「あたりまえ」にこそ、面白いヒット商品が多い理由
昔、直木賞作家で国会議員で僧侶でもあった故・今東光による人生相談が人気を博した。
型破りな怪僧による毒舌の回答だが、実は言っていることは至極「あたりまえ」。それでも今東光に言われると、誰もが納得。同じく、複雑な世の中を見渡すと、実は「あたりまえ」にこそ面白いヒット商品は多い。では、あたりまえを面白くする秘訣とは。
月に一度開催される電通Bチームのポテンシャル採集会議。そのなかで最近流行っているものとして「あたりまえポエム」が話題に出た。
これはWebディレクターの”氏くん”さんがTwitterに投稿したのが始まりとされ、『君のいないこの12ヶ月間 僕は1年のように長く感じた』や、『目を閉じると なぜだろう 真っ暗になったよ』など、ごくあたりまえとされる内容をJ-POPの歌詞風にまとめたものである。
続いて「あたりまえ新書」が紹介された。これも『パワーの力』や『右足を出して左足を出すと歩ける』『人は90%が9割』など、至極あたりまえな内容を新書のタイトル風にまとめた人気の企画で、これらの作品が採集会議のモニタに映し出されるたび、会議室は大きな笑いに包まれた。
ところで私は広告を業とする人間として、世の中でウケているものについて、無意識のうちにその理由を分析する癖がある。このときもチームの前で、なぜこれらの「あたりまえシリーズ」が面白いのかについて即興で説明してみた。すると、なぜか大いにウケてしまった。では、そのときの分析を再現してみよう。
まず理由の1つ目は、『構造の面白さ』である。上記の例でいうと12ヶ月は1年であり、パワーは力。90%は9割。これは言い方を変えているだけで、内容はまったく同じものである。式にすると『a=a』であり、これが「あたりまえシリーズ」の内部構造である……。このあたりでは、まだみなキョトンとしていた。
─では、これをコンピューターのプログラミング的に記述してみよう。それは定義文『int a=a;』となり、コンピューターはこの命令をすんなり読み込んでしまう。しかし、わざわざ定義するような内容でもなく、至極「あたりまえ」なので、何も反応は起きない。すなわちこの構造は、コンピュータにとってはまったく意味がなく、存在しないも同義である……。
ここまで話を進めるころには、クスクスと笑い出す者が現れた。
しかし、である。私は続けた。その対象が人間だと変わってくるのだ。無意味には人を驚かせ、戸惑わせ、笑わせる力がある。この無意味の力が、人間の内側から『面白さ』を引き出すのだ……。ここでBチーム議長の倉成英俊くんが「猫にネコ、と名付ける人もいますよね」と話をカブせてくるが、私はそれに構わず、さらに話を続けた。
理由の二つ目は、『スタイルの面白さ』である。
これらの作品群は、『ポエム』や『新書』という独自のスタイルを持っている。どちらもドヤ顔で、もっともらしく物事を語るという部分が共通している。こうして『あたりまえで無意味な構造』に『ドヤ顔なスタイル』があわされた結果、『驚くほど胸に刺さらない』と評価される強烈なナンセンス表現が誕生した。
ただし、無意味の鑑賞には、それをたしなむ力が必要で、人によってはあまりの意味のなさに怒りを感じるかも知れない。このころになると吹き出す者も現れたが、なかには目がちょっと真剣になっている者もいる。こちらは思いつきで話しているのだが……。
以上が現場の再現なのだが、この記事ではさらにその先も考えてみよう。
上記のように、面白さは『構造』と『スタイル』に分けてみると理解が深まる。今回の例を式にすると、「あたりまえシリーズ」=『a=a(無意味)』+『ポエムor新書(ドヤ顔)』となり、これはなかなかの独自性を持つ組み合わせである。ピコ太郎のPPAPで言えば、『ペンパイナッポーアッポーペン=a+b+b+a(繰り返しの気持ちよさ)』+『80年代テクノスタイル』と記述できる。
ところで世の中を見てみると、最近は誰もが見落としていた『あたりまえ』と『ドヤ顔』の組み合わせが新たなヒットを生み出している。
例えば、保温機能をなくした炊飯器がバカ売れしているそうだが、ここには本来ご飯を炊くお釜に保温機能はなかった、というあたりまえがあると同時に、その分厚い鍋はいかにもドヤ顔である。
また、日本酒の『獺祭』は杜氏がいないことで知られているが、ここでも『米+麹+水=日本酒』という古来からのあたりまえと、パリの三ツ星レストランで大人気というドヤ顔の組み合わせが熱狂的な人気を集めているのはご存じのとおりである。
これらのように、近年のビジネスでは、それまで無意味とされてきたような『あたりまえ』と『ドヤ顔』の組み合わせのなかに、ヒットを生み出すポテンシャルが隠れている可能性が高い。
結論を急ごう。企画をパクることはご法度だが、内部構造を真似ることには問題はない。そこで、『あたりまえコンサル』という仕事を考えてみた。あらゆる業種に対して『a=a』と『ドヤ顔』の組み合わせを押し付けていく、恐るべきコンサルである。それはきっと、常識的には無意味な『当然』を押し付けることで、クライアントを驚かせ、戸惑わせ、怒らせるだろう。
しかし、この『あたりまえメソッド』が、昨今の複雑化しすぎたビジネスのなかで、迷子になってしまったあなたのビジネスを再活性化させるかもしれない。『あたりまえコンサル』は、ただいまお試しキャンペーン中です。ご興味のある方は私のTwitterアカウントまでご連絡くださいませ。
【連載】電通総研Bチームの「NEW CONCEPT採集」
阿部光史◎電通総研Bチーム「make」担当特任リサーチャー。第4CRP局 デジタルクリエーティブセンター所属。電子工作系クリエーティブ・ディレクターとしてさまざまな「作ること」を探求している。Twitter:@galliano
型破りな怪僧による毒舌の回答だが、実は言っていることは至極「あたりまえ」。それでも今東光に言われると、誰もが納得。同じく、複雑な世の中を見渡すと、実は「あたりまえ」にこそ面白いヒット商品は多い。では、あたりまえを面白くする秘訣とは。
月に一度開催される電通Bチームのポテンシャル採集会議。そのなかで最近流行っているものとして「あたりまえポエム」が話題に出た。
これはWebディレクターの”氏くん”さんがTwitterに投稿したのが始まりとされ、『君のいないこの12ヶ月間 僕は1年のように長く感じた』や、『目を閉じると なぜだろう 真っ暗になったよ』など、ごくあたりまえとされる内容をJ-POPの歌詞風にまとめたものである。
続いて「あたりまえ新書」が紹介された。これも『パワーの力』や『右足を出して左足を出すと歩ける』『人は90%が9割』など、至極あたりまえな内容を新書のタイトル風にまとめた人気の企画で、これらの作品が採集会議のモニタに映し出されるたび、会議室は大きな笑いに包まれた。
ところで私は広告を業とする人間として、世の中でウケているものについて、無意識のうちにその理由を分析する癖がある。このときもチームの前で、なぜこれらの「あたりまえシリーズ」が面白いのかについて即興で説明してみた。すると、なぜか大いにウケてしまった。では、そのときの分析を再現してみよう。
まず理由の1つ目は、『構造の面白さ』である。上記の例でいうと12ヶ月は1年であり、パワーは力。90%は9割。これは言い方を変えているだけで、内容はまったく同じものである。式にすると『a=a』であり、これが「あたりまえシリーズ」の内部構造である……。このあたりでは、まだみなキョトンとしていた。
─では、これをコンピューターのプログラミング的に記述してみよう。それは定義文『int a=a;』となり、コンピューターはこの命令をすんなり読み込んでしまう。しかし、わざわざ定義するような内容でもなく、至極「あたりまえ」なので、何も反応は起きない。すなわちこの構造は、コンピュータにとってはまったく意味がなく、存在しないも同義である……。
ここまで話を進めるころには、クスクスと笑い出す者が現れた。
しかし、である。私は続けた。その対象が人間だと変わってくるのだ。無意味には人を驚かせ、戸惑わせ、笑わせる力がある。この無意味の力が、人間の内側から『面白さ』を引き出すのだ……。ここでBチーム議長の倉成英俊くんが「猫にネコ、と名付ける人もいますよね」と話をカブせてくるが、私はそれに構わず、さらに話を続けた。
理由の二つ目は、『スタイルの面白さ』である。
これらの作品群は、『ポエム』や『新書』という独自のスタイルを持っている。どちらもドヤ顔で、もっともらしく物事を語るという部分が共通している。こうして『あたりまえで無意味な構造』に『ドヤ顔なスタイル』があわされた結果、『驚くほど胸に刺さらない』と評価される強烈なナンセンス表現が誕生した。
ただし、無意味の鑑賞には、それをたしなむ力が必要で、人によってはあまりの意味のなさに怒りを感じるかも知れない。このころになると吹き出す者も現れたが、なかには目がちょっと真剣になっている者もいる。こちらは思いつきで話しているのだが……。
以上が現場の再現なのだが、この記事ではさらにその先も考えてみよう。
上記のように、面白さは『構造』と『スタイル』に分けてみると理解が深まる。今回の例を式にすると、「あたりまえシリーズ」=『a=a(無意味)』+『ポエムor新書(ドヤ顔)』となり、これはなかなかの独自性を持つ組み合わせである。ピコ太郎のPPAPで言えば、『ペンパイナッポーアッポーペン=a+b+b+a(繰り返しの気持ちよさ)』+『80年代テクノスタイル』と記述できる。
ところで世の中を見てみると、最近は誰もが見落としていた『あたりまえ』と『ドヤ顔』の組み合わせが新たなヒットを生み出している。
例えば、保温機能をなくした炊飯器がバカ売れしているそうだが、ここには本来ご飯を炊くお釜に保温機能はなかった、というあたりまえがあると同時に、その分厚い鍋はいかにもドヤ顔である。
また、日本酒の『獺祭』は杜氏がいないことで知られているが、ここでも『米+麹+水=日本酒』という古来からのあたりまえと、パリの三ツ星レストランで大人気というドヤ顔の組み合わせが熱狂的な人気を集めているのはご存じのとおりである。
これらのように、近年のビジネスでは、それまで無意味とされてきたような『あたりまえ』と『ドヤ顔』の組み合わせのなかに、ヒットを生み出すポテンシャルが隠れている可能性が高い。
結論を急ごう。企画をパクることはご法度だが、内部構造を真似ることには問題はない。そこで、『あたりまえコンサル』という仕事を考えてみた。あらゆる業種に対して『a=a』と『ドヤ顔』の組み合わせを押し付けていく、恐るべきコンサルである。それはきっと、常識的には無意味な『当然』を押し付けることで、クライアントを驚かせ、戸惑わせ、怒らせるだろう。
しかし、この『あたりまえメソッド』が、昨今の複雑化しすぎたビジネスのなかで、迷子になってしまったあなたのビジネスを再活性化させるかもしれない。『あたりまえコンサル』は、ただいまお試しキャンペーン中です。ご興味のある方は私のTwitterアカウントまでご連絡くださいませ。
【連載】電通総研Bチームの「NEW CONCEPT採集」
阿部光史◎電通総研Bチーム「make」担当特任リサーチャー。第4CRP局 デジタルクリエーティブセンター所属。電子工作系クリエーティブ・ディレクターとしてさまざまな「作ること」を探求している。Twitter:@galliano
興味深く読みました:ゼロ除算はもう当たり前
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明357(2017.2.17)Brahmagupta の名誉回復と賞賛を求める。
再生核研究所声明 339で 次のように述べている:
世界史と人類の精神の基礎に想いを致したい。ピタゴラスは 万物は数で出来ている、表されるとして、数学の重要性を述べているが、数学は科学の基礎的な言語である。ユークリッド幾何学の大きな意味にも触れている(再生核研究所声明315(2016.08.08) 世界観を大きく変えた、ユークリッドと幾何学)。しかしながら、数体系がなければ、空間も幾何学も厳密には 表現することもできないであろう。この数体系の基礎はブラーマグプタ(Brahmagupta、598年 – 668年?)インドの数学者・天文学者によって、628年に、総合的な数理天文書『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』(ब्राह्मस्फुटसिद्धान्त Brāhmasphuṭasiddhānta)の中で与えられ、ゼロの導入と共に四則演算が確立されていた。ゼロの導入、負の数の導入は数学の基礎中の基礎で、西欧世界がゼロの導入を永い間嫌っていた状況を見れば、これらは世界史上でも顕著な事実であると考えられる。最近ゼロ除算は、拡張された割り算、分数の意味で可能で、ゼロで割ればゼロであることが、その大きな影響とともに明らかにされてきた。しかしながら、 ブラーマグプタは その中で 0 ÷ 0 = 0 と定義していたが、奇妙にも1300年を越えて、現在に至っても 永く間違いであるとされている。現在でも0 ÷ 0について、幾つかの説が存在していて、現代数学でもそれは、定説として 不定であるとしている。最近の研究の成果で、ブラーマグプタの考えは 実は正しかった ということになる。 しかしながら、一般の ゼロ除算については触れられておらず、永い間の懸案の問題として、世界を賑わしてきた。現在でも議論されている。ゼロ除算の永い歴史と問題は、次のアインシュタインの言葉に象徴される:
Blackholes are where God divided by zero. I don't believe in mathematics. George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist re-
marked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as the biggest blunder of his life [1] 1. Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.
物理学や計算機科学で ゼロ除算は大事な課題であるにも関わらず、創始者の考えを無視し、割り算は 掛け算の逆との 貧しい発想で 間違いを1300年以上も、繰り返してきたのは 実に残念で、不名誉なことである。創始者は ゼロの深い意味、ゼロが 単純な算数・数学における意味を越えて、ゼロが基準を表す、不可能性を表現する、神が最も簡単なものを選択する、神の最小エネルギーの原理、すなわち、神もできれば横着したいなどの世界観を感じていて、0/0=0 を自明なもの と捉えていたものと考えられる。実際、巷で、ゼロ除算の結果や、適用例を語ると 結構な 素人の人々が 率直に理解されることが多い。
1300年間も 創始者の結果が間違いであるとする 世界史は修正されるべきである、間違いであるとの不名誉を回復、数学の基礎の基礎である算術の確立者として、世界史上でも高く評価されるべきである。 真智の愛、良心から、厚い想いが湧いてくる。
以 上
追記
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://okmr.yamatoblog.net/division%20by%20zero/announcement%20326-%20the%20divihttp://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明359(2017.3.20) ゼロ除算とは何か ― 本質、意義
ゼロ除算の理解を進めるために ゼロ除算とは何か の題名で、簡潔に表現して置きたい。 構想と情念、想いが湧いてきたためである。
基本的な関数y=1/x を考える。 これは直角双曲線関数で、原点以外は勿論、値、関数が定義されている。問題はこの関数が、x=0 で どうなっているかである。結論は、この関数の原点での値を ゼロと定義する ということである。 定義するのである。定義であるから勝手であり、従来の定義や理論に反しない限り、定義は勝手であると言える。原点での値を明確に定義した理論はないから、この定義は良いと考えられる。それを、y=1/0=0 と記述する。ゼロ除算は不可能であるという、数学の永い定説に従って、1/0 の表記は学術書、教科書にもないから、1/0=0 の記法は 形式不変の原理、原則 にも反しないと言える。― 多くの数学者は注意深いから、1/0=\infty の表記を避けてきたが、想像上では x が 0 に近づいたとき、限りなく 絶対値が大きくなるので、複素解析学では、表現1/0=\infty は避けても、1/0=\infty と考えている事は多い。(無限大の記号がない時代、アーベルなどもそのような記号を用いていて、オイラーは1/0=\inftyと述べ、それは間違いであると指摘されてきた。 しかしながら、無限大とは何か、数かとの疑問は 続いている。)。ここが大事な論点である。近づいていった極限値がそこでの値であろうと考えるのは、極めて自然な発想であるが、現代では、不連続性の概念 が十分確立されていて、極限値がそこでの値と違う例は、既にありふれている。― アリストテレスは 連続性の世界観をもち、特にアリストテレスの影響を深く受けている欧米の方は、この強力な不連続性を中々受け入れられないようである。無限にいくと考えられてきたのが突然、ゼロになるという定義になるからである。 しかしながら、関数y=1/xのグラフを書いて見れば、原点は双曲線のグラフの中心の点であり、美しい点で、この定義は魅力的に見えてくるだろう。
定義したことには、それに至るいろいろな考察、経過、動機、理由がある。― 分数、割り算の意味、意義、一意性問題、代数的な意味づけなどであるが、それらは既に数学的に確立しているので、ここでは触れない。
すると、定義したからには、それがどのような意味が存在して、世の中に、数学にどのような影響があるかが、問題になる。これについて、現在、初等数学の学部レベルの数学をゼロ除算の定義に従って、眺めると、ゼロ除算、すなわち、 分母がゼロになる場合が表現上現れる広範な場合に 新しい現象が発見され、ゼロ除算が関係する広範な場合に大きな影響が出て、数学は美しく統一的に補充,完全化されることが分かった。それらは現在、380件以上のメモにまとめられている。しかしながら、世界観の変更は特に重要であると考えられる:
複素解析学で無限遠点は その意味で1/0=0で、複素数0で表されること、アリストテレスの連続性の概念に反し、ユークリッド空間とも異なる新しい空間が 現れている。直線のコンパクト化の理想点は原点で、全ての直線が原点を含むと、超古典的な結果に反する。更に、ゼロと無限の関係が明らかにされてきた。
ゼロ除算は、現代数学の初等部分の相当な変革を要求していると考えられる。
以 上
付記: The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1 -16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
Relations of 0 and infinity
Hiroshi Okumura, Saburou Saitoh and Tsutomu Matsuura:
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
http://www.e-jikei.org/…/Camera%20ready%20manuscript_JTSS_A…
0 件のコメント:
コメントを投稿