2014年12月6日土曜日

知事の「公表」問題で揺れた全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)、本来の目的は何だったか - 渡辺敦司

知事の「公表」問題で揺れた全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)、本来の目的は何だったか - 渡辺敦司

文部科学省(文科省)が毎年実施している全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)について、静岡県の川勝平太知事が全国平均以上の成績を挙げた学校の校長名や市町別成績を独断で公表した問題が、一応の決着を見ました。一時は下村博文文部科学相が調査の実施要領違反を理由に、違反が続けば同県には調査結果を提供しない構えを見せていたのですが、全国知事会との意見交換の席で両者が直接会談して「ルール違反については理解していただいた」(下村文科相)として来年度以降も提供を続ける考えを示したからです。今回の騒動から何を読み取るべきでしょうか。
川勝知事は2013(平成25)年度の調査で、小学6年生の国語A(主に知識を問う問題を出題)の平均正答率が47都道府県内で最低になったことに激怒し、平均正答率の下位100校か平均点以下だった学校の校長名を公表したい考えを表明して同県教育委員会はもとより文科省とも対立。結局は独断で全国平均「以上」となった86校の校長名のみを50音順でウェブサイトに載せました。2014(平成26)年度の小学校国語Aの平均正答率は全国平均値並みに急上昇したものの、「努力をたたえたい」として昨年と同様の方法で262校の校長名を公表しました。併せて、市町別の各テストの平均正答率も公表しました。
こうした川勝知事の行動には、いくつかの問題があるのも確かです。たとえば、同県教育委員会の同意を得ていないことです。教育行政は首長ではなく教育委員会(選挙管理委員会などと同じ「行政委員会」の一種)が執行することになっています。この点は教育委員会制度が改革(外部のPDFにリンク)されて首長の一定の関与を認める2015年4月以降も、変わることはありません。ただ知事が教育委員会の了解を得ていたかどうかなど、見解の相違もあるようです。
そうした静岡県の細かい事情は、ひとまずおいておきましょう。テスト結果の公表問題は、ほかの自治体でもくすぶっています。ここで、本質に立ち返る必要がありそうです。それは、「全国学力・学習状況調査は、何のためにやるのか」ということ、そして、結果をどう受け止めるべきかということです。
文科省の実施要領によると、児童生徒の学力や学習状況を把握し、教育指導の充実や学習状況の改善に生かすとともに、継続的に改善できるサイクルを確立することがねらいです。そのため結果についても、個別の成績を公表する場合には数値だけでなく分析や改善方策もセットにして公表すべきことを定めており、その取り扱いについては通知でも別途、注意を促しています。
川勝知事は「学力や子どもの教育の責任は先生にある。学力低下の責任も、学力が戻ってきた功績も先生にある」と、校長名を公表した理由を説明しています。ただ、肝心なのは結果の責任追及や賞賛よりも、どうやって今後の「改善」(文科省実施要領)に生かすかです。そのためには教育行政の執行機関である教育委員会の対応はもとより、予算をつける権限を持つ知事など首長の役割も大きいことは、間違いないでしょう。http://blogos.com/article/100367/
公表より、限定的に行い、参考資料にするのが 良いのでは。
何でも公表は、誤解、混乱の下では?
再生核研究所声明 17 (2008/7/25)  教育界の改革を求める
大分県の教育界における不祥事は、いくら日本国が 空虚な日本の社会(再生核研究所声15)といっても 流石に健全な批判が湧いてきたのは当然である。身近な点から問題点を考察すると、試験がたとえ公正にできたとしても、全然問題は解決しないのではないでしょうか。 第一に、試験問題が適切であるかどうか、広く日本中で検討してみる必要があるのではないでしょうか。さらに、面接試験という大事な場面を迎えますが あのような体質で、より良い学生を公正に選ぶことができるか 検討する必要があると考えます。
試験内容について、例えば、数学専攻で、教育学部長をされた ある先生の嘆きを思い出します。大学でいくら専門の数学を熱心に勉強しても 専門の数学は採用試験には出題されず、大学受験や高校程度の数学の問題しか出題されず、それで、大学で熱心に勉学している学生よりも、家庭教師や塾でアルバイトをしている学生の方が有利になってしまい、実際、合格率も高いという嘆きです。これでは数学教育界が、数学の本当の精神や深い専門的な内容などよりは 受験勉強に代表されるような問題解きの技術の勉強になってしまうのではないでしょうか。 実際、入学して来る多くの大学生は 数学は問題解きであり、多くの技術を学ぶのが数学だと思っているのが現状ではないでしょうか。これでは創造性豊かな教育や本来の数学教育の目標からは ほど遠いのではないでしょうか。
一般に試験について、何十年も前に あるラジオ ニュースで聴いたことが なぜか何時も気になります: ネジの検査で、良いものを落とし、悪いものをわざわざ選んでいたというのです。わざわざ数学嫌いな生徒を育てたり、悪い教育を行っているような事は 至る所に見られる現象ではないでしょうか。
他方、教育には善良な市民を育成するという大事な面があるはずです。その大事な考えの一つには個性を活かし、公正な社会を実現することにあるのではないかと考えます。しかし、教育委員会の指導的な人達が 自ら信じられないような不正を行っていて、そのような方々が面接したり、教員を指導しているという事は如何なものでしょうか。大分で起きた事件は 大分県の特殊性から出てきたものではない以上、日本中で同じような状況ではないでしょうか。人事の刷新を行い、教育改革を進めるように訴えます。
このような状況で、教員更新性の導入を行えば、教育界はますます混乱し、よい事は何もないと考えます。マイナス要素を挙げてみたいと思います。
(1)教員の忙しい状況の中で、さらに時間と余計な気遣いの負担を増加させる。
(2)財政難で国がおかしくなるような状況の中で、さらに大きな資金と労力をかける事になる。
(3)更新講習は形式的になり、効果が望めず、逆効果が考えられる。また講習で改善されるような教員は初めから、問題が無いと考えられる。
(4)更新されなかった教員の生活や身分の問題が解決できなければ、結局更新の問題は解決できず、いわば余計なことをすることになる。
(5)このような制度の導入そのものが、教員の身分を不安定にし、教育上良くない効果を生むと考えられる。
などなどですが、そのようなことに 時間とお金 をかけるくらいならば、
忙しい先生に休暇とお手当てを配布した方が 遙かに効果的ではないでしょうか。
日本国の再生のために、試験問題の作成委員や面接する人を 見識ある人物に代えるばかりではなく、教育界の全般的な改革と刷新を行うように 多くの関係者に求めます。またマスコミの積極的な取り組みを要請致します。 以上。

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