本では、田植え機械で 夫婦二人で、どんどん田植えが行われている。稲刈り、収穫作業も同様の差がある。農作業の重労働を想い出し、胸を痛めたものであるが、アメリカの小麦の生産方式など考えれば、日本の農家の農作業など、ベトナムと日本の差以上であろう。それらが、市場主義、自由競争となると、ベトナムの農家も日本の農家も成り立たないのは、道理である。このような危惧は、至る所に現れ、世界混乱の主因になるだろう。長い間続いていた、文化、習慣、慣習、生活基盤の破壊である。― インドの痛ましい情景を時として、回想する。土を運ぶのに、土を籠に入れ 頭に載せて、沢山の女性が連なって運んでいる。普通考えられるトラックで運べば、如何に簡単に大量に運べるかを考えると、痛ましい仕事である。しかしながら、それらを機械化すれば、失業者の増大や、取り巻く環境の激変で大きな混乱が起きるだろう。
そこで、グローバリゼーションの危険性 を 夢の中の青年に代わって、世に訴え、注意を換気したい。
個々の存在してきた、事実、経過は大事であり、何事、新しい変化との調和に 思いを致さなければ、混乱の素になるだろう。何事変化に、早ければ良い、改めれば良い の考えには 根本的な問題が内在していて、危険であると考えたい。
グローバリゼーション は エントロピー増大の法則のように 避けられない面が有るだろう、そこで、絶えずブレーキをかけて行くような配慮、全体的な影響と調和を考える努力が必要ではないだろうか。
以 上
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