2016年4月14日木曜日

<2016年本屋大賞>宮下奈都さん「羊と鋼の森」が大賞 「火花」は逃す まんたんウェブ 4月12日(火)19時28分配信

<2016年本屋大賞>宮下奈都さん「羊と鋼の森」が大賞 「火花」は逃す
まんたんウェブ 4月12日(火)19時28分配信

<2016年本屋大賞>宮下奈都さん「羊と鋼の森」が大賞 「火花」は逃す
本屋大賞を受賞した宮下奈都さん
 全国の書店員が「一番売りたい本」を選ぶ2016年の「本屋大賞」が12日発表され、宮下奈都さんの「羊と鋼の森」(文藝春秋)が大賞に輝いた。

【写真特集】作者・宮下奈都さんの写真 受賞に…

 同日、東京都内で行われた授賞式に出席した宮下さんは「文藝春秋の方にも『歴代の受賞者を見ても宮下さんの知名度の低さは抜群』って言われて、そういう意味でも(大賞受賞は)誇りに思いますし、私の勲章だって思います。奇跡みたいで私は一生忘れないと思う」と喜びを語った。また宮下さんは本屋大賞について「狙って取れるものではないし、私にとってはすごく難しい。一生、縁のない、一生に一度、取れたら夢のような賞。書店員の方の純粋な気持ちで成り立っている賞で、こっちから狙っていく賞ではないですし、ここにいることが信じられないです」とも語っていた。

 宮下さんは1967年、福井県生まれ。上智大文学部哲学科卒業。2004年に「静かな雨」が文學界新人賞佳作に入選。10年に「よろこびの歌」が第26回坪田譲治文学賞の候補となり、12年には「誰かが足りない」が第9回本屋大賞で7位となった。

 「羊と鋼の森」は、ピアノの調律に魅せられた青年が、調律師、人として成長する姿を描いた小説で、第154回直木賞候補にもなった。

 本屋大賞は「売り場からベストセラーを作る」をコンセプトに創設され、今回が13回目。これまでに「ゴールデンスランバー」(伊坂幸太郎さん、08年)や「告白」(湊かなえさん、09年)、「天地明察」(冲方丁さん、10年)、「謎解きはディナーのあとで」(東川篤哉さん、11年)、「舟を編む」(三浦しをんさん、12年)などが受賞し、多くのベストセラーを生み出した。

 今回は14年12月1日~15年11月30日に刊行された日本の小説が対象で、ノミネート作は新刊書の書店で働く店員の1次投票で決定。全国435書店552人が投票した。又吉直樹さんの「火花」(文藝春秋)、辻村深月さんの「朝が来る」(文藝春秋)や米澤穂信さんの「王とサーカス」(東京創元社)など上位10作品がノミネート作品となった。

 ◇「本屋大賞2016」の最終結果(敬称略、順位順)

 「羊と鋼の森」宮下奈都▽「君の膵臓をたべたい」住野よる▽「世界の果てのこどもたち」中脇初枝▽「永い言い訳」西川美和▽「朝が来る」辻村深月▽「王とサーカス」米澤穂信▽「戦場のコックたち」深緑野分▽「流」東山彰良▽「教団X」中村文則▽「火花」又吉直樹http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160412-00000014-mantan-ent


再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)

まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
本(ほん、英: book)は書物の一種であり、書籍・雑誌などの印刷・製本された出版物である。
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは,  視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24):  食欲から人間を考える ― 飽きること。

以 上


オイラー
ピタゴラス
ユークリッド
ニュートン
ガリレオ






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