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梅木雄平2016年02月13日 13:11noteに怯える書籍編集者たち
noteを運営するピース・オブ・ケイクCEO加藤氏に取材した際に「noteは出版社の敵だとは思われたくない。共存できると信じている」とおっしゃっていましたが、後日書籍編集者と食事する機会があった際に「noteが脅威すぎてやばい」という話をされていました。
私自身、最近とある雑誌の寄稿依頼があり、それ単体で稼ごうとは思っておらず、PRの一環ということでお受けしましたが、原稿料は1本2万円程度。同じ内容をnoteで出せば、最低2万円分は売れそうだなと感じました。よって、経済的には雑誌に寄稿することで、収益機会をロスしているという見方ができます。
その雑誌の発行部数は知りませんが、1-2万部はないのではないかと。数千人が読んでくれるかも。とか、普段自分がリーチできない読者層にリーチ出来ると思って(実際に、宣伝会議への寄稿を読んだと言われて、ワンショットコンサルの依頼が来たことがある)寄稿したわけですが、雑誌や他媒体へ寄稿するのは、原稿料のみというビジネスモデルでは成り立たず、露出による副次的な効果(講演やコンサル料の高騰)まで見越せないと、ROIが悪い上に、副次的効果は不確実性が高い。
私も東カレWEBという媒体で寄稿者を募って実際に編集担当もしている立場なので、媒体側の気持ちはけっこうわかるつもりなのですが、それでもあえて言わせてもらうと、(特に紙)媒体という存在には傲慢さを感じます。
うちで書けばあなたのブランディングになるでしょ?だから原稿料は安くても我慢してね。
そんな心理が見え見えなのです。実際に(雀の涙程度の)ブランディングにはなるでしょうし、媒体側に予算がなくて高額の原稿料を支払えない構造にあることはわかっています。紙が売れた時代よりも予算はどんどん減っているのでしょう。
しかし、著名な作家はすでにブランディングがそれなりに出来上がっているわけで、ブランディングの必要がないところに、安い原稿料で書くという場合、一体どこにメリットがあるのでしょうか?よほど優秀な編集者によって、自分一人では生み出せない文章ができる。くらいしかメリットを感じません。
もちろん、全くの無名の作家が媒体に寄稿し、名前を上げていくという戦略は未だに機能します。無名の人がいくら良い作品を書いても、noteでいきなり売れることはあまりないでしょう。その人が売れるようになるためには、媒体や出版社を通した書籍のプロモーション力を借りることで、流通を補完します。
私は自身を「著名な作家」と自負するつもりはありませんが、それでもnoteでも書けば過去数冊の実績から、媒体から受け取る原稿料よりは稼げるのではないかと思っています。テーマ次第ではありますが。
作家にとって、コンテンツで稼ぐというのは、今までは媒体への寄稿による原稿料か、書籍での印税を指していました。しかし、note一発で数十万円の手取りを得られる体験を何度もしてしまうと(梅木直近note売上は過去参照)一発であればマグレでしょうが、それなりの再現性があると思うと、媒体や出版社に頼る必要がどんどん希薄化していき、作家にとっての媒体や出版社の価値がどんどん低下していきます。
☆2016.2.13現在梅木note売上
2015年資金調達前編3,000円×414冊=124.2万
2015年資金調達前編5,000円×145冊=72.5万
スタートアップ転職10,000円×58冊=58万
合計=254.7万
このトレンドを先述の書籍編集者は把握しており、直感的に「やばい」と感じているのでしょう。
しかし、noteで最近売れている人たちと、従来の作家は大きな違いがあります。前者の人々はネットネイティブなため、企画・制作・流通を一人で全て担えることが多い。後者は基本的に制作に強く、企画も自身で担うか編集者と詰めるのでしょうが、流通の力はありません。しかし、村上春樹レベルの著名作家となると、ソーシャルで「やれやれ」とつぶやくだけで、多くのRTがあるでしょうし、彼の期間限定のHPも活況でした。よって、彼がnoteで売っても十分な流通の力があり、何十万冊単位の販売が可能でしょう。
☆仮説:村上春樹新作「やれやれ」の収益予測
価格:800円
販売部数:50万部
売上:4億
note印税率:85%
春樹note手取り:3.4億
従来の書籍印税率:10%
春樹書籍手取り:0.4億
85%と10%の違いは大きいですよね。仮に6万部しか売れなくても、noteで売った場合の手取りは0.408億で、書籍で50万部売るよりnoteで6万部売った方が、著者にとっての印税は大きい。
もちろん、世の中には専業作家としてバンバンヒットを飛ばしている作家だらけではありません。失意のどん底にある著名人に書籍を作らせるような、収益のためならゴシップを活かさない手はないぜという編集者によって生み出されるヒット作品もあるでしょう。
収益構造的にはnoteに圧倒的に分があるので、名がある作家ほどnoteに参入してくるはずです。よほどの紙至上主義者や先見性のない人以外は、もう出版社経由で書籍を出すインセンティブがありません。加藤さんは「共存できる」とおっしゃっていますが、いちプレイヤーの私からすると、今出版社から「書籍出してくれ」とオファーが来ても、よほど良い編集者によるプロデュースがあるという条件がない限りは受けないでしょう。
そうした有能な編集者ほど、フリーになっても通用する実力をお持ちでしょうから、出版社に縛られ続ける必要がありません。編集力に自信のある方ほど、独立して作家に企画を持ちかけ、「一緒にnote作りましょうよ!(私には売上の10%くらいちょうだいね!)」とやっていけば良いのです。
本来は編集者もnoteの波に怯える必要はなく、個人の力量を如何なく発揮できる良い機会と捉えれば良いはず。我々書き手は出版社ではなく良い編集者ベースで組む相手を選んでいく潮流がより強まるでしょう。
一見ピンチに見えることは、捉え方次第では大きなチャンスです。
その波にいち早く乗ることが、勝者の条件ではないでしょうか。ファーストムーバーとして勝った経験があるものあればあるほど、その重要性を身に染みて感じているので、早く動けるのです。http://blogos.com/article/160551/
再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
本(ほん、英: book)は書物の一種であり、書籍・雑誌などの印刷・製本された出版物である。
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは, 視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上
梅木雄平2016年02月13日 13:11noteに怯える書籍編集者たち
noteを運営するピース・オブ・ケイクCEO加藤氏に取材した際に「noteは出版社の敵だとは思われたくない。共存できると信じている」とおっしゃっていましたが、後日書籍編集者と食事する機会があった際に「noteが脅威すぎてやばい」という話をされていました。
私自身、最近とある雑誌の寄稿依頼があり、それ単体で稼ごうとは思っておらず、PRの一環ということでお受けしましたが、原稿料は1本2万円程度。同じ内容をnoteで出せば、最低2万円分は売れそうだなと感じました。よって、経済的には雑誌に寄稿することで、収益機会をロスしているという見方ができます。
その雑誌の発行部数は知りませんが、1-2万部はないのではないかと。数千人が読んでくれるかも。とか、普段自分がリーチできない読者層にリーチ出来ると思って(実際に、宣伝会議への寄稿を読んだと言われて、ワンショットコンサルの依頼が来たことがある)寄稿したわけですが、雑誌や他媒体へ寄稿するのは、原稿料のみというビジネスモデルでは成り立たず、露出による副次的な効果(講演やコンサル料の高騰)まで見越せないと、ROIが悪い上に、副次的効果は不確実性が高い。
私も東カレWEBという媒体で寄稿者を募って実際に編集担当もしている立場なので、媒体側の気持ちはけっこうわかるつもりなのですが、それでもあえて言わせてもらうと、(特に紙)媒体という存在には傲慢さを感じます。
うちで書けばあなたのブランディングになるでしょ?だから原稿料は安くても我慢してね。
そんな心理が見え見えなのです。実際に(雀の涙程度の)ブランディングにはなるでしょうし、媒体側に予算がなくて高額の原稿料を支払えない構造にあることはわかっています。紙が売れた時代よりも予算はどんどん減っているのでしょう。
しかし、著名な作家はすでにブランディングがそれなりに出来上がっているわけで、ブランディングの必要がないところに、安い原稿料で書くという場合、一体どこにメリットがあるのでしょうか?よほど優秀な編集者によって、自分一人では生み出せない文章ができる。くらいしかメリットを感じません。
もちろん、全くの無名の作家が媒体に寄稿し、名前を上げていくという戦略は未だに機能します。無名の人がいくら良い作品を書いても、noteでいきなり売れることはあまりないでしょう。その人が売れるようになるためには、媒体や出版社を通した書籍のプロモーション力を借りることで、流通を補完します。
私は自身を「著名な作家」と自負するつもりはありませんが、それでもnoteでも書けば過去数冊の実績から、媒体から受け取る原稿料よりは稼げるのではないかと思っています。テーマ次第ではありますが。
作家にとって、コンテンツで稼ぐというのは、今までは媒体への寄稿による原稿料か、書籍での印税を指していました。しかし、note一発で数十万円の手取りを得られる体験を何度もしてしまうと(梅木直近note売上は過去参照)一発であればマグレでしょうが、それなりの再現性があると思うと、媒体や出版社に頼る必要がどんどん希薄化していき、作家にとっての媒体や出版社の価値がどんどん低下していきます。
☆2016.2.13現在梅木note売上
2015年資金調達前編3,000円×414冊=124.2万
2015年資金調達前編5,000円×145冊=72.5万
スタートアップ転職10,000円×58冊=58万
合計=254.7万
このトレンドを先述の書籍編集者は把握しており、直感的に「やばい」と感じているのでしょう。
しかし、noteで最近売れている人たちと、従来の作家は大きな違いがあります。前者の人々はネットネイティブなため、企画・制作・流通を一人で全て担えることが多い。後者は基本的に制作に強く、企画も自身で担うか編集者と詰めるのでしょうが、流通の力はありません。しかし、村上春樹レベルの著名作家となると、ソーシャルで「やれやれ」とつぶやくだけで、多くのRTがあるでしょうし、彼の期間限定のHPも活況でした。よって、彼がnoteで売っても十分な流通の力があり、何十万冊単位の販売が可能でしょう。
☆仮説:村上春樹新作「やれやれ」の収益予測
価格:800円
販売部数:50万部
売上:4億
note印税率:85%
春樹note手取り:3.4億
従来の書籍印税率:10%
春樹書籍手取り:0.4億
85%と10%の違いは大きいですよね。仮に6万部しか売れなくても、noteで売った場合の手取りは0.408億で、書籍で50万部売るよりnoteで6万部売った方が、著者にとっての印税は大きい。
もちろん、世の中には専業作家としてバンバンヒットを飛ばしている作家だらけではありません。失意のどん底にある著名人に書籍を作らせるような、収益のためならゴシップを活かさない手はないぜという編集者によって生み出されるヒット作品もあるでしょう。
収益構造的にはnoteに圧倒的に分があるので、名がある作家ほどnoteに参入してくるはずです。よほどの紙至上主義者や先見性のない人以外は、もう出版社経由で書籍を出すインセンティブがありません。加藤さんは「共存できる」とおっしゃっていますが、いちプレイヤーの私からすると、今出版社から「書籍出してくれ」とオファーが来ても、よほど良い編集者によるプロデュースがあるという条件がない限りは受けないでしょう。
そうした有能な編集者ほど、フリーになっても通用する実力をお持ちでしょうから、出版社に縛られ続ける必要がありません。編集力に自信のある方ほど、独立して作家に企画を持ちかけ、「一緒にnote作りましょうよ!(私には売上の10%くらいちょうだいね!)」とやっていけば良いのです。
本来は編集者もnoteの波に怯える必要はなく、個人の力量を如何なく発揮できる良い機会と捉えれば良いはず。我々書き手は出版社ではなく良い編集者ベースで組む相手を選んでいく潮流がより強まるでしょう。
一見ピンチに見えることは、捉え方次第では大きなチャンスです。
その波にいち早く乗ることが、勝者の条件ではないでしょうか。ファーストムーバーとして勝った経験があるものあればあるほど、その重要性を身に染みて感じているので、早く動けるのです。http://blogos.com/article/160551/
再生核研究所声明231(2015.5.22)本を書く人の気持ち、読む人の気持ち ― 本とは何か
(最近、立て続けに良い本を紹介されて 読書して、何のために読書するのだろうかと考え、そもそも本とは何だろうかと想った。そこで、本について思いのままに述べたい。)
まず、本とは何のために存在するのだろうか。本とは何だろうか。まず、定義をウィキペディアで確かめて置こう:
本(ほん、英: book)は書物の一種であり、書籍・雑誌などの印刷・製本された出版物である。
狭義では、複数枚の紙が一方の端を綴じられた状態になっているもの。この状態で紙の片面をページという。本を読む場合はページをめくる事によって次々と情報を得る事が出来る。つまり、狭義の本には巻物は含まれない。端から順を追ってしかみられない巻物を伸ばして蛇腹に折り、任意のページを開ける体裁としたものを折り本といい、折本の背面(文字の書かれていない側)で綴じたものが狭義の「本」といえる。本文が縦書きなら右綴じ、本文が横書きなら左綴じにする。また、1964年のユネスコ総会で採択された国際的基準は、「本とは、表紙はページ数に入れず、本文が少なくとも49ページ以上から成る、印刷された非定期刊行物」と、定義している。5ページ以上49ページ未満は小冊子として分類している[1]。
本には伝えるべき情報が入っていて、人に伝える働きがあることは認められるだろう。そこで、本を書く立場と本を読んで情報を得る立場が 存在する。この声明の主旨は本の体裁や形式ではなく 本質的なことに関心がある。
何故本を書くか? 記録を残して伝えたい、これは生命の根源である共感、共鳴を求める人間存在の原理に根ざしていると考えられるが、伝えたい内容は、心情的な面と相当に客観性のある情報、記録、事実の表現にゆるく分けられるのではないだろうか。事実の記録、記述として ユークリッド原論のように数学的な事実、理論を 感情を入れずに客観的に述べているのは典型的な例ではないだろうか。様々な記録が本になっている場合は多い。マニュアルや辞書なども、そう言えるのではないだろうか。他方、多くの小説や物語、手記、論説、学術書、回想記などは 相当な主観や感情が表現されていて、いわば自己表現の性格の強いものが 世に多い。ここでは、主として、後者に属する本を想定している。
このような状況で、書く人の立場と、それを読む立場について、考察したい。
書く人は書きたい存念が湧いて書く訳であるが、共感、共鳴を求めて、いわば生命の表現として 絵描きが絵を描くように、作曲家が作曲するように 書くと考えられる。意見表明などは明確な内容を有し、主張を理解できる場合は多いが、詩や短歌などは より情感が強く現れる。この部分で最も言いたいことは、我々の感性も 心もどんどん時間と共に環境とともに 変化していくという事実である。従って著者がシリーズや 複数の本を出版しても、著者の書いた状況によって、相当に変化して行くということである。 若い時代に 恋愛小説を書いたり、人生についての想いを書いたものが、後になっては、とても読めない心情になる事は 相当に普遍的な状況のようにみえる。作者の心情、感性、心がどんどん変化していることをしっかりと捉えたい。
しかしながら、本は多く宣言されているように 永年保存を基本とするような、何時までも残る性格が有り、それゆえに書く者にとっては、後悔しないような、慎重さが要求されるのは 当然である。
次に如何に本を読むべきかの視点である。これは共感、共鳴したい、あるいは価値ある知識を入れたい、情報を得たい等、しっかりとした動機があるのは確かである。教科書や専門書、旅行案内書、辞書など、明確な動機を持つものは世に多く、そのような本の選択は多くの場合、易しいと言える。
ここで、特に触れたいのは、文芸書や小説、随筆など、著者の心情が現れている本などの選択の問題である。 現在、 本の種類はそれこそ、星の数ほどあり、本の選択は重大な問題になる。本には情報といろいろな世界が反映されているから、個人にとって価値あるものとは何かと真剣に、己に、心に尋ねる必要がある。いわゆる、物知りになっても いろいろな世界に触れても それが 私にとって 何になるのか と深く絶えず、問うべきである。知識や情報に振り回されないことは 大事ではないだろうか。
我々の時間には限りがあり、 我々の吸収できる情報も、触れられる世界にも大きな制限がある。
そこで、選択が重要な問題である。
本声明の結論は 簡単である。 本の選択をしっかりして、吸収するということである。
これは、自分に合ったものを探し、精選するということである。自分に合った著者のちょうど良い精神状態における本が良いのではないだろうか。社会にはいろいろな人間がいるから、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか。この文、自分に合った人を探し、そこを中心に考えれば 良いのではないだろうか は広く一般的な人間関係やいろいろな組織に加わる場合にでも大事な心得ではないだろうか。選択の重要性を言っている。上手い本に出会えれば、それだけ人生を豊かにできるだろう。
それらは、原則であるが、そうは言っても自分の好きなものばかりでは, 視野と世界を狭めることにもなるから、時には積極的に新規な世界に触れる重要性は 変化を持たせ、気持ちの転換をして、新規な感動をよびさますためにも大事ではないだろうか。 この点、次の声明が参考になるであろう:
再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること。
以 上
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