芸術家などの人って自分の過去の作品を恥ずかしく思ったりしないんですか?
自分を表現するというのは気恥ずかしさを伴う気がしますhttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14138988899
これは、恥ずかしく思うことが多いのでは。
どんどん進化すると 過去の作品が恥ずかしくなるようなことは多いですね。
でも傑作は、いつ見ても素晴らしいとなりますね。
再生核研究所声明184(2014.11.28) ライブということ
最近、ライブと言う言葉が気になってきた。 一度声明でも言及した言葉である:
再生核研究所声明149: 生きること、生命の本質、活動して止まないもの
最後の部分で、
今、日々研究が猛烈に進んでいる状況;100/0=0,0/0=0 の発見と、展開のさまに まこと、ライヴ、生、生きること、在ることの本質を実感する。次々と生命の活動のさまとして、展開している現場である。上記で、岡本氏やアインシュタインの活動のさまは、実にこの生命の展開そのものを述べているものである。 理論が完成して、論文を出版,印刷物に成れば、それだけでは停止してしまう。どんなものでもやがて色あせてしまうだろう。しかし、そこに、不備や発展の余地を見い出せば、その理論は動き出し、生きかえるだろう(再生)。再び息を吹き返し、活動し、ライブの状態に至るだろう。何でも世の中の原理は 同様である。活動しているだけではなく、その中にも 変化と創造性を伴うもの、それが、真の感動の源泉であると言える。感動させる原動力こそ、生命力と言える。
ライブとは、生きていること、生(ナマ)のことをいう、意味が含まれていると考えられる。人間の心、感性、感情もどんどん変化しているということである。小説家でも、芸術家でも 作品に対する感性、背景、想いなども 時間と共に変化しているということである。作者自身の感性すら変化するということは、ましてや、他の者の理解、共感、共鳴を得ることが 如何に難しいかということを意味するのではないだろうか。他方、それでも尚、共感、共鳴し、感動させることが 世に多いということは、人間が本質的に 共通の大きな命の下で、共通につくられていることを意味するものではないだろうか (再生核研究所声明36: 恋の原理と心得 )。これらの言わば矛盾する観点は 両極端(ゼロと無限遠点)の一致を述べている ゼロ除算のように 微妙で実に面白いと考えられる。
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