2018年10月14日日曜日

他的疯狂,意外奠定了现代数学基石 发布时间:2018-10-09 出品:科普中国 制作:黄守明

他的疯狂,意外奠定了现代数学基石
发布时间:2018-10-09
出品:科普中国
制作:黄守明
监制:中国科学院计算机网络信息中心
  说无穷,道无穷
  从古希腊始,毕达哥拉斯学派就开启了对整数的研究。整数以及整数之比被认为是穷尽了自然界所有数字的奥秘,直到无理数的发现颠覆了人们对数的观念。此后,人们小心翼翼地处理着和无理数相关的所有知识。然而,不管是有理数还是无理数,都是基于“有限”的数,没有人会试图回答“无限”的问题。
  无限多,无限大,那只对应着哲学上的概念,又或者人们仰望浩瀚的星空时对宇宙产生的卑微认识。那是一个自古即被认为是神所专属的领域。每一个尝试理解无穷的人,都会面临着无法逾越的天堑。
数学家高斯(图片来源:百度图片)
  两千多年后,人类历史上最伟大的数学家高斯(Gauss)在面临“无限”这一高耸的科学险峰时,曾表达过他对“无穷”的恐惧。高斯说道:我反对把无穷做为一个完全的东西来使用,在数学中绝不允许有这样的用法。无穷只是说话的一种表达方式,其真正的含义只能表示为一个数可以无限制地增大。
  康托敏锐地发现了高斯断言中的疑点。他认为高斯所表达的无穷仅仅是一个“潜无穷”,即这样的无穷是一个可以增加到超出任何有限限制的、可变的有限量。康托认为还应该存在一个“实无穷”,即它是一个超出所有有限量的固定的常量。康托的这个观点可谓石破天惊。也正是这个观点,驱使着康托为所有可能的无穷量寻找可以辨认的规则。
数学家戴德金(图片来源:百度图片)
  事实上,19世纪下半叶,数学家对分析的严格化运动已经迫切需要对无穷概念的澄清。德国的另一位大数学家戴德金(Dedekind)首先尝试对“无限”的初步解读。他发现,一个无穷系统和有限系统有如下本质区别:无穷系统能和自身的一部分相似,而有限系统却无法做到。
  1873年,年仅28岁的康托也萌发对集合与无限等问题的浓厚兴趣,并且以初生牛犊的无畏精神向这个问题发起了猛攻。功夫不负有心人,康托找到了研究无穷集合度量的方法。
  在康托的设想中,一个拥有无穷多元素的集合可以计算其元素个数,而两类无穷多事物的集合个数还应该能比较大小。更进一步,整数的集合个数所组成的无穷和实数的整体集合组成的无穷应该能加以区分。所有的这一切,都依赖于集合度量的关键概念:一一对应,以此作为衡量集合大小的一把标尺。
  康托提出,如果两个集合之间能够建立一一对应关系,那么它们的个数就应该被认为是相等的。
  同年12月7日,他把自己的发现写信告诉了戴德金。多年后,人们把这一天看作是集合论的诞生日。
  一年后,康托遇到了戴德金。在和他进行充分交流后,康托将关于集合论的研究成果发表了出来。在这篇论文里,康托建立了类似全部代数数集合的构想。该构想得出了匪夷所思的结论,却极具开创性的意义。
  此后十年,康托继续在这个领域潜心耕耘,并陆续发展了基于无穷的超限数理论,还创造了类似于有限数运算的超限数算术。他的实无穷论,成了过去2500年来数学历史上最具独创性的贡献之一,旋即在数学界引发了轩然大波。
  在此观点下,康托发现,任何一个无穷集合都至少包含一个自然数集合,因为每一个元素都至少可以被以自然数1,2,3…等等的顺序标识出来。这样,如果把全体自然数集合的个数记为“阿列夫零”(即最小的无穷),那么任何无穷集合的个数最少也有“阿列夫零”个。康托沿着自己的想法步步深入这个从未被人窥视过的领域,一个令人惊愕的结论随之诞生。全体实数组成的集合个数如果记为“阿列夫”个,那么“阿列夫”不仅远远大于“阿列夫零”,而且恰好等于2的“阿列夫零”次方!原来无穷也可以比较大小,而且还有确定的恒等式揭示这一奇妙的关系。
  此后,无穷世界的大门终于向世人敞开。尽管彼时还有很多人在门外观望,甚至一些人还会不顾一切地拦住试图进入门内的探险家们,但是乐园的芬芳已经溢出,门内透露出的点点金光预示着它将给予最勇敢的人以最慷慨的赏赐。
  向无穷献祭
  康托的集合论认为,一个无穷的集合可以和它的子集拥有一样多的元素。这大大超乎人们关于“整体大于部分”的直观印象。因此,从一开始,康托的构想就得不到多数人的理解。法国大数学家庞加莱(Poincare)甚至认为康托的集合论是一种疾病。德国数学家外尔(Weyl)、克莱因(Klein)也不约而同地认为,康托尔关于集合基数的等级观点是“雾上之雾”,其思想太过离经叛道。原本是康托的好友,数学家施瓦兹(Swartz),甚至由于反对集合论而同康托断交。
  在所有反对康托的数学家中,最激烈的莫过于他的导师克罗内克。
数学家克罗内克(图片来源:百度图片)
  康托关于集合论的结论主要是基于存在性的证明,而克罗内克一生所秉持的信念则是构造性。他坚定地认为一切东西只有构造出来才能谈存在,而不能用无法确定的古典式逻辑以推理形式给出断言。一个没有具体构造方法得出的证明,在克罗内克看来,都是虚妄的废话。因此克罗内克将康托的结果看成是危险的数学存在。
  克罗内克不能容忍数学被康托带领进入疯人院,他狂热地认定自己坚持的真理才是数学的正道,因此动用他所有的权势开始对康托展开反攻。康托论文的稿件被他长期压制扣发,他在公开场合批判康托是神经病,是科学的骗子和叛徒,其思想不啻为“近十年来最具兽性的见解”。
  康托任职于哈雷大学,由于薪金单薄,他曾希望进入柏林大学任教。但是受到身为柏林大学教授克罗内克的处处阻挠,康托终身没能进入柏林大学的殿堂。在长期的压力下,康托脆弱的神经终于崩溃。康托在“众叛亲离”的学术环境下感到深深的自责与沮丧,少年时养成的性格让他更加自卑。他不敢去和克罗内克据理力争,甚至开始怀疑起自己工作的正确性,一度要求哈雷大学将自己从数学系教授转为哲学系教授。1884年,年仅39岁的康托罹患精神分裂症。
  此后多年间,康托只能在身体稍有恢复、头脑清醒时,继续开展他的研究。直到1891年克罗内克去世,反对康托最大的声音终于消失。数学界对康托的误解才渐渐消除。1895年,康托发表了他一生最后一部重要的数学著作——《对超穷数论基础的献文》,他的理论很快引起世界各国同行的重视。
  1897年,在第一届世界数学家大会上,法国数学家阿达玛(Hadamard)报告了康托的工作。此后,人们逐渐意识到康托的集合论在分析、测度论、拓扑理论等研究中有巨大的应用价值。康托终于得到了应有的荣誉。
  1918年1月6日,康托在哈雷的精神病院辞世。
  世人终于将荣誉还给迟暮的英雄。大数学家希尔伯特(Hilbert)高度赞誉康托的集合论“是数学天才最优秀的作品,是人类纯粹智力活动的最高成就之一,是这个时代所能夸耀的最巨大的工作,没有任何人能将我们从康托所创造的伊甸园中驱赶出来”。
  现代数学的基石
  几乎所有数学都会研究特定的对象。这些对象,从具象化的数、点、图形,到抽象的概念,都组成一个个研究的集合。因此,集合论从诞生起就是研究一般集合的性质。两千多年来,人们对有限集合的研究已经渐入佳境,但是只有从康托将无限集引入到集合论开始,人们才意识到无限集合与有限集合的重大差别。分析中关于实数、极限、连续等等的概念都涉及到无穷集合的性质,康托的发现无疑为分析的严格化奠定了坚固的基础。不仅如此,对基本元素和集合普遍性质的研究很快就渗透到数学的各个分支当中,康托的集合论逐渐成为整个现代数学的基础。
  尽管如此,这个基石依然很快被发现了裂痕。1902年,英国数学家罗素(Russell)在康托一般集合论的边缘发现了一个悖论。该悖论直指集合论的核心——关于集合的定义。并非所有具有某种性质的抽象概念都能作为元素,并组成一个集合。此后,众多数学大家开始为修补数学大厦的裂痕而提出非同寻常的见解。
  此后三十多年,集合论后续的发展陆续为数学的广大版图添加新的领地——包括全新的逻辑理论。为了彻底解决罗素悖论,希尔伯特提出了一个宏伟的计划。他希望遵循古希腊的科学传统,通过建立一套类似欧几里得的公理体系来排除悖论的产生。然而这个计划很快被奥地利数学家哥德尔(Godel)颠覆。哥德尔在他的“不完备定理”中指出:任何一个数学的公理化体系都不是“完美的”。任何数学公理化系统都需要人为地从外界注入新的公理才能让它日趋完善,而它自己并不能完全自动避免矛盾产生。
  由康托开创的集合论衍生出越来越多超乎想象的成果。一方面,康托在集合论中发明的一一对应的对角线方法,成了哥德尔证明不完备定理的利器。该定理揭示了完美的数学并不存在,其威力不亚于数学天空下的核子弹,并很快冲击到自然科学的每一个角落,甚至影响了人们的世界观和价值观。不仅如此,该方法也启示了图灵在20世纪早期发明了图灵机,为计算机的诞生铺平了理论的道路。
计算机科学之父——图灵(来源:百度图片)
  如今,距离康托去世已整整一百周年。人们不应忘记每个为追求真理而献身的科学英雄。人们也应该了解到科学研究的道理,从来都是蜿蜒曲折,巨大的独创性甚至往往不会受到科学界的欢迎。因而颠覆传统的人,即使被发现具有巨大的价值,也可能受到顽固正统观念的束缚和压迫,从而走得步履蹒跚。尊重创新,不仅仅是一句口号,更是需要行动的巨大支持。
  但愿,人类历史上的悲剧不再重演,所有为真理做出巨大贡献的人的名字,都能在当世得到应有的赞誉和颂扬。
  (本文中标明来源的图片均已获得授权)http://www.kepu.net.cn/gb/ydrhcz/ydrhcz_zpzs/ydrh_201810/201810/t20181009_31475.html

ゼロ除算の発見は日本です:
∞???    
∞は定まった数ではない・
人工知能はゼロ除算ができるでしょうか:

とても興味深く読みました:2014年2月2日 4周年を超えました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所


ゼロ除算関係論文・本

再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
天才ガウスは生存中に既に数学界の権威者として高い評価と名声を得ていた。ところが、2000年の伝統を有するユークリッド幾何学とは違った世界、非ユークリッド幾何学を発見して密かに研究を進めていた。この事実を繰り返し気にしてきたが、ガウスは結果を公表すると 世情か混乱するのを畏れて公表をためらい、密かに研究を続けていた。ガウスの予想のように、独立に非ユークリッド幾何学を発見、研究を行って公表した、数学者ロバチェスキー と若きヤーノス・ボヤイは 当時の学界から強い批判を受けてしまった。
ガウスの心境は、十分にやることがあって、名声も十分得ている、ここで騒ぎを起こすより、研究を進めた方が楽しく、また将来に遺産を沢山生産できると考えたのではないだろうか。現在の状況より、歴史上に存在する自分の姿の方に 重きが移っていたのではないだろうか。
このような心理、心境は研究者や芸術家に普遍的に存在する未来に生きる姿とも言える。いろいろな ちやほや活動、形式的な活動よりは 真智への愛に殉じて、余計なことに心を乱され、時間を失うのを嫌い ひたすらに研究活動に励み、仕事の大成に心がける、未来に生きる姿といえる。
しかしながら、この未来に生きるは 実は当たり前で、生物の本能であることが分る。世に自分よりは子供が大事は 切ない生物の本能である。短い自己の時間より、より永い未来を有する子供に夢を託して、夢と希望を抱いて生きるは 生物の本能の基本である。生物は未来、未来と向かっているとも言える。
そこで、ゼロ除算が拓いた新しい世界観に触れて置きたい。未来、未来と志向した先には何が有るだろうか。永遠の先が 実は存在していた。それは、実は始めに飛んでいた。
そこから物語を始めれば、実はまた 現在に戻り、未来も過去も同じような存在であると言える。- これは、現在は未来のために在るのではなく、未来も現在も同じようなものであることを示している。
現在は 過去と未来の固有な、調和ある存在こそが大事である。将来のためではなく、現在は現在で大事であり、現在を良く生きることこそ 大事である。ガウスについていえば、ちょうどよく上手く生きたと評価されるだろう。- ただ人生を掛けて非ユークリッド幾何学にかけた若き数学者の研究を励まさず、若き数学者を失望させたことは 誠に残念な偉大なる数学者の汚点であることを指摘しなければならない。
以 上

再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
数学、数学の本質論については 次で相当深く触れた:
また数学の社会性の観点からは、
再生核研究所声明 392(2017.11.2):  数学者の世界外からみた数学  ― 数学界の在り様について 
で触れ、違った観点から、数学の本質論と社会への影響について述べた。さらに
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになるが、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、逆に、未来人が高い評価を与える場合もある。
そこで自然な考えが突然浮かんだ:
2017.11.13.10:45 突然、この流れで考えが湧いた。数学を芸術として楽しもうという新しい分野の創造の提案である。
数学は抽象的な理論、文章や式で表される場合が多く、社会の一般の方の理解が難しい不幸な状況にある。数理に興味を抱く多くの人々を遠ざけ、数理に喜びや楽しみがあるのに、スポーツやドラマ、芸術、文学などに比べて民衆の享受に寄与していないのは、数理の美しい世界の存在に比べて誠に残念な状況であると危惧される。― 数理の話題、ニュース、情報の極端に少ない現状からそう判断せざるを得ないのではないだろうか。数理科学を楽しみ、数理の世界の社会貢献、裾野の広がりを求めて、数学芸術 分野の創造と発展を提案したい。少し、具体的に触れるが いろいろな衆知を集めて構想そのものの進化を期待したい。
数学芸術は 数学の内容を、絵画やその他の手段で簡明な表現を求め、音楽や絵画が感動を呼び起すように 美しい表現を追求していく。
数理科学の社会的文化的基盤を拡充、充実発展させ、数理科学を芸術のように楽しみ、かつ 真智への愛 を育てる。
以 上

再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い


人間生きて居れば楽しいとき、苦しいとき、感情の起伏は避けられない。人間の感情は絶えず揺れ動くものである。数学の研究におけるそのような感情の起伏を回想しながら纏めてみたい。
研究の初期であるが、何を研究するか、研究課題の選択は非常に難しく一般には研究生活における苦しい時期ではないだろうか。もちろん好きだから数学を専攻したのだから、学んでいるときには新しい世界がどんどん広がって、楽しいが、新しい結果を得るには一般には容易なことでないと言える。広く深い現代数学において研究課題の選択は研究者の将来を相当に定めることになる。一般には好きな分野での好きな指導教授の数学の範囲での選択に成る。そこで、何か新しいことを発見、解決して、論文を出版することが大事な目標になる。論文を出版する事は博士号の取得や研究職に付くための条件に成るから、何が何でも論文を書くが 直接の目標になる。この時、手っ取り早い方法は提起されている問題を解決したり、読んだ論文の内容の一般化、精密化、類似の理論の展開などであるが、それらとて甘くはなく、いずれもそれぞれの専門家が出来なかったこと、気づかないことの発見、新規な展開だから、研究は厳しく、研究の初期は誠に厳しいものであると考えられる。- 数学を志す者にはいわば優秀な人が多く、難なくここを踏破していく者も多い。しかし、簡単に踏破していくような人は行き詰る場合も多く、苦労して研究課題を自分に合ったように選択した者は、最初は遅れても永く研究が続く面もあるようである。- この観点からは、早期の成果を期待し過ぎの風潮は問題があるのではないだろうか。何事初期の取り組みが大事なようである。専門化、高度化の厳しい現代数学、簡単には研究課題は変えられず、生涯の研究の方向は 多くは初期で決まっている現実があると考えられる。― これは何でも飛び越えていくような天才的な人を想定しているのではなく、一般的な数学者を想定している。
1つの研究課題で論文が連続的に書けるような時代に入れば、充実した研究生活で、創造活動ができる輝ける時代を歩めるのではないだろうか。新しい考えが湧いたとき、思わぬことを発見したとき、またそのような予感がする時は 研究者の充実しているときであると言える。良い考えが湧いたときなど、眩暈がするほどの喜びが湧き、それは苦しいほどであると表現できる。発見の瞬間、得た結果の評価に対する共感、共鳴は人間の最高の喜びの類に入るだろう。評価が違って共感が得られなかったり、論文執筆上の形式的な気遣いは研究生活における影の部分に成るが、それが研究の芽に成るので、苦しみも喜びの内と考えるべきである。研究課題の行き詰まりもそうである。行き詰るから新しい芽が出てくるのである。苦しみと喜びは絶えず変化し、喜びも苦しみも区別がつかず、その活動が研究生活と言える。
若い研究者の博士号取得、就職、そしてパーマネントの研究職に付くまでの厳しさは回想しても苦しい、修業時代と言える。しかしそれらが、生涯の研究の基礎に成る。
所謂論文投稿から採否決定までの間、永さは 研究者にとっては一般に苦しい状態ではないだろうか。研究成果を評価に活かせないからである。その点、インターネットの普及で論文原稿をアーカイブなどで公開できるシステムには 格段の進歩と高く評価される。- 英文書き換え要求に対して 多くは1週間かけて 進んだIBM 修正機能付きの電子タイプライターで書き替え、原稿の送付と返事にさらに2週間掛ったが、現在は、修正は分単位、何回でも書き換えができて、連絡は1日で十分である。素晴しい時代を迎えていると言える。
研究者の嫌なこととは集中している折り、いろいろ雑用が入ることではないだろうか。一心不乱に研究に専念しているとき、それを乱されるとき、本能的に嫌がるのは自然な心で、心此処にあらずの状況は良き家庭人や良き親であることの余裕を失わせ、いろいろ良からぬ家庭問題や対人関係を作りかねないと憂慮される。大学の法人化後の日本の大学の多くが研究者の大事な自由な時間と余裕を失なわしめ、逆に雑用を多くして、研究者を虐待しているように感じられる。5年間ポルトガルの大学から研究員として招待され、研究に専念できたが、過ごした経験から、あまりにも大きな違いを感じて 唖然としている。
それから、数学の研究成果の発表では 間違いをおかしてはならないことは 相当に厳しい原則であるから、投稿したら、間違いがあった、出版済みの論文に間違いを発見した等の場合には、相当ショックで、相当に苦しい心理状況に追い込まれる。研究上の相当な時間は 繰り返し不備はないか、間違いはないかの省察の時間ではないだろうか。絶えず、大丈夫か、大丈夫か、間違いはないか、間違いはないかと自問していると言える。もちろん、理論の全体の在り様に対する想いは、真智への愛 である。
以 上

再生核研究所声明 402(2017.11.19): 研究進めるべきか否か - 数学の発展
ここ一連の声明で数学について述べてきた:
再生核研究所声明 397(2017.11.14): 未来に生きる - 生物の本能
再生核研究所声明 398(2017.11.15): 数学の本質論と社会への影響の観点から - ゼロ除算算法の出現の視点から
再生核研究所声明 399(2017.11.16): 数学芸術 分野の創造の提案 - 数学の社会性と楽しみの観点から
再生核研究所声明 400(2017.11.17): 数学の研究における喜びと嫌な思い
再生核研究所声明 401(2017.11.18): 数学の全体、姿、生命力
数学の本質論については 次で相当深く触れた:
ここでは、現実の問題から、研究姿勢、路線について具体的に考察したい。
数学とは基本的に、ある仮定の下に導かれる関係の全体である。関与する数学者にとっては、その体系に魅せられ関係を追求していくことになる. しかし、他の人にとっては、あるいは社会的には、それらがどのような意味、影響を与えてくれるかが 人が興味、関心を抱くか否かが大事な問題であると言える。他からみれば、興味、関心、影響を与えないようなものは 存在していないようなものであるから、それだけ人にとっては価値がないものであるとも言える。― もちろん、未来人が高い評価を与える場合もある。また、
デカルトの円定理:
定理は3つの外接する円に対して、それらに内接する円と外接する円の半径を、3つの円の半径で表わす公式を与えたものであるが、その公式は美しい形を有している。ところで、円の半径がゼロならば、点円、半径が無限大ならば、直線になると考えられる。後者の解釈については、ゼロ除算算法の導入で、直線とは中心が原点、半径ゼロの円と見なせるという知見をもたらした。点も直線も円の1種であるという考えから、それではデカルトの美しい定理で、円を直線や点の場合にも成り立つかと考えた。ゼロ除算算法で、2つが円で1つが点以外は、そのまま成り立つことが確認され、この例外である場合に、驚嘆すべきことが分った。3つの円が接しているとき、デカルトの定理は成り立っている。そこで、1つを点に近づけ、点に成ったときにデカルトの定理がどうなるかを調べた。点のときは内接円も外接円も存在しないから、デカルトの定理は成り立たないと考えられる。ところが、点に成ったとき、ゼロ除算算法で解析すると、その点は3つの場合に突然、変化する現象が現れた。点以外に、美しい円が2つ現れる。これらの円について、デカルトの定理を成り立たせる解釈が存在することが分った。― 点が変化して、変化した円で、デカルトの定理が成り立っている。専門家 奥村博博士と論文を執筆中である(2017.11.5.6.57)。この予稿版は2017.11.14に公刊された:https://arxiv.org/abs/1711.04961
そこで、次の研究課題として、如何に進めるべきかを考えている。当面研究課題が無い場合には、課題を探すことになる。しかし今回の場合には、次々と研究課題が存在することが分る。まずは、デカルトの円定理、外接する3つの円が、2つ交わった場合、3つ交わった場合どうなるかの問題が存在する。さらに、今回考えたように、その円の幾つかが、点や直線になった場合にはどうなるかの問題がある。それらの研究内容は今回の論文の6倍から、12倍以上の内容が存在することが予想される。数学の常道である多次元化を考えれば、それらはそれらの研究課題は20倍を超える世界で、挑戦すれば、1冊の著書と生涯の仕事に成り得ると考えられる。そこで如何に進むべきかと思案することになる。論文を出版する事が要求されている場合など、特に他に挑戦する課題が無い場合には、とりあえず、それらの大きな計画の最初の2,3歩を歩み出したいと考えるだろう。より良い課題を持っていれば、その課題に当面挑戦したいと成るだろう。その時の価値判断は 純粋な個人の思いと社会的な影響や共同研究者の意見、希望等が影響するものと考えられる。純粋な個人の価値判断と対社会的な反響に影響されることになる。このとき、その個人の数学観、人生観、価値観などが影響を与え、そのような経緯がその個人の数学を発展させていく原理になる。
今回の場合には、ユークリッド幾何学の世界は、やれば何でもできるので もはや興味も、関心もないという考えが基礎にあるが、全く新奇な現象が出ると分かれば、新規な現象になれるまでは、研究を続行したくなるだろう。人間の心とは極めて微妙で やればできるとなれば、大きな魅力は失われ、予想できない難しい分野に心が向く、真智への愛 が目覚めてくる。創造とは何か、生命とは何か、人工知能の発展とともに絶えず問われることになるだろう。人間にとって真に価値あるものとは何か。人間はどのようなものに感動を覚えるか。絶えず問うていくことになる。以 上

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