2016年2月21日日曜日

学歴ではなく「塾歴」!「勝ち組」を作る教育システムはどこまで進むか? プレジデントオンライン おおた としまさ

学歴ではなく「塾歴」!「勝ち組」を作る教育システムはどこまで進むか?

プレジデントオンライン
おおた としまさ


日本全国には約5万軒の塾があると言われている。東大生の約85%、早稲田・慶應・一橋を含む主要難関大生の約95%が塾通いを経験しているというデータがある。2009年に東大家庭教師友の会が実施したアンケートの結果だ。日本の学力トップ層の少なくとも9割前後は塾に通っていることになる。日本の「頭エリート脳」は、塾なしには育たないのが現実だ。

一方で、受験競争を煽るものとして、世間一般の塾に対する印象はあまり良くない。しかし塾が勝手にできるわけがない。世の中のニーズに応える形で発展した経緯がある。塾は、日本の教育の平等性の産物であり、学校教育を陰で支えるパートナーでもあるのだ。

好景気による知的生産層の拡大で、1970年代に日本の高校進学率は9割を超えた。それは、全国津々浦々に教育が平等に行き渡ったことを意味している明治維新以来の念願であった。

一方、日本の教育制度は単線型といわれている。小学校、中学校、高校、大学と、進学のルートはほぼワンパターンである。学ぶ内容も、学習指導要領と検定教科書によって、全国で標準化されている。つまり同世代のほぼ全員が、基本的に1本のレールの上を行く。バイパスはない。

しかしテストをすれば当然点数に差がつく。順位が生まれる。

平等な環境が与えられているはずなのに、隣の生徒より得点の低い者は努力不足ということになる。逆に言えば、テストで人より良い点を取った者はそれだけ努力をしたのだから、報われて当然という理屈が成り立つ。それはさらに、偏差値が1つでも高い者が偉い、偏差値が高い学校のほうが上等という価値観をもたらす。こうして「学歴社会」が確立した。

「学歴」は自由を保障する「通行手形」
出身大学によって企業への就職の機会が制限されるのは差別であるなどという不平等の文脈で「学歴」という言葉が扱われることが、今は多い。しかし元来「学歴」には、どんな出自であっても学問を修めればどんな社会階層にも上がっていけることを保障する「通行手形」としての役割があった。平等で自由な社会を実現する装置の一部であった。

中卒、高卒、大卒と、通行手形のランクが上がれば世界も広がる。当然人々は1つでも上のランクの通行手形を手に入れようとする。親は子に、できるだけ上等な通行手形を持たせて送り出したいと願う。そこに競争が生まれる。

同世代全員が同じレールの上を行くのである。たった1歩でも人よりも先に行きたいと誰かが早歩きを始めれば、まわりの歩幅も大きくなる。受験競争の始まりだ。気づけばみんなが全力疾走をしていた。

途中で気分を悪くする者もいる、怪我をしてしまう者も出る。それでも競争は止まらない。何でもありの受験狂想曲である。皮肉である。全国津々浦々の子供たちに平等な教育を行き渡らせることを実現した結果、国民的教育競争が始まってしまったのだ。

少しでも優位に立つための手段として塾が登場した。日本において塾の数が爆発的に増えたのは1970年代半ば以降のことである。高校進学率が9割を超えたころにちょうど重なる。その意味で塾は、この国の教育の平等性と画一性の産物といえるのである。

塾は学校教育を陰で支えるパートナー
ではここで、ちょっと想像してみてほしい。もし今日本で、塾による受験指導を一斉に禁止したら何が起こるだろうか。

きっと、学校に受験指導を期待する動きが強まるだろう。学校が、現在の塾の役割までをも抱え込まなければいけなくなる。一部の保護者が「音楽や体育をやる時間があったら、英語や数学の授業を増やしてください」と詰め寄る光景が目に浮かぶ。「理科の実験などしていないで、化学式の計算をやらせてください」という生徒も増えるだろう。学校が学校でなくなる。学校が受験競争に完全に飲み込まれてしまう。

逆に言えば、現在は、塾があるからこそ、学校は学校でいられる。目先の大学合格だけでなく、生徒一人ひとりの人生の20年後、30年後までをも見据えた本質的な教育に力を注ぐことができる。だから学校の多様性も担保される。その意味で、塾は学校教育を陰で支えるパートナーなのだ。

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学校と塾は、陽と陰。あるいはDNAの二重らせんに例えてもいい。

公教育が「与えられた教育」であるとするならば、民間教育は「自ら求める教育」といえる。その2つがあることで、日本の教育は常にバランスを保ち、かつ、柔軟に進化し続けることができた。これは世界でもまれに見るハイブリッドな教育システムなのである。

しかしである。その多様であるはずの塾が、こと学力トップ層においては、多様性に欠く状態になりつつあるというのが拙著『ルポ塾歴社会』(幻冬舎)の指摘である。

「塾歴社会」とは、端的に言えば、日本の教育の平等性や公正さの中で発展してきた受験システムが、「制度疲労」を迎えている証しであると私は思う。

「結果にコミットする」スポーツジムに似ている
受験勉強はもともと、個々の受験生が自ら作戦を立て、自らを奮い起こして取り組むべきものであった。特に大学受験は、入試当日に至るまでのプロセスの踏み方を含めて、総合的人間力を試すものだった。どんなに処理能力が高くても、作戦立案の下手な受験生はいい結果を出せなかった。どんなに上手なプランナーでも、易きに流れやすいメンタルの持ち主は、合格を手にすることができなかった。野球に例えれば、長打力があるだけではダメ。走攻守三拍子揃った選手でないと好成績を残すことはできなかった。

だが、ルールは変わった。

作戦立案は、塾のカリキュラムによって不要になった。自らに打ち勝つ意志力の代わりに、度重なる塾のテストが受験生を勉強へとかき立ててくれるようになった。より効率の良い戦い方が模索されるうちに、本来受験生自身に求められていた能力の大部分を塾が肩代わりするようになった。 

“結果にコミットする”スポーツジムに似ている。トレーナーが完璧なメニューを用意して、それをやりきるまで追い込んでくれるシステム。トレーナーの指示にいちいち自分の考えなど差し込まなくていい。ただ従順に言われた通りにやっていれば、筋肉がついたり、減量できたりする。

その結果、受験生に求められるものとして、大量の課題をこなす処理能力と忍耐力だけが残った。余計なものとしては、与えられたものに対して疑いを抱かない力が求められるようになった。これが「塾歴社会」成立の背景である。

(教育ジャーナリスト おおた としまさ=文)http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%E5%AD%A6%E6%AD%B4%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%8F%E3%80%8C%E5%A1%BE%E6%AD%B4%E3%80%8D%EF%BC%81%E3%80%8C%E5%8B%9D%E3%81%A1%E7%B5%84%E3%80%8D%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%82%8B%E6%95%99%E8%82%B2%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%93%E3%81%BE%E3%81%A7%E9%80%B2%E3%82%80%E3%81%8B%EF%BC%9F/ar-BBpKNNz?ocid=UP97DHP#page=2


再生核研究所声明283 (2016.2.8)  受験勉強が過熱化した場合の危惧について

再生核研究所は 教育の在るべき姿について、関心が強く、次のような見解を述べて来た:

再生核研究所声明2:中国古代の教育
再生核研究所声明9:天才教育の必要性を訴える
再生核研究所声明20:大学入試センター試験の見直しを提案する
再生核研究所声明44: 梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧
再生核研究所声明60:非凡な才能を持つ少年・少女育成研究会
再生核研究所声明76(2012.2.16):教育における心得 ― 教育原理
再生核研究所声明90(2012.5.18):日本の大学受験体制についての一考察
再生核研究所声明147(2013.12.27): 創造性についての 第二考察
再生核研究所声明218(2015.3.19): 興味、関心、感動;人間とは
再生核研究所声明254(2015.11.2) : 愛が無ければ観えない ― について、 更に
再生核研究所声明260(2015.12.07): 受験勉強、嫌な予感がした ― 受験勉強が過熱化した場合の弊害

最近、奇妙に気になる存念がわいてきたので、率直に表現したい。
もちろん、教育の理念は 良き社会人の育成と個人の生命を生かす為の補助にある。そこで、問題は、それらの教育の本質的な目標から乖離して、現実的な問題として、大学おける選抜の
技術的な観点から、受験のための特訓が永く続く状況が 顕になってきている現実である。次のような客観的なデータから見られる問題点を考えたい:

ある相当に有名な国立大学では、入学者の東京都出身の割合が80%を超えたということ、
また、有名高校や塾の入学者 の割合いの増大。

まずは、このようなデータの解析を 詳しい調査を、日本の教育のあり様の現実を正確に把握できるように 行うことを関係機関に要請したい。それらが、弊害と考えられる点は:

1) 特訓のやりすぎで、創造性の精神や感性を傷つけ、才能を殺してしまっている現実はないだろうか。優秀な才能の持ち主で、思考や思索を深めたいのに 当分受験勉強で気を回せないで苦しんでいる現実がある。
2) 地域や経済的な豊かさが受験の有利さに反映して、多様な世界からの入学者を制限してしまう危惧はないだろうか。
3) 厳しい受験となると選抜される学生の均一さを招き、多様な才能や性格の人間を集めることが難しくなるのでは。
4) ある程度の競争は 現実には避けられず、必要でもあるが、過熱化すると 生涯競争意識ばかり強い、人格の歪みを大きくするようなことはないだろうか。
5) 人生の晩年で、受験勉強のやりすぎの影響で、健康を害したり、活力を失ってしまう現実はないだろうか。

いわゆる名門大学の卒業生が 必ずしも幸せな人生を送っていなく 逆に不幸な人生を送っているような状況は無いか、関係機関は教育の現状を把握するために調査する必要があるのではないだろうか。
以上の危惧は 要するに 勉学のやりすぎで、全人的な人間としての成長を歪めているのではないかと言う、危惧である。何事、長期に亘る、やりすぎ、集中しすぎは良くはないのではないだろうか。
大学のあり様としても、富士山型の大学の序列よりも、八ヶ岳方式に 分散型の方が良いとは、かつて尊敬していた物理学者の 言葉であるが、何時も思い出される。

再生核研究所声明260(2015.12.07)で述べた危惧の纏めを述べて置こう:

1) 1): みずみずしい感覚を有する青少年の 健全な成長を 偏った知識の詰め込みや解法の技術の特訓のような勉強が歪めはしないか、真理を求めたいという好奇心を疎外しないか、
2) 2): 創造性豊かな生徒の才能が 活かせない状況はないか、入試のような勉強が 必ずしもいろいろな才能を持つ者の育成に適当ではない面があるのではないだろうか、 もちろん、基礎力の確立は当然必要であるが、行き過ぎると である。
3) 3): 優秀な者が型にはまった勉強や入試に反感を懐き、高校を中退したり、先生と上手く行かない例は 世に結構多い現実、
4) 4): 特殊な才能や、特訓を受けた者が集中する大学、組織は良い面もあるが、他方、悪い面も多くあるのではないだろうか、
5) 4): 厳しい入試を乗り越えて希望の大学に入学した者の その後、必ずしも良い人生を送っているようには見えない場合が結構多く見られ、入試がマイナスの影響を与えている状況も多いのではないだろうか。 上手く学歴社会(学校歴社会)を乗り越えた者でも 人生で成功とは言えない状況は 世に多いのでは?
6) 5): 入試の勉強が 逆に人生でマイナスに働いているような状況は 結構多く見られる、
7)   危惧の念とは、やりすぎで いわばマイナスになっている面が 相当多いのではないかとの念である、

等等である。 なんでも程々が良いのではないだろうか。
以 上



再生核研究所声明90(2012.5.18): 日本の大学受験体制についての一考察

世の中は 慣性の法則で動いているものであり(再生核研究所声明 72 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則)、教育や教育の在りようなどは 国の文化や社会の影響で簡単には変えられない実情がある。しかしながら、それらは 国家の 真に重要な要点であり、絶えず検討、改善を志向すべきものである。
そもそも大学受験制度とは、自由競争の典型的な表現として、大学を自由に選択し、公正な評価で選別しようとの 普遍的な背景に基づいていると言える。 主にアジアにおける入試制度は 有名な科挙の制度など古代から存在する制度に その原型を見ることができる。
共通テスト以来の問題は、相当に客観的な数値によって、全国的な序列の鮮明化が進み、いわゆる受験戦争の言葉さえ世相になっている。価値の一元化、共通化、一様化は、重要な多様性の視点 から好ましくはないとして、入試の在りようについて検討を求めている:
上記 声明で、 受験勉強が過熱化すると、 本来の教育の理念から、大きく外れ、無駄で有害な特訓のために 有能な才能、感性、創造性、全人的な成長発展を阻害する状況が出て来ると考える(再生核研究所声明 76 教育における心得 ― 教育原理)。何でもほどほどが良いのに、行き過ぎ、過熱化している状況が既にあると考える。 また年齢によって、準備されなければならない大事なことが ないがしろにされている と考えられる。

再生核研究所声明 20(2008/10/01):大学入試センター試験の見直しを提案する

センター試験は1988年 共通テストの試行から始められ、いろいろな変遷を経て、現在は大学入試センター試験と改称されて、20年もの歳月を経ている。 発足時のときの議論では、数年で破綻し、結局は元の形に戻るという観測が多かったが、その後 何時も批判的な意見が多く出されているものの 組織が出来てしまったためにか 惰性的に続けられてきている。そこで、次のような状況を考えて、このような入試の在りようを検討し、大学入試センター試験の見直しを行うように提案いたします。
 
1) センター試験は 多額の経費と人件費をかけながら、悪い効果を生み、いわば大きなマイナスの仕事を 教育界に課していると考えられる。試験の影響としてはマイナス効果の方が大きいと考えられる。 その最大の理由は 共通テスト開始時にも 既に指摘されていたように そのような試験では パターン化して、知識の積み込み方式になり、考える力を落とす という危惧であった。 実際、このような弊害はいたるところに現れ、数学の教科でさえ、型を沢山覚え、時間内で解く方法の技術ばかりが、学校教育や受験勉強においても重視されていて、本来の教育のあるべき姿からの大きな乖離が見られる。センター試験は 日本の教育を軽薄な教育にさせている元凶である と考えられる。そのような試験結果は 軽いデータぐらいの重さしか果すべきではない。しかるに教育界は そのような試験に対応すべく、多くの無駄、悪い教育をおこなっている。
2) 教育においては本来、多様性と個性を活かす事が大事であるはずなのに、型にはめ、一様な水準を作り、貧しい特色のない大学を一様に育てている弊害が顕わになって来ている。センター試験の目指す教育とは およそ人物たる人間教育や善良な市民を育てる重要な本来の教育とはかけ離れたものであり、日本国を覆っている無責任とモラルの著しい低下の結果を生み出している。教育とは本来何であるかの議論さえ忘れて久しい状態で、魂の抜けた教育であると言える。感性豊かな人間性を高める教育や創造性豊かな教育からは程遠い教育と言える。
3) センター試験の影響は 世に数値化と標準化、規格化を進め、社会の多様な価値や個性を失なわしめ マイナス効果を世に氾濫させている。
4) 永い間 同じような入試制度が続いたため、入試が専門的な技術を要求するような弊害が現れ、不要な特殊な訓練を得た者が有利になるような弊害が現れてきている。
その結果、このようなことに柔軟に対応できる特定の学校に人気が集中して、公立高校の人気が落ちてきている。そのために 経済的な豊かさが もろに教育条件に反映するような状況を生み出している。このようなことが進めば、広範な生徒達から多様な才能を引き出せない状況を進めると危惧される。 また、そのような特殊な教育を受ける者が個性を伸ばし、幸せになるとは限らないと考えられる。
5) 2日間にわたって、多くの教職員をいわば ロボットのように 画一的に働かせて、また多額の国費と人件費を費やして、大きなマイナスの仕事を行うのは 好ましくないと考える。
6) センター試験は、世の生徒達にあまりにも細々とした過重な入試対策を要求して、生徒達のみずみずしい才能の開花を疎外し、生徒達の自由な成長を妨げている。 学校教育には、人生や世界や、自然の事をじっくりと想いをいたし、 友情が芽生え、育つような余裕が求められる。 大学入試にはより柔軟に、余裕をもって考えられるような社会へと変革が少しずつ進むことが期待される。 理想としては、個人の個性を活かせるような多様な可能性を広げるような変革である。もちろん、そのうちには、世の秀才達を集めるような所があっても良いが、そこに殺到するような事は望ましく無いと考える。
7) センター試験は、所謂 世の秀才や優秀な人達の才能もわざわざ鈍化させ、活かされていないと考えられる。日本でも秀才教育や天才教育ができるような柔軟な制度の確立が求められる。
8) 共通テスト開始のとき、多くの危惧と問題点が指摘されたものの これで多くの人が 大変な入試業務から解放されると期待されたものであるが、それは空しく、逆に個別入試を行い、また第二次入試や、追試入試、さらに外国人入試や推薦入試、社会人入試、などと多くの入試が始められ、多くの教員は年中入試業務に振り回される状況になっている。大学の法人化の後には、社会貢献や教員評価、受験生確保のために多くの仕事に追われ 教育研究費の大幅減額とともに 悪い、教育、研究環境に陥っていると考えられる。

以上の理由などから、センター試験を見直しする方向での 真剣な検討と対応を求めます。現実的な対応としては、入試そのものが日本国の文化に根ざしている以上、そう簡単ではないと考えて、広範な検討や改革を考えていく事を求めたいと考えます。方向性としては

1) 大学入学資格試験と考える方向で、そのときには センター試験を簡素化し、センター試験に対する特別な対策はしないですむような状況になることが求められる。
2) 逆に個別入試を廃止して、センター試験の一部と他の要素、例えば高校の評価や、推薦状や面接で入試を行う。
3) センター試験を原則廃止して、時々高校生の学力のデータ、状況を得る為やその他いろいろな業務を行うことに センターの組織と機関を使う。

等が検討されるべきであると考えます。教育の在りようについては 絶えず検討を重ねていく事として、教育というと直ぐに学力と考える傾向が強いが、全人的な教育や人物たる人間教育等の面を考えていく必要があると考えます。

以上



特に次の観点を指摘して置きたい:

1) 教育本来の全人的な発達を、過熱な学習が 歪めている事情はないか。
2) あまりにも 競争をあおって、 友情や人間関係の基本が おかしくなっていないか(再生核研究所声明 4: 競争社会から個性を活かせる社会に) - 友情も育たないで、競争 競争で 美しい 瑞々しい社会を築けるだろうか. 結果として、 日本はあまりにも競争意識が強い、ぎすぎすした社会になっていないだろうか。:
3) 勉強だけが、人生でも 社会でもなく、多様な生き方、多様な価値観を持たせ、幅広い、生き方の視点を重視した教育をすべきではないだろうか。
4) 優秀な人材を早くから、永い間型にはめて束縛し、創造性や全人的な発展を阻害しているのではないだろうか。
5) ここで、アングロサクソン系の大学では、 自由、平等、博愛を掲げているものの 奇妙にも知的階層の固定化で、多難な入試の努力を必要とせずに 大学に進学でき、 余裕を持っている事情があるのではないだろうか。 その代り、優秀な人材を補給すべく広く世界から集めている事情がある。ここでも、日本には、ドイツ流の教育制度が 国情に合っていると考えられる。
6) 簡単に述べれば、理想と考えられるのは、教育本来の教育に専念し、特別な入試勉強をせず、多様な大学に人材が、富士山型ではなく 八ツガ岳方式に展開し、多様な在り様を展開することである。 その意味でも、共通テスト以前の方式の方が 多様性の観点からも良いのではないだろうか。
7) 大きな社会に活力を与えるのには、多様な価値、多様性の重視が必要である。 創造性も、そのような多様性の中から、より生まれる基礎ができると考える。
8) 大学院を出るころには、既に疲れてしまっているような状況が有るように見える。 体力や、思想、情操教育、全人的な基礎をしっかりさせなければ、永い人生をうまく生きてはいけないのではないだろうか。

上記公正な受験といっても、現実には、特殊な高校や、学校で特殊な教育をうけた者だけが、良い大学に入れるような状況は、傾向は 一段と強まっていき、日本の教育界を 歪め、貧しい社会を 構成して行くのではないかと 危惧している。
学校も教師も、家族も できるだけ好きな 良い大学に 生徒や子弟を進学させたいとの思いは 当然であるから、 入学させる立場の大学や、文科省は 海外の状況なども参考にして、 大学受験制度が教育界に与える影響の大きさを自覚され、 絶えず、検討,改善を進めて頂きたいとの 希望を述べておきたい。
もちろん、社会も、いわばブランドで  画一的に 評価せず、 また多様な人材を採用、活用すべきではないだろうか。 社会でも組織でも 多様な人材がいた方が、 活力を有し、良いのではないだろうか。 公務員なども、 いろいろな評価によって、 いろいろな人材を積極的に採用するように 努力すべきではないだろうか。
以  上











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