内田樹「政治に無関心な若年層 手作りの梃子が必要だ」
思想家・武道家の内田樹さんの「AERA」巻頭エッセイ「eyes」をお届けします。時事問題に、哲学的視点からアプローチします。
* * *
5年前、神戸市の一隅に自宅兼道場を建てて、地域社会に根を下ろすことになった。地元の市民たちの活動にはできるだけ協力するようにしている。参加してみて痛感するのが市民運動の高齢化である。特に30~40代の層が著しく薄い。仕事でお忙しいのだろうけれど、日本の立憲民主制が瓦解(がかい)しようとしているときに、この世代の人たちは何を考え、何をしているのだろう。
たぶんそれほど切迫した危機感を覚えていないのではないかと思う。別に彼らが現状に満足しているという意味ではない。そうではなくて、政治と生活がリンクしている実感がないのだと思う。政治が変わることによって自分たちの生活が変わることもないし、生活が変われば政治が変わるとも思っていない。一人の人間のできることには限界がある。その限界に自覚的なのだ。だからもし、個人がその微力を政治過程に反映させたいなら「レバレッジ」が必要だ、たぶんそう考えているのだと思う。アルキメデスが「われに支点を与えよ。されば地球を動かしてみせよう」と豪語した、かの「梃子(てこ)」である。
この「レバレッジ」信仰(と呼んでよいと思う)は現代日本にかなり広範に根づいた一種のイデオロギーのように思われる。
自分の力を何倍何十倍にする「魔術的な装置」がどこかにある。それを見いだし、その操作に習熟することが最優先の課題なのだとどこかで教えられたのだ。だから、「できることからコツコツと」というような非効率な生き方にはさっぱり興味がわかない。そんなことをしている暇があったら「レバレッジ」を探したほうがいい。署名を集めたり、街頭に立って道行く人にビラを配ったりするくらいのことで「政治が変わってたまるか」と。そう思っているのかもしれない。
けれども、「レバレッジ」に既製品はない。誰かがプレゼントしてくれることもない。手元にある、ありあわせの材料を使って手作りするしかないものなのである。「レバレッジ」を探し求める人たちは、「手元にある素材」「自分にも簡単にできること」の含む潜在可能性をいささか過小評価してはいないだろうか。
※AERA 2017年6月12日
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5年前、神戸市の一隅に自宅兼道場を建てて、地域社会に根を下ろすことになった。地元の市民たちの活動にはできるだけ協力するようにしている。参加してみて痛感するのが市民運動の高齢化である。特に30~40代の層が著しく薄い。仕事でお忙しいのだろうけれど、日本の立憲民主制が瓦解(がかい)しようとしているときに、この世代の人たちは何を考え、何をしているのだろう。
たぶんそれほど切迫した危機感を覚えていないのではないかと思う。別に彼らが現状に満足しているという意味ではない。そうではなくて、政治と生活がリンクしている実感がないのだと思う。政治が変わることによって自分たちの生活が変わることもないし、生活が変われば政治が変わるとも思っていない。一人の人間のできることには限界がある。その限界に自覚的なのだ。だからもし、個人がその微力を政治過程に反映させたいなら「レバレッジ」が必要だ、たぶんそう考えているのだと思う。アルキメデスが「われに支点を与えよ。されば地球を動かしてみせよう」と豪語した、かの「梃子(てこ)」である。
この「レバレッジ」信仰(と呼んでよいと思う)は現代日本にかなり広範に根づいた一種のイデオロギーのように思われる。
自分の力を何倍何十倍にする「魔術的な装置」がどこかにある。それを見いだし、その操作に習熟することが最優先の課題なのだとどこかで教えられたのだ。だから、「できることからコツコツと」というような非効率な生き方にはさっぱり興味がわかない。そんなことをしている暇があったら「レバレッジ」を探したほうがいい。署名を集めたり、街頭に立って道行く人にビラを配ったりするくらいのことで「政治が変わってたまるか」と。そう思っているのかもしれない。
けれども、「レバレッジ」に既製品はない。誰かがプレゼントしてくれることもない。手元にある、ありあわせの材料を使って手作りするしかないものなのである。「レバレッジ」を探し求める人たちは、「手元にある素材」「自分にも簡単にできること」の含む潜在可能性をいささか過小評価してはいないだろうか。
※AERA 2017年6月12日
興味深く読みました:
再生核研究所声明358(2017.3.13) 政治の話しを、対話を勧める
誠におかしな日本の世相には、政治の話しを憚ったり、避けるような土壌が存在することである。それでいて選挙には投票を呼びかけ、投票年齢を下げたり、投票率などに対する関心などは高い。
そもそも、民主主義の国家では多数の意見でことを決めていこうとの精神が強く、基本的には世界の趨勢であると言える。この時、多数の意見の是非、またその反映に大きな問題が生じている。政治家の選出過程のいろいろな問題である。しかし、ここでは、選挙に臨む基本的な考え方として、所謂 あれも霞と民主主義、衆愚政治に、ならないように日頃政治に関心を抱き、いろいろ幅広い意見に接して、政治に関する素養の涵養に務めるように注意を喚起したい。
そもそも人は自分中心に世界を、社会を見て、自分の都合の良い社会を実現したいと考えがちである。しかしながら、人の考えはまちまちであり、志向する世界も様々である。そのような複雑な状況のなかで、環境が、社会が良くなければ、結局、自分だけが上手くいくようなものでないことは歴然である。戦乱に巻き込まれたり、大きな事業が活かされず、自然や社会を破壊している例は世に多い。それらの大きな要因には 政治の問題が関わっていると言える。
政治社会は大きな世界で 大事である。ぼんやりしていると、人類壊滅に導かれかねない。
人類が滅亡すれば、世界の如何なるものも 虚しくなるだろう。また、何時の間にか暗黒社会になっていたと成りかねない。
人類の生存、世界史の大義をしっかりと受け止め、絶えず、より良い社会を築くためにはどうすれば良いかと 問い、その大義のもとに いろいろな在り様を広く思考すべきである。 より良い社会を築くためには、政治はどのように在るべきか との問いに、私情、感情をむきだしにせず、真智への愛のような態度をとるべきである。 ところが、その大義がボケて、私情、感情をむきだしにして、自分たちの利益のために、反対意見や対立する意見を 初めから 否定的に 攻撃的な態度をとるようでは 対話の余地がなくなり、単なる論争、口論になりさがってしまう。 一定の組織人が自分達の組織、仲間の立場で 他の立場を批判、攻撃することは 当然存在するが 多くの人がより良い社会を築くためには、 どうすれば良いか との問いに 私情、感情をむきだしにせず、真智への愛のような態度で交流、対話して行けば 視野を広め、社会を支える民度の向上につながるのではないだろうか。 また、そのような態度は人生の大きな主題になるだろう。 逆に、社会や世界史への関心が薄くなれば、人は小さな自分の世界に閉じこもり、個々のバラバラの存在になってしまうだろう。
また、選挙で投票行為を行うからには、それに値する基本的な素養が要求されるのは 当然ではないだろうか。
社会に大きな影響を与えるマスコミや、政治家の発言に対する批判は 基本的に大事であるが、批判は、具体的で建設的であるべきであり、大義を重んじて、私情を抑え、 客観的な立場や公正の原則を重んじて行ない、多くの人の共感、共鳴が得られるような表現が望まれる。 大義に基づく意見は尊重され、共感、共鳴が得られるのではないだろうか。
より良い社会を 築いて行くために 大義に基づくと考えられる 意見表明を積極的に行って行こうではないか。
相手の立ち立場を尊重、考え方を尊重し、全面否定などは 厳に慎むべきである。
以 上
再生核研究所声明 50(2011.2.24): 日本における 民主主義の脆さ、危うさ
民主主義は 衆愚政治に近いものであり(声明 33:民主主義と衆愚政治)、日本は既に衆愚政治の状態ではないか との危惧を表明している(声明 49:アジアの愚か者、アジアの野蛮性)。しからば、どうして、このような状態に至ったかを考察して、日本国の弱点を克服して、少しでも歴史を進化させるように努力したい。
はじめに、民主主義は 日本の国民性に合っておらず、本質的な問題を抱えていると言えるのではないだろうか。 先ず、大多数を占める一般庶民を見ると、
1)政治に興味が無い、関心が無い、政治に嫌気がさしている、政争を好まない、政治論争も嫌いである、あるいは政治に絶望している。
2)政治を語ると 変な偏った思想の持ち主であるかのように感じられる風土、文化、和の精神で、表に出さず、内緒に政治に関与したい。 みんなで連なっていたい文化背景を有しているように考えられる。
3)日本のあるべき形や、組織のあるべき姿など 真剣に考える余裕も無く、認識が、理解が薄いので、多分に感じやムード、評判などで、判断内容の質は 相当に悪く、あれも霞と民主主義 のレべル を越えているようには見えない。
4)公の選挙でも、地縁、など まるで、ある勢力の争いのような雰囲気で、政策や政治理念、政策以外で、選挙に参加するのは よく見られる情景である。多くの場合、社会を良くするには、国を良くするには の観点より、勢力争いに費やしている方が主になっている。
5)本質的な問題としては、日本では、個、個人が確立しておらず、ふらふら仲間のムードで動いている、生きている、意思表示しているような背景がある。
近年に見られる背景は、
1)真面目に社会や、国の在りようについて考える、時間的な、精神的な余裕が無い、国防や税の問題、経済、福祉など、難しすぎて、真面目に検討できない
2)政治社会は あまりにも大きな世界のために、個人の空しさを感じて、絶望的になってしまう。 諦めてしまう
3)醜い政争、あるいは公約違反などを見て、うんざりして、諦めてしまう、信じられる政党も、政治家も、人物もいない
などの理由で、政治に無関心な層が増加していると考えられる。
それらのために 投票しても、質が低く、変な投票結果すら、出していると考えられる。これこそ、衆愚政治に陥っている ということの、その背景ではないだろうか。
多くの人が政治に関心を持ち、日ごろ議論などして 高い見識を維持することは 不可能である。 そこで、言論界やマスコミなどが 建設的な意見や、あるべき姿について見識ある見解を表明して、多くの国民がそれらを参考にして、選択するというのが、民主主義のあるべき実体である、 実相であると考える。 そこで、マスコミや言論界がしっかりしていれば、民主主義は 国民が最終的な、総合的な判断をするという意味で、うまく機能すると、民主主義制度を高く評価できる。ところが、日本で重大な問題が起きていると危惧している。日本の言論界、マスコミが誠に低級で、偏っているという、判断である。そのために、国民は混乱させられ、政局は混乱し、全体として衆愚政治に陥っているという、判断である。
マスコミが 不偏不党、法と社会正義を守り、客観的な報道を行なうのは、当然であると考えられてきたが、公然と偏向報道を行い、法や道理を自ら破ぶっているように見える。 国家の在り様についての見識も、低級であると判断される。具体例を挙げると、検察が徹底的に調べて、不起訴処分を決定している者を、あたかも有罪判決を受けた者のように、大騒ぎさせて、日本の指導的な政治家を 政治的に抹殺しようとしている事実は 顕著ではないだろうか。推定無罪の原則など、法治国家の常識ではないだろうか。ようやく実現した政権交代を散々攻撃して、政権交代を空中分解させている。 健全にマスコミが機能していれば、このように混乱した状況は 起きなかったものと考えられ、誠に残念である。更に、国家の在るべき姿に対しても アジアに緊張を起こし、軍拡を煽り、アジアの愚か者を 扇動する浅ましさが目立つ。
更に信じられない事件は、検察の政治介入である。これには繰り返し述べてきたところであるが、公然と与党幹事長や首相になろうという人に 政治的な弾圧を加えていると理解されるということである。 これは、民主主義に対する官憲による政治介入に繋がるので、極めて重要な問題を含んでいる。 関係声明を参照して頂きたい:
再生核研究所声明 23: 秘書の逮捕、起訴事件における検察庁の対応と公正の原則
再生核研究所声明 30: 検察庁の暴走と民主主義の危機 - 広い視点
再生核研究所声明 31: 法の精神と - 罪と罰
再生核研究所声明 41: 世界史、大義、評価、神、最後の審判
マスコミも検察も終戦に当たって、大きな反省をした筈であるが、何を学習したのだろうか。 国民のレベルも戦前以下であり、日本国の民主主義に危うさ、危惧の念を抱いている。 それらは、平和の問題に直結している、日本国の大事であると考える。
以 上
欧米では時間を越えて、真理・真実を追求しようとする文化がある(これは神の前に出るときには 清い心で望みたいという宗教が背後にあるように感じられる)のに比べて、日本には誤魔化したり、隠蔽したり、曖昧にする文化があることに深く根ざしているとも言える。
小沢氏「既存メディア」不信? フリー記者らに積極露出
小沢氏だけでなく、多くの人が、日本のマスコミが、法を尊重せず、公正でもなく、不偏不党でもないとは感じておられると思います。
政治に関心のない・真面目な研究者が、日本のマスコミは外国誌のようだ、小沢氏をたたいている、おかしいと言っていたのは、日本の常識を言っていると思います。首相になろうという人に疑いをかけて、さんざん騒ぎ、政治家失脚のように追い詰めて、結局不起訴を決めた、検察の重大な過失、その事実だけで、検察の責任は、民主主義への本質的な挑戦ではないでしょうか。
健全なマスコミならば、そのような経過を許さず、また検察の責任を追及するのが正義と法を守り、民主主義を守るマスコミの使命ではないでしょうか。 マスコミ・検察・政治家が団結して、小沢氏をいじめているように見えますね。 おかしな日本。 法も道理も義もないのかと怒りを覚えます。
何故マスコミは乗っ取られたのか?
何時の世にも宣伝は大事であり、権力者ばかりではなく、多くの人が、マスコミを利用しようとするのは、普遍的な事実ではないでしょうか。
そこで、そのような圧力に対して、社会正義や世界のための大きな視点を失って、圧力で動いていれば、それはマスコミの役割を放棄し、信頼を失い結局衰退するのではないでしょうか。
いつでも信頼の上に成り立つものは世に多いですね。
マスコミは、公器なので、社会正義や不偏不党などの条件が有ると考えますが、アメリカ流の考えによれば、いまや電波や情報は広く拡散できますので、新聞社は、勝手に商業紙の様に自由に書いても良いという考え方があるようです。 ですから、新聞内容を丸呑みしないで、いろいろな情報と比較したりして 批判的・理解する態度が必要ではないでしょうか。
日本の新聞など、外国の圧力で書いているようなところが多く、商業紙のようで、論説記事なども批判的に見る態度が大事ではないでしょうか。 実際、日本のマスコミには、日本を衆愚政治に導いていて、法や道理を無視しているようなところがありますね。 小沢氏の問題などに顕著に現れていると思います。 検察が小沢氏の問題について、不起訴処分を決定したという、重い事実など無視して、政治と金などのキャンペーンを繰り返していますね。 検察の政治介入の巨悪を追及すべきところ、検察とマスコミの癒着では、マスコミの腐敗は深刻ではないでしょうか。
平成暗黒時代の演出者として、やがて世界史の厳しい批判を受けるのではないでしょうか。
再生核研究所声明41(2010/06/10):世界史、大義、評価、神、最後の審判
日本のマスコミは、どの部分を改善したら、素晴らしくなるでしょうか
日本のマスコミについて、果たして自分たちの良心と社会正義観から、政治問題や防衛問題を 真面目に考えているようには見えず、外圧によって、偏向報道をやっているように思われ、報道の信頼が揺らいでいるのは根本的な問題ではないでしょうか。
編集者の責任は、重大ではないでしょうか。
政治以外の文化面その他の多くの記事が素晴らしくても、大事な政治で偏向・社会正義について信頼を失えば、新聞全体の評価は、著しく下がるのは当然ですから、関係者が内部から、絶えず、社会正義を追求すべきでは。 特にいろいろな意見や反対意見を幅広く取り上げ、いろいろな視点から、幅広く読者が判断できるように、情報を提供すべきではないでしょうか。
良い意見を広く採択でき、紹介するためには、編集者の高い能力と公正な判断能力が求められるのではないでしょうか。
GHQから「日本の将棋は取った相手の駒を自分の兵隊として使用するので、これは捕虜の虐待ではないか」と問われた升田は次のように反論する。
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」と反論した。
格好良すぎるぞ。升田幸三!
「冗談をいわれては困る。チェスで取った駒をつかわんのこそ、捕虜の虐殺である。そこへ行くと日本の将棋は、捕虜を虐待も虐殺もしない。常に全部の駒が生きておる。これは能力を尊重し、それぞれに仕事場を与えようという思想である。しかも敵から味方に移ってきても、金は金、飛車は飛車と元の官位のままで仕事をさせる。これこそ本当の民主主義ではないか」。チェスは取った駒を殺すが、これこそ捕虜の虐待ではないか。キングは危なくなるとクイーンを盾にしてまで逃げるが、これは貴殿の民主主義やレディーファーストの思想に反するではないか」と反論した。
格好良すぎるぞ。升田幸三!
名人に香車を引いた男―升田幸三自伝 (中公文庫) [文庫]
升田 幸三 (著)
天野宗歩
日本の政党は「腐敗している」80%(独NGO調査)
「政治家信用せず」80%、17、18歳に政治家不信の傾向浮き彫り
国の借金1000兆円を突破 6月末時点
高学歴エリートが沢山いるのになんで財政難なんだよ?
(;_; )( ;_;) シクシク・(-。-;)・(◎_◎)・(^_-)db(-_^) 指切りげんまん
自民が勝つ
民主が負ける
俺たちが笑う
日本が元気になる
それでおk
民主が負ける
俺たちが笑う
日本が元気になる
それでおk
惜しい 途中までは合ってるけど最後が少し間違ってる
自民が勝つ
↓
民主が負ける
↓
お前らが笑う
↓
自民が日本を終わらす
↓
お前らが騙されたと気づく
自民が勝つ
↓
民主が負ける
↓
お前らが笑う
↓
自民が日本を終わらす
↓
お前らが騙されたと気づく
五輪決定圧勝劇の裏 北朝鮮が「4票」に協力 - 東スポWeb
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/181725/
http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/181725/
再生核研究所声明368(2017.5.19)ゼロ除算の意義、本質
ゼロ除算の本質、意義について、既に述べているが、参照すると良くまとめられているので、初めに復習して、新しい視点を入れたい。
再生核研究所声明359(2017.3.20) ゼロ除算とは何か ― 本質、意義
ゼロ除算の理解を進めるために ゼロ除算とは何か の題名で、簡潔に表現して置きたい。 構想と情念、想いが湧いてきたためである。
基本的な関数y=1/x を考える。 これは直角双曲線関数で、原点以外は勿論、値、関数が定義されている。問題はこの関数が、x=0 で どうなっているかである。結論は、この関数の原点での値を ゼロと定義する ということである。 定義するのである。定義であるから勝手であり、従来の定義や理論に反しない限り、定義は勝手であると言える。原点での値を明確に定義した理論はないから、この定義は良いと考えられる。それを、y=1/0=0 と記述する。ゼロ除算は不可能であるという、数学の永い定説に従って、1/0 の表記は学術書、教科書にもないから、1/0=0 の記法は 形式不変の原理、原則 にも反しないと言える。― 多くの数学者は注意深いから、1/0=\infty の表記を避けてきたが、想像上では x が 0 に近づいたとき、限りなく 絶対値が大きくなるので、複素解析学では、表現1/0=\infty は避けても、1/0=\infty と考えている事は多い。(無限大の記号がない時代、アーベルなどもそのような記号を用いていて、オイラーは1/0=\inftyと述べ、それは間違いであると指摘されてきた。 しかしながら、無限大とは何か、数かとの疑問は 続いている。)。ここが大事な論点である。近づいていった極限値がそこでの値であろうと考えるのは、極めて自然な発想であるが、現代では、不連続性の概念 が十分確立されていて、極限値がそこでの値と違う例は、既にありふれている。― アリストテレスは 連続性の世界観をもち、特にアリストテレスの影響を深く受けている欧米の方は、この強力な不連続性を中々受け入れられないようである。無限にいくと考えられてきたのが突然、ゼロになるという定義になるからである。 しかしながら、関数y=1/xのグラフを書いて見れば、原点は双曲線のグラフの中心の点であり、美しい点で、この定義は魅力的に見えてくるだろう。
定義したことには、それに至るいろいろな考察、経過、動機、理由がある。― 分数、割り算の意味、意義、一意性問題、代数的な意味づけなどであるが、それらは既に数学的に確立しているので、ここでは触れない。
すると、定義したからには、それがどのような意味が存在して、世の中に、数学にどのような影響があるかが、問題になる。これについて、現在、初等数学の学部レベルの数学をゼロ除算の定義に従って、眺めると、ゼロ除算、すなわち、 分母がゼロになる場合が表現上現れる広範な場合に 新しい現象が発見され、ゼロ除算が関係する広範な場合に大きな影響が出て、数学は美しく統一的に補充,完全化されることが分かった。それらは現在、380件以上のメモにまとめられている。しかしながら、世界観の変更は特に重要であると考えられる:
複素解析学で無限遠点は その意味で1/0=0で、複素数0で表されること、アリストテレスの連続性の概念に反し、ユークリッド空間とも異なる新しい空間が 現れている。直線のコンパクト化の理想点は原点で、全ての直線が原点を含むと、超古典的な結果に反する。更に、ゼロと無限の関係が明らかにされてきた。
ゼロ除算は、現代数学の初等部分の相当な変革を要求していると考えられる。
以 上
ゼロ除算の代数的な意義は、山田体の概念で体にゼロ除算を含む構造の入れ方、一般に体にゼロ除算の概念が入れられるが、代数的な発展については 専門外で、触れられない。ただ、計算機科学でゼロ除算と代数的な構造について相当議論している研究者がいる。
ゼロ除算の解析学的な意義は、従来孤立特異点での研究とは、孤立点での近傍での研究であり、正確に述べれば 孤立特異点そのものでの研究はなされていないと考えられる。
なぜならば、特異点では、ゼロ分のとなり、分子がゼロの場合には ロピタルの定理や微分法の概念で 極限値で考えてきたが、ゼロ除算は、一般に分子がゼロでない場合にも意味を与え、極限値でなくて、特異点で 何時でも有限確定値を指定できる ― ゼロ除算算法。初めて、特異点そのものの世界に立ち入ったと言える。従来は孤立特異点を除いた世界で 数学を考えてきたと言える。その意味でゼロ除算は 全く新しい数学、世界であると言える。典型的な結果は tan(\pi/2) =0で、y軸の勾配がゼロであることである。
ゼロ除算の幾何学的な意義は、ユークリッド空間のアレクサンドロフの1点コンパクト化に、アリストテレスの連続性の概念でない、強力な不連続性が現れたことで、全く新しい空間の構造が現れ、幾何学の無限遠点に関係する部分に全く新規な世界が現れたことである。所謂無限遠点が数値ゼロで、表現される。
さらに、およそ無限量と考えられたものが、実は、数値ゼロで表現されるという新しい現象が発見された。tan(\pi/2) =0の意味を幾何学的に考えると、そのことを表している。これはいろいろな恒等式に新しい要素を、性質を顕にしている。ゼロが、不可能性を表現したり、基準を表すなど、ゼロの意義についても新しい概念が現れている。
以 上
ゼロ除算の詳しい解説を次で行っている:
(数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
)
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1
-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
1/0=0、0/0=0、z/0=0
http://ameblo.jp/syoshinoris/entry-12276045402.html
1/0=0、0/0=0、z/0=0
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
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