2014年12月20日土曜日

新大学入試:高校校長の半数「期待できない」

新大学入試:高校校長の半数「期待できない」
大学入試改革で、年複数回実施や教科の枠をこえた総合問題の出題を想定する新テストについて、普通科高校の校長の半数が「期待できない」と考えていることが「全国普通科高校長会」の調査で分かった。複数回実施で試験時期が早まり、授業の前倒しや行事の見直しを迫られる可能性など、高校教育への影響を懸念する声が上がっており、関係者は「高校現場への配慮が必要だ」と話している。
校長会は全国の国公私立の普通科高校の校長ら約3340人で構成している。今年7月、各都道府県で進学校5校と進路多様校5校を抽出した計470校の校長に、新テスト(大学入学希望者学力評価テスト、仮称)について質問した。
新テストに「期待できない」と答えた校長は、全体の半数近い230人。「期待できる」は103人(22%)。「どちらとも言えない」は123人(26%)で14人が「その他」だった。「複数回実施」は65%の305人が「反対」を表明し、「賛成」(85人、18%)を大幅に上回った。
実施を希望する時期は「高校3年2学期から」と答えた校長が219人(47%)、「高校3年1月から」が142人(30%)。合教科型・総合型問題の出題については、半数以上の243人の校長が「反対」と回答した。
新テストが複数回実施されると現在より試験時期が早くなる可能性があり▽今でも速い授業の進度をさらに速めなければならず負担が生じる▽部活動や学校行事が停滞する▽高校教育の目的が大学入試になってしまう--などと懸念する意見が寄せられた。
また、センター試験は良問で「現状変更の必要性を感じない」という意見もあった。合教科型・総合型問題の出題について▽一定の水準で作問し続けることができるか不安を感じる▽賛成だが現行の教育課程では対応が困難--という声も上がっており、今後の制度設計次第では、さらなる反発も予想される。【坂口雄亮】
 ◇大学入試の新テスト
知識偏重とされる現行の大学入試を改革するため、中央教育審議会の部会が10月に改革案の答申素案をまとめた。毎年1月に実施される現行の大学入試センター試験を見直して新テスト「大学入学希望者学力評価テスト」(仮称)を創設し、年に複数回実施することや、1点刻みではなく複数段階レベルで評価すること、教科型ではない合教科型・総合型の問題を出題することなどを想定している。
入試制度を改める必要があるのではないでしょうか。
再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察
世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。
再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する
センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
 
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。
以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては
1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。
等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。
以上


特に次の観点を指摘して置きたい:
1) 教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2) あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3) 勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4) 優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5) ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6) 簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7) 大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8) 大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。
上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで  画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以  上

再生核研究所声明187(2014.12.8)工科系における数学教育について
30余年 工科系で数学の教育に携わって来た者として、それらを回想して今後同じような経験をされる人たちの参考になるように省察して置きたい。
まず、工科系における数学教育の目標を抑えて置こう:
1) 工科系全般における表現の立場から、数学上の述語、概念、記号などは工科系を表現する言語として必要であるから、関係数学の習得は必要である。典型的な概念として、微積分の概念、行列の概念、微分方程式、ベクトル解析(勾配、回転、発散)、解析関数の概念などは必須の概念と考えられよう。
2) 計算機の普及、応用を待つまでもなく、論理の学習; 論理的に考え、推論して纏め、表現できるような精神の涵養に 数学教育の重要性があると考えられる。
3)高級に表現すれば、数学について、そもそも数学とは何だろうかと問い、ユニバースと数学の関係に思いを致すのは大事ではないだろうか。この本質論については次を参照:
No.81, May 2012(pdf 432kb)
19/03/2012 -ここでは、数学とは何かについて考えながら、数学と人間に絡む問題などについて、幅. 広く 面白く触れたい。
簡潔に述べれば、数学は 時間にも、エネルギーにもよらずに存在する神秘的な 関係の論理体系であるが、ユニバースは 数学を言語として構成されている という、信仰のような信念を抱いている。基本的な数学は ユニバースの基本的な様を表現しているのではないだろうか。すなわち、真理を追求する真摯な精神の涵養である。
それゆえに、工科系における数学教育の必要性は明らかである、それで、その明確な動機のもとで、数学教育に携われる工科系に属する数学の教師は、誠に充実感のする 社会的な使命を果たせる幸せな存在である。
担当の基本は、線形代数、微積分学、微分方程式、ベクトル解析、複素解析であろうが、それらは、理工科系の基本カリキュラムで、それらは、重要な概念を有していると考えられる。教える立場でも、ここをきちんと教えたいという、項目が多々存在する、楽しい数学である。
工科系で、生じる問題の基本は、工学 各学科の、期待、要請と 数学の専門家の担当する講義の仕方、カリキュラム内容との乖離で、しばしば問題が顕になる。上記、工科系における数学教育の目標について 科の先生方の反対意見は出ないと思われるが、近年、学生の基礎学力の大きな落ち込みの中で、科で直接必要、必須の言わば 1)の基本が疎かになり、科の教育に大きな障害が起きて、1)の強化、補充を数学教室に求めたり、科自身で補充の授業を準備する事態さえ招いている。数学教室で、科の要求する数学の内容を聞くと、相当に高級な現代的な数学の内容が広範に出てきて、対応できないような状況は よく見られる。体系的に見れば ちぐはぐ、また科の教員でも要求がバラバラな感じさえ受ける。もしそれらの要求を満たすようにするならば、辞書の項目の解説調になってしまい、数学者の好みである2)、3)項の要素が失われて、講義に熱が入らない気持ちになるのではないだろうか。― この観点が工科系における数学教育における問題の中心であると考えられる。
数学の教師の立場から見れば、自分の専門の研究に集中しすぎで、視野が狭く、工科系全般にわたる素養の貧しさを招き、しばしば独善的な講義スタイルになる傾向があるので、気をつけたい.
学科への対応の精神は、数学に分け与えられる時間数が極めて限られていて、しかも、要求される内容の豊富さを考えれば、講義内容を精選して、基礎の基礎、基本の基本をきちんと学習させ、多くの内容については、学生が必要に応じて、自分で学習できるようなるように教授するのが良いのではないだろうか。それには、まず、数学が楽しい、大いに有効であると 学生が感じられるような、そのような講義が望まれる。講義は全人格をかけた、交流の場であり、真理を追求する研究者の尊い姿が 学生への愛とともに 反映されるものでなくてはならない。学生による評価の問題で、教師が講義の有り様などいろいろ気遣い、板書やPDファイルなどの作成など講義の技術面などに関心が移っているような世相があるが、それらの営みの空虚さを指摘したい。そうではなくて、学生は、教師の学問に取り組む姿勢や、人生や社会に取り組む姿勢、全人格をみて教師を評価していることが分かるだろう。技術面のことよりは、研究者として、人間としての精進が肝要ではないだろうか。
人生とは何か、生きるということは どのようなことか、そのような問を忘れて久しいように感じられる世相ではないだろうか。学生は、いろいろな情報、勉学、就職関係の将来構想などなどで時間に追われ、教員も研究、教育に専念できず、さらに教育、研究の環境を悪化させる要務で忙しすぎて、何事じっくり取り組み、考察を深めるような貴重な時間を失っているように見える。学生時代には全人生を思考できるように 学生に自由を保証する精神が 大学教育の基本な配慮でなければならないと考える。― 学生時代は良かった、良い環境で、たっぷり自由な時間がとれた。
インターネットの普及で、いわゆる知識、単なる情報は、簡単にどこでも利用できる時代の到来は、カリキュラム、教育内容の精選と講義の有り様の変革をもたらし、自由の保証に明るい展望をもたらすのではないだろうか。その骨格として、講義、教育時間の縮小、休暇の増大、そのために一般教職員の大学の年間、1ヶ月間閉鎖、学生の休暇2ヶ月間を考えるのは良い出発点ではないだろうか。これらは既に、欧米の大学では相当に確立していて習慣になっていることも大いに参考にすべきではないだろうか。― 5年間ポルトガルのアヴェイロ大学で研究員として過ごしたが、何と8月は 大学の暦に 無かった。完全休暇である。土、日の休暇は当然で、水曜日は講義が無く、水曜日と金曜日は 昔の日本の土曜日のような調子で、金曜日午後には 多くの学生が、帰省するような情景であった。年中仕事に追われている 異常な日本の大学の有り様を見るにつけて、我々は大いに学び、大学の有り様を変革すべきだと考える。
そのような大幅な自由の下で、自主学習する風潮と日本のように 相当に学力などを気にして、詰み込み式授業の風潮のどちらが、長期的に見て優れているか、考えてみる必要があるのではないだろうか。ただし、自由の代償に 試験は相当に期間と時間を掛けて厳しくする風潮がある。
工科系に属する教員の担当学生数は、数学の所属部署で、最も多い状況にあり、ある意味で、数学を現実社会に活かす立場で それだけ大きな役割が有ると考えられる。教育ばかりではなく、入試に関与する部分も極めて大きく、入試業務は年中 心を傷めさせられる負担になっている場合が多いのではないだろうか。そもそも入試の有り様そのものの見直しを提案、問題提起しているが(再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する),ポルトガルの制度を紹介して、関係者の検討を要望して置きたい:
有り様は簡単で、そもそも大学は入試業務を殆どせず、作成された資料を元に、選択するだけである。入試問題作成は国の機関が行い、入試は高校を会場に高校が期間を掛けて行なう。― このような入試で、個々の数学教員や、大学で膨大な仕事を課せられている日本の状況と比べて、唖然とさせられた。大きな仕事からの開放である。― 勿論、これは国立大学の場合であるが、私立大学などでも上記資料を参考にしているのではないだろうか。
さらに、女性数学者の割合が、殆ど自然に男女、同数であることは 数学の研究、教育、そして教室の雰囲気を日本のそれらとは相当に違ったものにしている。それらは、家庭と大学の仕事が両立出来る基礎があることを示しており、ポルトガルの大学は、相当に優雅であると表現されるだろう。7年目には 日曜日が週に有るように サバーティカルライトで1年間大学の仕事から解放される。それは、何を意味するだろうか。
以 上

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