真理はいつも遅れてやって来る
有名な予備校の先生が「勉強は贅沢品なんだから、やりたくなければやめればいい。自分がいかに恵まれているかもわからない人間が勉強したって意味がない」という趣旨のことを仰って話題になっていました。
この先生の仰ることは、内容自体としては誠にもっともだと思うし、わたし自身、勉強は道楽だと考えています。筋道も立っているし、交換経済的というか、対価を支払って教師に指導を受ける、というのは理屈としてスッキリしています。
ただ一方で違和感というのもあって、それは正にこのスッキリ感そのもの、共時的な構造の明晰性のようなところ自体から来ています。
人間、ある時の判断が正しかったかどうかというのは、少し経ってからわかるものです。もっと言えば、すこし経って「わかった」、その判断というのも、更にもう少し経つと考えが変わったり、良いと思ったことが悪くなったり、悪いと思ったことが良くなったりするものです。人間万事塞翁が馬、クルアーンの話で言えばヒドルとムーサーの逸話のようなもので、何が本当に良い判断かというのは、そうそうはっきりしたものではありません。最終的には死なないとわかりません。
しかも相手は年端もいかない中高生だったりするわけです。先を見通して、最適解を逆算できるならそれは大変立派なことですが、大概の人はそこまでスマートではないでしょう。そして、ここで言う「先を見通す」というのも、せいぜいのところ就職活動程度の話でしかなく、六十七十になってなお正解だったかというのはわかりません。この先生だって、今のセリフが忌の際に翻っていないとは言い切れないでしょう。先のことは誰にもわかりません。
真理は常に遅れてやって来ますし、遅れてきた真理は常に使えません。ですから、わたしたちは使える真理というものに永遠に追いつくことができません。
だからこそ祈りの次元、不合理への信という、まったく筋の通らない領域がある訳で、先生なり指導者なりというものに一旦身を預ける、というかつての伝統教育的な関係もあったのでしょう。
おことわりしますが、大昔の学校のように教師が聖職者で、師匠がカラスが白いと言えば白い、という方法が無条件に正しいとは言いません。それどころか、物凄い弊害まみれでしょう。ついでながら、わたし自身学校が大嫌いで、何一つ良い思い出などないし、今現在も「燃やしてしまえ」くらい嫌っています。
しかしわたしたちはアホだから師につくのであって、師というのは「言ってもわからんことを無理やり言う」人なのです。だから弟子は理解してはいけないし、理解はいつかやってくるものと信じて、あるものを受け入れないといけないのです(だからこそ命をかけて師を選ぶ)。もちろん、「わかった」感というのは大変気持ちの良いもので、適度に使うことでモチベーションを上げる素晴らしい効用がありますが、逆に言えば自分の了見で物事小さく収めてしまう危険を孕むもので、究極、「わかった」ことなどちっともわかっていないのです。
また余談ですが、わたし自身が今現在師事している師匠には「はい」以外のセリフは口にできないと思っていますし、その兄弟師にあたる先生がつい先日吐いた名言には「わかるな! お前らなんかにわかるわけねえんだから黙って覚えとけ!」というのがありました。これは上のスッキリ感みたいな話で言えば、一ミリもスッキリできない話で、理不尽極まりないのですが、共時的ではなく通時的、しかもパースの消尽点のような永遠にたどり着かない地点に向かって伸びている真理だと思います。
世の中、何でも「わかる」方が良い流れに進んでいて、まあわたし自身も子供の頃受けた理不尽さに未だに歯ぎしりしている口なので、それももっともな時流かとは思うのですが、「わかる」というのは小さくまとまってしまうことで、変にスッキリしない方が良いことも沢山あるのです。師は弟子の理解の範囲になどあってはならないし、緊張感のない愛など受けてもロクな結果にはならないものです。
年寄りの愚痴のようでみっともないですが、この頃の若い方が変に小賢しくものわかりがよく、早々に大人になって、全体を見渡した上で物事判断しようとするのも、長い目で見ればマイナスな面が色々あるかと思っています。破天荒を称揚するつもりは毛頭ないですし、ただ闇雲に理不尽に耐えれば良いなどということもなく、その辺は運も多いに左右する、それこそ運命の世界になってしまうのですが、こと物事を教えるという話で、今現在の時点でスッキリ割り切れる理屈だけで持っていって欲しくないなあ、と考えています。
ただ一方で違和感というのもあって、それは正にこのスッキリ感そのもの、共時的な構造の明晰性のようなところ自体から来ています。
人間、ある時の判断が正しかったかどうかというのは、少し経ってからわかるものです。もっと言えば、すこし経って「わかった」、その判断というのも、更にもう少し経つと考えが変わったり、良いと思ったことが悪くなったり、悪いと思ったことが良くなったりするものです。人間万事塞翁が馬、クルアーンの話で言えばヒドルとムーサーの逸話のようなもので、何が本当に良い判断かというのは、そうそうはっきりしたものではありません。最終的には死なないとわかりません。
しかも相手は年端もいかない中高生だったりするわけです。先を見通して、最適解を逆算できるならそれは大変立派なことですが、大概の人はそこまでスマートではないでしょう。そして、ここで言う「先を見通す」というのも、せいぜいのところ就職活動程度の話でしかなく、六十七十になってなお正解だったかというのはわかりません。この先生だって、今のセリフが忌の際に翻っていないとは言い切れないでしょう。先のことは誰にもわかりません。
真理は常に遅れてやって来ますし、遅れてきた真理は常に使えません。ですから、わたしたちは使える真理というものに永遠に追いつくことができません。
だからこそ祈りの次元、不合理への信という、まったく筋の通らない領域がある訳で、先生なり指導者なりというものに一旦身を預ける、というかつての伝統教育的な関係もあったのでしょう。
おことわりしますが、大昔の学校のように教師が聖職者で、師匠がカラスが白いと言えば白い、という方法が無条件に正しいとは言いません。それどころか、物凄い弊害まみれでしょう。ついでながら、わたし自身学校が大嫌いで、何一つ良い思い出などないし、今現在も「燃やしてしまえ」くらい嫌っています。
しかしわたしたちはアホだから師につくのであって、師というのは「言ってもわからんことを無理やり言う」人なのです。だから弟子は理解してはいけないし、理解はいつかやってくるものと信じて、あるものを受け入れないといけないのです(だからこそ命をかけて師を選ぶ)。もちろん、「わかった」感というのは大変気持ちの良いもので、適度に使うことでモチベーションを上げる素晴らしい効用がありますが、逆に言えば自分の了見で物事小さく収めてしまう危険を孕むもので、究極、「わかった」ことなどちっともわかっていないのです。
また余談ですが、わたし自身が今現在師事している師匠には「はい」以外のセリフは口にできないと思っていますし、その兄弟師にあたる先生がつい先日吐いた名言には「わかるな! お前らなんかにわかるわけねえんだから黙って覚えとけ!」というのがありました。これは上のスッキリ感みたいな話で言えば、一ミリもスッキリできない話で、理不尽極まりないのですが、共時的ではなく通時的、しかもパースの消尽点のような永遠にたどり着かない地点に向かって伸びている真理だと思います。
世の中、何でも「わかる」方が良い流れに進んでいて、まあわたし自身も子供の頃受けた理不尽さに未だに歯ぎしりしている口なので、それももっともな時流かとは思うのですが、「わかる」というのは小さくまとまってしまうことで、変にスッキリしない方が良いことも沢山あるのです。師は弟子の理解の範囲になどあってはならないし、緊張感のない愛など受けてもロクな結果にはならないものです。
年寄りの愚痴のようでみっともないですが、この頃の若い方が変に小賢しくものわかりがよく、早々に大人になって、全体を見渡した上で物事判断しようとするのも、長い目で見ればマイナスな面が色々あるかと思っています。破天荒を称揚するつもりは毛頭ないですし、ただ闇雲に理不尽に耐えれば良いなどということもなく、その辺は運も多いに左右する、それこそ運命の世界になってしまうのですが、こと物事を教えるという話で、今現在の時点でスッキリ割り切れる理屈だけで持っていって欲しくないなあ、と考えています。
とても参考になります:中々真実が分からない:真実が分かるまでに時間がかかる。
再生核研究所声明316(2016.08.19) ゼロ除算における誤解
(2016年8月16日夜,風呂で、ゼロ除算の理解の遅れについて 理由を纏める考えが独りでに湧いた。)
6歳の道脇愛羽さんたち親娘が3週間くらいで ゼロ除算は自明であるとの理解を示したのに、近い人や指導的な数学者たちが1年や2年を経過してもスッキリ理解できない状況は 世にも稀なる事件であると考えられる。ゼロ除算の理解を進めるために その原因について、掘り下げて纏めて置きたい。
まず、結果を聞いて、とても信じられないと発想する人は極めて多い。割り算の意味を自然に拡張すると1/0=0/0=z/0 となる、関数y=1/xの原点における値がゼロであると結果を表現するのであるが、これらは信じられない、このような結果はダメだと始めから拒否する理由である。
先ずは、ゼロでは割れない、割ったことがない、は全ての人の経験で、ゼロの記録Brahmagupta(598– 668?) 以来の定説である。しかも、ゼロ除算について天才、オイラーの1/0を無限大とする間違いや、不可能性についてはライプニッツ、ハルナックなどの言明があり、厳格な近代数学において確立した定説である。さらに、ゼロ除算についてはアインシュタインが最も深く受け止めていたと言える:(George Gamow (1904-1968) Russian-born American nuclear physicist and cosmologist remarked that "it is well known to students of high school algebra" that division by zero is not valid; and Einstein admitted it as {\bf the biggest blunder of his life} :Gamow, G., My World Line (Viking, New York). p 44, 1970.)。
一様に思われるのは、割り算は掛け算の逆であり、直ぐに不可能性が証明されてしまうことである。ところが、上記道脇親娘は 割り算と掛け算は別であり、割り算は、等分の考えから、掛け算ではなく、引き算の繰り返し、除算で定義されるという、考えで、このような発想から良き理解に達したと言える。
ゼロで割ったためしがないので、ゼロ除算は興味も、関心もないと言明される人も多い。
また、割り算の(分数の)拡張として得られた。この意味は結構難しく、何と、1/0=0/0=z/0 の正確な意味は分からないというのが 真実である。論文ではこの辺の記述は大事なので、注意して書いているが 真面目に論文を読む者は多いとは言えないないから、とんでもない誤解をして、矛盾だと言ってきている。1/0=0/0=z/0 らが、普通の分数のように掛け算に結びつけると矛盾は直ぐに得られてしまう。したがって、定義された経緯、意味を正確に理解するのが 大事である。数学では、定義をしっかりさせる事は基本である。― ゼロ除算について、情熱をかけて研究している者で、ゼロ除算の定義をしっかりさせないで混乱している者が多い。
次に関数y=1/xの原点における値がゼロである は 実は定義であるが、それについて、面白い見解は世に多い。アリストテレス(Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)の世界観の強い影響である。ゼロ除算の歴史を詳しく調べている研究者の意見では、ゼロ除算を初めて考えたのはアリストテレスで真空、ゼロの比を考え、それは考えられないとしているという。ゼロ除算の不可能性を述べ、アリストテレスは 真空、ゼロと無限の存在を嫌い、物理的な世界は連続であると考えたという。西欧では アリストテレスの影響は大きく、聖書にも反映し、ゼロ除算ばかりではなく、ゼロ自身も受け入れるのに1000年以上もかかったという、歴史解説書がある。ゼロ除算について、始めから国際的に議論しているが、ゼロ除算について異様な様子の背景にはこのようなところにあると考えられる。関数y=1/xの原点における値が無限に行くと考えるのは自然であるが、それがx=0で突然ゼロであるという、強力な不連続性が、感覚的に受け入れられない状況である。解析学における基本概念は 極限の概念であり、連続性の概念である。ゼロ除算は新規な現象であり、なかなか受け入れられない。
ゼロ除算について初期から交流、意見を交わしてきた20年来の友人との交流から、極めて基本的な誤解がある事が、2年半を越えて判明した。勿論、繰り返して述べてきたことである。ゼロ除算の運用、応用についての注意である。
具体例で注意したい。例えば簡単な関数 y=x/(x -1) において x=1 の値は 形式的にそれを代入して 1/0=0 と考えがちであるが、そのような考えは良くなく、y = 1 + 1/(x -1) からx=1 の値は1であると考える。関数にゼロ除算を適用するときは注意が必要で、ゼロ除算算法に従う必要があるということである。分子がゼロでなくて、分母がゼロである場合でも意味のある広い世界が現れてきた。現在、ゼロ除算算法は広い分野で意味のある算法を提起しているが、詳しい解説はここでは述べないことにしたい。注意だけを指摘して置きたい。
ゼロ除算は アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における基礎的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の基礎的な部分の変更は かつて無かった事である。と述べ、大きな数学の改革を提案している:
再生核研究所声明312(2016.07.14) ゼロ除算による 平成の数学改革を提案する
以 上
再生核研究所声明335(2016.11.28) ゼロ除算における状況
ゼロ除算における状況をニュース方式に纏めて置きたい。まず、大局は:
アリストテレス以来、あるいは西暦628年インドにおけるゼロの記録と、算術の確立以来、またアインシュタインの人生最大の懸案の問題とされてきた、ゼロで割る問題 ゼロ除算は、本質的に新しい局面を迎え、数学における初歩的な部分の欠落が明瞭になってきた。ここ70年を越えても教科書や学術書における数学の初歩的な部分の期待される変更は かつて無かった事である。ユークリッドの考えた空間と解析幾何学などで述べられる我々の空間は実は違っていた。いわゆる非ユークリッド幾何学とも違う空間が現れた。不思議な飛び、ワープ現象が起きている世界である。ゼロと無限の不思議な関係を述べている。これが我々の空間であると考えられる。
1.ゼロ除算未定義、不可能性は 割り算の意味の自然な拡張で、ゼロで割ることは、ゼロ除算は可能で、任意の複素数zに対してz/0=0であること。もちろん、普通の分数の意味ではないことは 当然である。ところが、数学や物理学などの多くの公式における分数は、拡張された分数の意味を有していることが認められた。ゼロ除算を含む、四則演算が何時でも自由に出来る簡単な体の構造、山田体が確立されている。ゼロ除算の結果の一意性も 充分広い世界で確立されている。
2.いわゆる複素解析学で複素平面の立体射影における無限遠点は1/0=0で、無限ではなくて複素数0で表されること。
3. 円に関する中心の鏡像は古典的な結果、無限遠点ではなくて、実は中心それ自身であること。球についても同様である。
4. 孤立特異点で 解析関数は有限確定値をとること。その値が大事な意味を有する。ゼロ除算算法。
5. x,y 直交座標系で y軸の勾配は未定とされているが、実はゼロであること; \tan (\pi/2) =0. ― ゼロ除算算法の典型的な例。
6. 直線や平面には、原点を加えて考えるべきこと。平行線は原点を共有する。原点は、直線や平面の中心であること。この議論では座標系を固定して考えることが大事である。
7. 無限遠点に関係する図形や公式の変更。ユークリッド空間の構造の変更、修正。
8. 接線や法線の考えに新しい知見。曲率についての定義のある変更。
9. ゼロ除算算法の導入。分母がゼロになる場合にも、分子がゼロでなくても、ゼロになっても、そこで意味のある世界。いろいろ基本的な応用がある。
10.従来微分係数が無限大に発散するとされてきたとき、それは 実はゼロになっていたこと。微分に関する多くの公式の変更。
11.微分方程式の特異点についての新しい知見、特異点で微分方程式を満たしているという知見。極で値を有することと、微分係数が意味をもつことからそのような概念が生れる。
12.図形の破壊現象の統一的な説明。例えば半径無限の円(半平面)の面積は、実はゼロだった。
13.確定された数としての無限大、無限は排斥されるべきこと。
14.ゼロ除算による空間、幾何学、世界の構造の統一的な説明。物理学などへの応用。
15.解析関数が自然境界を超えた点で定まっている新しい現象が確認された。
16.領域上で定義される領域関数を空間次元で微分するという考えが現れた。
17.コーシー主値やアダマール有限部分に対する解釈がゼロ除算算法で発見された。
18.log 0=0、 及び e^0 が2つの値1,0 を取ることなど。初等関数で、新しい値が発見された。
資料:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
*156 Qian,T./Rodino,L.(eds.):
Mathematical Analysis, Probability and
Applications -Plenary Lectures: Isaac 2015, Macau, China.
(Springer Proceedings in Mathematics and Statistics, Vol. 177)
Sep. 2016 305 pp.
(Springer) 9783319419435 25,370.
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku堪らなく楽しい数学-ゼロで割ることを考える
以 上
再生核研究所声明353(2017.2.2) ゼロ除算 記念日
2014.2.2 に 一般の方から100/0 の意味を問われていた頃、偶然に執筆中の論文原稿にそれがゼロとなっているのを発見した。直ぐに結果に驚いて友人にメールしたり、同僚に話した。それ以来、ちょうど3年、相当詳しい記録と経過が記録されている。重要なものは再生核研究所声明として英文と和文で公表されている。最初のものは
再生核研究所声明 148(2014.2.12): 100/0=0, 0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
で、最新のは
Announcement 352 (2017.2.2): On the third birthday of the division by zero z/0=0
である。
アリストテレス、ブラーマグプタ、ニュートン、オイラー、アインシュタインなどが深く関与する ゼロ除算の神秘的な永い歴史上の発見であるから、その日をゼロ除算記念日として定めて、世界史を進化させる決意の日としたい。ゼロ除算は、ユークリッド幾何学の変更といわゆるリーマン球面の無限遠点の考え方の変更を求めている。― 実際、ゼロ除算の歴史は人類の闘争の歴史と共に 人類の愚かさの象徴であるとしている。
心すべき要点を纏めて置きたい。
1) ゼロの明確な発見と算術の確立者Brahmagupta (598 - 668 ?) は 既にそこで、0/0=0 と定義していたにも関わらず、言わば創業者の深い考察を理解できず、それは間違いであるとして、1300年以上も間違いを繰り返してきた。
2) 予断と偏見、慣習、習慣、思い込み、権威に盲従する人間の精神の弱さ、愚かさを自戒したい。我々は何時もそのように囚われていて、虚像を見ていると 真智を愛する心を大事にして行きたい。絶えず、それは真かと 問うていかなければならない。
3) ピタゴラス派では 無理数の発見をしていたが、なんと、無理数の存在は自分たちの世界観に合わないからという理由で、― その発見は都合が悪いので ― 、弟子を処刑にしてしまったという。真智への愛より、面子、権力争い、勢力争い、利害が大事という人間の浅ましさの典型的な例である。
4) この辺は、2000年以上も前に、既に世の聖人、賢人が諭されてきたのに いまだ人間は生物の本能レベルを越えておらず、愚かな世界史を続けている。人間が人間として生きる意義は 真智への愛にある と言える。
5) いわば創業者の偉大な精神が正確に、上手く伝えられず、ピタゴラス派のような対応をとっているのは、本末転倒で、そのようなことが世に溢れていると警戒していきたい。本来あるべきものが逆になっていて、社会をおかしくしている。
6) ゼロ除算の発見記念日に 繰り返し、人類の愚かさを反省して、明るい世界史を切り拓いて行きたい。
以 上
追記:
The division by zero is uniquely and reasonably determined as 1/0=0/0=z/0=0 in the natural extensions of fractions. We have to change our basic ideas for our space and world:
Division by Zero z/0 = 0 in Euclidean Spaces
Hiroshi Michiwaki, Hiroshi Okumura and Saburou Saitoh
International Journal of Mathematics and Computation Vol. 28(2017); Issue 1, 2017), 1-16.
http://www.scirp.org/journal/alamt http://dx.doi.org/10.4236/alamt.2016.62007
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
http://www.ijapm.org/show-63-504-1.html
http://www.diogenes.bg/ijam/contents/2014-27-2/9/9.pdf
再生核研究所声明41(2010/06/10):世界史、大義、評価、神、最後の審判
声明36(恋の原理と心得)で、元祖生命体(本来の生命、生物界全体)は 永遠の生命を有し、人間的な意識と自由意志を有し、存在すること、知ること、美を求めることなどを目標に生命活動を続けている。 人類の発展の先は いまだ不明である。 確かに言えることは、生存を続けること、知ることを求めること、感動することを希求しているということである。
と述べて、人類は 人間存在の原理(人間である限り否定できない、不変的な原理を述べているもので、人間である限り、存在していること、そして、存在していることを知っていること、そして、求めているという三位一体の、デカルトのコギトエルゴスム(我れ思う、故にわれ在り)を基礎に置いた考え方: 夜明け前 よっちゃんの想い:211ページ)によって、世界の歴史を発展、拡大、深化させていくであろう。
ここで、世界史とは 人類が得たあらゆる知識、情報を意味するが、世界史は過去の一切のことについても真相の究明を続けていくであろう。これは真実を知りたいという人間存在の原理に他ならないからである。
個々の人間の目標は、 人生における基本定理 (声明12) に述べられているように 生きること、感動できるように生きることであるが、人間は同じ元祖生命体の分身であり、個々の人間は1個の細胞のような存在であり、個々の人間の存在は 元祖生命体の雄大な存在からみれば 大河の一滴 (五木 寛之) と考えられるが、しかしながら、それは同時に全体に関係し、全体を内包しているから、限りなく貴い存在である (声明36)。
そこで、人間にとって真に価値あることとは、人類の目標のために貢献することではないだろうか。 人類の営みは世界史によって、表現されるから、世界史のため、人類のため、元祖生命体のために貢献することこそが、真の意味における大義と言えよう。 人類が、世界史が進化していけば、過去の元祖生命体の営みの総体を次第に明らかにして、物事の真相と評価、位置づけ、位置関係を明瞭にしていくであろう。- すでに、グーグルの世界に それらの初歩を見ることができる。
神とは全知、全能の存在とされるが、世界の全体を捉えられるのは現在、人類以外に存在せず、未来において、進化した元祖生命体こそが、神に相当する存在ではないであろうか。
進化した未来人は 現代人の能力のレべルを あたかも幼稚園生くらいとみ、現在のコンピュータのレベルを 手動計算機程度くらいとみるだろう。
そのとき、世界の歴史は、個々の人間の存在の関係 (評価) をきちんと明らかにするであろう。
この声明の趣旨は、先ずは 世界の政治家の皆さんに、世界史に耐えられるような上記大義に基づいて、行動して頂きたいと要請しているのです。 小さな自分たちの立場ではなくて、より大きな世界のために高い志の基に、行動して頂きたいということです。 同時に、不正や不義は 歴史的に明らかにされ、真実は必ず、明らかにされるということに注意を喚起することにある。 研究者や芸術家たちは 近視眼的なことに拘らず、己が道を進めばいいのであって、適切な評価は必ず下されると考えるべきです。 マスコミ関係者や解説者の皆さん、思想家たちの皆さん、世界史の評価に耐えられるような高い視点と志で、重要な職務を果たして頂きたいと考えます。 人間にとって価値あることとは、小さな自己の世界に閉じこもらず、上記大義の基に努力することではないであろうか。
将来、世界史が明らかにする、世界史の全体における個々の関係こそが、最後の審判ではないだろうか。 それは同時に 未来ではなく、現在、いまの 個々の人間の 深奥に普遍的に存在する神性と良心 に通じていると考える。 それらを捉え、それらに調和し 忠実に生きることこそ、良く生きることに他ならない。 悪いことは苦しいことである。必ず、良心の呵責として、その深奥から湧いてくるからである。他方、大義に生きることは 上記永遠の生命の中に生きることを意味するから、楽しいことである。 滅ぶことも消えることもない。
以上
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