骨も墓もいらない0葬のすすめ なぜこんなに葬儀にお金がかかるのか
AERA 2016/02/23
_AK29488
無宗教の人が一番宗教と関わる瞬間、それは死に際した時だろう。葬儀のあり方に問題提起をしている宗教学者の島田裕巳さんに寄稿いただいた。
まだ正月気分の抜けない1月5日、新聞を開いてみたら、女優の樹木希林さんが死体になっていた。もちろん、彼女が実際に死んでしまったわけではない。ジョン・エヴァレット・ミレイの屈指の名作、「オフィーリア」の主人公に扮して、死体となって川に浮かんでいるのだ。樹木希林さんはがんであることを公表しており、この宝島社の企業広告に採用されたのも、それが関係することだろう。
広告の訴えるところは、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」というものである。広告文には、「人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい」とある。
この広告を見て私は、ドキュメンタリー映画としては異例のヒットを記録した「エンディングノート」のことを思い出した。
キリスト教はコスパいい
これは、監督の砂田麻美さんが、退職後にがん宣告を受けて死を迎えようとしている父親の姿を追った作品である。その父親は優秀なサラリーマンであったに違いなく、自らの死に至る準備の過程についても、仕事の段取りをつけていくような形で万事合理的に進めていく。
砂田さんのお父さんは、まさに「死ぬときぐらい好きにさせてよ」と、自らの死の準備をしていくのだが、彼の場合には、かなり徹底している。
一番それが表れているのが、「リーズナブル」であるという理由でカトリックに入信し、キリスト教徒となって葬られようとするところだ。
リーズナブルであるというのは、キリスト教式で葬られれば、仏教式の葬儀とは異なり、戒名料などの余計な費用を取られないからである。式場となる教会にお礼は必要だが、お寺に対する布施よりは安い。本人にキリスト教の信仰があるようには見えず、リーズナブルということがキリスト教を選んだ唯一の理由になっているように思えた。
これほど徹底して、自分の好きに死んでいった人も珍しいが、最近では、生きているうちに自分の死の準備をする「終活」なるものが流行している。
終活を行うときには、どういった葬儀にしたいか、どういう墓に葬られたいかを考え、死後の相続ということにも気を配る。世の中には遺産相続でもめる家族が少なくないからだ。知り合いの司法書士の話では、残す財産が少ないほどもめるという。財産が多ければ相続について事前に考えているが、少ないとそれを怠ってしまうからのようだ。
葬儀や墓について生前に考えておかなければならないと多くの人が感じるようになったのも、それには結構な金がかかるからである。現在、平均的な葬儀の場合、200万円近くがかかる(2014年の日本消費者協会の調査で平均約189万円)。
墓になると、どこに設けるかで大きく違うが、著名人の墓も多い、東京都営の青山霊園で1坪約890万円(1平方メートルあたり約270万円)。東京郊外にある多磨霊園でも1坪約290万円だ。
ごく最近では、通販大手のアマゾン経由で僧侶の手配サービスを申し込めるようになったことが話題になった。これは、葬儀に派遣するのではなく、一周忌などの年忌法要に派遣するものだが、売りは布施を含めた派遣の費用が定額の3万5千円になっているところにある。
法要を頼む側からすれば、いったいいくら布施をしたらいいのかが分からない。このサービスはそうした不安を解消してくれるものだが、仏教界からは、「宗教をビジネスにしている」という反発が起こっている。
これは、スーパーマーケット大手のイオンが葬祭業に進出したときにも起こったことである。イオンも布施の目安を示し、それで仏教界から抗議を受けた。
しかし、今でもイオンのホームページには目安が載っている。しかも、葬儀に関して、イオンは別会社を作り、さらに本気で事業を進めている。
火葬普及で高額に
日本で葬儀に金がかかるようになった大きな原因は、火葬の普及である。日本は世界屈指の火葬大国で、最近ではほぼ百パーセントが火葬されている。
土葬の時代には、村に葬式組があり、それが葬儀万端を取りしきってくれた。基本は葬列を組んで村の共同墓地に棺桶に入った遺体を運び、そこに穴を掘って埋葬することだった。この仕組みだと、業者が介在しないので、葬儀には金がかからない。
ところが日本では火葬が広まることで火葬費用がかかり、葬儀費用が高くなった。また、それまで共同体が葬儀を担っていたがそれが崩れることで葬祭業者が介入することになり、相当に金がかかるようになった。自宅ではなく、葬祭会館で行うようになったことも大きい。土葬時代には、金のかかる葬儀を営むのは、よほどの名士か金持ちに限られ、庶民は費用を心配する必要などまるでなかった。
しかも火葬では、土葬では残らなかった遺骨を改めて墓に葬るということが必要になる。遺体もそうだが、遺骨は認可を受けた墓地にしか葬れないと法律で定められているからだ。
海外では、まだ土葬がかなりの割合を占めているが、そうした場合、葬儀というのは埋葬と同義で、墓地に掘った埋葬用の穴の周囲で儀式を営むだけである。映画でよく見る光景だが、これは、キリスト教でもイスラム教でも共通する。
最近、海外でもしだいに火葬が広まってきているが、火葬した骨はこまかく砕き、それを火葬場に設けられた散骨のためのスペースに撒いてしまうことが多い。遺骨を骨壺に入れて墓に埋葬する日本のやり方は、世界から見ればかなり特殊である。
ここのところ、参列者の少ない「家族葬」がポピュラーな葬儀のやり方として定着し、火葬場に直行して、通夜や葬儀を行わない「直葬」が増えているのも、リーズナブルな葬儀をめざすケースが大幅に増えているからだ。
最後の問題は遺骨
これからもその傾向は続くだろうが、最後の問題は遺骨をどうするかだ。墓が厄介なのは、金がかかるということもあるが、もう一つ墓守を確保しなければならないところにある。
そのため、今や一般的な墓を造る家は激減し、代わりに、あらかじめ一定の費用を支払っておけば、管理料を支払わないでも寺の側が供養を続けてくれる「永代供養墓」が流行している。都営の谷中霊園の立体埋蔵施設の場合、3体まで埋蔵可能で使用料は54万2千円。イオンの葬儀サイトでは、3万円台から紹介されている。
そこには、少子化によって墓守の確保が難しくなった上に、高齢者が子どもにはそうしたことで迷惑をかけたくないと思う人が増えたという事情がある。
永代供養墓だと、供養は続くが、誰も墓参りに訪れないという事態になりやすい。それは、いささか虚しいことのように思われるが、土葬の時代なら、埋葬したら終わりで、故人の遺骨を供養の対象になどしなかった。遺骨を拝むのは、火葬が普及した結果である。
墓を造らない「0葬」
ならば、いっそ遺骨は火葬場に引き取ってもらい、墓を造らなければいいのではないか。私が提案している「0葬」は、そういうやり方だ。そんなことができるのかと思われるかもしれないが、欧米では遺骨を引き取るかどうかは遺族の意思に任されている。
日本でも、東日本では遺骨をすべて持ち帰る「全骨収骨(拾骨)」だが、西日本では「部分収骨」で、全体の3分の1、あるいは4分の1程度しか持ち帰らず、残りは火葬場で処分される。
確かに多くの火葬場では遺骨を引き取ることが原則になっているが、遺骨を遺族が引き取らなくてもよいという火葬場もある。考えてみれば、部分収骨では、遺骨の半分以上は火葬場で処分されているわけなので、全部を処分してもらっても構わないわけである。東日本にも、一部だが、そういう火葬場があり、私の知っている葬儀社では、0葬のプランを設けているところもある。
直葬にした上、0葬では寂しいと感じる人もいるかもしれない。だが、そのときにはすでに本人は死んでいるわけで、寂しさを感じるわけではない。すべては生きている人間の想像力によるもので、土葬されることを考えると、寂しいどころか恐ろしいと感じる人もいるだろう。
逆に、イスラム教では、火葬は地獄の火に灼かれるようだと考え、必ず土葬を選択する。イスラム教の国には、そもそも火葬場がない。
その点では、樹木希林さんの広告にあったような美しく死にたいという願望も、生きている人間の勝手な妄想であるとも言える。もっとも想像力や妄想は必要であり、死んだら無になる、塵になると考えるよりも、天国や極楽に行けるのだと考えていた方が、やはりやすらかに死んでいけるにちがいない。
私の母は、もう88歳になり、しっかりと生活はできているが、少々ぼけてきた。それを見ていると、人間死ぬには少しくらいぼけていた方がいいのかもしれないと思ったりする。まったくぼけずに死と直面すれば、やはり恐怖を感じるだろう。
ぼけて死ぬ。それが、現代にふさわしい死生観かもしれない。
(文:宗教学者 島田裕巳、写真:AERA写真部 岸本絢)
AERA 2016年1月25日号https://newspicks.com/news/1410135/body/
再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。
ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。
以 上
ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????
再生核研究所声明225(2015.4.23)偉大な数ゼロ ―ゼロの教え
(最近、急に気に成り出した心境で、本声明は 1種の悟りの心得に通じるので、概ね退職された人向きと言える。)
ゼロ除算の結果は、直角双曲線関数 y=1/x の原点における値が ゼロであると言っている。それは、まるで、原点でゼロが正の量と負の量に 爆発して双方に広がっているようである。その様は現代物理学の学説、ビッグバン、すなわち、宇宙はあるとき、無から爆発によって突然現れ、その爆発の続きが続いているという。 無からの発生は、プラス、マイナス、とで合わせてゼロで、無からの発生はおかしいとも言えないという。これは、全体としてゼロとして釣り合っていることを意味する。universe が全体として ゼロとして釣り合っているということは 奇妙にも我々の心に響くものがある。
苦労しただけ、喜びが湧くのでは?
明るい面があるだけ、暗い面があるのでは?
ゼロは基準値であり、長命な生物も短命な生物も、 長命な人生も、短命な人生も同じようなものではないだろうか?
幼いころ、麦畑の上でひばりのさえずる情景を見たのを想い出す。 飛び立っては天高くまい上がり、やがて巣に戻る。 地平ゼロから始まって地平ゼロに帰する。永くさえずっていても、短くても結局同じではないか。 人間も誕生して、結局は元に戻る。結局、みんな同じようではないだろうか。 人生の長短など本質的には問題では無くて、みんな同じようではないだろうか。 ゼロから始まってゼロに帰する、ゼロとは そのようなものではないだろうか。
他方、ゼロ除算の複素版は、平面上では どのような方向でも どんどん原点から遠ざかれば、無限遠点の1点に行くが、 その無限遠点は、突然、原点に戻っている ことを述べている。これは結局のところ、ゼロから始まってゼロに帰すること、すなわち、元に戻る universe の原理を教えているのではないだろうか。
本声明は、ゼロの心境が大事なこと を述べている。
また、始めが大事であること を述べている。
以 上
AERA 2016/02/23
_AK29488
無宗教の人が一番宗教と関わる瞬間、それは死に際した時だろう。葬儀のあり方に問題提起をしている宗教学者の島田裕巳さんに寄稿いただいた。
まだ正月気分の抜けない1月5日、新聞を開いてみたら、女優の樹木希林さんが死体になっていた。もちろん、彼女が実際に死んでしまったわけではない。ジョン・エヴァレット・ミレイの屈指の名作、「オフィーリア」の主人公に扮して、死体となって川に浮かんでいるのだ。樹木希林さんはがんであることを公表しており、この宝島社の企業広告に採用されたのも、それが関係することだろう。
広告の訴えるところは、「死ぬときぐらい好きにさせてよ」というものである。広告文には、「人は死ねば宇宙の塵芥。せめて美しく輝く塵になりたい」とある。
この広告を見て私は、ドキュメンタリー映画としては異例のヒットを記録した「エンディングノート」のことを思い出した。
キリスト教はコスパいい
これは、監督の砂田麻美さんが、退職後にがん宣告を受けて死を迎えようとしている父親の姿を追った作品である。その父親は優秀なサラリーマンであったに違いなく、自らの死に至る準備の過程についても、仕事の段取りをつけていくような形で万事合理的に進めていく。
砂田さんのお父さんは、まさに「死ぬときぐらい好きにさせてよ」と、自らの死の準備をしていくのだが、彼の場合には、かなり徹底している。
一番それが表れているのが、「リーズナブル」であるという理由でカトリックに入信し、キリスト教徒となって葬られようとするところだ。
リーズナブルであるというのは、キリスト教式で葬られれば、仏教式の葬儀とは異なり、戒名料などの余計な費用を取られないからである。式場となる教会にお礼は必要だが、お寺に対する布施よりは安い。本人にキリスト教の信仰があるようには見えず、リーズナブルということがキリスト教を選んだ唯一の理由になっているように思えた。
これほど徹底して、自分の好きに死んでいった人も珍しいが、最近では、生きているうちに自分の死の準備をする「終活」なるものが流行している。
終活を行うときには、どういった葬儀にしたいか、どういう墓に葬られたいかを考え、死後の相続ということにも気を配る。世の中には遺産相続でもめる家族が少なくないからだ。知り合いの司法書士の話では、残す財産が少ないほどもめるという。財産が多ければ相続について事前に考えているが、少ないとそれを怠ってしまうからのようだ。
葬儀や墓について生前に考えておかなければならないと多くの人が感じるようになったのも、それには結構な金がかかるからである。現在、平均的な葬儀の場合、200万円近くがかかる(2014年の日本消費者協会の調査で平均約189万円)。
墓になると、どこに設けるかで大きく違うが、著名人の墓も多い、東京都営の青山霊園で1坪約890万円(1平方メートルあたり約270万円)。東京郊外にある多磨霊園でも1坪約290万円だ。
ごく最近では、通販大手のアマゾン経由で僧侶の手配サービスを申し込めるようになったことが話題になった。これは、葬儀に派遣するのではなく、一周忌などの年忌法要に派遣するものだが、売りは布施を含めた派遣の費用が定額の3万5千円になっているところにある。
法要を頼む側からすれば、いったいいくら布施をしたらいいのかが分からない。このサービスはそうした不安を解消してくれるものだが、仏教界からは、「宗教をビジネスにしている」という反発が起こっている。
これは、スーパーマーケット大手のイオンが葬祭業に進出したときにも起こったことである。イオンも布施の目安を示し、それで仏教界から抗議を受けた。
しかし、今でもイオンのホームページには目安が載っている。しかも、葬儀に関して、イオンは別会社を作り、さらに本気で事業を進めている。
火葬普及で高額に
日本で葬儀に金がかかるようになった大きな原因は、火葬の普及である。日本は世界屈指の火葬大国で、最近ではほぼ百パーセントが火葬されている。
土葬の時代には、村に葬式組があり、それが葬儀万端を取りしきってくれた。基本は葬列を組んで村の共同墓地に棺桶に入った遺体を運び、そこに穴を掘って埋葬することだった。この仕組みだと、業者が介在しないので、葬儀には金がかからない。
ところが日本では火葬が広まることで火葬費用がかかり、葬儀費用が高くなった。また、それまで共同体が葬儀を担っていたがそれが崩れることで葬祭業者が介入することになり、相当に金がかかるようになった。自宅ではなく、葬祭会館で行うようになったことも大きい。土葬時代には、金のかかる葬儀を営むのは、よほどの名士か金持ちに限られ、庶民は費用を心配する必要などまるでなかった。
しかも火葬では、土葬では残らなかった遺骨を改めて墓に葬るということが必要になる。遺体もそうだが、遺骨は認可を受けた墓地にしか葬れないと法律で定められているからだ。
海外では、まだ土葬がかなりの割合を占めているが、そうした場合、葬儀というのは埋葬と同義で、墓地に掘った埋葬用の穴の周囲で儀式を営むだけである。映画でよく見る光景だが、これは、キリスト教でもイスラム教でも共通する。
最近、海外でもしだいに火葬が広まってきているが、火葬した骨はこまかく砕き、それを火葬場に設けられた散骨のためのスペースに撒いてしまうことが多い。遺骨を骨壺に入れて墓に埋葬する日本のやり方は、世界から見ればかなり特殊である。
ここのところ、参列者の少ない「家族葬」がポピュラーな葬儀のやり方として定着し、火葬場に直行して、通夜や葬儀を行わない「直葬」が増えているのも、リーズナブルな葬儀をめざすケースが大幅に増えているからだ。
最後の問題は遺骨
これからもその傾向は続くだろうが、最後の問題は遺骨をどうするかだ。墓が厄介なのは、金がかかるということもあるが、もう一つ墓守を確保しなければならないところにある。
そのため、今や一般的な墓を造る家は激減し、代わりに、あらかじめ一定の費用を支払っておけば、管理料を支払わないでも寺の側が供養を続けてくれる「永代供養墓」が流行している。都営の谷中霊園の立体埋蔵施設の場合、3体まで埋蔵可能で使用料は54万2千円。イオンの葬儀サイトでは、3万円台から紹介されている。
そこには、少子化によって墓守の確保が難しくなった上に、高齢者が子どもにはそうしたことで迷惑をかけたくないと思う人が増えたという事情がある。
永代供養墓だと、供養は続くが、誰も墓参りに訪れないという事態になりやすい。それは、いささか虚しいことのように思われるが、土葬の時代なら、埋葬したら終わりで、故人の遺骨を供養の対象になどしなかった。遺骨を拝むのは、火葬が普及した結果である。
墓を造らない「0葬」
ならば、いっそ遺骨は火葬場に引き取ってもらい、墓を造らなければいいのではないか。私が提案している「0葬」は、そういうやり方だ。そんなことができるのかと思われるかもしれないが、欧米では遺骨を引き取るかどうかは遺族の意思に任されている。
日本でも、東日本では遺骨をすべて持ち帰る「全骨収骨(拾骨)」だが、西日本では「部分収骨」で、全体の3分の1、あるいは4分の1程度しか持ち帰らず、残りは火葬場で処分される。
確かに多くの火葬場では遺骨を引き取ることが原則になっているが、遺骨を遺族が引き取らなくてもよいという火葬場もある。考えてみれば、部分収骨では、遺骨の半分以上は火葬場で処分されているわけなので、全部を処分してもらっても構わないわけである。東日本にも、一部だが、そういう火葬場があり、私の知っている葬儀社では、0葬のプランを設けているところもある。
直葬にした上、0葬では寂しいと感じる人もいるかもしれない。だが、そのときにはすでに本人は死んでいるわけで、寂しさを感じるわけではない。すべては生きている人間の想像力によるもので、土葬されることを考えると、寂しいどころか恐ろしいと感じる人もいるだろう。
逆に、イスラム教では、火葬は地獄の火に灼かれるようだと考え、必ず土葬を選択する。イスラム教の国には、そもそも火葬場がない。
その点では、樹木希林さんの広告にあったような美しく死にたいという願望も、生きている人間の勝手な妄想であるとも言える。もっとも想像力や妄想は必要であり、死んだら無になる、塵になると考えるよりも、天国や極楽に行けるのだと考えていた方が、やはりやすらかに死んでいけるにちがいない。
私の母は、もう88歳になり、しっかりと生活はできているが、少々ぼけてきた。それを見ていると、人間死ぬには少しくらいぼけていた方がいいのかもしれないと思ったりする。まったくぼけずに死と直面すれば、やはり恐怖を感じるだろう。
ぼけて死ぬ。それが、現代にふさわしい死生観かもしれない。
(文:宗教学者 島田裕巳、写真:AERA写真部 岸本絢)
AERA 2016年1月25日号https://newspicks.com/news/1410135/body/
再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。
ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。
以 上
ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・
地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか????
1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????
再生核研究所声明225(2015.4.23)偉大な数ゼロ ―ゼロの教え
(最近、急に気に成り出した心境で、本声明は 1種の悟りの心得に通じるので、概ね退職された人向きと言える。)
ゼロ除算の結果は、直角双曲線関数 y=1/x の原点における値が ゼロであると言っている。それは、まるで、原点でゼロが正の量と負の量に 爆発して双方に広がっているようである。その様は現代物理学の学説、ビッグバン、すなわち、宇宙はあるとき、無から爆発によって突然現れ、その爆発の続きが続いているという。 無からの発生は、プラス、マイナス、とで合わせてゼロで、無からの発生はおかしいとも言えないという。これは、全体としてゼロとして釣り合っていることを意味する。universe が全体として ゼロとして釣り合っているということは 奇妙にも我々の心に響くものがある。
苦労しただけ、喜びが湧くのでは?
明るい面があるだけ、暗い面があるのでは?
ゼロは基準値であり、長命な生物も短命な生物も、 長命な人生も、短命な人生も同じようなものではないだろうか?
幼いころ、麦畑の上でひばりのさえずる情景を見たのを想い出す。 飛び立っては天高くまい上がり、やがて巣に戻る。 地平ゼロから始まって地平ゼロに帰する。永くさえずっていても、短くても結局同じではないか。 人間も誕生して、結局は元に戻る。結局、みんな同じようではないだろうか。 人生の長短など本質的には問題では無くて、みんな同じようではないだろうか。 ゼロから始まってゼロに帰する、ゼロとは そのようなものではないだろうか。
他方、ゼロ除算の複素版は、平面上では どのような方向でも どんどん原点から遠ざかれば、無限遠点の1点に行くが、 その無限遠点は、突然、原点に戻っている ことを述べている。これは結局のところ、ゼロから始まってゼロに帰すること、すなわち、元に戻る universe の原理を教えているのではないだろうか。
本声明は、ゼロの心境が大事なこと を述べている。
また、始めが大事であること を述べている。
以 上
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