平均年収1400万円、「開成・灘」卒業生とは何者か
両校の協力のもと、開成は2013年、灘は14年に、28年分の卒業生のうちランダム抽出した約5000人に質問紙を郵送し、あわせて1000を超える回答が集まった。また比較を目的として、同時期に首都圏の高校を卒業した大卒男子(ただし、正規として働いている者)にも、ほぼ同じ内容の調査を行った。
開成と灘は、全国有数の東京大学進学者数トップ校として知られている(※1)。今回の調査でも、出身大学を答えてくれた回答者のうち、東大出身者は、開成で42.9%、灘で54.2%と、大部分を占めていた。
現在の就業状況をみると、開成・灘卒業生の多くが医師になっている点も注目されたが(開成・灘22.0%、一般大卒1.0%)、同時に企業勤務者も5割ほどおり、その平均年収の高さも目立っていた。その値は1404万円であり、一般大卒782万円の約1.8倍に相当する。
何が年収の高さをもたらしているのか。データからは、「東京大学への進学」が大きな要因になっていることがうかがえた。著書では、卒業生を「中高時代の成績(上~中位者か、そうでないか)」と「東京大学出身者か、そうでないか」の2つを軸に4分類し、それぞれの平均年収を比較した。そうすれば、成績と出身大学のどちらの影響が大きいのか、ある程度の傾向がわかると考えたからだ。
その結果、年収が高い順に4タイプを並べると、「成績下位×東大出身(約1553万円)」「成績上~中位×東大出身(約1547万円)」「成績上~中位×東大ではない(約1409万円)」「成績下位×東大ではない(約1181万円)」となり、東大出身の効果は、中高時代の成績以上だった。もちろん成績は年収の上昇に重要な意味をもたらすが、東京大学への進学さえ実現できれば、成績の効果はご破算になる。
経済的側面において、東大進学には独自の効果がある。「東大」は強いシグナルとして作用する。平均年収1400万円という高さの背景には、こうした事情も絡んでいる。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170403-00021720-president-bus_all&p=2
開成と灘は、全国有数の東京大学進学者数トップ校として知られている(※1)。今回の調査でも、出身大学を答えてくれた回答者のうち、東大出身者は、開成で42.9%、灘で54.2%と、大部分を占めていた。
現在の就業状況をみると、開成・灘卒業生の多くが医師になっている点も注目されたが(開成・灘22.0%、一般大卒1.0%)、同時に企業勤務者も5割ほどおり、その平均年収の高さも目立っていた。その値は1404万円であり、一般大卒782万円の約1.8倍に相当する。
何が年収の高さをもたらしているのか。データからは、「東京大学への進学」が大きな要因になっていることがうかがえた。著書では、卒業生を「中高時代の成績(上~中位者か、そうでないか)」と「東京大学出身者か、そうでないか」の2つを軸に4分類し、それぞれの平均年収を比較した。そうすれば、成績と出身大学のどちらの影響が大きいのか、ある程度の傾向がわかると考えたからだ。
その結果、年収が高い順に4タイプを並べると、「成績下位×東大出身(約1553万円)」「成績上~中位×東大出身(約1547万円)」「成績上~中位×東大ではない(約1409万円)」「成績下位×東大ではない(約1181万円)」となり、東大出身の効果は、中高時代の成績以上だった。もちろん成績は年収の上昇に重要な意味をもたらすが、東京大学への進学さえ実現できれば、成績の効果はご破算になる。
経済的側面において、東大進学には独自の効果がある。「東大」は強いシグナルとして作用する。平均年収1400万円という高さの背景には、こうした事情も絡んでいる。https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170403-00021720-president-bus_all&p=2
再生核研究所声明 125 (2013.8.24): お金の問題 ― 貨幣について ― 本質論
(2013.8.17 再生核研究所声明に関心を抱く人の 結構永い間の要望であるが、難しい多面性を有するので、中々纏められなかった。今朝 夏休みを利用して 夏休みの宿題と考えて纏めてみる気持ちになった。1回では無理なので、本質論、収入面、支出面などに分けて 順次触れたい)
まず、お金の述語 を確認しておこう:
広義には、本位貨幣の他にも、法律により強制通用力を認められている信用貨幣も含めて指している[1]。つまり 「貨幣」という語で、鋳貨・紙幣に加えて(当座預金などの)信用貨幣も含めて指す場合が多い[2]。
なお、慣習的な用法として、法令用語の意味における貨幣と紙幣・銀行券をあわせて「お金」と呼ぶことが多い。(ウィキペディア)
お金の重要性、価値については、簡潔に 地獄の沙汰も金次第 という諺に表されるであろう。実際、人間の多くの価値が お金で数値化されて、人間の持つ多くの価値がお金を通して交換されるということに その本質が見出される。人間の価値には 生命の延長や場合によっては命の値段さえ関係してくる。実際、高度な医療で 生命が救われたりする状況は 身近に体験される。ある時間の労働から、芸術作品、アイディア、食品、ほとんどのもの、地位や名誉さえお金で評価されて、交換が可能になる。― 資本主義の発達したアメリカでは アメリカンドリームとは 大金持ちになることで表現され、最近でも、アメリカの大使は、大統領選挙における 献金の額で決まるなどと揶揄されている。そこで、人生の多くの部分が その大事なお金を得るための努力であるとさえ、錯覚してしまうほどである。
ところで、そのお金の価値であるが、人間の欲求の数値化であるから、生鮮食品の価値の変動や、株価、外国為替の変動のように絶えず、変化するものであるが、他方国家が、国家予算を通して国家を運営している現実が有るので、世の価値としては最も信じられるものであることには変わりはない。普遍 (不変) 的な価値を持つとされる、金 でさえ非常時やハイパーインフレーションの際、本物か否かの判定や流通性に問題を起こして、有効ではなかったとされている。
さまざまな価値の数値化であるから、実際には極めて難しく、ものの値段や年俸、報酬など歴史と文化を反映させ、慣例さえ尊重しなければ、数値化はたちまち、大混乱を起こしてしまうだろう。再生核研究所声明 72(2011/12/06) 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則 も参照。
そこで、人間の多くの欲求が お金で叶えられるものであれば、お金が大事は無理からぬという現実がある。実際、お金が十分あれば、相当な自由を得て、好きなことが出来るのであるから、一応の理想的な状況に相当近づくことが出来ると考えられる。
美しい曲を奏でる、それが幾らに値するかは 聞く人の個人によって評価はいろいろであるが、プロとなると 自分で評価して、客を呼ぶのであるから、厳しさが有るが、しかし、それは音楽に限らず多くの価値がそうである。画家は、この絵を幾らで売りたいと宣言するだろう。漁師がこの魚を幾らで売りたい、と同様である。ギャンブルや宝くじのように 夢さえお金に変えて売買できる。人間の価値さえ、その稼ぎの大きさによって評価される面は 確かに世に多いと言える。作家、画家、スポーツマン、芸能人、等々、また地位さえ、収入で評価される面は多い。近年、大学の人事評価などでも 研究費をどれほど得ているかは、大きな評価の要素に成っていて、科学研究費など生涯の研究補助金額がインターネット上に公開されている。
これらは要するに、かつての農村社会で広く実現していた いわゆる自給自足を基本とする社会から、今では農村社会でさえ、電気、ガス、機械の購入、医療、社会活動などで、生活していくためには お金が必要であると纏められる。お金本位制にみえるような社会は、資本主義の発達したアメリカで 上述のように極めて顕著に見られる。いわゆる いろいろなサービスに対するチップなども重要で、適切にお金を払わなければ、大きな問題になるだろう。さまざまな価値が お金で評価される社会である。お金が大きな役割を果たす資本主義の問題点については、 再生核研究所声明75 (2012.2.10): 政治・経済の在りようについて も参照。
宗教界でもお金は必要であるから、神のごりやく(ご利益)を除いても 関係者の生活費や、神社、仏閣の維持の観点からも お賽銭や寄付を必要とするのは当然である。少し、間違えると、中世、西欧で行われた免罪符の発行や救われるための献金を要求しかねない状況に追い込まれてしまう。いわゆる戒名なども売買される、布施の額の大きさで左右される可能性を有する。無理からぬ面も有ると、理解できるだろう。選挙におけるいわゆる買収などは、何時も起きている現象ではないだろうか。
されば、お金とは何か お金の背後にあるものは、それは様々な人間の考える価値の数値化で、その価格によって、交換される数値化であり、国家と複数の人からなる社会の一定の承認を得た数値化であると言える。
ある人が、この本を1000円で売りたいと宣言して、買う者が現れれば、立派な数値化であり、その本は1000円のものとして、有効性を持ち、その時は 本の価値と1000円が 等価であるとして、評価されるだろう。本を売った者がそのお金で食品を購入すれば、1000円を通して、本と購入した食品の数値化は 等価となるだろう。このような連鎖を続けて行くのが お金の本質であると言えるだろう。
お金とは、そのような数値化における、交換を物理的に行うもの、可能にするものであると言える。
以 上
再生核研究所声明349(2017.1.24) 衰退する日本の大学 ― 国を憂えて
大学の現状を憂えてその印象を率直に簡潔に表現してみよう。
まず、大学共通テストの弊害を述べてきたが、それは世の多くの人の危惧のように、日本の教育を歪めてきたと考えられる。十分に触れてきたが、画一的なパターン化した、言わば偏差値による個性のない、大学の出現である ― 哲学的精神の欠落、人物たる教育の欠落である。大義がなく、道もない。真智への愛もない:
再生核研究所声明329(2016.10.31) 大学入試の在り様について ― 現実と負担の視点から
再生核研究所声明283 (2016.2.8) 受験勉強が過熱化した場合の危惧について
再生核研究所声明260 (2015.12.07) 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害
再生核研究所声明152(2014.3.21) 研究活動に現れた注目すべき現象、研究の現場
次に、いわゆる大学の法人化による相当な混乱である。迂闊にも大学法人化の弊害、悪い影響について述べて来ていないことが分かった。その後に続いて起きてきたのが、定常的な大学予算の減少、教員待遇の悪化、特に大学の事務体制の弱体化である。教員には 研究費、処遇の悪化に反して、教員評価、研究業績など大きな圧力が掛かり、さらに、社会貢献やいろいろな用務の増大で教育や研究どころではない状況が多くの大学に見られる。特に、いわゆる、研究初期の大事な時期、博士論文の性急さや最初の就職先の雇用の厳しさ、任期制付きなど処遇が不安定で、研究体制の弱体化は相当に酷いと言える。創造性の厳しさ、困難さを考慮すれば、人生設計でも生活面でも十分な余裕のある環境でなければ良い研究活動ができないのは当然である。社会の厳しさが大学に皺寄せられ、特に若い世代の処遇、環境を悪化させている。事務組織の弱体化は 大学の雰囲気そのものを悪くさせている。臨時的な雇用やパートなどで賄えば、その不安定な状況は 香り高い大学の雰囲気を損ねるのは当然である。息の永い真理の追究、学芸、芸術にはそれなりの良い環境が求められるのは当然である。
要するに国家はどのように考えれば良いか。文教予算を大幅に増加させ、大学の教職員の待遇を良くし、人員を増加させ、設備を良くするように国策として進めるべきである。― 中国は国策として、数学の研究と教育を重視し、それゆえ、数学の分野での躍進が近年目覚しい。中国が積極的に学生を広い世界に派遣しているのは顕著な事実である。他方、日本では、そのような力を失っているように見える。日本の財政状況が相当に厳しいのは勿論承知している。しかしながら、他方、海外援助を相当派手に(バラマキのような状況とも言える)やっており、さらに、軍事費を大幅に増加させている。海外援助や軍備拡大と大学のどちらを重要視するかの観点で考えるべきである。大学は人を育て、文化を創造、発展させていく原動力、拠点ではないだろうか。民族の、国家の命運を掛けて充実させて行くべきではないだろうか。兵器など軍事援助や治安の援助、経済援助ではなく、文化面での国際貢献を志向したい。香り高い文化で 美しい日本国を侵略する、誹謗する国など 世界に存在しないような、世界がそのようなことを許さないような 日本国の在り様を目指したい。今尚、国家の安全を深く、広く思考し、対策を総合的に講ずるのは勿論大事である。さらに、優秀な研究者、思想家、芸術家を育成し、世界に展開し、世界史を進化させるような大物人物をどんどん輩出させたいものである。
以 上
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上
特に次の観点を指摘して置きたい:
1)教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2)あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3)勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4)優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5)ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6)簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7)大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8)大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで 画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以 上
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