平成の「地方創生」と昭和の「地方の時代」 住民不在に慣れ切った私たち
政府が推し進める「地方創生」はイマイチうまく行っていないと、地方自治の現場に詳しい慶應義塾大学SFC研究所の上席所員で起業家の岩田崇さんは指摘します。実は「地方の時代」を叫ぶ声は、昭和にもありました。そして、いつしかその動きは消えてしまいました。「地方創生」と「地方の時代」には何が足りないのか。岩田氏に寄稿してもらいました。
「地方創生」のイマイチ感
「地方創生」という言葉はここ数年繰り返し周知されていますが、本当の意味で地方を活性化し、根付いているようには見えません。 1970年代後半から90年代にかけては「地方の時代」という地方創生に似た言葉が流行語となる運動がありましたが、いつの間にか過去のものとなっています。地方創生の取り組みは、担当大臣が置かれて政府が注力する取り組みであるのに、なぜうまく行かないのでしょうか?
そのヒントは、かつての「地方の時代」が消えていった理由にあります。そして、私たち、特に地方創生を推進する側が、現在の地域経営、自治体経営のOS(オペレーションソフト)にある欠陥を見ていないためとも考えられます。どうすれば良いでしょうか。
覚えていますか?「地方の時代」
流行語にもなった「地方の時代」という造語を最初に発したのは、当時の神奈川県知事を五期に渡り担った故長洲一二(ながす・かずじ)氏です。
ある席上で「当面する巨大都市問題、環境・資源・エネルギー・食糧問題、管理社会と人間疎外の問題など、現代先進工業社会に共通する難問は、自治体を抜きにしては解決できない」と発したことがきっかけで広まり、革新派と言われた各地の首長たちが、地域経営の自律性、主導権の移譲を中央政府に求める構図が生まれました。
その中心人物であった岩國哲人(いわくに・てつんど)氏と細川護煕(ほそかわ・もりひろ)氏の共著「鄙の論理(ひなのろんり)」は1991年のベストセラーにもなっています。(同時期のベストセラーには石原慎太郎氏と江藤淳氏の共著「断固『NO』と言える日本」があり、経済面で絶好調であった当時の情勢が想像できます)
それに対して、現在2010年代の「地方創生」は、中央政府が各自治体に自立を求める立て付けになっており、「地方の時代」とは逆の構図となっているのです。
前者は、政財界ではよく使われたフレーズでしたが、実態のないまま運動は潰(つい)えていきます。後者は、現在進行形ですが、最も重要な人的基盤をつくるべき要素に対応していないため、地域の人口減少による衰退にブレーキをかける取り組みとなっていません。
知っていますか?「地方創生」の定義
「地方創生」とは何か? という定義は、あまり知られていないと思います。昨夏の内閣改造で地方創生担当相になった山本幸三大臣は、就任直後の会見で「地方創生とは地方の平均所得を上げることだというように定義をして、そういう方向をどうしたらできるかということを考え、すぐに実践に移していきたいというふうに思っております」と記者からの質問に答える形で示しており、その後の山本氏の講話資料でも「『地方創生』=『地方の平均所得を上げること』と定義し、 “稼ぐ”取組が重要」と大きく書かれています。
[表]「まち・ひと・しごと創生総合戦略」(2016改訂版より)
政府の「まち・ひと・しごと創生本部」がまとめた「総合戦略」(2016年度改訂版)では、2020年に向けた地方創生の目標として4つの基本目標が掲げられています。(下図参照)
(1)地方にしごとをつくり、安心して働けるようにする
(2)地方への新しいひとの流れをつくる
(3)若い世代の結婚・出産・子育ての希望をかなえる
(4)時代に合った地域をつくり、安心な暮らしを守るとともに、地域と地域を連携する
(2)地方への新しいひとの流れをつくる
(3)若い世代の結婚・出産・子育ての希望をかなえる
(4)時代に合った地域をつくり、安心な暮らしを守るとともに、地域と地域を連携する
4つの基本目標に紐づく施策と目標数値も示されています。図はかなり細かいですが、こちらからPDFファイルをダウンロードできます。
前任の石破氏は、「これ(地方創生)が失敗したら、この国が終わるという危機感がある」と緊張感を持って述べています。上図の総合戦略も緻密に書き込んであるように見えますが、抜けている要素があるために、この総合戦略は現状打開の機会を自ら閉ざしているようです。
2つの共通点と「総合戦略」に欠けているもの
約40年の時を超え、昭和の「地方の時代」と平成の「地方創生」両者に共通するのは、住民不在という点です。
自治体経営の基本は、住民が主体的に地域経営を考え参加することですが、数万人を巻き込むコミュニケーションの方法は、旧来からないがしろにされてきました。行政には広報・公聴という領域がありますが、そのリーチ力は決して高くありません。
町おこしや地域経営の成功事例を見ると人口3000人前後、それ以下の規模の自治体での事例がほとんど。1万人を超えるとお互いの顔が見えなくなり、決めるべきことを決めることが大変になってきます。
そして、前述の「総合戦略」で抜けているポイントは、「教育」と「コミュニケーション」です。各地で高校廃校の可能性に危機を覚え、自治体、地域と学校が連携する事例も増えつつあるように、「教育」は地方と都市の容易に埋められない格差となっています。各地にとって深刻なことは、高齢化以上に次世代を担う若年層の流出です。
地方創生を政府が本気で行うならば、「地域課題を小中学校から学ぶ機会を増やし、地域の若者が起業できる環境整備」を自治体主導で行えるようにするべきです。各自治体への「総合教育会議」の整備などによって、首長の関与は強化されていますが、依然として教育行政は上意下達の慣習が残っており、閉鎖的と言われています。
また、住民とのコミュニケーションについては、従来の広報・公聴の枠を超えた住民参加を前提とした地域経営手法の導入を、各自治体に後押しすべきです。
この2つの要素がすっぽり抜けていることが、地方創生の取り組みに未来への期待を感じられない最大の理由なのです。
自治体経営のOSはなぜ性能を発揮できないのか
政府も私たちも「住民不在の自治」という矛盾状態に慣れてしまっています。マスメディアが注目することによる劇場型政治をうっかり評価してしまうことさえあります。結果として、住民不在で、住民に負担をもたらす意思決定が合理的かつ合法的に行われます。図にするとこんな感じです。
[図解]地域の行き詰まりの原因は?(筆者作成)
自治体経営というオペレーションシステム(OS)が、地方自治法と、さらに住民自治の権限を定めた憲法8章(特に94、95条)によって構成されながら、本来の性能を発揮できていないのは、住民を日常的に地域経営に参加させることを避けてきたからです。これが、このOSの欠陥です。そこで何が起こるかというと、社会の富の浪費であり、地域の衰退の加速です。
「コミュニケーションの動脈硬化」解消を
日本全国で上図にあるような、住民、議会、首長、行政の間の「コミュニケーションの動脈硬化」を解消しなければ、“稼ぐ”ことに成功しても時間稼ぎにとどまります。いまはその時間稼ぎも大変重い意味を持ちますが、本来の向かうべき未来を考えずに所得の向上をゴールにしてしまうことは、地方創生という有意義な取り組みの矮小化に繋がります。
「地方創生」が「地方の時代」のようにならないために「住民不在にならないコミュニケーション」を自治体が実装する必要があります。
それは、地域の課題を住民らで議論し解決を目指す「コミュニティデザイン」とか「ワールドカフェ」のような手法ではないのか? という指摘もあるかもしれませんが、双方ともに数万規模の人々の参加は現実的に難しく、参加者の継続的なコミットメントは担保されていません、さらに、議員の参加を促す仕組みも備えていないため、上図の動脈硬化を解消できません。
また、みんなで考えていいものでもありません。整理された情報の共有もなく、議論する対象の階層が錯綜しないための交通整理を行わずに、単純にみんなで考えた結果は大抵、混乱に陥ってしまいます。理想論で現実が動くというような生易しいものではないのです。ですから、これまでの歴史の中で、住民を日常的に地域経営に参加させることは避けられてきました。
それでも、21世紀を生きる私たちは未来をつくらねばなりません。未来の日常が自分たちの手から離れたものにならないために、私たちには理性的に情報を咀嚼(そしゃく)し、自分の頭で考え、意思表示するという面倒なことを積極的に行うことが求められています。「地方創生」の本質は、一人ひとりが地域のことを客観的に理解し考え行動することにあります。
そして、それをどう実現していくかは21世紀のメディアの形、民主主義を考えることを意味するのです。
■岩田崇(いわた・たかし) 1973年1月生まれ。「オープンな合意形成によってこれからの社会に求められるイノベーションが実現する」との考えのもとに特許、メディア開発などを行う研究者、起業家。栃木県塩谷町では『塩谷町民全員会議』を開発、運営し、2016年マニフェスト大賞コミュニケーション最優秀賞を受賞
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- 再生核研究所声明192(2014.12.27) 無限遠点から観る、人生、世界(これは、最近、夢中になっているゼロ除算の発想から湧いた、逆思考である。要するに遠い将来から、人生や世界をみたら、考えたら、どのようになるかという視点である。)主張が明確に湧いたので、結論、趣旨から述べたい。人は我々の目標や希望が未来にあり、そのためにその目標に向かって、努力、精進などと志向しているは 多いのではないだろうか。そのような意味で、我々の関心が、先に、先に有るように感じるのではないだろうか。これは自然な心情であろうが、別の視点も考えたい。成長や発展、変化には適切な有り様が有って、早ければ良い、急いで進めれば良いとはならないということである。現在は、未来のためにあるのではなく、現在、現状はそれ自体尊いという視点である。先、先ではなく、 いま、いまが大事であるという視点である。生物の成長には固有のリズム、成長のペースがあるということである。我々は、生物としての枠、構成されている状況によって制限があり、適切な有り様が存在する:再生核研究所声明85(2012.4.24)食欲から人間を考える ― 飽きること理想的な有り様には 自然な終末もあり、大局的にみれば、大きな流れにおける調和こそ大事ではないだろうか。次の声明再生核研究所声明144(3013.12.12) 人類滅亡の概念 - 進化とは 滅亡への過程であるの題名も真実だろうが、そこで述べた、そこで、 ここでの教訓は、目標や先は、そんなに良くはないのだから、何事無理をするな、自分のペースで、急がず、慌てず、 自分の心の状態を尊重する ということである。人生の一つの原理は、ゲーテの 絶えず活動して止まないもの、 アインシュタインの 人生は自転車に乗っているようなもの である、 止まったら、倒れてしまう、 岡本太郎氏の 芸術は爆発だ、どんどん爆発を続けて行くのが芸術だ。 これらは、誠 至言である。は真実としても、活動を進める情念も結局、自己のペースが大事であって、あまり外の影響を強く受けるべきではないと言う、視点が大事ではないだろうか。言いたいことは、個人の心持ちもそうであるが、経済活動、社会活動、科学の進歩も、全体的な流れにおける調和が大事であるということである。例えば磁気浮上式電車の開通の是非は 妥当であろうか。原子力発電所の開発促進は適切であろうか。グローバリゼーションは 急ぎ過ぎではないだろうか。成果主義は行き過ぎではないだろうか。経済の成長、発展 優先も大いに気になる。などと難しい問題に対する広く、深い、総合的な評価の検討も要請したい。 次の声明も参照:再生核研究所声明117(2013.5.10): 時,状況が問題; タイミングの重要性 、死の問題、恋の問題。以 上
- 再生核研究所声明75(2012.2.10): 政治・経済の在りようについて
- (この声明は 再生核研究所声明に関心を抱く方の要望によって、動機付けられたものです。他方、大谷杉郎 元群馬大学名誉教授の下記の文が気になって来ました: (新里山文明 ― 私は、基本的には、社会の制度、経済の仕組みにまで立ち入らないと解決はしないと思っています。無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組みの通用した時代は、もうあきらめたほうがいいと思っています。技術と社会制度と、それに人々との考え方と、みんな一緒にならないと循環社会、新里山文明の時代は来そうにありません。 ―( 日だまりの風景 平成18年9月15日発行 大谷杉郎著 印刷所 太陽印刷工業(株)P106~P107より )(群馬大学工業会会報・平成11年3月 99)p95~p107より)。)上記両者の意見には いわゆる資本主義は 社会主義同様 行きづまっているのではないか、新しい社会の、経済の在りようを模索する必要が有るのではないか との考えを暗示しているようにみえる。もちろん、政治・経済の在りようについての総合的な考察は、大きな課題であるから、考察を進めるには 重い課題ということになる。 しかしながら、歴史は連続的に流れ、慣性の法則で動いている(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)とすれば、現状の問題点を分析することによって、在るべき方向が見えて来ると考えられる。現在の世界を、アメリカ、EU, 日本など、いわゆる自由主義経済、資本主義社会、民主主義の国々、および、 ロシア、中国など、いわゆる社会主義の変化で 社会主義と資本主義の中間に位置する国々、および いろいろな国柄を反映させているその他の国々と考えてみよう。 社会主義国では、経済活動は国によって計画され、企画されて、人々を資本家から解放し、より平等で公正な社会を目指していると考えられたが、結果は産業・経済活動が停滞し、民生の遅れをもたらし、皮肉にも自由、平等、民主主義の理念から外れ、社会主義の理念は 内部から、崩壊し、より自由な経済活動を許す、解放経済の方に向かわざるを得なかったようにみえる。 これは自由な経済活動が、産業の活性化をもたらし、国や特定の機関の管理では、庶民の力を発揮することができないという、 いわば、人間の本性に根ざした原理から出ていると考えられる。しからば、資本主義諸国の現状における問題とは何だろうか。 いみじくも、アメリカ,EU, 日本に共通する大きな課題は、 膨大な債務を抱えて、財政破綻の危機にさらされているということである。これは、民主主義の中で、庶民の意志を尊重するあまり、各国の政府が無責任な財政運営を余儀なくされてきたということに他ならない。 民主主義は衆愚政治に陥り、国家は財政破綻を迎えたと、旧社会主義や独裁主義国家から、嘲笑されかねない由々しき事態ではないだろうか。 自由を保証する社会は、そもそも人類の理想であるから、財政の立て直しによる、復活を願わざるを得ない。しかしながら、資本主義社会で見られる、次のような現象については、大きな歯止めと警戒、対処が必要ではないだろうか。それらについて、関係する国際的な機関で 枠をはめ、より良い方向に誘導するような政策を進める必要が有るのではないだろうか。植物界でも動物界でも、自由に野放ししておけば良いとはならず、適当な手入れ、癌細胞などは除去するなど適切な処置が必要であるように である。― これは要するに、現状の自由を尊重する、資本主義と民主主義の在りようを評価して、そこから発する大きな歪を是正していこうとの 現実的な対応を志向するものである。上記 (無駄をすればするほど、景気がよくなるという経済の仕組み)などについては 税率によって、 調整して行く と考えるのは 如何なものであろうか。他方、ロシアや中国における在りようの問題では、いまだ自由の保証が十分では無く、人権、人間の尊厳の観点から問題が有るのではないかとの危惧の念を抱かせるが、それぞれの国には それなりの歴史と伝統、文化が有るのだから、軽々しく内政干渉のような態度をとらない姿勢が大事ではないだろうか。 アラブや、その他の諸国についても お互いに内政干渉を控え、いろいろな国による、多様な在り様、多様な文化の存続を尊重、重視していくべきではないだろうか。 いわゆる グローバリゼーションは 地球を画一化して、貧しい均一的な 世界を作り、 傾向として良くないと評価したい。 多様な世界を志向したい。逆に民主主義の問題点を指摘して置きたい。 上述の様に国民に慮る故に 政府が弱く、政府が責任ある政治を進めることができない状況が起きているから、政治家の身分を安定的に保証して、責任ある政治に専念できるように配慮すべきではないだろうか。そのためには、首相や国会議員の任期を長くして、その間、身分を篤く保証することも検討に値するのではないだろうか。アメリカの大統領選出過程などは あまりにも 長く、現実的ではないのではないだろうか。多数の意見が広く表現できるのは良いが、無責任なムードのようなもの、世論で、 政治が歪められやすい状況について、警戒を要するのではないだろうか。 次の危惧を参照(再生核研究所声明 33: 民主主義と衆愚政治)。以 上再生核研究所声明 13 (2008/05/17): 第1原理 ― 最も大事なこと世界の如何なるものも 環境内の存在であり、孤立した存在は在り得ない。世界の如何なる芸術も真理もまた一切の価値は、人類が存在して始めて意味のある存在となる。従って人類の生存は、如何なるものをも超えた存在であり、すべてに優先する第1原理として、認識する必要がある。よって環境や戦争については 多くの人間の関与すべき重要な問題と考えなければならない。21世紀は、近代科学の進歩によって 地球の有限性が顕わになり、人類絶滅の可能性を感じせしめるようになってきた時代とも言える。国が栄えなければ、地方の栄えは考えられず、県などが栄えなければ 市町村などの発展は望めない。市町村などが健全でなければ 地域は栄えず、住民や家庭の健全な生活は不可能である。しかしながら、現実的な対応としては、逆方向の発展を考えざるを得ない。すなわち私たち個人、および個人の近くから、より良い社会、環境になるように努力していくことである。孤高の存在は所詮空しく、儚いものである。それゆえに われわれは各級のレベルにおける環境と社会に思いを致すことに努力して行こうではありませんか。特に、われなき世界は 存在すれども、何事をも認識できず、知ることもなく感じる事もできない。よって、われ存在して始めて、世界を知ることになるから、健全なる個人の存在は、個人にとっては最も大事な第1原理に考えざるを得ない。これは言い古されてきた、 まず健康ということ、 に他ならない。われなき世界とは 自分が影響を与えない世界のことである。この個人と社会の関わりは、 愛とよばれている、 愛の本質である。それは男女の愛と親子の愛が基本になっている。それはまた じんかん と よばれる人間存在の本質でもある。この声明は 地球環境を限りなく大事にし、世界の平和を確立し、社会を大事に思い、世界の拡大と深化を、 個人を尊重しながら、 積極的に進めることを、各級のレベルで努力することを要請しているものである。その原理は、 人間存在の本質である、 人間存在における三位一体の理存在、知、愛の、存在して、始めて知り、求める事ができる という原理を、いわば当たり前のことを、確認しているに他ならない。(しかしながら、実際にはこの自明な、重要な原理は、解析接続のように必然的に 新しい価値観と考え方を限りなく発展させ、雄大な世界を拓くのであるが、私個人はこの古い世界で生涯を閉じようとしていて、その世界には立ち入らない事にしたいと思う。不思議にも 少年時代に宇宙論と共にその世界を覗いたのですが、怖くなって覗かないようにしました。それはガウスが非ユークリッド幾何学を発見したが、世の反響の大きさを恐れて発表を控えたのと同じ心境です。) 以上。
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