アメリカ大陸の発見
アメリカ大陸の発見(アメリカたいりくのはっけん)とは、特定の地「アメリカ大陸」に先史と有史の上で初めて実際に到達したことを指して言う歴史学等の分野の用語である。ただし、個々の文化圏によって「到達した事実」の捉え方・意味合いが異なり、したがって、(土地の)発見史というものは関連した文化圏の数だけ存在し得る。
目次 [非表示]
1 概説
2 個々の文化圏における発見
2.1 アメリカ州の先住民族
2.2 ノルマン人
2.3 ノルマン人以外のヨーロッパ人
2.4 ポリネシア人
3 上記以外の他の航海者
4 脚注
5 関連項目
概説[編集]
未知なる土地(ここでは大陸)の存在を概念として言い当てていても(通常の言葉ではそれも「発見」と言うが)実際に到達していなければこれを「(○○の地の)発見」とは呼ばない(cf. 発見#発見するということ)。その一方で、クリストファー・コロンブスがそうであるように、到達した地が新天地であると理解していなくとも(到達者が到達[発見]を認識していなくとも)事実として到達していれば、歴史上で「(○○の地を)発見した」と認められている。
個々の文化圏における発見[編集]
アメリカ州の先住民族[編集]
アメリカインディアン(アジア人種インディアン)、インディオを始めとするアメリカ州の先住民族は、アメリカ大陸に最初に居住した人類である可能性が高く、後期旧石器時代 (en) に属する紀元前12000年頃(cf. 紀元前10千年紀以前)、ヴュルム氷期(最終氷期。cf.)にベーリング地峡経由で陸路、アジア大陸からアメリカ大陸へ移動を果たしたと考えられている(別項「アラスカの歴史」も参照のこと)。彼らの移入によってアメリカ大陸の生物相(特に動物相)は以後、激変することになり、当地の環境全体に対して人類史上で最も大きな影響をもたらした出来事であったことは間違いない。
ノルマン人[編集]
詳細は「ノース人によるアメリカ大陸の植民地化」を参照
アイスランド系ノルマン人(ヴァイキングの一派)の航海者・レイフ・エリクソンとその船団は、10世紀の末(帰還した1000年より少し前)にアイスランドおよびグリーンランド経由で海路、アメリカ大陸に到達し、歴史時代の人類としては初めて新天地として発見した。東部海岸沿いに南下してニューファンドランド島などに進出し、ここを新天地「ヴィンランド」と呼んで定住を試みたものの、ほとんど世代を重ねることも無く入植は短期間のうちに頓挫している。
ノルマン人以外のヨーロッパ人[編集]
詳細は「ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化」を参照
ノルマン人以外のヨーロッパ人(日本語では俗に「西欧人」とも呼ばれるが、正確ではない)は、1492年、クリストファー・コロンブスによって初めてアメリカ海域に到達した。歴史時代においては後世に最も多大な影響を与えた探検事業である。1492年にコロンブスが到達したのはサン・サルバドル島であり、アメリカ大陸ではない。実際にアメリカ大陸に到達したのは1498年になってからである。
コロンブス以前にも、6世紀前期のクロンファートのブレンダン(事実であればレイフ・エリクソンよりさらに5世紀近く古い)や、1170年のウェールズ王子マドック (en) が到達していたという説もあるが、これらは伝説に色濃く装飾されて史実が判然としない。
11世紀ごろ、バスク人の漁師たちがクジラを追ってニューファンドランド沖、セントローレンス川の河口に至った時、タラの豊富な漁場を発見した。しかし、その秘密は他国の漁師に漁場を知られないよう保持されていた。16世紀にジャック・カルティエの探検隊がセントローレンス川を発見した時、そこではバスク人の漁船団が漁をしていたという[1]。
ポリネシア人[編集]
ポリネシアではコロンブス以前から南米大陸原産のサツマイモが栽培されており、ポリネシア人が南アメリカ大陸から持ち込んだと考えられている。クック諸島では紀元1000年前後の痕跡がある。現在の学説ではポリネシアには紀元700年頃に持ち込まれたと考えられている。よって、少なくともその当時以降ポリネシア人は南アメリカ大陸と交流が有ったと思われる。
上記以外の他の航海者[編集]
中国は明代の武将にして朝貢外交および貿易の航海責任者であった鄭和は、彼が率いる船団の分隊が15世紀初頭にアフリカ大陸東岸に到達しており、アメリカ大陸にもコロンブスより70年から80年ほど早く到達していたと主張する者も存在する。
脚注[編集]
^ マグロンヌ・トゥーサン=サマ 『世界食物百科』玉村豊男 翻訳監修、原書房、1998年、ISBN 4087603172、p.328
関連項目[編集]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E9%99%B8%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A6%8B
再生核研究所声明259 (2015.12.04) 数学の生態、旬の数学 ―ゼロ除算の勧め
数学とは何だろうかと問うてきたが(No.81, May 2012(pdf 432kb) www.jams.or.jp/kaiho/kaiho-81.pdf)違う観点から、はじめに数学の生態について外観して、ゼロ除算の研究の勧めを提案したい。
純粋数学の理論は 恰も人間とは無関係に存在して、まるで神の言語のように感じられるが、しかしながら、生活している人間、関与している人間、またそれらを支えている社会が数学の発展の行くすえ、成長の生態に反映されているのは事実である。実際、最も古く、超古典のユークリッド幾何学の発展、現状を見れば、数学の生態の様を見ることができる。その幾何学は 素朴に土地を測るという、現実の要求から生まれ、知的要求で言わば社会との関わりを有しないレベルまで発展して、膨大な理論体系が作られたが、現在では研究の専門家がいない程に確立した理論とされている。研究課題としては終わっていると考えられる。多くの数学も同様な経過を辿っている様を見ることができる。多くは物理学やいろいろな現象から新しい数学が生まれた例は多いが、ここは、素朴な数学の具体例、基本的な問題から、新しい数学が生まれ、発展して、やがて、細分化、孤立化した結果に至って 衰退している様を 数学の生態として捉えることができるだろう。社会との関係が薄く、興味を抱く人が少なくなれば、その数学は衰退すると ―すなわち 誰もやらなくなり、殆ど忘れされていくことになるだろう。この意味で、多くの数学も、花の命や人の一生のように 夢多き時期、華やいだ時期、衰退して行く時期といろいろな時期があると考えるのが妥当ではないだろうか。基本的で、新規な結果がどんどん展開されるときは、その数学の発展期で、活動期にあると考えられる.他方、他との関係が付かず、興味、関心を抱く者が少なくなれば、既に衰退期にあり、研究は労あって成果は小さいと言えよう。
数学を言わば輸入に頼っている国では、価値観も定かではなく、権威ある、あるいは数学の未解決問題の解明や小さな部分の形式的な拡張や精密化に力を入れている現実がある。見るだけでうんざりしてしまう論文は 世に多いと言える:
再生核研究所声明128 (2013.8.27): 数学の危機、 末期数学について
(特に純粋数学においては、考えられるものは何でも考える自由な精神で真理の追究を行なっているから(再生核研究所声明36:恋の原理と心得)、一旦方向が、課題が定まると、どんどん先に研究が進められる。基本的な精神は 内部における新しい概念と問題の発掘、拡張、すなわち一般化と精密化、そして他の数学との関係の追求などである。それらがどんどん進むと、理解出来る者、関心を抱く者がどんどん少なくなり、世界でも数人しか興味を抱く者がいないという状況になり、そのような状況は 今や珍しくはないと言える。 ― 興味以前に分からない、理解できないが 殆どであると言える。 また、何のための結果かと問われる結果が 現代数学の大部分を占めていると言えるだろう。特に数学内部の興味本位の結果は そのような状況に追い込まれ、数学の末期的状況の典型的な形相と言えるだろう。実際、相当なブームに成っていた数学の分野が、興味や関心を失い、世界でも興味を抱く者が殆どいなくなる分野は 結構実在する。それらの様は、さまざまな古代遺跡のように見えるだろう。― 夏草や兵どもが夢の跡(なつくさや つわものどもがゆめのあと):松尾芭蕉。
もちろん、数学は、時間によらないようであるから、オイラーの公式のように、基本的で美しく、いろいろ広く関係しているような結果は、普遍 (不変) 的な価値を 有すると言える。)
どの辺の数学に興味を抱くは、個人の好みであるが、最近考えられているゼロ除算は極めて初期の段階にあり、夢多き段階にあると見られので、広く世に状況を公表して、ゼロ除算の研究を推進したい。
ゼロ除算は、西暦628年インドでゼロが記録されて以来の発見で、全く未知の新しい数学、前人未到の新世界の発見である。すなわち、ゼロで割るは 不可能であるがゆえに 考えてはいけないとされてきたところ、ゼロで割ることができるとなったのであるから、全く未知の世界を探検できる。 既に数学的には確立され、物理的、幾何学的にも実証されている。 最近、素人にも分かるような例が結構発見されてきたので、 広く 世にそのような面白い新しい現象の発見を呼びかけたい。まず結果は、分数を拡張して、自然に100割るゼロを考えると、何でもゼロで割れば、ゼロで、面白いのは、どの様に考えを一般化しても、それに限ると言うことが証明されたことである。導入、動機、一意性、すなわち、それ以外の考えが無いこと、それらが、高校レベルの数学で、簡単に証明されたと言う事実である。出版された論文は、高校生にも十分理解できる内容である。具体的な結果は、関数y = 1/x のグラフは、原点で ゼロであると述べている。すなわち、 1/0=0 である。それらは 既に 数の実体である と言える。
― 要点は、上記直角双曲線は、原点で猛烈な不連続性を有し、爆発や衝突、コマで言えば、 中心の特異性などの現象を記述していることである。複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界であるが、無限遠点は 数値としては ゼロが対応する。
現在までに発見されたゼロ除算の実現例を簡単に列挙して置こう:
万有引力の法則で、2つの質点が一致すれば、引力はゼロである;一定の角速度で回転している回転体の中心で、角速度はゼロで、中心で不連続性を有している;光の輝度は 光源でゼロであること:円の中心の鏡像は 無限遠点ではなくて、中心そのものであるという強力な不連続性;電柱の微小な左右の揺れから、真っ直ぐに立った電柱の勾配はゼロであり、左右からマイナス無限とプラス無限の傾きの一致として、傾きゼロが存在している; 代数的には ゼロ除算z/0=0を含む簡単な体の構造が明らかにされ、数体系として自然な体系である複素数体より ゼロ除算z/0=0を含むY体 の方が自然であると考えられること; 点の曲率がゼロであること、などである。
さらに、原始的なテコの原理にもゼロ除算は明確に現れ、初等幾何学にも明確に現れ、例えば、半径Rの円をどんどん大きくすると,円の面積はいくらでも大きくなるが、半径が無限になると突然、その面積はゼロになることが認識された。 Rが無限になると円は直線になり、円は壊れて半空間になるからである。 このことの明確な意味が数学的に捉えられ、一般に図形が壊れる現象をゼロ除算は表していることが分かった。これらの現象は ゼロ除算が 普遍的に存在する現象を説明するもの と考えられる。
また、ゼロ除算において 無限遠点が 数値では ゼロで表されることは 驚嘆すべきことであり、それではuniverse は一体どうなっているのかと、真智への愛の 激しい情念が湧いてくるのではないだろうか。ゼロ除算は、数学ばかりではなく、物理学や世界観や文化にも大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算の最も関与している研究は まず 第1に複素解析学への影響、複素解析学の研究ではないだろうか。 実際、ゼロ除算は、ローラン展開そのものの見方から始まり、それは佐藤の超関数や特異積分などに関係している。
第2は、 ゼロ除算の物理学への影響である。 これは、ニュートンの万有引力の法則など多くの物理法則の公式に、ゼロ除算が現れているので、それらに対する新しい結果の解釈、影響である。
第3は ゼロ除算の代数的な、あるいは作用素論的な研究である。これらも始まったばかりであり、出版が確定している論文:
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y.Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the realand complex fields, Tokyo Journal of Mathematics {\bf 8}(2015), no.2 (in press).
がそれらの最先端である。
これらの分野では、誰でも先頭に立てる全く新しい研究分野と言える。
全く、新しい研究分野となると、若い人がやみくもに挑戦するのは危険だと考えるのは、 よく理解できるが、ある程度自己の研究課題が確立していて、多少の余裕がみいだせる方は、新しい世界を自分の研究課題と比較しながら、ちょっと覗いてみるかは、面白いのではないだろうか。思わぬ関係が出てくるのが、数学の研究の楽しさであると言える面は多い。アメリカ新大陸に初めて移った人たちの想い、 ピッツバーグの地域に初めて移住した人たちの想いを想像してみたい。ゼロ除算は 新しい数学である。専門家はいないから、多くの人が面白い現象を発見できる機会があると考えられる。
次も参考:
再生核研究所声明189(2014.12.233) ゼロ除算の研究の勧め
再生核研究所声明222(2015.4.8) 日本の代表的な数学として ゼロ除算の研究の推進を求める
再生核研究所声明253(2015.10.28) 私も探そう ―ゼロ除算z/0=0 の現象
以 上
追記: ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
再生核研究所声明189(2014.12.23) ゼロ除算の研究の勧め
再生核研究所声明185:
Announcement 185: The importance of the division by zero z/0=0
において、ゼロ除算の結果と意義について簡潔に纏めてみたが、ゼロ除算の研究を進める立場から、研究の魅力的な面について述べたい。
まず、そもそも研究とは何かを復習し、人生の意義を確認したい:
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―
すなわち、 真智を求めることは 人間として生きることにほかならない。しかるに、ほとんど当たり前の ゼロ除算が発見された経緯をみても、さらに、真実を知らされても、真智を求めない人は多く、実際には、人はそんなに 真智を求める精神が高いとは言えず、愚かな争いを続けてきている様をみても、人類がそんなには賢い生物でないことが分かるだろう(再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ ― 7つの視点)。逆に、自由が与えられて、 野生動物以下の面が少なくない(再生核研究所声明183(2014.11.27) 野生動物と人間)。大いに自戒したい。
しかしながら、ゼロ除算において 無限遠点が 数値では ゼロで表されることは 驚嘆すべきことであり、それではuniverse は一体どうなっているのかと、真智への愛の 激しい情念が湧いてくるのではないだろうか。ゼロ除算は、数学ばかりではなく、物理学や世界観や文化にも大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算の研究は 数学ばかりではなく、物理学や哲学の問題にも直結している。
ゼロ除算を数学の立場からみれば、西暦628年インドでゼロが記録されて以来の発見であるから、全く未知の新しい数学、前人未到の新世界の発見である。すなわち、ゼロで割るは 不可能であるゆえに 考えてはいけないとされてきたところ、ゼロで割ることができるとなったのであるから、それでは、そのとき、どのような世界が開かれてくるか、と全く未知の世界を探検できる。 現在、新しい結果は 出版済みの高校生にでも理解できる簡単な論文、
M. Kuroda, H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Yamane,
New meanings of the division by zero and interpretations on $100/0=0$ and on $0/0=0$, Int. J. Appl. Math. Vol. 27, No 2 (2014), pp. 191-198, DOI: 10.12732/ijam.v27i2.9.
と検討中の21ページの原稿
H. Michiwaki, S. Saitoh, and M. Takagi,
A new concept for the point at infinity and the division by zero z/0=0
(note).
のみである。現在、数学は高度化、深化、細分化して、難しいのに、ゼロ除算の研究はほとんど新しい数学で、基本的、初期の段階であるから、大いに素晴らしい基本的な研究ができる状況にあると言える。
ゼロ除算の最も関与している研究は まず 第1に複素解析学への影響、複素解析学の研究ではないだろうか。実際、ゼロ除算は、ローラン展開そのものの見方から始まり、それは佐藤の超関数や特異積分などに関係している。
第2は、 ゼロ除算の物理学への影響である。 これは、ニュートンの万有引力の法則など多くの物理法則の公式に、ゼロ除算が現れているので、それらに対する新しい結果の解釈、影響である。
第3は ゼロ除算の代数的な、あるいは作用素論的な研究である。これらも始まったばかりであり、出版が確定している論文:
S.-E. Takahasi, M. Tsukada and Y. Kobayashi, Classification of continuous fractional binary operators on the real and complex fields, Tokyo Journal of Mathematics (in press).
が、この分野の最初の論文で、Dr. M. Dalla Riva氏 が半群でゼロ除算の一意性の一般化を論じて幾つかの成果をノートに纏めているだけで 広い研究課題が存在すると考えられる。
これらの分野では、誰でも先頭に立てる全く新しい研究分野と言える。
全く、新しい研究分野となると、若い人がやみくもに挑戦するのは危険だと考えるのは、 よく理解できるが、ある程度自己の研究課題が確立していて、多少の余裕がみいだせる方は、新しい世界を自分の研究課題と比較しながら、ちょっと覗いてみるかは、面白いのではないだろうか。思わぬ関係が出てくるのが、数学の研究の楽しさであると言える面は多い。アメリカ新大陸に初めて移った人たちの想い、 ピッツバーグの地域に初めて移住した人たちの想いを想像してみたい。ゼロ除算は 新しい数学である。
小学生にも理解できる、新しい基本的な数学、概念が現れた。 基本的なゆえに、ゼロ除算は、universe の理解に大きな影響を与えるのではないだろうか。この世界が どれくらいの広がりがあるかは 分からない。しかし、ゼロ除算は、簡潔な結果をもたらしたが、ゼロ除算は 同時に 新たな神秘的な構造を 世にもたらし、数学の世界を一層深いものにしている。
以 上
追記: ゼロ除算の楽しい、易しい解説を次で行っている:
数学基礎学力研究会のホームページ
URLは
http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku
再生核研究所声明255 (2015.11.3) 神は、平均値として関数値を認識する
(2015.10.30.07:40
朝食後 散歩中突然考えが閃いて、懸案の問題が解決した:
どうして、ゼロ除算では、ローラン展開の正則部の値が 極の値になるのか?
そして、一般に関数値とは何か 想いを巡らしていた。
解決は、驚く程 自分の愚かさを示していると呆れる。 解は 神は、平均値として関数値を認識すると纏められる。実際、解析関数の場合、上記孤立特異点での関数値は、正則の時と全く同じく コ-シーの積分表示で表されている。 解析関数ではコ-シーの積分表示で定義すれば、それは平均値になっており、この意味で考えれば、解析関数は孤立特異点でも 関数値は 拡張されることになる ― 原稿には書いてあるが、認識していなかった。
連続関数などでも関数値の定義は そのまま成り立つ。平均値が定義されない場合には、いろいろな意味での平均値を考えれば良いとなる。解析関数の場合の微分値も同じように重み付き平均値の意味で、統一的に定義でき、拡張される。 いわゆるくりこみ理論で無限値(部)を避けて有限値を捉える操作は、この一般的な原理で捉えられるのではないだろうか。2015.10.30.08:25)
上記のようにメモを取ったのであるが、基本的な概念、関数値とは何かと問うたのである。関数値とは、関数の値のことで、数に数を対応させるとき、その対応を与えるのが関数でよく f 等で表され x 座標の点 x をy 座標の点 yに対応させるのが関数 y = f(x) で、放物線を表す2次関数 y=x^2, 直角双曲線を表す分数関数 y=1/x 等が典型的な例である。ここでは 関数の値 f(x) とは何かと問うたものである。結論を端的に表現するために、関数y=1/xの原点x=0における値を問題にしよう。 このグラフを思い出して、多くの人は困惑するだろう。なぜならば、x が正の方からゼロに近づけば 正の無限に発散し、xが負の方からゼロに近づけば負の無限大に発散するからである。最近発見されたゼロ除算、ゼロで割ることは、その関数値をゼロと解釈すれば良いという簡単なことを言っていて、ゼロ除算はそれを定義とすれば、ゼロ除算は 現代数学の中で未知の世界を拓くと述べてきた。しかし、これは誰でも直感するように、値ゼロは、 原点の周りの値の平均値であることを知り、この定義は自然なものであると 発見初期から認識されてきた。ところが、他方、極めて具体的な解析関数 W = e^{1/z} = 1 + 1/z + 1/2!z^2 + 1/3!z^3 +……. の点 z=0 における値がゼロ除算の結果1であるという結果に接して、人は驚嘆したものと考えられる。複素解析学では、無限位数の極、無限遠点の値を取ると考えられてきたからである。しかしながら、上記の考え、平均値で考えれば、値1をとることが 明確に分かる。実際、原点のコーシー積分表示をこの関数に適用すれば、値1が出てくることが簡単に分かる。そもそも、コーシー積分表示とは 関数の積分路上(簡単に点の周りの円周上での、 小さな円の取り方によらずに定まる)で平均値を取っていることに気づけば良い。
そこで、一般に関数値とは、考えている点の周りの平均値で定義するという原理を考える。
解析関数では 平均値が上手く定義できるから、孤立特異点で、逆に平均値で定義して、関数を拡張できる。しかし、解析的に延長されているとは言えないことに注意して置きたい。 連続関数などは 平均値が定義できるので、関数値の概念は 今までの関数値と同じ意味を有する。関数族では 平均値が上手く定義できない場合もあるが、そのような場合には、平均値のいろいろな考え方によって、関数値の意味が異なると考えよう。この先に、各論の問題が派生する。
以 上
再生核研究所声明254 (2015.11.2) 愛が無ければ観えない ― について、 更に
既に、
再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない
2013.2.26.11:15:
で、愛が無ければ、見えない、 関心が無ければ、進まない、できると考えなかった。
何と 15年も前から、 考え、 3人の学位論文の素材になり、 2冊の著書でも扱い、 S先生やF先生も講究録で触れている。 それなのに馬鹿みたいなことに気付かなかった。
と述べている。要するにある結果に気づいたのであるが、先が有ると思わなかったので、関心をもって考えなかったので、長い間 基本的な結果に気づかず、通り過ぎていた、事を示している。
さらに、最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の結果の場合は 凄い歴史的な事件と言える。すなわち、ゼロ除算100/0=0は割り算を掛け算の逆と考えると、不可能であることが証明されるので、不可能の烙印を押されていた。しかし、物理学などでは重要な問題が絡んでいるにも関わらず、何百年間も人は、新しい考え方に関心を抱かず、不明のままで年を重ねてきた。それが、偶然ちょっとしたきっかけで、解決をもたらした(再生核研究所声明171参照)。
興味、関心、愛が無ければ、何も気づかず、発見もせず、認知さえしないで、空しいものになる。
と言及している。
さらに、そもそも人間とは何者かと問い
― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている― 再生核研究所声明148
そこまでは行かなくても、 人間が何に関心を抱くは 極めて興味深い、人間研究の課題である。実に多種多様であり、世間を見てもその多様性には驚かされる。その多様性こそ人間社会の豊かさの表れであると評価される。生まれながらの性格、能力、幼児時の育ち、教育など、どうして興味の対象、関心を抱く対象が決まるかは 今後の大きな課題である。 一般には、関心や愛情はどんどん深まって、成長、発展する性格があり、人生の晩年までには名人や、達人の域にまで成長する例は世に多い。 多くの数学者が、子供の頃将棋や碁で遊んでいたなどの話しを交わしたことが有るが、興味深い例である。一流のスポーツマン、イチロー選手などいろいろな有名選手の生い立ちと名前が思い出される。
愛を抱く、興味を持つ、関心を持つは、人間らしい人間を育てる基本であるから、知識偏重、詰め込み教育ではなくて、 みずみずしい愛、意欲が湧く、情念が生命力とともに湧いてくるような 全人的な教育が大事ではないだろうか。
心身を大事にすることともに、真理、真智を愛する精神こそ、大事ではないだろうか。
何のために、何故か? ― 人間らしい、人生を送るためにである。
と結んでいる。
愛とは 共生感に基づく喜びの感情であると 表現した。 全く経験したことのない世界に触れると、全然、共感、共鳴しないで、ただ暗号が並んでいるように感じることがある。 純粋数学などでは純粋な抽象理論であるから 顕著に遭遇することがある。専門外だと始めから最後まで、殆ど何も分からない研究発表も珍しくはない。 共感、共鳴が、更に愛の感情まで高まるには相当な経験に基づいた共通の基盤が必要ではないだろうか。 民族の文化や、男女関係の愛の問題についても言える。愛の素である共生感が深まるための背景について言及している。最近のゼロ除算の理解の仕方から実感してきた感情である。
ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるとされ、ゼロで割れないことは定説である。 そこで、突然、ゼロ除算が可能であると言い出され、可能であると言われたとき、人はそんな馬鹿な、今更何を言っているのか? また結果が、従来の数学と全然違う、強力な不連続性を述べていることに触れられると、そんな数学は始めから、正しくとも興味がないと発想するは多い。 全く新しい結果となると、共感も、共鳴もなく、愛着も湧かないのは 我々の心の仕組みからも言えるのではないだろうか。
他方、客観的には何の、あるいは大した意味や、動機が無くても、いわゆる未解決問題として提起された問題などで、永く挑戦を続けていると どんどん愛着、愛情が深まり、湧いてきて、いわば問題にハマって行く状況は 数学界などで、個人や、グループとしてもよく見られる現象である。― 不可能、未解決と言われると、挑戦したいという心情と 解いて、いわば競争に勝ちたい という心情が湧くのは当然で、結構数学の研究を推進する原動力になっているのではないだろうか?
この声明の趣旨は、愛は 共通の基盤、経験、関わりの深さで深まり、我々の心は、生命のあるべき方向での 関わりの深さで 愛も深まるという 観点に想いを致すことである。
以 上
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