2018年4月24日火曜日

「博士」の末は…就職難 かつては名誉、変わりゆく境遇 佐藤剛志 2018年4月23日08時33分

「博士」の末は…就職難 かつては名誉、変わりゆく境遇

佐藤剛志
2018年4月23日08時33分

 かつて「末は博士か大臣か」と言われ、今も少なくない子供たちが憧れる「博士」。日本で近代的な学位としての博士が制度化されてから130年が過ぎた。この間、博士号やその取得者を取り巻く状況はどう変化してきたのだろうか。
 第一生命が小学6年生までの子供たちに「大人になったらなりたいもの」を尋ねたアンケート結果で今年、「学者・博士」が男の子の1位となった。この「博士」という言葉自体は古くからあり、律令制の官職では大学寮や陰陽寮などに属した教官を指した。有名な陰陽師・安倍晴明は「天文学博士」だった。
 1887(明治20)年に公布された「学位令」で、法学・医学・工学・文学・理学の5種類の博士が設けられ、翌年25人に初めて授与された。この時、「博士」の読みは「はくし」とされた。「大博士」の規定もあったが授与されず廃止されている。
 博士の学位は、大学院に入り試験に合格した人に対して、帝国大学評議会の議を経て文部大臣が授与するとされたが、「これと同等以上の学力がある者」も対象とされ、実際はこちらの規定を元に博士になる人が多かった。天野郁夫・東京大学名誉教授(教育社会学)は、「授与された学位の大半はこの『推薦博士』と言うべきもの。大学院を出ることは学位取得の主要ルートにならなかった」と語る。
 98年に改正された学位令では推薦の幅が広がる。1911年に文部省が授与した文学博士号を夏目漱石が「辞退」して騒動となるのは、このうち博士で構成する「博士会」の推薦によるものだ。その後、20年の改正で推薦制度はなくなり、論文提出が必須に。あわせて博士号を授与する主体が文部大臣から各大学に変わった。「20年までの帝国大学教授にとって、博士学位は学問の研鑽(けんさん)を積んだ証しに得るというより、教授になるともらえる『名誉の称号』の意味合いが強かった」と天野さん。
 戦後の教育改革を経て、博士に加えて「修士」の学位が設けられるなど、現在につながる様々な制度変更がなされた。5種類でスタートした博士学位は19種類まで増えたが、91年の制度変更で廃止された。現在は「博士(文学)」などと専攻分野をカッコ内に表記し、その数は優に100を超える。https://www.asahi.com/articles/ASL425FSGL42OIPE026.html

とても興味深く読みました:
ゼロ除算の発見と重要性を指摘した:日本、再生核研究所

再生核研究所声明 44 (2010/06/26): 
梅の木学問と檜学問-日本の研究者育成についての危惧

初めに、大谷杉郎 群馬大学名誉教授の 宮大工(…… その晩、「梅の木学問」という言葉に出会った。梅は成長は速いが大木にならない。そのように、進み方は早いが学問を大成させないで終わるのをいうのだそうである。その反対が、成長は遅いが大木になる「楠くすのき学問」だと書いてある。西岡棟梁の話を聞いた直後だったので、千年の先を見極め、千年以上も生きつづける学問を「檜学問」と呼んでも良さそうである。学校教育の目標はこれにして欲しい。: 夜明け前 よっちゃんの想い 158-160)を想い出し、日本の研究者育成の観点から、考察を行いたい。
先ず第1に述べたいのは 研究者の育成や、教育の問題は、 在りよう、考え方、目標などいずれも多様性が大事であり、いろいろな考え方や見方を尊重する必要があるということである。 従って、ここでの議論も一つの視点と柔軟に考えて頂きたいということである。
( …… しかし、何よりも大事なことは、個々の意見ではなくて、このようにいろいろ考え、いろいろな意見をまとめ、多くの人の意見を交換していくことと思っています。 私は、そのきっかけを与えようとしているに過ぎません。──哲学は教えられない、ただ哲学することが教えられるだけだ──という言葉が想い出されます。私は、専門家や知識をもっている人だけが良識や見識を持っているとは考えず、善良な市民の感覚のなかにこそ、大きな真実と良識があると思っています。ですから、いろいろな広い人たちからのご意見や提案を期待しているのです。 2009 年7月23 日 アヴェイロにて)
次に、上記 大谷教授の宮大工 の引用部分の 前の本文は、 宮大工の心意気と癖組などの考え方など 誠に心惹きつけるものがあるが、上記引用部分の考え方には 多少の疑念も湧くが、他方、心惹きつけるものもある。
疑念とは、進み方は早いが学問を大成させないで終わる 生き方、学問も個性として、それはそれでいいのではないか、逆に 千年以上も生きつづける学問が良いとは限らないという価値観と視点である。― 梅も檜も それぞれに良い。
それにも関わらず、現在の日本の研究者育成の観点から、この件について、危惧の念を抱かざるを得ない。 それは特に 共通テスト開始以後、特に顕著になっているのは いわゆる国立大学の法人化移行後の 悪しき風潮に対する危惧である。
共通テスト開始以後 盛んになったのは、細切れの知識偏重と大学の画一化による点数による序列化、入試技術の専門化などである ― それ以前の入試の多様性と時間的な余裕を比較されたい。国立大学の法人化移行後は、財政状況の悪化と共に評価,評価の嵐と悪しき成果主義と膨大な雑用の増加である。
その結果、これらに対応できる研究者とは、受験体制に調子良くのれ、大学院でも早く成果の出せる上記梅の木型の研究者となりかねない状況ではないかと危惧せざるを得ない。
なるほど、優秀な研究者は どのような環境、体制でものり越えて、良い研究業績を上げることができる という見解には 誠一理あるが、しかしながら、多くの労力を費やし、雑念を入れ、結果として、能力を生かせない状況が広く存在していると考える。才能を活かせず、才能を殺してしまう状況が世に多くあると考える。また、それゆえに、いわば大器晩成型の多くの才能をうずもらせてしまうのではないかとおそれる。
言いたいことは、学部あたりまでの教育には 時間的な余裕を与え、人生や世界、自然などに想いを致したり、あるいは友情を育てたり、自らを顧みることのできる余裕を用意することである。 そこで、人生の基礎をしっかりと身につけて欲しいと考える。- また、そのような余裕のうちから、イチロー選手や、谷亮子選手、荒川静香選手、坂本龍一氏のような 多彩な才能が芽吹くことが期待できるのではないだろうか。天才教育や少年留学なども大いに進めて頂きたい(声明9)。
ここで、さらに気になるのは、かつて安保闘争や学園紛争に見られたような、若者の元気さが失われ、無気力、無感動、元気のない学生の増加である。世界についても、哲学についても、真理の追究などについても 聞くことは もはや稀である。 小手先の学力をつけることに追われて、精神面や健康面が失われているのではないかと危惧される。
他方、大学院以上においては、成果、成果と急がずに 研究課題の選択や、基礎について深い、広い視点が持てるように、経済的にも時間的にも十分な待遇を用意すべきである。何事初めの段階における取り組みは、 将来に亘って、決定的に大事になると考える。
初期段階において、目先の成果を求めれば 研究課題は成果が得られ易い、個別の研究課題となり、しっかりとした研究課題が確立できないのは当然ではないだろうか。 どんな課題でも 研究成果を出すのは容易ではないから、それらに集中しているうちに、その研究課題の枠外から出られないように陥り、研究課題が小さな世界に特化してしまうのは、多くの普通の研究者の悲しい在り様と言えるだろう。
助教などの制度によって、助手の身分を 形だけ上げて、講義や雑用を課し、さらに任期制を導入したりして 処遇を悪化させているのは 大学人の反省すべき悪しき制度ではないだろうか。研究以外義務が無いような研究員として処遇するのは 若手研究者育成の要ではないかと考える。 実際、そのような時期に 研究の基礎が確立された研究者は 世に多いと考えられる。さらに、世界の指導的な研究者たちとの交流が 研究者の成長に大きく寄与した例は 非常に多いと考えられる。
日本の研究者育成の観点から、現状の問題点を総合的に見直して、よりよい位置づけと対応を考えるのは 緊急の現代的な課題であると考える。現状の風潮では、いざ本格的な研究活動に入るころ、若き研究者達が立ち枯れ病にかかってしまう危険性は 極めて高いと危惧される。


再生核研究所声明167(2014.6.21)大学などで アカデミックなポストを得る心得

(本声明は あるポスドクの方の パーマネントポストに就く心得を纏めて欲しい との要望によるものである。安定した職に就きたいは 一 若い研究者の切実な願望ではないだろうか)

上記の観点で、また、安定した収入を得る心得、方法を纏めて欲しいとの要望も寄せられているが、研究者などは 大学などに きちんとした職を得ることが、生活を安定させる基本である。 一応、常勤職につけば 生涯生活は保証されるとして、極めて重要な人生の観点である。
これは人事権を有する、関与する人々、多くは関係教授の判断に左右されるが、一般的な観点と意外な観点も有るので、経験してきた、人事を顧みながら、触れてみたい。
まず、 アカデミックポストには、多くは 採用したい希望が述べられた、公募要項が有るのが普通である。 最近の人事では、多数の応募が有るから、それらの基準に達していることは、相当に必要であり、それらの基準に達しない場合には、相当に厳しいのではないだろうか。少なくても公募を公正に行なえば、厳しいと言える。多くの機関では、基準として、博士号を有すること、出版論文数など いろいろな基準が内規で定められている場合が多い、その時は、それらに達していることが 書類選考の段階でも 必要条件になってしまう。逆にみれば、そのような基準を軽く越えているように、整えて置くのは、研究者の処世の第1歩といえる。
しかし、社会も 大学もそう公正にいくものでは無く、担当者によっては、仲間を優遇したり、特別なコネが 公募精神の公正さを越えて、担当者の都合で、自分の都合で人事を行うことは結構多い。これには、研究課題が細分化し、高度化し 特別な仲間でしか、通じず、通じる仲間をとらざるを得ない状況を反映させていると言える。もっと進めれば、実権ある教授が、共同研究できる人物を、自分に寄与できる人物を探すような実状さえ 多く有するだろう。これは、公のポストでさえ、公正の原則に反するとは言えない。教授は研究を推進する大きな義務を負う者、共同研究者を探すのは大事である という観点が有るからである。 しかしながら、これも行き過ぎると、組織が専門的に偏りの人事構成に成るなど、弊害が出て来る面もある。組織や研究機関の理念に反して、機関において異質の人事構成になることは 結構多い。- 職を探す者は、そのような特殊性が有る場合には、公募要項を越えて、応募する機会があると考えるべきである。さらに進めれば、私をとれば、組織は、あなたは、このような利益を得ることができると、具体的に暗示することは、書類の作成段階でも良いのではないだろうか。
そのような面では、研究課題で、採用する者が決まる、強い要素がある。採用する側の研究課題と採用される者の研究課題の相性の問題である。研究組織は、抜群の業績と才能を有する者でなければ、研究組織内で 研究交流できない研究者を採用することは、 組織の拡大、カリキュラムの大きな変更など 余程のことが無い限り、ないのではないだろうか。このような観点からも、研究課題を、あまりにも狭い範囲に限定しないで、研究課題でも対話が広い分野で成り立つように 広げて置くのは良いことではないだろうか?
人事は採用する側にとっても極めて重要であるから、採用に責任ある者は、採用する者の人物評価を真剣に行うだろう。採用する人物の周辺についてもいろいろ意見を求め、人物についての良い定評があれば 人事を進める場合に極めて有効で、書類選考などでも大いに効果が出るだろう。これは国際会議や、研究発表場面などで 研究内容と人物評価を何時もされていると心得るべきである。そのような場面で、採用責任者の好感が定着されていれば、人事に相当に有効であろう。単に書類や文献で知る人物と、面識が有って、人物と研究課題で評価されている人物とでは 大きな評価の差が出て来ると考えられるから、研究交流は 大事な機会と捉えるべきである。その時、配偶者も交えて、良い評価が得られれば、強い印象を与えると言う意味で、さらに良い効果を生むだろう。採用責任者は 人物の背後状況にさえ、大いに気を回すだろう。人事は、いわゆる書類に現れた評価を越えて、人物評価、全人格が大きな評価の基準になると考えられる。― ここで、優秀過ぎる人材は、自分の存在を脅かす観点から、敬遠される要素もあると言う、適当な謙虚さは必要かも知れない。
コネや人脈などは 大いに大事にすべきであり、研究仲間を広げ 大きな機会の場を作るように研究活動、日常生活で心がけるべきである。相当な人事は そのような人脈、研究仲間を通して行われるのは 公募、公募、公正、機会均等と言っても、そう簡単には行かないのが 現実ではないだろうか。また、博士課程における指導教授の影響は、永く相当に強いのではないだろうか。

以 上

再生核研究所声明 422(2018.3.27): 数学界の歴史的な恥と恥の上塗り ー ゼロ除算の見落とし と 固定観念

ゼロ除算発見4周年を契機に、結構内外の意見を広く求め、日本数学会2018.3.18(東大駒場)でも真正面から問題を明らかにした。関係分科会にメーリングリストを用いて、3月15日群馬大学での公開の研究集会を案内し、論理の展開、認識の適否を検証する形で、予告し問題点を明らかにして研究集会と学会に望んだ。
案内は結構刺激的なものであったと見られよう:
メーリング登録者各位(2018.2.14):
下記のように研究会を企画して頂けることになりましたので、ご案内します。ゼロ除算は別格慎重に研究を進めていますが、次のように表明している認識、その是非などを検証したいと思っています。何でもご意見など頂ければ誠に幸いです:
複素解析学では、無限遠点はゼロで表されること、円の中心の鏡像は無限遠点ではなくて中心自身であること、ローラン展開は孤立特異点で意味のある、有限確定値を取ることなど、基本的な間違いが存在する。微分方程式などは欠陥だらけで、誠に恥ずかしい教科書であふれていると言える。 超古典的な高木貞治氏の解析概論も確かな欠陥が出てきた。勾配や曲率、ローラン展開などに、コーシーの平均値定理さえ進化できる。
しかしながら、奥村博氏の影響を受けて、現在のところユークリッド幾何学への影響が大きいと言えます。我々の空間の認識はアリストテレス、ユークリッド以来の変更が求められている。
敬 具
メーリング登録者各位(2018.3.6):
下記のように研究集会を企画して頂けることになりましたので、ご案内(要旨付)します。ゼロ除算の研究は別格慎重に研究を進めていますが、次のように表明している認識、その是非などを検証したい。何でもご意見など頂ければ誠に幸いです。また、興味、関心を抱いて頂けそうな方に転送などして頂ければ幸いです。
どうぞ宜しくお願いします。 敬具
第1回 ゼロ除算研究集会のご案内
下記のように研究集会を開催しますので、ご案内致します。
日時: 2018.3.15(木曜日).11:00 - 15:00
場所: 群馬大学大学院 理工学府
概要: 始めにゼロ除算の全体について、齋藤三郎群馬大学名誉教授から30分くらい 総合的な報告を受けて、その後、討論を重視する形で進める。昼食を挟んで、討論し、最後に 今後の研究活動について検討する。
参加希望者は、開場の準備、プログラムの検討上 下記にメールにて、届けて下さい:
尚、ゼロ除算の研究状況は、
数学基礎学力研究会 サイトで解説が続けられています:http://www.mirun.sctv.jp/~suugaku/
また、ohttp://okmr.yamatoblog.net/ に 関連情報があります。
(後援:数学基礎学力研究会、NejiLaw、再生核研究) 
 第1回ゼロ除算研究集会基調講演要旨
(日時:2018.3.15(木曜日) 11:00 - 15:00 場所群馬大学大学院 理工学府)
ゼロで割る問題 例えば100/0の意味、 ゼロ除算は インドで628年ゼロの発見以来の問題として、神秘的な歴史を辿って来ていて、最近でも大論文がおかしな感じで発表されている。ゼロ除算は 物理的には アリストテレスが 最初に不可能であると述べていると専門家が論じていて、それ以来物理学上での問題意識は強く、アインシュタインの人生最大の関心事であったという。ゼロ除算は数学的には 不可能であるとされ、数学的ではなく、物理学上の問題とゼロ除算が計算機障害を起こすことから、論理的な回避を目指して、今なお研究が盛んに進められている。
しかるに、我々は約4年前に全く、自然で簡単な 数学的に完全である と考えるゼロ除算を発見して現在、全体の様子が明かに成って来た。そこで、ゼロ除算を歴史的に振り返り、我々の発見した新しい数学を紹介したい。
まず、歴史、結果と、結果の意義と意味、を簡潔に 誰にでも分かるように解説したい。
簡単な結果が、アリストテレス、ユークリッド以来の 我々の空間の認識を変える、実は新しい世界を拓いていること。それらを実証するための 具体例を沢山挙げる。我々の空間の認識は 2000年以上 適切ではなく、したがって 初等数学全般に欠陥があることを 沢山の具体例で示す。
ゼロ除算は新しい世界を拓いており、この分野の研究を進め、世界史に貢献する意志を持ちたい。
尚、ゼロおよび算術の確立者 Brahmagupta (598 -668 ?) は1300年以上も前に、0/0=0 と定義していたのに、世界史は それは間違いであるとしてきた、数学界と世界史の恥を反省して、世界史の進化を図りたい。
以 上
これらの意図はイギリスからの著書出版計画が急速に進み、内容が現代数学の初歩の欠陥を広く指摘し、現在の教科書、学術書の変更を求めているので、慎重に、慎重に対応したいということであった。上記サイトで述べられている要点をまず復習して置きたい。
ゼロ除算 0 / 0 = 0 は 算術の創始者、ゼロの発見者 Brahmagupta (598 -668 ?) によって定義されていたにも関わらず、それは間違いであるとして1300年を超えて続いており、さらに、新たな説、論文が出版されている実におかしな状況にある。しかるに我々は ゼロ除算は既に当たり前であるとして、沢山の証拠を掲げて解説、説得を続けているが、理解は着実に進んでいるにも関わらず、理解は深くはなく、遅々として夜明け前のぼんやりしているような時代であると言える。数学者は、真実に忠実でなければならないのに、数学の研究では、論理には、感情や私情、予断、思い込みを入れてはならないのに、それが、数学の精神であるはずなのに かえって、数学者が予断と偏見、私情に囚われている状況が皮肉にも良く見える。 それは、ゼロ除算の理解が、素人の方の方が理解しやすい状況に現れている。 ― 数学は 絶対的に 厳格な論理でできているはずであるから、基礎が揺るぐはずがないとの信仰、信念を有しているためであろう。しかしながら、人間精神の開放と自由を求めて、非ユークリッド幾何学の出現から、人は大いに学ぶべきではないだろうか。 絶えず、人は何でも疑い、 我は存在しているか と 問うべきである。 ― 人間存在の意義は 真智への愛にある。
ゼロ除算の歴史は、数学界の避けられない世界史上の汚点に成るばかりか、人類の愚かさの典型的な事実として、世界史上に記録されるだろう。この自覚によって、人類は大きく進化できるのではないだろうか。 ― 汝自らを知れ、というソクラテスの言葉は何を意味するだろうか。
そこで、我々は、これらの認知、真相の究明によって、数学界の汚点を解消、世界の文化への貢献を期待したい。
ゼロ除算の真相を明らかにして、基礎数学全般の修正を行い、ここから、人類への教育を進め、世界に貢献することを願っている。
ゼロ除算の進展には 世界史がかかっており、数学界の、社会への対応をも 世界史は見ていると感じられる。 恥の上塗りは世に多いが、数学界がそのような汚点を繰り返さないように願っている。
ゼロ除算は 不可能であるとの言明によって数学的には問題は永く封印されてしまった。 しかし、考えて見れば奇妙な事であった。アインシュタインや多くの物理学者が本質的な問題として考察を続けていたばかりか、ゼロ除算回避を意図して、計算機関係者や数学愛好者がともに真摯に追求してきたが、奇妙な議論を世界的に行っていた。 約20名くらいの海外の関係者と交流してきたが、少年期からあるいは何十年も空しい努力をしてきた者がいる。膨大な空しい努力に数学者の責任の感情が湧いて来る。そればかりか、数学全般の欠陥と我々の空間の認識がユークリッド以来おかしい様は、既に歴然であり、世の数学、世界観は天動説のように基本的な間違いが存在する。
そもそも数学は、不可能性に挑戦して、次々と概念を発展させ、可能ならしめてきた輝かしい歴史を有するが、ゼロ除算は盲点として、世界史に汚点を残してきてしまったと言える。いくら何でも算術の確立者の定義を無視して1300年を越えてそれを間違いであるとしてきた事実は、あまりにも酷い歴史として反省させられる。
ゼロ除算は、発見されてまだ4年、今後大きな発展が行われて、現代初等数学の形相は相当に変化して、ゼロ除算発見は世界史上の画期的な事件として記録されるだろう。その歴史の大義を受けて、世界の数学界は 面目一新を図り、数学界の信頼を回復すべきである。
以 上

0 件のコメント:

コメントを投稿