2017年7月11日火曜日

テクノロジーの〈いま〉を考える02――宇宙開発とリアリティ 戸谷洋志 / 倫理学 

テクノロジーの〈いま〉を考える02――宇宙開発とリアリティ

戸谷洋志 / 倫理学  
テクノロジーは人類の夢を叶えてくれる。その期待をもっとも実感させてくれるものは、多分、宇宙開発だ。宇宙への憧れは常に私たちの心を掴み、テクノロジーの進歩を動機づけてきた。しかし、そもそもなぜ、私たちは宇宙空間にそんなにも心を惹かれるのだろうか。この問題を、政治思想家のハンナ・アーレントとともに考えてみよう。


宇宙開発の今日


宇宙開発の歴史は20世紀の半ばから始まる。1957年にソ連がスプートニク1号の打ち上げに成功し、人工衛星が初めて地球の軌道を周回する。1969年にアメリカの開発したアポロ11号が月面着陸を成功させ、人類が初めて月に足跡を残す。こうした偉業の数々は当時の人々を熱狂させた。もちろん、その背景には冷戦体制下の政治的・軍事的競争があったわけだが、人々が抱く宇宙への憧れは、明らかにこうした政治的利害を超えるものである。

最近の私たちにとっては、小惑星探査機「はやぶさ」が記憶に新しい。「はやぶさ」は、2003年に打ち上げられ、2005年に小惑星に着陸して地表のサンプルを採取することに成功した。その後、2010年に地球への帰還を果たし、史上初のサンプルリターンを成し遂げたことで、大きな話題になった。

この出来事に対する人々の熱狂を物語っているのは、「はやぶさ」を題材にした様々な映画である。『おかえり、はやぶさ』(松竹/2012年)、『はやぶさ 遥かなる帰還』(東映/2012年)、『はやぶさ/HAYABUSA』(20世紀フォックス/2011年)。ざっと数え上げただけでこれだけある上に、いずれの作品においても一流の映画監督や役者が起用されている。

また、昨今は民間企業による宇宙開発にも注目が集まっている。企業家の堀江貴文氏は、必要最低限の性能をもった低コストのロケット開発に力を注いでおり、誰でも宇宙へ行ける未来への希望を語っている。同様の試みは世界中で散見され、21世紀の宇宙開発のプレイヤーは、国家ではなく企業である、といっても恐らく過言ではないだろう。

一方で、宇宙開発は極めてリスクの高い分野である。1971年に打ち上げられたソユーズ11号では、空気が漏出する事故が発生し、乗員3名が宇宙空間で窒息死した。1986年に打ち上げられたチャレンジャー号は発射直後に空中分解し、乗員7名が死亡した。訓練中に死者が出ることも少なくないし、発射場で事故が起きれば、技術者や近隣住民までもが巻き添えになる可能性もある。

しかし、そうしたリスクの高さは、人類が抱く宇宙への憧れにとって、ほとんど何の障害にもなっていないように見える。何故、人はこんなにも宇宙に心を奪われているのだろうか。その理由を、私たちが経験する世界のリアリティとの関係から説明するのが、政治思想家のハンナ・アーレントである。


「地球を脱出する第一歩」


アーレントにとって最大の問題は政治だった。彼女の主著『人間の条件』は、西洋史を振り返りながら政治の本質に迫るものであり、政治思想の重要文献として位置づけられ、日本での人気も高い。しかし、政治を主題にしているにも関わらず、その冒頭は次のようなかなり変わった言葉で始まる。


一九五七年、人間が作った地球生まれのある物体が宇宙めがけて打ち上げられた。この物体は数週間、地球の周囲を廻った。そしてその間、太陽や月やその他の星などの天体を回転させ動かし続けるのと同じ引力の法則に従ったのである。たしかに、この人工衛星は月でも星でもなく、また、私たち地上の時間に拘束されている死すべき者から見れば無窮としかいいようのない時間、円を描き続けられる天体でもなかった。しかし、この物体はしばらく間は、ともかく天体に留まることができたのであり、まるで一時、天体の崇高な仲間として迎えいれられたかのように、天体の近くに留まり、円を描いたのである。(ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳、筑摩書房、1994年、p. 9)


政治を扱う著作であるはずなのに、何故、人工衛星の話から始まるのだろう。それは『人間の条件』を手に取るほとんどすべての読者を襲う疑問だろうが、とりあえず置いておく。まずここで確認しておきたいのは、アーレントによる「地球」と「宇宙」の対比である。彼女に拠れば「地球」には「地上の時間」が流れており、人類はその時間に「拘束されている死すべき者」である。これに対して宇宙を支配している時間は「無窮」であり、その時間のなかで永遠に回転し続ける天体は「崇高」である。「人工衛星」はこの二つの異なる秩序の境を超えた。ここに宇宙開発が人々に与える感動の根源が洞察されている。

しかしこの出来事に対するアーレントの評価は必ずしも肯定的ではない。彼女は次のように述べている。


実際、人々の心を満たしたのは、驚くべき人間の力と支配力に対する誇りでもなければ、畏敬の念でもなかった。むしろ、時の勢いにまかせてすぐに現れた反応は、「地球に縛りつけられている人間がようやく地球を脱出する第一歩」という信念であった。しかし、この奇妙な発言は、あるアメリカの報告者がうっかり口をすべらしたというものではなく、二十年以上も前にロシアのある大科学者の墓石碑に刻まれた異常な言葉と期せずして呼応していたのである。そこにはこう書かれてあった。「人類は永遠に地球に拘束されたままではいないであろう」。(前掲書、pp. 9-10)


ここには宇宙開発に対するアーレントの独創的な見解が示されている。彼女は、宇宙への人々の憧れを「驚くべき人間の力と支配力に対する誇り」や「畏敬の念」として解釈するのではなく、むしろ、「地球を脱出する第一歩」として解釈している。すなわち人間は、宇宙に進出したいという積極的な動機によってではなく、地球に留まりたくないという消極的な動機によって、宇宙開発を推し進めている、ということだ。

しかし、何故、人類は地球から脱出したいと考えているのだろうか。もちろん、地球には惑星としての寿命があるし、資源は有限であるし、いつか巨大な隕石が衝突するかも知れない。そうした危機への備えとして、地球からの脱出が構想されるのは不思議なことではない。しかし、アーレントの立場に従うなら、そうした理由は表面的なものに過ぎない。私たちは、あくまでも無意識のうちに、漠然と地球から脱出したいと考えているのだ。


世界のリアリティの喪失


地球とはそこで人間が生まれ、育まれてきた場所であり、疑う余地もなく人類の住家であり、故郷である。もし地球がなくなってしまったら、人間は絶滅する他ないだろう。そうである以上、人間は地球なしには存在しえないのであり、その意味において、地球によって条件づけられている。アーレントに拠れば、地球とは「人間の条件の本体そのもの」(前掲書、p. 11)なのである。

そうであるにも関わらず、人間は何故そこから脱出しようとするのだろうか。アーレントはその答えを近代が始まる17世紀にまで遡って検討する。その際、決定的な転回点として彼女が注目するのが、ガリレオ・ガリレイによる地動説の証明である。

周知の通りガリレイは、天動説に対する地動説の優位性を、天体望遠鏡という装置によって実証した。アーレントが重視するのは、地動説が説明されたことではなく、その説明のされ方であり、つまり、技術的な装置によって真理が説明された、ということである。地動説自体は、ガリレイ以前から、様々な哲学者や科学者によって指摘されていた。しかしそこでは地動説はあくまでも抽象的な理論として説明される仮説に過ぎなかった。これに対してガリレイは天体望遠鏡によってこれを経験的に実証しようとしたのだ。

天体望遠鏡とは何か。それは、人間の肉眼では見えないものを、技術によって見えるようにさせる装置である。その意味において、天体望遠鏡は人間の認知能力を超えている。そして、天体望遠鏡によって説明されるものが真理であるということは、その真理は人間の認知能力を超えたものである、ということになる。

一方で、人間がリアリティを感じることができるのは、自分の肉体で認知可能なものに限られる。そうである以上、肉眼では認知することのできない天体の様子は、人間にとってリアルなものではない。そして、肉体では認知不可能なこうした事象が世界の真理であるならば、そうした真理はリアリティを失うことになる。

こうした観点から、アーレントは、ガリレイに始まる西洋の近代自然科学のうちに、この世界を人間にとってリアルではないものとして説明しようとする趨勢を洞察する。言い換えるなら、アーレントによって性格付けられる近代化とは、人類が世界のリアリティを喪失していく過程に他ならないのだ。


「二重のフライト」


こうしたリアリティの喪失は、実験装置が用いられるすべての自然科学の領域で起きることである。しかし、それは宇宙科学においてもっとも極端な形で現われてくる、とアーレントは指摘する。


近代の物理的宇宙は、ただ表現を超えているだけではない。自然と存在が感覚にその姿を現さないと仮定している以上、これは当然である。問題は、この物理的宇宙が、純粋に推理してみても、想像することもできず、考えることもできないものであるということである。(前掲書、p. 456)


「想像すること」も「考えること」もできない概念としては、たとえば、ブラックホール、暗黒物質、多元宇宙論や超ひも理論などを挙げることができる。それらを「推理」することができたとしても、私たちにとってリアリティをもつような形でイメージすることはできない。しかしこうした概念こそがこの宇宙を合理的に説明するのだとしたら、この宇宙は私たちにとって「想像すること」も「考えること」もできない場であり、まったくリアリティのない世界である、ということになる。

ところで、暗黒物質や超ひも理論などは、それがあればこの宇宙が合理的に説明できるという仮説的な概念であり、物象として提示できるものではない。要するにそれは、見方を変えれば、人間が自らの理性によって作り出した概念に過ぎない。一方で、アーレントに拠れば、リアリティを感じさせるものとは、私たちが五感で認知可能なものであり、つまり私たちの身体の外部に実在するもの、他なるものでなければならない。宇宙科学において示されるリアリティの欠落は、この意味において、世界が人間自身の理性によって翻訳され、その理性にとって、つまり人間にとっての他なるものが失われるという事態である。アーレントは次のように述べる。


以前なら人間は、自分自身でないもののリアリティを経験することができた。しかし、今日、それと同じ経験をしようとする途端、自然と宇宙は「人間を逃れ去る」だろう。そして現代科学が扱っている宇宙というのは、実験の中に現れる自然の行動に合わせて解釈され、作業上のリアリティに技術的に翻訳できる原理そのものに合わせて解釈されている。このような宇宙は、まったく表現することのできないものである。(前掲書 p. 455)


こうした観点からアーレントは、宇宙開発のうちに象徴される現代社会の精神状況を「地球から宇宙への飛行(フライト)と世界から自己自身への逃亡(フライト)という二重のフライト」(前掲書 p. 17)によって性格づけている。すなわち彼女に拠れば、宇宙開発とは、宇宙を人間の理性によって解釈されたものとして捉える限りにおいて、ある意味においては「自己自身への逃亡」以外の何ものでもないのだ。


宇宙開発と想像力


以上のようなアーレントの思想からは次のようなことを学ぶことができる。すなわち、宇宙開発に対する人間の欲望を理解するためには、私たちが抱く「地球」と「宇宙」のあり方を捉えなおさなければならない。そしてそれは、彼女が論証して見せるように、17世紀にまで遡って考え直されるべき巨大な問いである。

同時に、彼女の議論において特徴的なのは、この問いを「リアリティ」という観点から考えていることである。宇宙開発の前提となる宇宙観は、この宇宙がそもそも人間には想像できないものであり、したがってリアリティの欠落したものである、ということに他ならない。

私たちには、暗黒物質でキャッチボールすることはできないし、ブラックホールの匂いを嗅ぐこともできないし、超ひも理論で前提にされる高次の次元で、猫と昼寝することもできない。そんなことは想像することもできない。しかし、この想像不可能な概念によって形作られているのが、私たちの生きる世界なのだ。

ここには、逆説的な仕方で、宇宙開発に対して私たちが抱く熱狂の理由が示されているように思える。冒頭で示した通り、小惑星探査機「はやぶさ」は日本に大きなムーブメントを引き起こした。しかし、もしかしたらその理由は、「はやぶさ」が史上初の偉業を成し遂げたからでも、トラブルを克服して奇跡的な帰還を果たしたからでもないのかも知れない。むしろ、手で触れられるという意味で、私たちにとってリアルな存在である「はやぶさ」が、7年間をかけて60億kmを飛行し、小惑星の地表に降り立つという、人間の想像を超えた任務を、つまり人間にとってリアリティのない任務を遂行したという事実こそが、人々の心を揺さぶったのではないだろうか。

そうであるとしたら、宇宙開発への情熱は、リアリティを再び取り戻すことへの欲望として解釈されるのかも知れない。しかし、アーレントの思想に従うなら、その宇宙は人間の理性によって解釈されたものである。そうである以上、宇宙をどれだけ探索したとしても、私たちには他なるもののリアリティを得ることができない。それを単なる自縄自縛と捉えるか、あるいは、決して叶えられないこそ、いつまでも人々を惹きつける無尽蔵な希望と捉えるかは、人によるのかも知れない。

知のネットワーク – S Y N O D O S –

とても興味深く読みました:
再生核研究所声明199(2015.1.15) 世界の数学界のおかしな間違い、世界の初等教育から学術書まで間違っていると言える ― ゼロ除算100/0=0,0/0=0
                    
ゼロ除算は 西暦628年インドでゼロが文献に記録されて以来、問題とされてきた。ゼロ除算とは、ゼロで割ることを考えることである。これは数学の基本である、四則演算、加法、減法、乗法、除法において除法以外は何時でも自由にできるのに、除法の場合だけ、ゼロで割ることができないという理由で、さらに物理法則を表す多くの公式にゼロ除算が自然に現れていることもあって、世界各地で、今でも絶えず、問題にされていると考えられる。― 小学生でも どうしてゼロで割れないのかと毎年、いろいろな教室で問われ続いているのではないだろうか.

これについては、近代数学が確立された以後でも、何百年を越えて 永い間の定説として、ゼロ除算は 不可能であり、ゼロで割ってはいけないことは、初等教育から、中等、高校、大学そして学術界、すなわち、世界の全ての文献と理解はそうなっている。変えることのできない不変的な法則のように理解されていると考えられる。

しかるに2014年2月2日 ゼロ除算は、可能であり、ゼロで割ればゼロであることが、偶然発見された。その後の経過、背景や意味付け等を纏めてきた:

再生核研究所声明 148(2014.2.12) 100/0=0,  0/0=0 - 割り算の考えを自然に拡張すると ― 神の意志
再生核研究所声明154(2014.4.22) 新しい世界、ゼロで割る、奇妙な世界、考え方
再生核研究所声明157(2014.5.8) 知りたい 神の意志、ゼロで割る、どうして 無限遠点と原点が一致しているのか?
再生核研究所声明161(2014.5.30)ゼロ除算から学ぶ、数学の精神 と 真理の追究
再生核研究所声明163(2014.6.17)ゼロで割る(零除算)- 堪らなく楽しい数学、探そう零除算 ― 愛好サークルの提案
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明171(2014.7.30)掛け算の意味と割り算の意味 ― ゼロ除算100/0=0は自明である?
再生核研究所声明176(2014.8.9) ゼロ除算について、数学教育の変更を提案する
Announcement 179 (2014.8.25): Division by zero is clear as z/0=0 and it is fundamental in mathematics
Announcement 185 : The importance of the division by zero $z/0=0$
再生核研究所声明188(2014.12.15)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
再生核研究所声明190(2014.12.24)
再生核研究所からの贈り物 ― ゼロ除算100/0=0, 0/0=0
夜明け、新世界、再生核研究所 年頭声明
― 再生核研究所声明193(2015.1.1)― 
再生核研究所声明194(2015.1.2)大きなイプシロン(無限小)、創造性の不思議
再生核研究所声明195(2015.1.3)ゼロ除算に於ける高橋の一意性定理について
再生核研究所声明196(2015.1.4)ゼロ除算に於ける山根の解釈100= 0x0について

ところが、気づいてみると、ゼロ除算は当たり前なのに、数学者たちが勝手に、割り算は掛け算の逆と思い込みゼロ除算は不可能であると 絶対的な真理であるかのように 烙印を押して、世界の人々も盲信してきた。それで、物理学者が そのために基本的な公式における曖昧さに困ってきた事情は ニュートンの万有引力の法則にさえ見られる。
さらに、誠に奇妙なことには、除算はその言葉が表すように、掛算とは無関係に考えられ、日本ばかりではなく西欧でも中世から除算は引き算の繰り返しで計算されてきた、古い、永い伝統がある。その考え方から、ゼロ除算は自明であると道脇裕氏と道脇愛羽さん6歳が(四則演算を学習して間もないときに)理解を示した ― ゼロ除算は除算の固有の意味から自明であり、ゼロで割ればゼロであるは数学的な真実であると言える(声明194)。数学、物理、文化への影響も甚大であると考えられる。
数学者は 数学の自由な精神で 好きなことで、考えられることは何でも考え、不可能を可能にし、分からないことを究め、真智を求めるのが 数学者の精神である。非ユークリッド幾何学の出現で 絶対は変わり得ることを学び、いろいろな考え方があることを学んできたはずである。そのような観点から ゼロ除算の解明の遅れは 奇妙な歴史的な事件である と言えるのではないだろうか。
これは、数学を超えた、真実であり、ゼロ除算は不可能であるとの 世の理解は間違っている と言える。そこで、真実を世界に広めて、人類の歴史を進化させるべきであると考える。特に声明176と声明185を参照。ゼロ除算は 堪らなく楽しい 新世界 を拓いていると考える。
以 上

考えてはいけないことが、考えられるようになった。
 説明できないことが説明できることになった。


1+0=1 1ー0=0 1×0=0  では、1/0・・・・・・・・・幾つでしょうか。
0???  本当に大丈夫ですか・・・・・0×0=1で矛盾になりませんか・・・・

1/0=∞ (これは、今の複素解析学) 1/0=0 (これは、新しい数学で、Division by Zero)

ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・

7歳の少女が、当たり前であると言っているゼロ除算を 多くの大学教授が、信じられない結果と言っているのは、まことに奇妙な事件と言えるのではないでしょうか。

割り算を掛け算の逆だと定義した人は、誰でしょう???

世界中で、ゼロ除算は 不可能 か 
可能とすれば ∞  だと考えられていたが・・・
しかし、ゼロ除算 はいつでも可能で、解は いつでも0であるという意外な結果が得られた。

小学校以上で、最も知られている数学の結果は何でしょうか・・・
ゼロ除算(1/0=0)は、ピタゴラスの定理(a2 + b2 = c2 )を超えた基本的な結果であると考えられる。

原点を中心とする単位円に関する原点の鏡像は、どこにあるのでしょうか・・・・
∞ では無限遠点はどこにあるのでしょうか・・・・・


無限遠点は存在するが、無限大という数は存在しない・・・・

加(+)・減(-)・乗(×)・除(÷) 除法(じょほう、英: division)とは、乗法の逆演算・・・・間違いの元 乗(×)は、加(+) 除(÷)は、減(-)

0×0=0・・・・・・・・・だから0で割れないと考えた。


明治5年(1872)
割り算のできる人には、どんなことも難しくない

世の中には多くのむずかしいものがあるが、加減乗除の四則演算ほどむずかしいものはほかにない。

ベーダ・ヴェネラビリス

数学名言集:ヴィルチェンコ編:松野武 山崎昇 訳大竹出版1989年

地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
1/0=∞ 若しくは未定義 →1/0=0
地球人はどうして、ゼロ除算1300年以上もできなかったのか?  2015.7.24.9:10 意外に地球人は知能が低いのでは? 仲間争いや、公害で自滅するかも。 生態系では、人類が がん細胞であった とならないとも 限らないのでは?

リーマン球面における無限遠点は、実は、原点0に一致していました。

Einstein's Only Mistake: Division by Zero

ゼロ除算(100/0=0, 0/0=0)が、当たり前だと最初に言った人は誰でしょうか・・・・ 1+1=2が当たり前のように

Title page of Leonhard Euler, Vollständige Anleitung zur Algebra, Vol. 1 (edition of 1771, first published in 1770), and p. 34 from Article 83, where Euler explains why a number divided by zero gives infinity.

Impact of 'Division by Zero' in Einstein's Static Universe and ...
gsjournal.net/Science-Journals/.../Download/2084
このページを訳す
Impact of 'Division by Zero' in Einstein's Static Universe and Newton's Equations in Classical Mechanics. Ajay Sharma physicsajay@yahoo.com. Community Science Centre. Post Box 107 Directorate of Education Shimla 171001 India.
 


Reality of the Division by Zero $z/0=0$


ビッグバン宇宙論と定常宇宙論について、http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1243254887 #知恵袋_

地球平面説→地球球体説
地球が丸いと考えた最初の人-ピタゴラス
地球を球形であることを事実によって証明しようとした人-マゼラン
地球を球形と仮定して初めて地球の大きさを測定した人-エラトステネス
天動説→地動説 アリスタルコス=ずっとアリストテレスやプトレマイオスの説が支配的だったが、約2,000年後にコペルニクスが再び太陽中心説(地動説)を唱え、発展することとなった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%82%B9 …
何年かかったでしょうか????

1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか????


地球平面説→地球球体説
天動説→地動説
何年かかったでしょうか???


1/0=∞若しくは未定義 →1/0=0
何年かかるでしょうか???

ゼロ除算の証明・図|ysaitoh|note(ノート)  https://note.mu/ysaitoh/n/n2e5fef564997


ゼロ除算は1+1より優しいです。 何でも0で割れば、0ですから、簡単で美しいです。 1+1=2は 変なのが出てくるので難しいですね。

∞÷0はいくつですか・・・・・・・

∞とはなんですか・・・・・・・・

分からないものは考えられません・・・・・


Reality of the Division by Zero z/0 = 0

君に0円の月給を永遠に払いますから、喜びなさい:

1人当たり何個になるかと説いていますが、1人もいないのですから、その問題は意味をなさない。
よってこれは、はじめから問題になりません。
ついでですが、これには数学的に確定した解があって それは0であるという事が、最近発見されました。

再生核研究所声明200(2015.1.16) ゼロ除算と複素解析の現状 ―佐藤超関数論との関係が鍵か?
                                  
正確に次のように公開して複素解析とゼロ除算の研究を開始した:
特異点解明の歩み100/0=0,0/0=0 関係者:
複素解析学では、1/0として、無限遠点が存在して、美しい世界です。しかしながら、1/0=0 は 動かせない真実です。それで、勇気をもって進まざるを得ない:― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。― 再生核研究所声明148.
私には 無理かと思いますが、世の秀才の方々に 挑戦して頂きたい。空論に付き合うのはまっぴらだ と考える方も多いかと思いますが、面白いと考えられる方で、楽しく交流できれば幸いです。宜しくお願い致します。 添付 物語を続けたい。2014.4.1.11:10

上記で、予想された難問、 解析関数は、孤立特異点で確定値をとる、が 自分でも予想しない形で解決でき、ある種の実体を捉えていると考えたのであるが、この結果自体、世のすべての教科書の内容を変える事件であるばかりではなく、確立されている無限遠点の概念に 新しい解釈を与えるもので、1次変換の美しい性質が、ゼロ除算の導入によって、任意の1次変換は 全複素平面を全複素平面に1対1 onto に写すという美しい性質に変わるが、 極である1点において不連続性が現れ、ゼロ除算は、無限を 数から排除する数学になっている。
6月、帰国後、気に成っていた、金子晃先生の 30年以上前に購入した超函数入門の本に 極めて面白い記述があり、佐藤超関数とゼロ除算の面白い関係が出てきた。さらに 特異積分におけるアダマールの有限部分や、コーシーの主値積分は、弾性体やクラック、破壊理論など広い世界で、自然現象を記述するのに用いられているが、面白いのは 積分が、もともと有限部分と発散部分に分けられ、 極限は 無限たす、有限量の形になっていて、積分は 実は、普通の積分ではなく、そこに現れる有限量を便宜的に表わしている。ところが、その有限量が実は、 ゼロ除算にいう、 解析関数の孤立特異点での 確定値に成っていることが分かった。これはゼロ除算の結果が、広く、自然現象を記述していることを示している。
現在まで、添付21ページの論文原稿について 慎重に総合的に検討してきた。
そこで、問題の核心、ゼロ除算の発展の基礎は、次の論点に有るように感じられてきた:
We can find many applicable examples, for example, as a typical example in A. Kaneko (\cite{kaneko}, page 11) in the theory of hyperfunction theory: for non-integers $\lambda$, we have
\begin{equation}
x_+^{\lambda} = \left[ \frac{-(-z)^{\lambda}}{2i \sin \pi \lambda}\right] =\frac{1}{2i \sin \pi \lambda}\{(-x + i0)^{\lambda}- (-x - i0)^{\lambda}\}
\end{equation}
where the left hand side is a Sato hyperfunction and the middle term is the representative analytic function whose meaning is given by the last term. For an integer $n$, Kaneko derived that
\begin{equation}
x_+^{n} = \left[- \frac{z^n}{2\pi i} \log (-z) \right],
\end{equation}
where $\log$ is a principal value: $ \{ - \pi < \arg z < +\pi \}$. Kaneko stated there that by taking a finite part of the Laurent expansion, the formula is derived.
Indeed, we have the expansion, for around $ n$, integer
$$
\frac{-(-z)^{\lambda}}{2i \sin \pi \lambda}
$$
\begin{equation}
= \frac{- z^n}{2\pi i} \frac{1}{\lambda -n} - \frac{z^n}{2\pi i} \log (-z )
- \left( \frac{\log^2 (-z) z^n}{2\pi i\cdot 2!} + \frac{\pi z^n}{2i\cdot 3!}
\right)(\lambda - n) + ...
\end{equation}
(\cite{kaneko}, page 220).
By our Theorem 2, however, we can derive this result (4.3) from the Laurant expansion (4.4), immediately.
上記ローラン展開で、\lambda に n を代入したのが ちょうど n に対する佐藤の超関数になっている。それは、ゼロ除算に言う、 孤立特異点における解析関数の極における確定値である。これはゼロ除算そのものと殆ど等価であるから、ローラン展開に \lambda = n を代入した意味を、上記の佐藤超関数の理論は述べているので 上記の結果を分析すれば、ゼロ除算のある本質を捉えることができるのではないかと考えられる。
佐藤超関数は 日本で生まれた、基本的な数学で 優秀な人材を有している。また、それだけ高級、高度化しているが、このような初歩的、基本的な問題に関係がある事が明らかになってきた。そこで、佐藤超関数論の専門家の方々の研究参加が望まれ、期待される。また、関係者の助言やご意見をお願いしたい。
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として示していることである。
以 上

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