2017年4月12日水曜日

Our cult of “genius” is blinding us to true genius all around, say Leonardo da Vinci’s biographers

Our cult of “genius” is blinding us to true genius all around, say Leonardo da Vinci’s biographers

Individuals canonized as “genius” are often thought of as supernaturally gifted, as if touched by the divine. But the religious root of the 14th century Latin word actually means “a guiding spirit,” present for all humans. And by forgetting its original meaning and looking only for people who are born with a quasi-mystical quality, we risk becoming blind to budding geniuses all around us.
True genius results from a rebellious attitude against compartmentalized thinking; it can also appear as a fleeting moment of insight, not necessarily a permanent condition of greatness. These ecumenical definitions are highlighted in two new biographies of the ultimate Renaissance avatar for genius, Leonardo da Vinci, a multi-tasking, ambidextrous polymath who bridged art and engineering.

Creativity that can be cultivated

In the forthcoming book, Leonardo da Vinci (Simon & Schuster), Walter Isaacson describes genius as a trait that can be cultivated. As president of the Aspen Institute, Isaacson has regular dalliances with dazzling minds and he boils down genius to one trait: creativity.
He says da Vinci’s ability to “apply imagination to intellect” is what makes him the quintessential model. The inspiration for his engineering projects, for instance were often drawn from his daydreams about nature. The aerodynamic wings of the bat inspired his hand glider, the physics of falling maple tree seeds shaped his helicopter prototype and the hard, indestructible shell of tortoises was his design metaphor for battle tanks. “Modern biographers like to imagine Leonardo as a total man…whereas the evidence suggests someone who was terrifically lopsided.” 
“His facility for mixing observation with fantasy allowed him, like other creative geniuses, to make unexpected leaps that related things seen to things unseen,” explains Isaacson, who has also penned biographies about known geniuses such as Einstein, Benjamin Franklin and Steve Jobs.
“Leonardo’s genius was a human one,” emphasizes Isaacson. “It was wrought by his own will and ambition…It was based on skills we can aspire to improve in ourselves, such as curiosity and intense observation. He had an imagination so excitable that it flirted with the edges of fantasy, which is also something we can try to preserve in ourselves and indulge in our children,” he says. Unlike Einstein or Isaac Newton, da Vinci was self-taught and learned drawing through intense study of landscapes, cadavers, fossils, and weaponry.

Surmounting personal limits

(Melville House)
In the provocative volume Becoming Leonardo: An Exploded View of the Life of Leonardo da Vinci (Melville House) Mike Lankford pushes Isaacson’s thesis and argues that da Vinci’s human frailty made him the genius we know today. “Modern biographers like to imagine Leonardo as a total man, utterly complete in mind and body, whereas the evidence, objectively considered, suggests someone who was terrifically lopsided,” writes Lankford.
A child of a slave and a notary, da Vinci didn’t have a privileged education. Growing up in the sleepy hill town of Vinci, couldn’t speak any languages except in regional Tuscan and could only effectively communicate by drawing. “He was a profoundly limited person and yet through that limited medium, there was an explosive kind of reaction,” he explains.
Leonardo’s mirror writing, often fetishized by art scholars as a sign of extra-human abilities, is actually an aberration. Without formal education, the young da Vinci taught himself to write right to left, primarily to avoid tipping inkwell. Neurologists today would diagnose this tendency as dyslexia, but his natural shorthand—often with erratic strokes and spelling errors—freed da Vinci to log ideas without being stymied by the traditional rules of penmanship. Maybe there are more “one-hit wonders.” 
To Lankford, genius is not a halo, but a flash of clarity. “Leonardo had stunning moments of genius, but he was not a permanent genius—no one is,”asserts the Oregon-based writer. In fact, da Vinci worked hard to arrive at his moments of clarity. Considered a late bloomer for arriving at the workshop of painter Andrea del Verrocchio at age 15, he was keenly conscious of the need to figure things out quickly to catch up with his peers. Writes Lankford, “the sense of lateness is the animating spark of every autodidact.”
Lankford defines genius as “finding one’s way into the light,” and building something out of it. His theory of fleeting, episodic genius recalls literary critic Ron Rosenbaum’s argument. “Maybe genius has been, if not democratized, more widely and thinly distributed, rather than concentrated in the hands of a precious few. Maybe there are more “one-hit wonders,” no less wondrous for being so.” he wrote in a 2009 Slate article.
Lankford also argues that a myopic understanding of the phenomenon blinds us from seeing everyday geniuses. If we limit our gaze to the work of known geniuses, we neglect to give breakthrough ideas a chance. He says that genius is often quashed because of today’s regimented social order, and poor barometers for intelligence such as standardized testing system. A boy like the young Leonardo da Vinci might not be given a chance to succeed today, he points out, writing, “A kid growing up wild in the country today, fifteen years old and unable to properly write or sign his name, is what social welfare workers would call ‘a problem.'”
“There are Leonardos among us,” he adds.

とても興味深く読みました:

再生核研究所声明314(2016.08.08) 
世界観を大きく変えた、ニュートンとダーウィンについて

今朝2016年8月6日,散歩中 目が眩むような大きな構想が閃いたのであるが、流石に直接表現とはいかず、先ずは世界史上の大きな事件を回想して、準備したい。紀元前の大きな事件についても触れたいが当分 保留したい。
そもそも、ニュートン、ダーウィンの時代とは 中世の名残を多く残し、宗教の存在は世界観そのものの基礎に有ったと言える。それで、アリストテレスの世界観や聖書に反して 天動説に対して地動説を唱えるには それこそ命を掛けなければ主張できないような時代背景が 存在していた。
そのような時に世の運動、地上も、天空も、万有を支配する法則が存在するとの考えは それこそ、世界観の大きな変更であり、人類に与えた影響は計り知れない。進化論 人類も動物や生物の進化によるものであるとの考えは、 人間そのものの考え方、捉え方の基本的な変更であり、運動法則とともに科学的な思考、捉え方が世界観を根本的に変えてきたと考えられる。勿論、自然科学などの基礎として果たしている役割の大きさを考えると、驚嘆すべきことである。
人生とは何か、人間とは何か、― 世の中には秩序と法則があり、人間は作られた存在で
その上に 存在している。如何に行くべきか、在るべきかの基本は その法則と作られた存在の元、原理を探し、それに従わざるを得ないとなるだろう。しかしながら、狭く捉えて 唯物史観などの思想も生んだが、それらは、心の問題、生命の神秘的な面を過小評価しておかしな世相も一時は蔓延ったが、自然消滅に向かっているように見える。
自然科学も生物学も目も眩むほどに発展してきている。しかしながら、人類未だ成長していないように感じられるのは、止むことのない抗争、紛争、戦争、医学などの驚異的な発展にも関わらず、人間存在についての掘り下げた発展と進化はどれほどかと考えさせられ、昔の人の方が余程人間らしい人間だったと思われることは 多いのではないだろうか。
上記二人の巨人の役割を、自然科学の基礎に大きな影響を与えた人と捉えれば、我々は一段と深く、巨人の拓いた世界を深めるべきではないだろうか。社会科学や人文社会、人生観や世界観にさらに深い影響を与えると、与えられると考える。
ニュートンの作用、反作用の運動法則などは、人間社会でも、人間の精神、心の世界でも成り立つ原理であり、公正の原則の基礎(再生核研究所声明 1 (2007/1/27): 美しい社会はどうしたら、できるか、美しい社会とは)にもなる。 自国の安全を願って軍備を強化すれば相手国がより、軍備を強化するのは道理、法則のようなものである。慣性の法則、急には何事でも変えられない、移行処置や時間的な猶予が必要なのも法則のようなものである。力の法則 変化には情熱、エネルギー,力が必要であり、変化は人間の本質的な要求である。それらはみな、社会や心の世界でも成り立つ原理であり、掘り下げて学ぶべきことが多い。ダーウィンの進化論については、人間はどのように作られ、どのような進化を目指しているのかと追求すべきであり、人間とは何者かと絶えず問うて行くべきである。根本を見失い、個別の結果の追求に明け暮れているのが、現在における科学の現状と言えるのではないだろうか。単に盲目的に夢中で進んでいる蟻の大群のような生態である。広い視点で見れば、経済の成長、成長と叫んでいるが、地球規模で生態系を環境の面から見れば、癌細胞の増殖のような様ではないだろうか。人間の心の喪失、哲学的精神の欠落している時代であると言える。

以 上

再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学

今朝2016年8月6日,散歩中 目が眩むような大きな構想が閃いたのであるが、流石に直接表現とはいかず、先ずは世界史上の大きな事件を回想して、準備したい。紀元前の大きな事件についても触れたいが当分 保留したい。
ニュートン、ダーウィンの大きな影響を纏めたので(声明314)今回はユークリッド幾何学の影響について触れたい。
ユークリッド幾何学の建設について、ユークリッド自身(アレクサンドリアのエウクレイデス(古代ギリシャ語: Εὐκλείδης, Eukleídēs、ラテン語: Euclīdēs、英語: Euclid(ユークリッド)、紀元前3世紀? - )は、古代ギリシア数学者天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリアで活動した。)が絶対的な幾何学の建設に努力した様は、『新しい幾何学の発見―ガウス ボヤイ ロバチェフスキー』リワノワ 著松野武 訳1961 東京図書 に見事に描かれており、ここでの考えはその著書に負うところが大きい。
ユークリッドは絶対的な幾何学を建設するためには、絶対的に正しい基礎、公準、公理に基づき、厳格な論理によって如何なる隙や曖昧さを残さず、打ち立てられなければならないとして、来る日も来る日も、アレクサンドリアの海岸を散歩しながら ユークリッド幾何学を建設した(『原論』は19世紀末から20世紀初頭まで数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた[1][2][3]。線の定義について、「線は幅のない長さである」、「線の端は点である」など述べられている。基本的にその中で今日ユークリッド幾何学と呼ばれている体系が少数の公理系から構築されている。エウクレイデスは他に光学透視図法円錐曲線論球面天文学、誤謬推理論、図形分割論、天秤などについても著述を残したとされている。)。
ユークリッド幾何学、原論は2000年以上も越えて多くの人に学ばれ、あらゆる論理的な学術書の記述の模範、範として、現在でもその精神は少しも変わっていない、人類の超古典である。― 少し、厳密に述べると、ユークリッド幾何学の基礎、いわゆる第5公準、いわゆる平行線の公理は徹底的に検討され、2000年を経て公理系の考えについての考えは改められ― 公理系とは絶対的な真理という概念ではなく、矛盾のない仮定系である ― 、非ユークリッド幾何学が出現した。論理的な厳密性も徹底的に検討がなされ、ヒルベルトによってユークリッド幾何学は再構成されることになった。非ユークリッド幾何学の出現過程についても上記の著書に詳しい。
しかしながら、ユークリッド幾何学の実態は少しも変わらず、世に絶対的なものがあるとすれば、それは数学くらいではないだろうかと人類は考えているのではないだろうか。
数学の不可思議さに想いを致したい(しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:

19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。
)。
― 数学は公理系によって定まり、そこから、論理的に導かれる関係の全体が一つの数学の様 にみえる。いま予想されている関係は、そもそも人間には無関係に確定しているようにみえる。その数学の全体はすべて人間には無関係に存在して、確定しているようにみえる。すなわち、われわれが捉えた数学は、人間の要求や好みで発見された部分で、その全貌は分か らない。抽象的な関係の世界、それはものにも、時間にも、エネルギーにも無関係で、存在 している。それではどうして、存在して、数学は美しいと感動させるのであろうか。現代物理学は宇宙全体の存在した時を述べているが、それでは数学はどうして存在しているのであろうか。宇宙と数学は何か関係が有るのだろうか。不思議で 不思議で仕方がない。数学は絶対で、不変の様にみえる。時間にも無関係であるようにみえる。数学と人間の関係は何だ ろうか。―
数学によって、神の存在を予感する者は 世に多いのではないだろうか。

以 上

再生核研究所声明310(2016.06.29) ゼロ除算の自明さについて
人間の感性の観点から、ゼロ除算の自明さについて触れて置きたい。ゼロ除算の発見は誠に奇妙な事件である。まずは、近似の方法から自然に導かれた結果であるが、結果が全然予想されたことのない、とんでもないことであったので、これは何だと衝撃を受け、相当にその衝撃は続いた。まずは、数学的な論理に間違いがないか、厳重に点検を行い、それでも信じられなかったので、多くの友人、知人に意見を求めた。高橋眞映山形大学名誉教授のゼロ除算の一意性定理は大事だったので、特に厳重に検討した。多くの友人も厳重に時間をかけて検討した経過がよく思い出される。その他、いろいろな導入が発見されても、信じられない心境は1年を超えて続いたと言える。数学的に厳格に、論理的に確立しても 心情的に受け入れられない感情 が永く続いた。そのような心境を相当な人たちが抱いたことが国際的な交流でも良く分かる。中々受け入れらない、ゼロ除算の結果はそうだと受け入れられない、認められない空気であった。ゼロ除算の発展は世界史上の事件であるから、経過など出来るだけ記録するように努めてきた。
要するに、世界中の教科書、学術書、定説と全く違う結果が 世に現れたのである。慎重に、慎重に畏れを抱いて研究を進めたのは 当然である。
そこで、証拠のような具体例の発見に努めた。明確な確信を抱くために沢山の例を発見することとした。最初の2,3件の発見が特に難しかった。内容は次の論文に、招待され、出版された: http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html :
ゼロ除算を含む、山田体の発見、
原点の鏡像が(原点に中心をもつ円に関する)無限遠点でなく ゼロであること、
x,y直角座標系で y軸の勾配がゼロであること、
同軸2輪回転からの、ゼロ除算の物理的な意味付け、

これらの成果を日本数学会代数学分科会で発表し、また、ゼロ除算の解説(2015.1.14)を1000部印刷広く配布してきた。2年間の時間の経過とともに我々の数学として、実在感が確立してきた。その後、広範にゼロ除算がいろいろなところに現れていることが沢山発見され、やがて、ゼロ除算は自明であり数学の初歩的な欠落部分であるとの確信を深めるようになってきている。
単に数学の理論だけでなく、いろいろな具体例が認識の有り様を、感性を変えることが分かる。そこで、何もかも分かったという心境に至るには、素朴な具体例で、何もかも当たり前であるという心理状況に至ることが大事であるが、それは、環境で心自体が変わる様をしめしている。本来1つの論文であった原稿は 招待されたため次の2つの論文に出版される:
(2016) Matrices and Division by Zero z/0 = 0. Advances in Linear Algebra
& Matrix Theory, 6, 51-58.
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces:
International Journal of Mathematics and Computation 9 Vol. 28; Issue  1, 2017)

沢山の具体例が述べられていて、ゼロ除算が基本的な数学であることは、既に確立していると考えられる。沢山の具体例が、そのような心境に至らしめている。
ゼロ除算の自明さを論理ではなく、簡単に 直感的な説明として述べたい。
基本的な関数y=1/xを考え、そのグラフを見よう。原点の値は考えないとしているが、考えるとすれば、値は何だろうか? ゼロではないか と 思えば、ゼロ除算は正解である。それで十分である。その定義から、応用や意味付けを検討すれば良い。― 誰でも値は ゼロであると考えるのではないだろうか。中心だから、真ん中だから。あるいは平均値だからと考えるのではないだろうか。それで良い。
0/0=0 には違う説明が必要である。条件付き確率を考えよう。 A が起きたという条件の下で、B が起きる条件付き確率を考えよう。 その確率P(B|A) は AとBの共通事象ABの確率P(AB) と A が起きる確率P(A)との比 P(B|A)=P(AB)/P(A) で与えられる。もし、Aが起きなければ、すなわち、P(A) =0 ならば、もちろん、P(AB) =0. 意味を考えても分かるようにその時当然、P(B|A) =0である。 すなわち、0/0=0は 当たり前である。

以 上

再生核研究所声明311(2016.07.05) ゼロ0とは何だろうか
ここ2年半、ゼロで割ること、ゼロ除算を考えているが、ゼロそのものについてひとりでに湧いた想いがあるので、その想いを表現して置きたい。
数字のゼロとは、実数体あるいは複素数体におけるゼロであり、四則演算で、加法における単位元(基準元)で、和を考える場合、何にゼロを加えても変わらない元として定義される。積を考えて変わらない元が数字の1である:

Wikipedia:ウィキペディア:
初等代数学[編集]
数の 0 は最小の非負整数である。0 の後続の自然数は 1 であり、0 より前に自然数は存在しない。数 0 を自然数に含めることも含めないこともあるが、0 は整数であり、有理数であり、実数(あるいは代数的数、複素数)である。
数 0 は正でも負でもなく、素数でも合成数でも単数でもない。しかし、0は偶数である。
以下は数 0 を扱う上での初等的な決まりごとである。これらの決まりはxを任意の実数あるいは複素数として適用して構わないが、それ以外の場合については何も言及していないということについては理解されなければならない。
加法:x + 0 = 0 +x=x. つまり 0 は加法に関する単位元である。
減法: x− 0 =x, 0 −x= −x.
乗法:x 0 = 0 ·x= 0.
除法:xが 0 でなければ0x= 0 である。しかしx0は、0 が乗法に関する逆元を持たないために、(従前の規則の帰結としては)定義されない(ゼロ除算を参照)。

実数の場合には、数直線で、複素数の場合には複素平面を考えて、すべての実数や複素数は直線や平面上の点で表現される。すなわち、座標系の導入である。
これらの座標系が無ければ、直線や平面はただ伸びたり、拡がったりする空間、位相的な点集合であると考えられるだろう。― 厳密に言えば、混沌、幻のようなものである。単に伸びたり、広がった空間にゼロ、原点を対応させるということは 位置の基準点を定めること と考えられるだろう。基準点は直線や平面上の勝手な点にとれることに注意して置こう。原点だけでは、方向の概念がないから、方向の基準を勝手に決める必要がある。直線の場合には、直線は点で2つの部分に分けられるので、一方が正方向で、他が負方向である。平面の場合には、原点から出る勝手な半直線を基準、正方向として定めて、原点を回る方向を定めて、普通は時計の回りの反対方向を 正方向と定める。これで、直線や平面に方向の概念が導入されたが、さらに、距離(長さ)の単位を定めるため、原点から、正方向の点(これも勝手に指定できる)を1として定める。実数の場合にも複素数の場合にも数字の1をその点で表す。以上で、位置、方向、距離の概念が導入されたので、あとはそれらを基礎に数直線や複素平面(座標)を考える、すなわち、直線と実数、平面と複素数を1対1に対応させる。これで、実数も複素数も秩序づけられ、明瞭に表現されたと言える。ゼロとは何だろうか、それは基準の位置を定めることと発想できるだろう。
― 国家とは何だろうか。国家意思を定める権力機構を定め、国家を動かす基本的な秩序を定めることであると原理を述べることができるだろう。
数直線や複素平面では 基準点、0と1が存在する。これから数学を展開する原理を下記で述べている:

しかしながら、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については幸運にも相当に力を入れて書いたものがある:

19/03/2012
ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅.広く面白く触れたい。

複素平面ではさらに大事な点として、純虚数i が存在するが、ゼロ除算の発見で、最近、明確に認識された意外な点は、実数の場合にも、複素数の場合にも、ゼロに対応する点が存在するという発見である。ゼロに対応する点とは何だろうか?
直線や平面で実数や複素数で表されない点が存在するであろうか? 無理して探せば、いずれの場合にも、原点から無限に遠ざかった先が気になるのではないだろうか? そうである立体射影した場合における無限遠点が正しくゼロに対応する点ではないかと発想するだろう。その美しい点は無限遠点としてその美しさと自然さ故に100年を超えて数学界の定説として揺るぐことはなかった。ゼロに対応する点は無限遠点で、1/0=∞ と考えられてきた。オイラー、アーベル、リーマンの流れである。
ところが、ゼロ除算は1/0=0 で、実は無限遠点はゼロに対応していることが確認された。
直線を原点から、どこまでも どこまでも遠ざかって行くと、どこまでも行くが、その先まで行くと(無限遠点)突然、ゼロに戻ることを示している。これが数学であり、我々の空間であると考えられる。この発見で、我々の数学の結構な部分が修正、補充されることが分かりつつある。
ゼロ除算は可能であり、我々の空間の認識を変える必要がある。ゼロで割る多くの公式である意味のある世界が広がってきた。それらが 幾何学、解析学、代数学などと調和して数学が一層美しい世界であることが分かってきた。

全ての直線はある意味で、原点、基準点を通ることが示されるが、これは無限遠点の影が投影されていると解釈され、原点はこの意味で2重性を有している、無限遠点と原点が重なっている現象を表している。この2重性は 基本的な指数関数y=e^x が原点で、0 と1 の2つの値をとると表現される。このことは、今後大きな意味を持ってくるだろう。

古来、ゼロと無限の関係は何か通じていると感じられてきたが、その意味が、明らかになってきていると言える。

2点から無限に遠い点 無限遠点は異なり、無限遠点は基準点原点の指定で定まるとの認識は面白く、大事ではないだろうか。
以 上

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