2015年12月7日月曜日

「日本の伝統文化が…」急速に進む仏教離れ、消えゆく寺院に海外から惜しむ声 更新日:2015年12月6日カテゴリー:社会あとで読む

「日本の伝統文化が…」急速に進む仏教離れ、消えゆく寺院に海外から惜しむ声
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「日本の伝統文化が…」急速に進む仏教離れ、消えゆく寺院に海外から惜しむ声
 日本の仏教が大幅な衰退の危機にあると、複数の海外メディアが報じている。少子高齢化、後継者不足などのため、現在約7万7000ある寺院のうち、25年以内に約4割・2万7000ヶ所が閉鎖されると予想されている。英ガーディアン紙はこれを、「仏教伝来以来の存続の危機だ」と記す。こうした「宗教離れ」は世界的な傾向だが、日本が特に顕著だと言えそうだ。ロイターは、アメリカの若者たちの「教会離れ」を取り上げているが、そのスピードと規模は日本の「お寺離れ」よりはずっとゆるやかなものだ。

◆地域コミュニティーの崩壊が主要因
 宗教ニュースサイト『World Religion News』は、既に日本の2万以上の寺院が住職のいない「空き寺」だとしている。同サイトは、今後25年間で4割の寺が閉鎖に追い込まれるということは、「もう、美しい庭園を通って参拝することができなくなるということだ」と、日本の伝統文化の衰退を残念がる。ガーディアンも、『Zen no more』という見出しを取り、欧米では「禅」のイメージと重なるクール・ジャパンの危機を嘆いている。

「お寺の衰退は、地方の衰退の写し鏡だ」と、ガーディアンは指摘する。日本創生会議が昨年発表した報告書によれば、若い女性を中心とした「地方離れ」が今のペースで進めば、2040年までに日本の地方自治体の半数近くが消滅するという。寺の運営が地元の檀家の寄付で成り立っていることを考えれば、地域コミュニティーの崩壊がそのまま「仏教の危機」に結びつくのは明白だ。

 仏教の危機に警鐘を鳴らす『寺院消滅』(日経BP)の著書があるジャーナリストで京都・正覚寺副住職の鵜飼秀徳氏は、「住職が金持ちだというイメージは東京や大阪のような大都市では事実かもしれない。だが、他の地域では決してそうではない」と語る。鵜飼氏の寺には約120人の檀家がいるが、生活を維持するには200人は必要だという。鵜飼氏はそのため、ジャーナリストという副業に精を出すことにしたのだという。

◆『坊主バー』などの新発想で対抗するが・・・
 衰退の流れを食い止めるのは容易ではなさそうだ。寺の大きな収入源は1回何百万円ともされる葬儀代だ。高齢化が進み、昨年は130万人近くが死亡した日本では、一見、成長分野のようにも見える。しかし、ガーディアンは「それすらも救いにはならない」と記す。確かに葬儀件数は多いものの、社会全体が後退期にある中、既に伝統的な仏式葬儀にかかる予算を出せない日本人が大半を占めるからだという。民間の葬儀場などで、より安価で簡素な葬儀を行う層が増えているという統計がその根拠だ。

 寺院側にも、葬儀代の大幅ディスカウントで対抗する動きはあるが、ことはお金や人口減の問題だけではなさそうだ。ガーディアンは、「1700年代初め、日本の人口は今よりも1億人少ない3000万人だった。それでも4万6000の寺があったのだ」と指摘する。同紙は、1995年のオウム真理教による地下鉄サリン事件以来、仏教を含む組織的な宗教を「近寄りがたい、暗い、危険」だととらえる日本人が増え、若い世代の宗教に対するイメージがかつてないペースで悪化していることを、仏教衰退の要因の一つに数えている。

 日本の宗教文化を研究している英ランカスター大学のイアン・リーダー教授は、現代日本の仏教は“葬式仏教”だと指摘する。神道と共存する独特のゆるやかな宗教観の中、日本人は「正月には神社で祈り、死んだら寺に行く」と、同教授は米ラジオ局「NPR」のインタビューに答えている。一部の若い住職の間では、衰退を食い止めるためには、この「仏教=葬式」のイメージの払拭が必要と考え、ボランティア活動や音楽会などの文化行事に力を入れる動きも出てきている。特に、宗派を超えた若い住職たちがバーテンを務める仏教バー『坊主BAR』(東京・四谷)は、新しい動きの象徴として、複数の海外メディアに取り上げられている。

◆アメリカでも若者の「教会離れ」
 アメリカでも、「ヤングアダルト」と呼ばれる若い世代の「教会離れ」が進んでいる。ロイターの報道によれば、「神を信じる」という成人の割合は、アメリカは他の先進国よりは高い傾向にあるものの、2007年の92%に対し、2014年は89%に落ちた。「間違いなく神は存在する」と考える人の割合はさらに減少していて、2007年は71%だったのが、2014年は63%となっている。

 この傾向は、1990年から1996年生まれ(20代前半)の「ヤングアダルト」の間で顕著だ。この世代では、「間違いなく神は存在する」と信じているのは約半数で、1928年から1945年生まれの「サイレント・ジェネレーション(失われた世代)」の71%よりも大幅に少ない。また、日常的に神に祈るのは「ヤングアダルト」で39%、「サイレント・ジェネレーション」は67%だという。

 しかし、何らかの信仰を持っているというアメリカ人の割合は77%で、依然として2007年当時と同じ水準を保っている。そのうちの3分の2は毎日祈り、宗教を非常に大切なものだと考えているという。これらの統計を見れば、日本の仏教関係者からしてみれば、アメリカの状況はむしろ羨ましいとさえ言えるのではないだろうか。

(内村浩介)http://newsphere.jp/national/20151206-1/

再生核研究所声明227(2015.5.2) 日本の仏教の在り様についての疑問、キリスト教との奇妙な違い

(これは 90歳のおばあさんが 散歩の折り 休んで行かないと椅子を用意してくれたとき、神の問題と人間の終末における仏教とキリスト教の違いを話し、意見が一致した点における 仏教の在り様についての問題提起である)
その時、神様は存在しますか と聞いたのであるが、きっぱりと にこやかに 存在すると言明されたのは印象深い。しかし、神についてさらには詳しくは聞かなかった。記憶は何でもどんどん薄れていくといっていた。しかしながら、次の神の概念は 諒として微笑みをもって受け入れられたと思う:

再生核研究所声明122 (2013.8.1): 神の存在と究極の信仰 - 人間よ 想い煩うことはない。 神は存在して、一切の存在と非存在を しっかりと支えられておられる、 人は必要なときに必要なだけ、 念じるだけで良い。

そのときは、マリア様と幼児キリストの代わりに、お母さんと懐かれている赤ちゃんの喩えで話した。本声明の趣旨を述べる背景として、次の文脈を参照したい:

再生核研究所声明221(2015.4.3) ある数学者の仏教解説
― (前略): このように素晴らしい仏教の世界を みると、日本の仏教界の現状については 返す がえすも 残念に思われることがある。
日本の仏教が、葬式や先祖さまの供養ばかりの存在に 感じられて、生きた生活や社会に十分活かされていないのではないであろうか。仏教はもともと、人を救い、社会に活かすべきものとして、発祥、発展したのではないだろうか。日常に起きる、心の悩みや社会の問題に 仏教が本質的に大きな役割を果たせる思想を持っているのは自明であり、社会に活かせない状況は、誠に残念であると言わざるを得ない。
カトリック教の熱心なヨーロッパの田舎街で5年間暮らしたが、そこでは日常的に 教会は活動していて、土曜日や日曜日、祭日など教会は人々で溢れ、街は沢山の教会を有し、祭司様は 街の尊敬と親愛、信頼を受けていて、代表的な国立大学の卒業式にも臨席される程である。教会が街の精神的な支柱、中枢になっていることが良く分かる。
人々は人生を肯定され、安心して魂を天に返され、その際、親族の嘆きはそうは深くはなく、淡々としており、間をとってから、親しい友人たちをレストランに招待して、心を切り替えているようであった。教会はいろいろな相談や悩みなどを議論するサロンのような機能さえ果たしていた。

本声明の趣旨を 簡潔に次のように表現したい: キリスト教では 終末 人が生きている内に天にかえる心構えをさとし、人は人生を肯定して安心して 逝かれるに対して、多くの仏教の場合は如何であろうか。死んだ後に お経をあげているのが現状ではないだろうか? 一番大事な時にいなくて、済んでから何かされているようではないだろうか? ― ここは、生きている人に、みなさんもこのようになると 実は生きている人に対してさとしているのであろうか。 先祖さまの供養も 同じような意味を持つとも考えられる。 仏教徒は ゆかしいからそうかも知れない。― 他方、多くの宗教の大きな意義が 死からの解放、自由 にあるのではないだろうか。お釈迦様は 死者を弔うために、先祖さまを供養するために いろいろ教えられたのではなくて、 人々を救うために努力されたのではないだろうか。
この観点、多くの仏教徒に 仏教の在り様について、検討して頂きたいと考える。 折角の素晴らしい宗教が、お釈迦様の精神 が活かされていないのではないかと、感じている。この観点は 上記90歳の素晴らしい おばあさんの気持ち と一致していると感じた。
日本の神道も 素晴らしいのに、上記のように活かされていない面が多いのではないだろうか。― もっとも、神道は 無言で 雰囲気で伝えようとしているようにもみえる。

以 上


再生核研究所声明235(2015.6.17)西行花伝 ― 辻邦生、新潮社を読んで – 出家について

著書の再読を始めたが、今回(前回声明233、234)は 西行の 出家 について興味深いので、動機、考え方、人生、世界の捉え方などについて印象を述べたい。まず、出家の語を確認して置こう:

出家(しゅっけ、巴: pabbajja、梵: pravrajyaa、प्रव्रज्या ) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏門に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。
在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。
仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。(ウィキペディア)

まず、大事な言葉を引用しよう(その辺の精読を勧めたい):

親友を突然失って、憲康が亡くなったとき、あの虚しい明るい初夏の光が漲り渡っていた朝、私は憲康とともに死んだのだと思います。
形は生者ですが、心は浮世を超えた者になっています。
清盛のいう武力と権能があくまでもこの世のものだということ、それは浮島に似た浮世のなかだけのこと、
身が軽々となったのは、浮世の外が、ただこの世の花を楽しむ空間であり、雅の舞台あり、事が 成る 成らぬ から全く免れている場所だからでした。
無偏上人の質素な庵を訪ねて、これこそが私たちの住むべき家だとは思わないか。 森羅万象の喜びが、まるで唱和する歌声のように、この小さな庵に響いているではないか。
鳥羽院に、私は理屈の何もなく、 院が足を置かれる大地を、虚空に中に作らなければならない、と思いました。そしてそれを作れるのは言葉だけ、歌だけだ、と咄嗟に考えた。
この世を法爾自然として感じるためだったと 捉えた。
さらに次の言葉に 人生の在り様、志の方向が現れている: でも、歌が人々を支える大地になったとき、生と死を超えるあの何か大きなものも、きっと私に分かるようになるのではないだろうか。
あらすじは次のように纏められるだろう: 西行は才能に恵まれた、相当な豪族の棟梁であり、宮廷でも相当な地位にあり、 いわゆる立身出世には 相当に有望であったが、政情不安と宮廷内の権力争いの醜さには相当に詳しく、 清盛や頼朝のような世界を志向せず、逆にそれらを浮世と見て、浮世を離れた世界を求めた。生きる目的も上記に述べられているように 相当に明確に 志として述べられている。
出家の直接の動機は、親友の突然の死であるが、もともと、出家するような背景は強く存在していたと言える。これは生まれながらの性格の影響も強く、いつの時代でもそのように志向するものはいるものである。 西行の場合は、普通の出家と違って、歌を詠むこと、自然とともに存在して、歌に表現する事を相当しっかりと志していることは生涯に見ることができる。質素な生活の中から、より自然にとけ込み、生きることの喜びを歌に表現することを生きがいにされていたように思われる。いろいろなところで開かれた歌会では相当に優遇され、人間関係, 交友関係も広く、相当に充実した人生であると見える。 生活の記念碑は歌に表現されて、歌集などに発表、採択されるなど、現在の芸術家, 研究者たちと同じように道を求める存在で、大いに共感、共鳴を受ける。
自然とともに在って、歌に表現することを そのように深く捉えた文化は、 相当に日本の深い文化ではないだろうか。歌の中に人生、世界が表現されているとして、歌に如何に深い思いを入れられたかは、当時の文化の驚嘆すべきものではないだろうか。良い歌を作れるは、恋の成就や出世の大事な要素だったとは、如何にも優雅な文化と理解される。
研究者や芸術家のようであったと言えば、現在の我々との相違はどこにあるだろうか。
何といっても、自然とともに歩む心、それは、生活環境、食生活などの簡素さ、いくら大豪族の棟梁の立場といっても、現代人の生活からすれば、想像もできないほどの簡素さである。優雅な生活を営める立場であったものを そのように厳しい生活を選択されていること、この事実は大いに省察に値するのではないだろうか。食生活の質素さ、生活環境における厳しさの中で、900年も前に、73歳の天授を全うされていることも注目に値する。二人の子供を有し 恵まれた家庭と裕福な生活を放棄しての出家であることにも触れておきたい。
 健康、健康、健康食品と にぎはしている 現代の世相、美食を求めている世相とは 相当に違う人生の有り様である。生活面における修行と仏教の関係について、人として生きることの意味を問うていきたい。仏教との深い関わりについては、 著者は宗教に深い理解があるとは思えず、そのへんは表現されていない。
出家と歌の世界、世界の文化でも相当に特徴のある深い文化ではないだろうが。 日本人の相当な精神の基礎を与えていると言える。 勅撰和歌集などの概念も 極めて面白いと評価したい。その美しい伝統は 歌会始の儀 や広い層を持つ歌や俳句を楽しむ文化に受け継がれている。

以 上









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