2016年2月26日金曜日

再生核研究所声明289(2016.02.26)  終末の心得

再生核研究所声明289(2016.02.26)  終末の心得

8歳の少年から、巨大素数の構造に興味があると聞いたときには驚かされた。生まれながらの感性と言えるものも確かにあるように感じられる。思えば、子どもの頃 星空を見るのが好きで、宇宙の営みの壮大さと人間の生涯の儚さを知って、そもそも人生の意義とは何だろうかという疑問を懐いたが そのころから永い歳月が夢のように過ぎた。気づいてみれば、何の変化も、進歩というほどのこともなく、在るように感じられる。しかしながら、結局,人生とはどのようでも結局は同じようなものであるという心境にいたれば、 それはそれで相当に良い状況であると言える。それは生まれたからには、人生を肯定したいという 誰しも懐くであろう心境だからである。
宗教関係者は あるいは宗教や信仰に興味を懐く人は、いろいろ心の準備や人間の在り様の心構えを,あるいはそのための修行の必要性を感じるかも知れない。しかし 結局はみな同じようではないだろうか。心の在りようには個性があって それぞれに 自分に合ったように考えるのが良いのではないだろうか。
そこで、内省の状況について 心の持ちようについての最近の心境を表現してみたい。
まずは、神の概念を想起したい。人間はなにものかによって作られたものであり、人間は生まれる前も、終末の後も、気づいてみれば、生きている現在ですら、定かには分からず、ただ本能に従って生かされているだけである。生きているだけである。それはちょうど母親の懐にあって、ぼんやり生きているような存在である。真智への愛と言っても、求道と言っても 食欲などと本質的に変わらないと言える。そこでは 人間も、動物も、植物も、草木や花も みな同じような存在にみえる。それゆえに 人間は大きな 分からないものの懐の中で、大きな流れに流さられるように生きていくほかはないと言える。頼れるものとは、あらゆる基礎とは、帰するところ、曖昧な自分の心であると表現するほかはない。それゆえに われわれは良くは分からないが 大いなるものに愛されていると感じられる者は まこと幸せではないだろうか。心から祈り、祈れるものは幸せであるといえる。そのような意味で、古代人は幸せな存在であったともいえる。大自然とともに在ったからである。― 無明であるだけ、それだけ幸せな面が、明暗のようにあるように感じられる。
深い確信にいたらずとも、そもそも人類、地球といっても 所詮小さな 儚い存在であり、この世で拘るようなものは 何もない事実を、真実をしっかりと見つめれば、大きな自由を得て、安らかな終末を迎えられるのではないだろうか。そのとき、人生を、希なる機会として、肯定できるだろう。
そのような心境では、世界は より良く見えて、世の美しさと 人類の愚かさを実感できるのではないだろうか? 愚かな人類の世界史を恥ずかしく想起したい。
以 上
2016.2.22.15:35
2016.2.22.17:00
2016.2.22.20:30
2016.2.23.06:10 これは 大いなるものに帰依する心を述べているようである。
2016.2.23.15:00
2016.2.24.06:50 朝方、強い風、エネルギーを感じる
2016.2.24.10:20
2016.2.24.16:45
2016.2.25.06:10 雪は思ったより少ない。これは解脱のようなことを表現していて、このような心境は相当に難しいと感じた。
2016.2.25.13:40
2016.2.25.22:20
2016.2.26.05:55 青天、月の美しい朝,完成、公表










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