2015年12月2日水曜日

地球平面説という神話

地球平面説という神話

「地球平面説」を表す著名なフラマリオン版画はしばしば15~16世紀頃の作品として紹介されるが著書『L'atmosphère: météorologie populaire』(1888; p. 163)が初出の、フラマリオン自身の手になる木版画である。

ゴーティエ・ド・メッツ『L'Image du monde』(1246年頃)の写本に収録された、地球球体説を表す模式図
地球平面説という神話(ちきゅうへいめんせつというしんわ)は、近代に生まれた誤解で、中世西欧では地球球体説ではなく地球平面説がはびこっていたという謬説である[1][2]。この説は20世紀前半に広範に流布されたとみられており、イギリスの歴史学協会の1945年の会報に以下のように述べられている:
「地球が平らだとコロンブスの時代の教養人が信じていたという説や、同時代人がそう信じていたことがコロンブスの障害となったがやがてコロンブスはそれに打ち勝っていったという説は、歴史教育において最も強固な間違いである」[3]。
中世初期には既に、元々古代ギリシア人たちが示した球体説をほとんど全ての学者が支持していた。教養人たちの間では14世紀までに地球平面説が完全に死滅した。ただし、ヒエロニムス・ボスによる著名な三連祭壇画『快楽の園』の外面が、ルネサンス時代における地球平面説の一例となっている。そこには透明な天球の中に浮かぶ円盤状の大地が描かれている[4]。
スティーヴン・ジェイ・グールドによると、「(古今の社会一般において私達の住む惑星がどのように概念化されたかはさておき)学者たちの間で『地球平面説が信じられた暗黒時代』など存在しない。古代ギリシア以来の地球が球体であるという知識が消え去ったことなどなく、中世の主だった学者は皆、宇宙論上確立された事実として地球が丸いことを支持していた[5]。」 科学史家のデイヴィッド・リンドバークとロナルド・ナンバーズも「中世のキリスト教徒の学者で〔地球が〕丸いことを認めず、地球の近似的周長を知らないものなどほとんどいなかった[6]」と指摘している。
歴史家のジェフリー・バートン・ラッセルは、中世に地球平面説が流行したという誤解は1870年から1920年にかけて蔓延り、また、進化論によって作り出されたイデオロギー的な状況とも関係したと述べている[7]。ラッセルは、「稀な例外を除けば、紀元前3世紀以降の西洋文明の歴史に連なる教養人で地球が平面だと信じたものなどいなかった」と主張し、ジョン・ウィリアム・ドレイパー、アンドリュー・ディクソン・ホワイト、ワシントン・アーヴィングらが地球平面説という神話を流布したのだと考えている[8][9]。
目次 [非表示] 
1 歴史
1.1 近世
1.2 19世紀
1.3 アーヴィングによるコロンブスの伝記
1.4 レトロンヌ、ヒューウェル、フラマリオン
1.5 20世紀
2 脚注
3 参考文献
4 関連項目
歴史[編集]
著書『地球平面説の発明』(英語: Inventing the Flat Earth)でジェフリー・バートン・ラッセルは、前近代文明、特に中世西欧を攻撃するための作り話として地球平面説が使われたのだと述べている[10]。
ジェームズ・ハンナムはこう書いている:
中世の人々が地球は平面状だと考えていたという神話は、プロテスタント達によるカトリック教会の教えを攻撃するキャンペーンとして17世紀ごろに現れた。しかしこの神話が広く信じられるようになったのは19世紀のことで、ジョン・ウィリアム・ドレイパーの『宗教と科学の衝突の歴史』(英:History of the Conflict Between Religion and Science、1874年)やアンドリュー・ディクソン・ホワイト『キリスト教国における科学と神学の争いの歴史』(英:History of the Warfare of Science with Theology in Christendom、1896年)によって流布された。無神論者や不可知論者はコンフリクト命題(英語版)を故意に擁護した[...][11]
近世[編集]
フランスの劇作家シラノ・ド・ベルジュラックは『別世界又は月世界諸国諸帝国』(死の2年後の1657年に発表)の第5章で、アウグスティヌスが「彼の時代には地球はストーヴのふたのごとく平らで、半分に切ったオレンジのように水面に浮かんでいた」と言っているのを引用している[12]。 ロバート・バートンは著書『憂鬱の解剖学』(英:The Anatomy of Melancholy)で[13]、以下のように書いている:
ザルツブルクの司教であった(アウェンティヌスの述べるところでは745年のこと)ヴァージルは、メンツの司教ボニファティウスから疑義を問い質された、というのは彼は対蹠地(その存在はキリストが死んだ理由について疑義を生じさせる)というものがあると考えており、地獄の地位を減じ、あるいは天国に釣り合わなくなるほどにまでそれを縮小させるために、地球は(アコスタや大衆があらかた反駁しているのだが)トレンチャーのように円いが球体のように丸くはないとしたオースティン〔聖アウグスティヌス〕、バジル〔バシリウス〕、ラクタンティウスの意見を否定したのである。
このように、地球平面説だという非難は、いくつかの珍しい(バートンは余談を以下のような聖アウグスティヌスの正当な引用で終えている:「不確かなものについて論争するよりも隠されたものや地獄の業火の存在を疑うことにアブラハムの意思はあった[13]」)例を除けば、19世紀よりも数世紀前の権威たちの信用を失わせるために行われたのである。文献中で言及されているもう一つの初期の例として、ルートヴィヒ・ホルベルクの喜劇『エラスムス・モンタヌス』(1723年)がある。その主人公エラスムス・モンタヌスは地球が丸いと主張した際に強い反論を受ける、というのも田舎者たちはみな地球が平らだと思っていたからである。彼は「地球はパンケーキのように平らだ」と叫んでからやっと婚約者との結婚を許された。トーマス・ジェファーソンの著書で、一連の問い (queries) に対する答えとして書かれた『バージニア覚書』(1784年)において、ジェファーソンは「Query」という語を、政府公認の宗教思想を攻撃するような宗教を扱うのに使っている。ある章では、権威によって人々に公的に強要された誤った考えについて彼は語っている。そのうちの一つがガリレオ・ガリレイの権威との戦いのエピソードであり、ジェファーソンは地球の形に関する問題をこのエピソードに帰しているがこれは間違いである:[14]
政府は物理学的体系を決定する際にも完全に無謬である。ガリレオは地球が球形であると主張したかどで宗教裁判にかけられた: 政府は地球がトレンチャーのように平らであると宣言し、トレンチャーの形状とガリレオは間違いを正すように強要された。この間違いは長い間優勢であったが、ようやく地球は球形になり、デカルトが地球は回転する球体でありその軸は渦動によるものだと述べた。
19世紀[編集]

オーランド・ファーガソンによる平面地球図、1893年。聖書の断章と、それに対する「球体説」側からの批判が書き込まれている。
19世紀には宗教と科学が相反するものだという感覚が非常に強くなった。ダーウィンの進化論にまつわる論争によってコンフリクト命題(宗教は科学と相いれないとする考え)が生まれた[15][16]。
アーヴィングによるコロンブスの伝記[編集]
1828年に、ワシントン・アーヴィングのロマン主義の色濃い伝記『クリストファー・コロンブスの生涯と航海』[17]が発表されたが、多くの人はこれを学術的な作品だと誤解した[18]。その伝記の第三巻第2章でアーヴィングは、スペインの君主がコロンブスの申し出を秤量するために行った会談に関して非常に虚構性の高い説明を行っている。アーヴィングの行った、さらに幻想的な脚色として、地球は丸いというコロンブスの主張に対してその会談に参加していた無知で頑迷固陋な人々が聖書の内容を引き合いに出して反論したというありそうもない話がある[19]。
実はアーヴィングも指摘してはいることだが、コロンブスの航海した1490年代に問題とされたことは地球の形状ではなく地球の大きさとアジア東岸の位置である。クラウディオス・プトレマイオス以降伝統的になされてきた見積もりでは、アジア東岸はカナリア諸島の180°東側に存在することになる[20]。コロンブスは以前に否定された225°という見積もりに(マルコ・ポーロの旅行に基づいて)28°加え、日本はさらに東に30°の位置にあると考えた。コロンブスはユーラシア大陸をポルトガルのサン・ヴィセンテ岬から始まるものとして283°にまで伸長させ、大西洋を77°ぶんの広さしかないものとみなした。(イベリア本土より9°西の)カナリア諸島から出発したため、68°ぶん航海するだけで日本につく算段であった[21]。
コロンブスはアラビア語の文献を読む際により長いアラビア・マイル(1マイルが2177メートルになる)ではなくより短いイタリア・マイル(1マイルが1480メートルになる)を想定して読むことで、誤って地球の周長を実際の4分の3ほどに思いなした[22]。これらの誤りが積み重なった結果、コロンブスは日本までの距離を、実際には20000 ㎞あるのにもかかわらず僅か5000 ㎞と見積もり、その結果カリブ諸島東端に到着することになった。当時のスペインの学者達もアジア東岸までの正確な距離は知らなかったようであるが、彼らはアジア東岸までの距離はコロンブスが見積もったよりもずっと大きいと考えていた。そしてこのことに基づいて、スペインやポルトガルで、学者や船乗りたちがコロンブスを批判したのである。
論点は地球の形状でも西に行くことで日本や中国に到着できるという考えでもなく、ヨーロッパの船が大洋での航海に耐えられるかという点であった。当時の小さな船(コロンブスの三艘の船は20.5 mから23.5 mの間、あるいは60から70フィートの間の大きさで、乗員は90人ほどであった)に日本に到着するまでの飲食料を積載するのは端的に不可能であった。コロンブスがカリブ諸島に到達できたのはかろうじてのことであった。乗員たちが反抗的になったのも「円盤状の地球の端から出てしまうこと」を恐れてのことではなく、飲食料を使い果たしてしまって補給する機会もないからであった。彼らは餓死寸前だったのである[23]。 コロンブスを救ったのはアメリカという未知の大陸であったが彼は自分が日本に到達したのだと思った。彼はカリブ諸島で飲食料を補給できたため安全にヨーロッパに帰ることができた。さもなければ彼のクルーは息絶え、船は沈没していただろう。彼の航海に反対した学者たちは正しかった。1492年当時の船では大洋を航海して西洋から日本に至るのは不可能であった、というのは日本に到着するはるか手前で水夫たちが死んでしまうからである。
レトロンヌ、ヒューウェル、フラマリオン[編集]
アーヴィングの著書が出版されてすぐの1834年に、強く反宗教的思想を持った学者のジャン・アントワーヌ・レトロンヌが、教父やそれに続く中世のキリスト教徒は地球平面説を信じていたという間違った説を著書『教父の宇宙論』で公にした[24]。また、1837年には、イギリスの科学哲学者 ウィリアム・ヒューウェルが著書『帰納的科学の歴史』(英:History of the Inductive Sciences)でラクタンティウス(245年-325年、コペルニクスにも『天球の回転について』で「地球は球形であると述べるものに対して子供のような反論の仕方をした」と嘲笑されている)およびコスマス・インディコプレウステース(547年から549年にかけて著書『キリスト教地誌』を書いた)という宇宙論史的に非常に重要度の低い二人に焦点を当てて持論を述べている。彼ら二人は中世に地球平面説が信じられた証拠であるとヒューウェルは主張し、ほかの歴史家もすぐに彼に従ったが、他に地球平面説が信じられた証拠を見つけ出すことはできなかった[25]。
神座を見るために大地を覆う天空を突き抜けて自分の頭をつついている男が書かれている、上掲の広範に流布された版画は16世紀の画風を模倣して制作されているが、実際にはカミーユ・フラマリオンの『L'atmosphère: météorologie populaire』(Paris, 1888, p. 163) で初めて発表されたものである[26]。この版画には「彼は大地と天空が交わる地平線に到達した」という中世の宣教師たちの教説が描かれている。元々はこの版画には装飾的な線が引かれており、その線から19世紀の作であることがわかる。しかし後に書かれた本では、この版画は16世紀にまでさかのぼるのだと主張する者もあらわれ、線は取り除かれた。逸話によれば、フラマリオンはこの版画を自分で注文したという。
20世紀[編集]
20世紀初頭から、地球平面説が中世に一般的に広まっていた膨大な数の間違いの一つとして無数の書籍や記事で紹介された。この、中世に地球平面説が広まっていたという誤解は、少なくとも1920年以降は歴史学界では全く流行らなかったが、大衆文化には残り続けたし、1960年代までいくつかの学校教科書にも載っていた。E・M・W・ティルヤード『エリザベス朝期の世界観』(英:The Elizabethan World Picture)およびC・S・ルイス『廃棄された宇宙像:中世・ルネッサンスへのプロレゴーメナ』ではルネサンスおよび中世に宇宙がどのようにみなされていたかを詳細に調べており、知識人層がどのように世界が丸いことを知ったのかをも広範にわたって調べている。地獄・煉獄・天国への旅を描いた叙事詩的作品であるダンテの『神曲』で地球が球体であり、地球の中心に向かって重力が働いていることが記されている点にルイスは注目する。『神曲』作中で、悪魔が地球の中心で氷づけにされているため、(登場人物の)ダンテとウェルギリウスは悪魔の頭から胴体にかけて下っていくが、腰から足にかけて登っていくことになるのである(腰が最も地球の中心にあたっている)。
アメリカで1919年に出版されたエマ・ミラー・ボレニウスによる教科書はコロンブス・デーの推奨図書に対する以下の序論から始まっている:
コロンブスの生きていた当時、人々は地球が平らだと考えていた。船を貪り食う巨大な怪物が大西洋に満ちていて、脆弱な船が落ちて壊れてしまう恐ろしい滝が大西洋の向こうにあると彼らは信じていた。コロンブスは船員を集めるためにこの愚かな思い込みと戦わなければいけなかった。彼は地球が丸いに違いないと考えていた[27]。
トマス・アンドリュー・ベイリーの『アメリカの野外劇』(英:The American Pageant)の以前の版では「迷信深い船乗り(コロンブスのクルー)は〔…〕どんどん反抗的になっていった〔…〕というのは彼らは世界の端っこへ到達するのを恐れたからである」と書かれていた。 しかし、この歴史学的根拠は存在しない[28]。1937年に発表されたジョージ・ガーシュウィンの流行歌『They All Laughed』には「コロンブスが地球は丸いと言うと/彼らはみな笑った」という連句がある。ワーナー・ブラザーズの『Merrie Melodies』アニメ『Hare We Go』(1951年)にはコロンブスと僧侶フェルディナンドが地球の形状について議論するシーンがある。ウォルト・ディズニーの1963年のアニメーション『王様の剣』には、魔法使いのマーリン(彼は未来へ旅行をしたことがある)が弟子に「ある日彼らは地球が丸いことを発見するだろう」と述べるシーンがある。ジェフリー・バートン・ラッセルは1991年や1997年において地球平面説が流行していたという説に反論している。ルイズ・ビショップ(2008年)は、紀元1000年ごろの中世の思想家・著述家は皆、実際は地球が球体であると確信していたと述べている[29]。
また、ドラえもんにおいて中世ヨーロッパの宇宙観は平面地球である描写がある他、高校世界史の教材が地球平面説神話に基づいた記述をしている[30]、西洋史と関係のない書籍でもたとえ話として中世西欧で地球平面説が信じられていたという話が紹介される[31]など、20~21世紀の日本においても地球平面説神話は広く知られている。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E7%90%83%E5%B9%B3%E9%9D%A2%E8%AA%AC%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E7%A5%9E%E8%A9%B1

再生核研究所声明257 (2015.11.05) 無限大とは何か、 無限遠点とは何か ー 新しい視点 
(道脇さんたちの、和算の伝統を感じさせるような、何とも 言えない魅力 がありますね。 添付のように完成させたい。例の専門家たち、驚いて対応を検討しているのでは?どんどん、事情がみえてきました. 今朝の疑問も きれいに散歩中 8時15分 ころ、解決できました.成文化したい。2015.11.1.9:7
無限遠点の値の意味を 約1年半ぶりに 神は関数値を平均値として認識する で 理解できました。今、気になるのは,どうして、正の無限 負の無限、および ゼロが近いのかです。その近いという意味を、 正確に理解できない。 近い事実は 添付する 電柱の左右の傾きに現れている。
log 0=0
と定義するのが 自然ですが、それには、 ゼロと マイナス無限大 が一致しているとも言える。 そのところが 不明、何か新しい概念、考え 哲学が 求められている???
2015.11.1.05:50)

ローラン展開の正則部の値の解釈のように(再生核研究所声明255 (2015.11.03) 神は、平均値として関数値を認識する)、実は当たり前だったのに、認識がおかしかったことに気づいたので、正確に表現したい。
まず、正の無限大とは何だろうか。 1,2,3,…… といけば、正の整数は 正の無限大に収束、あるいは発散すると表現するだろう。 この正確な意味は イプシロン、デルタ論法という表現で厳格に表現される。すなわち、 どんなに大きな 整数 n をとっても、あるN を取れば(存在して)、N より大の 全ての整数 m に対して、n < m が成り立つと定義できる。 いろいろな設定で、このようにして、無限は定義できる。 どんなに大きな数に対しても、より大の整数が存在する。 それでは、+∞ とは何だろうか。 限りなく大きな数の先を表す概念であることが分かる。 大事な視点は +∞は 定まった数ではなくて、極限で考えられたもので、近づいていく先を表した状況で考えられていることである。 これらの概念は極限の概念として、現代数学で厳格に定義され、その概念は新しいゼロ除算の世界でも、全て適切で、もちろん正しい。
簡単な具体例で説明しよう。 関数y=1/x のグラフはよく知られているように、正の実軸からゼロに近づけば、+∞に発散し、負からゼロに近づけば、-∞に発散する。 ところが、原点では、既に述べてきたように、その関数値はゼロである。 この状況を見て、0、+∞、-∞ らが近い、あるいは 一致していると誤解してはならない。+∞、-∞  らは数ではなく、どんどん大きくなる極限値や、どんどん小さくなる極限値を表しているのであって、それらの先、原点では突然にゼロにとんでいる 強力な不連続性を示しているのである。
複素解析における無限遠点も同様であって、立体射影で複素平面はリーマン球面に射影されるが、無限遠点とは あらゆる方向で原点から限りなく遠ざかった時に、想像上の点が存在するとして、その射影としてりーマン球面上の北極を対応させる。 関数W=1/z は原点でその点が対応すると、解析関数論では考え、原点で一位の極をとると表現してきた。
しかしながら、新しく発見されたゼロ除算では、1/0=0 であり 原点には、ゼロが対応すると言っている。 これは矛盾ではなくて、上記、一位の極とは、原点に近づけは、限りなく無限遠点に近づく、あるいは発散するという、従来の厳格議論はそのままであるが、ゼロ除算は、原点自身では、数としてゼロの値をきちんとして取っているということである。 この区別をきちんとすれば、従来の概念とゼロ除算はしっかりとした位置づけができる。 近づく値とそこにおける値の区別である。

以 上

\documentclass[12pt]{article}
\usepackage{latexsym,amsmath,amssymb,amsfonts,amstext,amsthm}


\numberwithin{equation}{section}

\begin{document}
\title{\bf Announcement 258: A new viewpoint of the division by zero $z/0=0$ from area and the point at infinity
}

\author{{\it Institute of Reproducing Kernels}\\
}

\date{November 26, 2015}

\maketitle
{\bf Abstract: } In this announcement, we will state a reality of the division by zero $z/0=0$ from the viewpoint of area and the point at infinity. We will be able to see a great impact for the idea of our space. 

\bigskip
{\bf Introduction}

\bigskip

%\label{sect1}
By {\bf a natural extension of the fractions}
\begin{equation}
\frac{b}{a}
\end{equation}
for any complex numbers $a$ and $b$, the division by zero
\begin{equation}
\frac{b}{0}=0, 
\end{equation}
is clear and trivial. See (\cite{msy}) for the recent results. See also the survey style announcements 179,185,237,246,247,250 and 252 of the Institute of Reproducing Kernels (\cite{ann179,ann185,ann237,ann246,ann247,ann250,ann252}). The division by zero is not only mathematical problems, but also it will give great impacts to human beings and the idea on the universe. The Institute of Reproducing Kernels is presenting various opinions in Announcements (many in Japanese) on the universe.

In this Announcement, we will refer to a new viewpoint of the division by zero in the Euclidean space from area and the point at infinity. In our common level, the results will be very surprized for many peopule.

\section{The point at infinity}

We will be able to see the whole Euclidean plane by the stereographic projection onto the Riemann sphere. The behavior of the space around the point at infinity may be considered by that around the origin by the linear transform $W = 1/z$(\cite{ahlfors}). We thus see that

\begin{equation}
\lim_{z \to \infty} z = \infty,
\end{equation}
however,
\begin{equation}
[z]_{z =\infty} =0,
\end{equation}
by the division by zero. The difference of (1.1) and (1.2) is very important as we see clearly from the function $1/z$ and the behavior at the origin. The limiting value to the origin and the value at the origin are different. For the surprising results, we will state the property in the real space as follows:
\begin{equation}
\lim_{x\to +\infty} x =+\infty , \quad \lim_{x\to -\infty} x = -\infty,
\end{equation}
however,
\begin{equation}
[x]_{ +\infty } =0, \quad [x]_{ -\infty } =0.
\end{equation}

\section{Interpretation by area}

In orde to see some realization of the properties of (1.3) and (1.4), we will consider the triangle with the basic edge (side) $a$ and high $h$. Then, the area $S$ of the triangle is given
by
\begin{equation}
S = \frac{1}{2} ah.
\end{equation}
By fixing the high $h$ and the line containing the side $a$, we will consider the limit $a \to +\infty$. Then, of course,
\begin{equation}
\lim_{a \to +\infty} S = +\infty.
\end{equation}
However, we will see that
\begin{equation}
[S]_{a=\infty} =0,
\end{equation} 
just like the division by zero, because, when $a=\infty$, the triangle is broken,
we cannot consider the area of the triangle. Here, the notation $a=\infty$ is not good, however, its meaning is clear; it will mean the case of the parallel lines of the line containing the side $a$ and the line through the fixed vertex of the triangles when we consider $a$ tends to $+\infty$. 

The strong discontinuity of the division by zero is appeared as the broken of the triangles.
These phenomena may be looked in many situations as the unverse one.
We can consider similar problems for many types volumes. However, the simplest cases are
disc and sphere (ball) with radius $1/R$. When $R \to +0$, the areas and volumes tend to $+\infty$, however, when $R=0$, they are zero, because they become the half-plane and half-space, respectively.

\bigskip

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The gradient of y-axis is zero and $\tan (\pi/2) =0$ by the division by zero $1/0=0$. {\it Announcement 247 (2015.9.22)}.

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\end{document}


再生核研究所声明255 (2015.11.3) 神は、平均値として関数値を認識する
(2015.10.30.07:40 
朝食後 散歩中突然考えが閃いて、懸案の問題が解決した:
どうして、ゼロ除算では、ローラン展開の正則部の値が 極の値になるのか?
そして、一般に関数値とは何か 想いを巡らしていた。
解決は、驚く程 自分の愚かさを示していると呆れる。 解は 神は、平均値として関数値を認識すると纏められる。実際、解析関数の場合、上記孤立特異点での関数値は、正則の時と全く同じく コ-シーの積分表示で表されている。 解析関数ではコ-シーの積分表示で定義すれば、それは平均値になっており、この意味で考えれば、解析関数は孤立特異点でも 関数値は 拡張されることになる ― 原稿には書いてあるが、認識していなかった。
 連続関数などでも関数値の定義は そのまま成り立つ。平均値が定義されない場合には、いろいろな意味での平均値を考えれば良いとなる。解析関数の場合の微分値も同じように重み付き平均値の意味で、統一的に定義でき、拡張される。 いわゆるくりこみ理論で無限値(部)を避けて有限値を捉える操作は、この一般的な原理で捉えられるのではないだろうか。2015.10.30.08:25)
上記のようにメモを取ったのであるが、基本的な概念、関数値とは何かと問うたのである。関数値とは、関数の値のことで、数に数を対応させるとき、その対応を与えるのが関数でよく f  等で表され x 座標の点 x  をy 座標の点 yに対応させるのが関数 y = f(x) で、放物線を表す2次関数 y=x^2, 直角双曲線を表す分数関数 y=1/x 等が典型的な例である。ここでは 関数の値 f(x) とは何かと問うたものである。結論を端的に表現するために、関数y=1/xの原点x=0における値を問題にしよう。 このグラフを思い出して、多くの人は困惑するだろう。なぜならば、x が正の方からゼロに近づけば 正の無限に発散し、xが負の方からゼロに近づけば負の無限大に発散するからである。最近発見されたゼロ除算、ゼロで割ることは、その関数値をゼロと解釈すれば良いという簡単なことを言っていて、ゼロ除算はそれを定義とすれば、ゼロ除算は 現代数学の中で未知の世界を拓くと述べてきた。しかし、これは誰でも直感するように、値ゼロは、 原点の周りの値の平均値であることを知り、この定義は自然なものであると 発見初期から認識されてきた。ところが、他方、極めて具体的な解析関数 W = e^{1/z} = 1 + 1/z + 1/2!z^2 + 1/3!z^3 +……. の点 z=0 における値がゼロ除算の結果1であるという結果に接して、人は驚嘆したものと考えられる。複素解析学では、無限位数の極、無限遠点の値を取ると考えられてきたからである。しかしながら、上記の考え、平均値で考えれば、値1をとることが 明確に分かる。実際、原点のコーシー積分表示をこの関数に適用すれば、値1が出てくることが簡単に分かる。そもそも、コーシー積分表示とは 関数の積分路上(簡単に点の周りの円周上での、 小さな円の取り方によらずに定まる)で平均値を取っていることに気づけば良い。
そこで、一般に関数値とは、考えている点の周りの平均値で定義するという原理を考える。
解析関数では 平均値が上手く定義できるから、孤立特異点で、逆に平均値で定義して、関数を拡張できる。しかし、解析的に延長されているとは言えないことに注意して置きたい。 連続関数などは 平均値が定義できるので、関数値の概念は 今までの関数値と同じ意味を有する。関数族では 平均値が上手く定義できない場合もあるが、そのような場合には、平均値のいろいろな考え方によって、関数値の意味が異なると考えよう。この先に、各論の問題が派生する。

以 上

再生核研究所声明254 (2015.11.2)  愛が無ければ観えない ― について、 更に

既に、

再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない
2013.2.26.11:15:
で、愛が無ければ、見えない、 関心が無ければ、進まない、できると考えなかった。
何と 15年も前から、 考え、 3人の学位論文の素材になり、 2冊の著書でも扱い、 S先生やF先生も講究録で触れている。 それなのに馬鹿みたいなことに気付かなかった。

と述べている。要するにある結果に気づいたのであるが、先が有ると思わなかったので、関心をもって考えなかったので、長い間 基本的な結果に気づかず、通り過ぎていた、事を示している。
さらに、最近のゼロ除算100/0=0,0/0=0の結果の場合は 凄い歴史的な事件と言える。すなわち、ゼロ除算100/0=0は割り算を掛け算の逆と考えると、不可能であることが証明されるので、不可能の烙印を押されていた。しかし、物理学などでは重要な問題が絡んでいるにも関わらず、何百年間も人は、新しい考え方に関心を抱かず、不明のままで年を重ねてきた。それが、偶然ちょっとしたきっかけで、解決をもたらした(再生核研究所声明171参照)。
興味、関心、愛が無ければ、何も気づかず、発見もせず、認知さえしないで、空しいものになる。
と言及している。
さらに、そもそも人間とは何者かと問い

― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている― 再生核研究所声明148

そこまでは行かなくても、 人間が何に関心を抱くは 極めて興味深い、人間研究の課題である。実に多種多様であり、世間を見てもその多様性には驚かされる。その多様性こそ人間社会の豊かさの表れであると評価される。生まれながらの性格、能力、幼児時の育ち、教育など、どうして興味の対象、関心を抱く対象が決まるかは 今後の大きな課題である。 一般には、関心や愛情はどんどん深まって、成長、発展する性格があり、人生の晩年までには名人や、達人の域にまで成長する例は世に多い。 多くの数学者が、子供の頃将棋や碁で遊んでいたなどの話しを交わしたことが有るが、興味深い例である。一流のスポーツマン、イチロー選手などいろいろな有名選手の生い立ちと名前が思い出される。
愛を抱く、興味を持つ、関心を持つは、人間らしい人間を育てる基本であるから、知識偏重、詰め込み教育ではなくて、 みずみずしい愛、意欲が湧く、情念が生命力とともに湧いてくるような 全人的な教育が大事ではないだろうか。
心身を大事にすることともに、真理、真智を愛する精神こそ、大事ではないだろうか。
何のために、何故か? ― 人間らしい、人生を送るためにである。
と結んでいる。
愛とは 共生感に基づく喜びの感情であると 表現した。 全く経験したことのない世界に触れると、全然、共感、共鳴しないで、ただ暗号が並んでいるように感じることがある。 純粋数学などでは純粋な抽象理論であるから 顕著に遭遇することがある。専門外だと始めから最後まで、殆ど何も分からない研究発表も珍しくはない。 共感、共鳴が、更に愛の感情まで高まるには相当な経験に基づいた共通の基盤が必要ではないだろうか。 民族の文化や、男女関係の愛の問題についても言える。愛の素である共生感が深まるための背景について言及している。最近のゼロ除算の理解の仕方から実感してきた感情である。
ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるとされ、ゼロで割れないことは定説である。 そこで、突然、ゼロ除算が可能であると言い出され、可能であると言われたとき、人はそんな馬鹿な、今更何を言っているのか? また結果が、従来の数学と全然違う、強力な不連続性を述べていることに触れられると、そんな数学は始めから、正しくとも興味がないと発想するは多い。 全く新しい結果となると、共感も、共鳴もなく、愛着も湧かないのは 我々の心の仕組みからも言えるのではないだろうか。
他方、客観的には何の、あるいは大した意味や、動機が無くても、いわゆる未解決問題として提起された問題などで、永く挑戦を続けていると どんどん愛着、愛情が深まり、湧いてきて、いわば問題にハマって行く状況は 数学界などで、個人や、グループとしてもよく見られる現象である。― 不可能、未解決と言われると、挑戦したいという心情と 解いて、いわば競争に勝ちたい という心情が湧くのは当然で、結構数学の研究を推進する原動力になっているのではないだろうか?
この声明の趣旨は、愛は 共通の基盤、経験、関わりの深さで深まり、我々の心は、生命のあるべき方向での 関わりの深さで 愛も深まるという 観点に想いを致すことである。

                                                        以 上
再生核研究所声明198(2015.1.14) 計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて

まず、簡単な例として、割り算、除算の考えを振り返ろう:

声明は一般向きであるから、本質を分かり易く説明しよう。 そのため、ゼロ以上の数の世界で考え、まず、100/2を次のように考えよう:
100-2-2-2-,...,-2.
ここで、2 を何回引けるか(除けるか)と考え、いまは 50 回引いてゼロになるから分数の商は50である。
次に 3/2 を考えよう。まず、
3 - 2 = 1
で、余り1である。そこで、余り1を10倍して、 同様に
10-2-2-2-2-2=0
であるから、10/2=5 となり
3/2 =1+0.5= 1.5
とする。3を2つに分ければ、1.5である。
これは筆算で割り算を行うことを 減法の繰り返しで考える方法を示している。
ところで、 除算を引き算の繰り返しで計算する方法は、除算の有効な計算法がなかったので、実際は日本ばかりではなく、中世ヨーロッパでも計算は引き算の繰り返しで計算していたばかりか、現在でも計算機で計算する方法になっていると言う(吉田洋一;零の発見、岩波新書、34-43)。
計算機は、上記のように 割り算を引き算の繰り返しで、計算して、何回引けるかで商を計算すると言う。 計算機には、予想や感情、勘が働かないから、機械的に行う必要があり、このような手順、アルゴリズムが必要であると考えられる。 これは計算機の本質的な原理ではないだろうか。
そこで、人間は、ここでどのように行うであろうか。 100/2 の場合は、2掛ける何とかで100に近いものでと考え 大抵50は簡単に求まるのでは? 3/2も 3の半分で1.5くらいは直ぐに出るが、 2掛ける1で2、 余り1で、 次は10割る2で 5そこで、1.5と直ぐに求まるのではないだろうか。
人間は筆算で割り算を行うとき、上記で何回引けるかとは 発想せず、何回を掛け算で、感覚的に何倍入っているか、何倍引けるか、と考えるだろう。この人間の発想は教育によるものか、割り算に対して、逆演算の掛け算の学習効果を活かすように 相当にひとりでに学習するのかは極めて面白い点ではないだろうか。この発想には掛け算についての相当な経験と勘を有していなければ、有効ではない。
この簡単な計算の方法の中に、人間の考え方と計算機の扱いの本質的な違いが現れていると考える。 人間の方法には、逆の考え、すなわち積の考えや、勘、経験、感情が働いて、作業を進める点である。 計算機には柔軟な対応はできず、機械的にアルゴリズムを実行する他はない。 しかしながら、 計算機が使われた、あるいは用意された情報などを蓄積して、どんどんその意味における経験を豊かにして、求める作業を効率化しているのは 広く見られる。 その進め方は、対象、問題によっていろいろなアルゴリズムで 具体的には 複雑であるが、しかし、自動的に確定するように、機械的に定まるようになっていると考えられる ― 厳密に言うと そうではない考えもできる、すなわち、ランダムないわゆる 乱数を用いるアルゴリズムなどはそうとは言えない面もある ― グーグル検索など時間と共に変化しているが、自動的に進むシステムが構築されていると考えられる。 それで、蓄積される情報量が人間の器、能力を超えて、計算機は 人間を遥かに超え、凌ぐデータを扱うことが可能である事から、そのような学習能力は、人間のある能力を凌ぐ可能性が高まって来ている。 将棋や碁などで プロの棋士を凌ぐほどになっているのは、良い例ではないだろうか。もちろん、この観点からも、いろいろな状況に対応するアルゴリズムの開発は、計算機の進化において 大きな人類の課題になるだろう。

他方、例えば、幼児の言葉の学習過程は 神秘的とも言えるもので、個々の単語やその意味を1つずつ学習するよりは 全体的に感覚的に自動的にさえ学習しているようで、学習効果が生命の活動のように柔軟に総合的に進むのが 人間の才能の特徴ではないだろうか。

さらに、いくら情報やデータを集めても、 人間が持っている創造性は 計算機には無理のように見える。 創造性や新しい考えは 無意識から突然湧いてくる場合が多く、 創造性は計算機には無理ではないだろうか。 そのことを意識したわけではないが、人間の尊厳さを 創造性に 纏めている:

再生核研究所声明181(2014.11.25) 人類の素晴らしさ ― 7つの視点

そこでも触れているが、信仰や芸術、感情などは生命に結び付く高度な存在で、科学も計算機もいまだ立ち入ることができない世界として、生命に対する尊厳さを確認したい。

しかしながら、他方、人間の驚くべき 愚かさにも自戒して置きたい:
発想の転換、考え方の変更が難しいということである。発想の転換が 天動説を地動説に変えるのが難しかった世界史の事件のように、また、非ユークリッド幾何学を受け入れるのが大変だったように、実は極めて難しい状況がある。人間が如何に予断と偏見に満ち、思い込んだら変えられない性(さが) が深いことを 絶えず心しておく必要がある: 例えば、ゼロ除算は 千年以上も、不可能であるという烙印のもとで、世界史上でも人類は囚われていたことを述べていると考えられる。世界史の盲点であったと言えるのではないだろうか。 ある時代からの 未来人は 人類が 愚かな争いを続けていた事と同じように、人類の愚かさの象徴 と記録するだろう。 数学では、加、減、そして、積は 何時でも自由にできた、しかしながら、ゼロで割れないという、例外が除法には存在したが、ゼロ除算の簡潔な導入によって、例外なく除算もできるという、例外のない美しい世界が実現できた(再生核研究所声明180(2014.11.24) 人類の愚かさ― 7つの視点)。そこで、この弱点を克服する心得を次のように纏めている:
再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間
以 上









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