2014年12月30日火曜日

記事 高橋亮平2014年12月28日 11:4599.1%の原案がそのまま通過、議員による政策的条例提案はわずか0.143%という地方議会の現実<最新2013年データ分析>

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高橋亮平2014年12月28日 11:4599.1%の原案がそのまま通過、議員による政策的条例提案はわずか0.143%という地方議会の現実<最新2013年データ分析>

市川市議会では、切手大量購入が政務調査費の不正利用の可能性と大問題に
いよいよ年明け2015年4月には全国で統一地方選挙が行われる。
私が26歳から6年半市議会議員を務めた市川市議会では、会派に支給される政務活動費をめぐり、切手の大量購入が不正利用である可能性があると、議員の支出の適正を調査する「百条委員会」を設置するとして荒れているようだ。
監査請求の対象となった切手を大量購入した14人の議員についての調査を求める「百条委員会」の設置に加え、調査を求めている18人の議員の政務調査費の支出が適正かを調査する「百条委員会」も設置され、2つの「百条委員会」が設置されたと、NHKはじめ多くのメディア、マスコミに取り上げられている。
議長と副議長が議場に現れず流会になるなど議会を混乱させた責任を取り議長は辞職と、まさに泥沼状態になっている。
自分が議員だった頃とのあまりの違いに唖然とするが、市川市に住む有権者としては、こうした議員たちを選んでしまった事への大きな責任を感じる。
ご自身のお住まいの自治体の議会は大丈夫かと、

地方議会による政策的条例提案はわずか0.159%
全国には、議員や首長など、37,302人の地方政治家がおり(2011.4時点)、この内42.5%にあたる15,841人が、2011年4月に行われた前回の統一地方選挙で選ばれた。
来年2015年4月にはまた、この4年に1度の地方政治家を一斉に選ぶ統一地方選挙が行われる。
市川市議会の様な自治体ばかりではない事を祈りたいが、地方議会は本当に機能しているのか、そもそも議会の役割とは何かについて、最新の2013年のデータを元に考えていきたい。
まず、地方議会の役割についてだが、学生時代に「三権分立」と習った事を思い出すと、議会の役割は「立法府」であったはずだ。これは法律をつくる場所である事を示しているが、国会を地方議会に置き換えて考えれば、「条例をつくる場所」という事になるはずだ。
議会や議員の役割が「政策提言」などと言われてすでに久しいが、実際には、議会や議員からの議案提出など殆んどなく、実際には全体の89.3%は市長提案で、委員会提案を加えても議員提案は10.7%しかない。
図表1: 提出者別議案数の推移
141227コラム 図表1
私自身、議員を経験した後、自治体の部長職も務め役所を中からも見てきた。市長提案についても、政治家である市長が議案を作っている事はほぼなく、実際には、ほとんどの議案を行政職員が作っているのが実態だ。
こうした構造は、決して地方議会だけの話ではなく、少なくとも一昔前までは国でも同じ様な構造になっており、政府提案と言いながら、そのほぼ全てが官僚によって作られている。
ただ、国政における議員立法は、少しずつ改善が見られてきた。野党がより改革を進めるための対案を出し、それを受けて政府与党案の修正が行われる事や、実際に政府がほぼ丸呑みするなどといった様なケースも少しずつで始めている。
事務局長を務めるNPO法人 万年野党(会長:田原総一朗)で行っている「国会議員三ツ星データブック」で、国会議員の議員立法についてのコラムを書いたのだが、例えば、2014年1月から6月まで行われた186通常国会の中で出された閣法が81件だったのに対して、議員立法が75件も出されている。
実際に成立した法案の数で見ると、閣法79件に対して、議員立法は21件とまだまだ少ないという現実だが、それでも地方議会の現状と比較すると、大きく異なる事が分かる。
こうした動きの背景には、野党や野党議員を政策面で支えるシンクタンクの存在などもあるのだが、こうして変わりつつある国会の状況を見れば、地方議会が学ぶべきところは多いのではないかと思う。
地方議会の中で実際に提案されている議員提案の中身について見ていくと、さらに残念な数字が並ぶ。
ただでさえ少ない議員提案のうち、55.5%は国などに対して要望を文章で出すだけの「意見書」であり、条例提案は18.2%しかない。
政策的条例提案はその議員提出の条例案の8.1%でしかなく、議案全体から見ると、この議員提案による政策的条例提案は、わずか0.159%しかないのだ。
自治体の数で全体の176件を割ると、1自治体あたり0.19件しかしていない。つまり、議員による政策的条例提案は、年間、5自治体の中で1件あるかないかぐらいというのが、現状の地方議会のレベルなのである。
図表2: 前議案に占める議員による政策的条例提案率の推移
141227コラム 図表2




図表3: 議員提出議案の種別推移
141227コラム 図表3








図表4: 議員提出議案中の条例案の種類別推移
141227コラム 図表4

市長提案の99.1%が原案そのまま通過という現実

こうした指摘をすると、ベテランの地方議員などから必ず、「議会の役割は政策提案だけではない」という声を聞く。
総理が国会議員から選ばれる国政と異なり、市長も議員も選挙によって選ばれる地方自治現場では、「行政と議会は車の両輪である」とも言われる事も多く、議会側からの提案だけでなく、行政をチェックする事もまた議会の重要な役割だとされているからだ。
そこで、地方議会の「行政チェック」の実態を調べるため、市長提出による議案の議決態様について見てみると、議会によって修正されて可決した割合は、わずか0.3%しかなく、全体の99.1%は、市長提案を原案そのままで可決している。
何でも反対すればいいという事ではもちろんなく、市長提案の中で、良いものは、そのまま原案可決すればいい。しかし、99.1%もがそのまま原案可決している状況では、議会の「行政チェック機能」とは、どういうものかと考えざるをえない。
図表5: 地方議会における原案可決率の推移
141227コラム 図表5

議会内での議員の質問回数さえ減少傾向
議員の活動で最も象徴的な議会活動である議会での質問ですら減少傾向にある。
2006年までは増加傾向にあった
1自治体あたりの議会での質問回数は、この2006年からは減少傾向に転じ、今回の最新2013年データでは、個人質問は2006年以来最少の50.0回、代表質問に至っては、データを調べ始めた2002年以来最低の8.8回となってしまった。
これらは、本会議だけの質問回数だが、議員全員の1年分を合わせた回数だと考える、どれだけ少ないかが分かる。
図表6: 自治体あたりの議会での年間質問回数の推移
141227コラム 図表6

地方議会もまた有権者や市民が監視できる仕組みをつくる必要がある
先程も紹介した様に、事務局長を務めるNPO法人 万年野党では、国会議員の活動データを評価する「国会議員三ツ星評価」を行っている。今回提示した様な地方議会の現状なども踏まえ、地方自治体においても、行政や議会の監視的な仕組みの構築し、とくに地方議会や地方議員の質が高まる仕組みの構築の必要性を強く感じている。
自分自身、26歳で地方議員になり、400人の超党派組織、「全国若手市議会議員の会」の会長も務め、34歳で自治体の部長職として行政職員も経験した。現状は中央大学で特任准教授を務める傍、シンクタンクの研究員としても関わるなど、多様な立場から政治や行政を見てきた。行政や政治の組織の中にも、現状を何とか変えていかなければならないという想いや志を持った人たちもいる。しかし一方で、これまで長年続けてきた仕組みや組織は、なかなか簡単には変わらない。こうした地方自治のガバナンスの仕組みを変えるためには、「議会の常識」や「役所の常識」といったこれまでの限られた人たちの中での常識から、乖離してしまいつつある「市民の常識」で判断されるようになる様なパラダイムシフトが必要である。そのためにもまず、企業がマーケットの中で市場原理で淘汰されていくように、特定の人たちしか関わらないという力学から、多くの市民による監視の中で淘汰されていく仕組みを作っていく必要がある。
国政においては、総理を選ぶ投票ができるのは国会議員に限られるが、地方自治体では、国政と異なり、市長など首長と議員が共に選挙によって選出される二元代表制をとっている。法的には首長と議会それぞれにほぼ同等ともいえる権限が与えられてもいる。地方議員を含め、地方議会関係者さえ、「地方議会は、国会の地方版」などと思っている人が多いが、実際には国会と地方議会では、その役割は大きく異なる。
国会が「国権の唯一の立法機関」(憲法41条)である事は、多くの人に知られているが、地方議会は会合して相談する「議事機関」(憲法93条1項)としてしか定められていない。同様に、国会は「全国民を代表する選挙された議員」(憲法43条)で構成され、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」「その権力は国民の代表者がこれを行使」(憲法前文)とされているが、地方議会は「住民が直接、これを選挙する」(憲法93条2項)と住民の権利しか明記されておらず、特別法の制定についてなどは、「住民の投票においてその過半数の同意を得なければ」(憲法95条)と住民が直接行使する事が位置づけられているほか、住民の直接請求に基づく住民投票で議員・首長のリコール、議会の解散(地方自治法76条等)なども住民の権利として認められている。
こうした事からも分かるように、地方自治体におけるガバナンスは、国政と異なり、議会・行政・市民との3者のバランスにより成り立つ事が、本来より想定されているのだ。
「地方自治は民主主義の学校」とも言われる。こうした事から考えても、自分たちの街や生活を役所や政治家に依存するのではなく、自らが主体的にどうしたいのかと関わっていく事が、本来想定されているとも言える。しかし、実際には、日々の生活や仕事に終われ、地域の問題に関わろうと思っても時間もなければ、方法も分からないという人も多いだろう。そんな中で、せめて自分たちが関わる事が求められている事を認識しながら、行政や議会、議員を監視する事で、健全なガバナンスを生み出す必要があるのではないかと思う。
繰り返しになるが、来年2015年4月には、統一地方選挙が行われる。
4年前の前回の統一地方選挙では、全国37,302人の地方政治家の内、15,841人が選ばれた。
4年に1度しかないこの機会を、国民の皆様には、真剣に考えてもらいたいと思う。http://blogos.com/article/102380/

再生核研究所声明84(2012.4.20)
国会審議における心得 - 討論、議論、批判における心得
国の最高機関である国会審議の様を見ていると、見るに堪えないような状況が有るので、意見表明し、また、世情における討論、議論、批判の在りようについても、自戒の念を込めて省察しておきたい。
まず、国の最高機関である国会は、国の在りようを決定する 国の最高機関であるから、国会審議、討論は 国家の在りようという視点を原点にして 行われるべきである。 ところが、政党政治では、批判のための批判、相手を攻撃して、政権を奪いとるのが 国会の場 と勘違いしているようにさえ見える有様である。 ひどい場合には いろいろ調べてきて、大臣や首相を国会の場で辱め 喜んでいる、得意がっている風潮さえ見うけられる。自分を売り込む場である、宣伝の場であると考えているようにも見える。 恥ずべきことである。膨大な国費をかけて、国の重要な公の場を 卑小な題材で、自己宣伝の場と考えられては、国民は堪えられないであろう。ところが、そのような浅ましい情景を喜んでいる大衆がいることも、また派手に、軽薄にも報じているマスコミの精神も情けない。
国益大事、国家のためには の精神 を徹底させ、そのような卑小なことを問題にせず、自ら選出した日本国の最高責任者を軽々しく批判せず、首相を助け、日本国を良くするために 首相、大臣たちに知恵を与えて、国家に貢献すべきである。よって、礼を弁え、国のために知恵を出し、日本国を代表する立場の首相、内閣を支えるべきである。 特に、自ら選出した日本国の最高責任者、首相は、日本国の国益を背負っている大事な存在であるから、首相に対しては アメリカ大統領など外国の元首以上の処遇で当たるべきである(再生核研究所声明73: 日本国首相の役割 参照)。
 簡潔に纏めておこう:
1) 自己や、政党の立場ではなくて、国家のための議論を行う。
2) 批判ではなく、具体的に問題点を明らかにして、建設的な在り様を提案する。国に知恵を与える視点を重視する。
3) 国の最高機関の構成員であることを自覚して、何時も国のためには、世界のためには の視点をもち、各論的な問題にとらわれない態度を保つように心がける。
世情における、討論、議論、批判における問題点を 次のように注意したい:
1)賛成派と反対派に分けたような色分けを行い、議論の背景や立場を無視して、一方的に あたかも敵、味方のように 有無も言わさず相手を批判するような傾向が有って、実りある議論になっていない状況が広く見られる。これを是正する。
2)上記国会審議と同様、良い国、良い社会を作るには どうしたらよいかの原点をしっかりと確認して、議論、討論、意見表明を、是是非非の立場、公正の原則の立場 から 行うべきである。
3)近年みられるのは、在るべき考えではなくて、利害関係で 特定の方向性を定めてキャンペーンを張っているような場面が多く、そのような立場は世に多いから、それはそれと理解して、対応して、自由な議論によって、実りある討論ができる相手か否かを見破らなければ、深入りの議論は 空しい議論に陥るであろう。
4) この観点において、第3者の立場の意見 を大いに参考,重視すべきである。
5) 特に批判する場合には、具体的な点を明確にして、きちんと理由を付けて、建設的な提案をするように心がけたい。
大局的には 視野が狭く、一面的、局所的、単細胞的な批判が多く 文化レベルの低さ、野蛮性を反映していると言える(再生核研究所声明 69:単細胞人間 ― 単細胞的思考)。
討論、議論、批判は 多様な視点、在りようの意見を出し合って、より良い在りようを探り、視野を広め、文化を向上させ、より良い人生、社会を営めるようにするのが基本である。そのためには、真実を尊重、真理を追究し、良い意見を積極的に取り上げ、より良い社会を作るには どうしたらよいかの根本精神から、活かし またこのような精神を常に確認することが肝要である。折角のインターネットの世界、汚い、低級な罵りで汚したくはない。 進化した未来人の書く、世界史に耐えられるにしたい(再生核研究所声明83:   再生核研究所声明とは 何か; 再生核研究所声明 41:世界史、大義、評価、神、最後の審判
)。
そのためには、それらは、争いではなく、相手を論破したり、論戦で勝つなどの 卑小な精神を克服して、お互いに高め合って、人生、社会を楽しいものにしていきたいとの存念を擁くこと が大事である。
以 上
日本の政党は「腐敗している」80%(独NGO調査)
ウイキペディアより:
マッチポンプとは、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である。マッチ(match)は元は英語、ポンプ(pomp)は元はオランダ語である(英語ではpump)。
「マッチで自ら火事を起こして煽り、それを自らポンプで消す」などと喩えられるように、問題や騒動について、自身でわざわざ作り出しておきながら、あるいは自身の行為がその根源であるにもかかわらず、そ知らぬ顔で巧妙に立ち回り、その解決・収拾の立役者役も自ら担って賞賛や利益を得ようとする、その様な行為を指して用いられる表現である。
日本の国会会議録にマッチポンプを用いた発言が残っている。1961(昭和36)年4月11日の衆議院本会議において、松井誠衆議院議員は「銃砲刀剣類等所持取締法の一部を改正する法律案」への質問の中で以下のように発言している。
世に、いわゆるマッチ・ポンプ方式といわれるものがあります。右手のマッチで、公共料金を上げて、もって物価値上げに火をつけながら、左手のポンプでは、物価値上げを抑制するがごとき矛盾したゼスチュアを示すのをいうのでございましょう。
— 松井誠、「第38回国会 衆議院本会議 1961(昭和36)年4月11日」[1]
1966年、黒い霧事件第1弾の田中彰治代議士事件で初めて使われ、元々は金品を巻き上げるという意味で使われた。1974年刊の「現代流行語辞典[2]」では「デスク日記3[3]」1966年8月5日の項にマッチポンプの記述があると紹介している。

再生核研究所声明 129 (2013.8.28): 
美しい社会はどうしたら出来るか ― 世の中なぜ上手く行かないか
(2013.8.22 零時頃 新しい声明案が湧き、大いに気に成る。良い社会を築く問題点である。)
再生核研究所は 今の世の中 おかしいのではないか として、美しい社会を築くにはどうしたら良いかと考察し、始めに再生核研究所声明1で 次のように述べている:
(最近の世相として、不景気・政界・財界・官界・大学の不振、教育の混迷、さらにニューヨークのテロ事件、アフガン紛争、パレスチナ問題と心痛めることが多いことです.どうしたら美しい社会を築けるでしょうか。
一年半も前に纏めた次の手記はそれらのすべての解決の基礎になると思いますが、如何でしょうか。
平成12年9月21日早朝、公正とは何かについて次のような考えがひらめいて目を覚ました。
1) 法律、規則、慣習、約束に合っているか。
2) 逆の立場に立ってみてそれは受け入れられるか。
3) それはみんなに受け入れられるか。 
4) それは安定的に実現可能か。
これらの「公正の判定条件」の視点から一つの行為を確認して諒となれば、それは公正といえる。
現在、社会の規範が混乱し、不透明になっているように思うが、公正の原則を確認して、行動していけば ―― これは容易なことではないが ―― 世の中ははるかに明るくなり、多くの混乱は少なくなると思いますが如何でしょうか。)
そこで、上記 閃きにしたがって逆の立場から、考察、補充して置きたい。
まず、大きな権力と影響を与える政治家の立場から、考察しよう。
政治家は地位を得るのに汲々として、公正な行為がとれない本質的な問題を抱えているのが、民主主義の制度ではないだろうか。絶えず、地位が侵される立場であるから、まずは、自己の立場、権力の維持、したがって自分と仲間の視点を重視せざるを得ないのは、深刻な 当然の、本質的な問題である。古くは論功賞、ご恩と奉公はそれらの基礎である。民主主義には選挙過程と政治家の地位保存で膨大な労力を費やし、公正の原則や在るべき政策以前で終わってしまうような状況が有るのではないだろうか。安定した王政や貴族政、世襲制の方が良いという面が多いのではないだろうか。将来の大きな問題として提起しておきたい。次も参照: 再生核研究所声明 33:民主主義と衆愚政治
権力者が、在るべき社会の在りようを無視して、狭い意味での自己の利益を優先させる事である。明治初期には 国家の指導者たちが、相当に公や国家を論じて、義を重んじ 常に公を心にした高い志が 日本国の輝かしい時代を築いた原動力ではなかったかと評価、追想される。
それは政治家ばかりではなく、大学や学会などその他至る所でも 公の地位を利用して、自己の都合の良いように行うのは 世界的に見られる恥ずべき現象である。公の立場と個人的な利益の混同は 常に批判して、何時も人格の高潔さに思いを致すべきである。
政治的な面は、お金と権力に結び付き易いから、政治性に興味を抱く者、政治家などでは、始めから いわゆる野心家がいて、自己の利益追求を考えている者が多い現実に注目して 新しい制度の在りようの検討とともに大いに警戒すべきである(再生核研究所声明 52: 政治家や組織の代表者の選出における留意事項)参照。
公正と正義となれば、それらを守らせるのが、裁判官、検事などの役割で 国家の基本であるから、それらに圧力を掛けたり、また圧力に屈していると見られるようでは 共に卑劣、言語同断 それこそ、昔の武士道では切腹者である。公正な真実の報道を魂とし、社会正義を志すマスコミ関係者も同じように聖職者であり、同じような厳しさが求められるのは 当然である。
日本では、大事な、政治家、司法関係者、マスコミ関係者、多くの権力者たちが上記、公の立場をないがしろにして、自己の利益を図ったり、あるいは圧力に屈しているように見えるのが、当初に述べているおかしな社会にならしめている 元凶ではないだろうか。そこで、再び公正の原則を確認して、公の立場に従って行動できるように、行動させるようにお互いに自戒して行くように心掛けたい。それが帰するところ、美しい社会の実現の第1歩、基礎であると考える。
そこで、モラルの面で、いわゆる社会の上層部、指導者たちが高い学歴を有しているのは 普通であるが、いわゆる中国の科挙制度が おかしな、厳しい試験制度を永く続けたため、その制度の弊害で良き人材が現れず、中国が衰退の道を歩んだとの説もあるが、日本でも知識偏重で 人物たる教育の面が疎かになっているようなことはないか と大いに気に成る。それは 頭ばかりが大きくて 心が貧しいと表現されるだろう。
以 上
追記: 稲村和夫氏 などを 全国紙の論説主幹などに登用できる文化力が日本に有れば、日本は どんなに素晴らしい国になるだろう。人材の登用がおかしいのでは? 2013.8.24.10:45

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