2015年4月25日土曜日

テーマ:社会 記事 安藤光展2015年04月24日 06:00エコキャップ問題が示す、日本的CSRの課題と失敗例

テーマ:社会
記事
安藤光展2015年04月24日 06:00エコキャップ問題が示す、日本的CSRの課題と失敗例



日本的CSRの課題と失敗例
先日、「エコキャップ」を巡り、各メディアが大いに盛り上がりました。
■なぜボトルキャップでなければならないのか
■エコキャップ推進協会
例えば、「エコキャップ CSR」と検索すると、色んな実施企業のページがヒットします。大手企業から中堅・中小企業までたくさんです。CSR評価をする人間としては「来年どうするんだろう、ステークホルダーになんて説明するんだろう」と気になってしまいます。
というわけで、本記事では、CSRにおける活動のプロセスとリスクに関してまとめます。CSR活動の失敗をそのままにせず、次の活動に活かせるようヒントとなれば幸いです。
成果物だけではなく、プロセスの計算も
僕は、この活動自体を批判するつもりはありませんが、やはり前述の記事で指摘のあるとおり、社会的なインパクトを考えた時の効率はお世辞にも良いとは言えません。
例えば、物品寄付などは運送などのプロセスがあり、そこでエネルギー消費・CO2排出があるわけで、ワクチンを寄付するために環境負荷を増やしていいのか?という課題にもつながってしまいます。
他にも、CSR報告書の紙は各社エコなものを使っているようですが、そのエコな紙を“地球の裏側から運んできた”としたら、運送の環境コストが多くかかり、トータルでむしろ普通の紙より環境負荷が高くなる可能性だってあります。
何事にも完璧はないということは重々承知ですが、このペットボトルキャップのリサイクル運動に参加していた企業は、CSR活動を今後どうしていくのかという課題が残ります。失敗しても他のNPOがあるとはいえ、なかなか難儀な問題です。
CSRのコストという課題
どうやったって、CSRは短期視点でコストになります。また社内にCSRの専門的な知識を持っている人がいることは皆無ですので、社外のリソースを使わざるを得ません。
将来的に企業価値向上につながるのがわかっていても、初期投資(人・予算)が必要となると経営判断としてNGが出る。だから上場会社と言っても、兼任ですらCSR担当者を置いていない企業も多い。
そうなると「私たちのCSRとは何か」という課題すら生まれない。自社の事業活動におけるデメリットやリスクも語られないという問題点もある。
なので、大小問わずコストがかかるため、どうしたって少ないコストで何かしらの社会貢献活動を始めようと試みます。そうすると「ペットボトルキャップ集め」や「会社まわりの清掃活動」などを始めるのです。
気軽な活動は、CSR調達というか監査も甘くなり、今回のような報道があってから後手後手の対応になってしまいます。そうなってくると、社会貢献活動としては、NPOへの直接寄付が一番手軽で、成果も見える化しやすいのかもしれません。
CSR活動のリスク
CSR活動の失敗はともかく、デメリットや問題点・課題を指摘してくれる第三者視点がないことが一番の企業の課題なのかもしれません。
とかく、恥ずかしながら僕もですが、CSRコンサルティング会社やCSR報告書制作会社は「CSRの必要性とメリット」をひたすらアピールします。会社にとってマイナスなこととなるリスクの指摘はほとんど行なわれていないと思います。
だって、ダメなの指摘して担当者の機嫌を悪くして仕事をもらえなかったイヤじゃないですか。僕はそれをよかれと思って言ってしまうのがよくないんですよね…。色々反省しております。
CSRは「リスク&オポチュニティ」なんて言われますが、組織としての基本であるリスクマネジメントの方が重要だと思います。CSR報告書で「第三者意見」や「第三者保証」がなぜあるかということを知っていれば、今回の件は少なからず回避できたのかもしれません。
まとめ
CSR活動において、寄付先のNPOを含めて、CSR調達をしっかりやりましょう。
今後、この騒動がどこで着地するのかわかりませんが、コストは幾分かかかっても、CSRのことがわかる、しかるべき人や会社にまず相談したほうがいいと思います。
そこで数万・数十万円をケチって、今回みたいになんかえらいことに巻き込まれたぞ、って後手にまわるよりよほど良いと思うのですが…。今日はこのへんで。http://blogos.com/article/110786/

確かに、複雑な難しい問題を局所化して、実際おかしなことをやっているは 世に多いですね。
分かりやすい、単純化の悪い面です。
総合的な視野が今後大事では?
再生核研究所声明 69(2011/09/27)  単細胞人間 ― 単細胞的思考
(背景: 2011/09/22 宿舎で朝食をとっている最中に 突然閃いた考えです。 単細胞人間という言葉を聴いたのは 恩師がゼミの学生に言われた言葉として、伺って来ました。
類語辞典には 近視眼的な ・ 目先の利益だけ考えた~ ・ せっかちな(結論) ・ (単なる)向こうみず ・ 単線思考の ・ 単細胞(人間) とある。 また、 ツイッターで、 恩師が、単細胞人間 と言った ということを 思い出させます。 小さな真実を見て、 全体が見えないのですね。 愚かさの表れ ではないでしょうか。 脱原発デモ なども そうではないでしょうか と呟いた後です。)
単細胞的思考とは
小さな事実を それに関係する全体の中での 位置づけができず、その局所的な、断片的な事実をもって全体に普遍させてしまう愚かさであると表現したい。
まず、現実的な問題で考察し、しかる後に一般論を展開したい。
脱原発デモ、脱原発運動、これはどれほどの意味があるでしょうか。そのまま主張を全て受け入れたら、どのようになるでしょうか。長年かけて膨大な資金を注ぎ、人と設備を整えたものを活用できないとなれば、電力会社は 膨大な損失である、相当に電気料を課しても経営が成り立たないのは 素人の目にも明らかではないだろうか。電力会社は どの程度の損失に当たるかを明らかにして 国民に理解を求めるべきである。天災の事故で、恐ろしいは 分かるが、何十年も続けてきたことをいきなり、中止せよ反対、このような要求は 子供の要求と同じで、単細胞的思考の典型的な例と考えられる。まともな考えとは、くれぐれも慎重に運営して欲しい。場合によっては、在り様は 分かれるが、段階的に縮小して欲しいという意見ではないだろうか。
これについては、再生核研究所声明 67: 脱原発デモ ― 非現実的な貧しい二律背反の発想と飛躍した議論 を参照。
相当の人が、国防の在り様について、敵地攻撃能力の整備を と主張している。自分は強く、相手を罰せられるので安全になると考えているのであろうか。 しかし、逆に考えてみれば、当然、公正の原則で 相手も敵地攻撃能力を高めて、直ちに軍拡競争に入ってしまう。場合によっては、逆襲され、先に攻撃して、壊滅させてしまえ となりかねない。 経済的にも大変で、危険性を増大させる、それこそ、単細胞的思考ではないだろうか。空母が欲しい、軍事的には、南シナ海、東シナ海を「日本海」にすることだ、そのためには原子力潜水艦を持つことに尽きる 等も同じような考えではないだろうか。 
次を参考: 再生核研究所声明 49: アジアの愚か者、アジアの野蛮性。
次に、有名な蓮舫氏の発言について「研究は1番でないといけない。“2位ではどうか”などというのは愚問」とは おかしいと考える。 そのような質問をせずに、切りなくお金を注げば、第一 他の いろいろ大事な研究費を圧迫してしまう現実。 研究費は 無限ではないので、 どのように配分するかは、 国家の大事な問題。 戦艦大和のように 時代遅れの兵器を、研究でも、お金を掛ければ、大きければ、世界第1位でなければ、の発想は おかしい。 蓮舫氏は、 決めつけているのではなく、 なぜかと問うているのだから、 きちんと答えるのは、 研究者の 国民に対する義務であり、また、他の多くの研究者や、若い研究者も、どうしてそちらばかりお金をかけるか、知りたい 自然な 質問ではないだろうか。 蓮舫氏の質問は,政治家として、当然の立派な質問だと評価したい。専門家は日本国が破産を迎えても、自分のところの研究費だけはと 要求するだろう。 これは専門家の独善と大局に想いを致せない単細胞的思考の現れと言え、 専門化、局所化した現代社会の本質的な問題と考える。高度に専門化して、自分たち仲間でしか議論も話しも通じず、他の価値さえ理解できず、本当に生体の中の ほんの一部の細胞の役割しか 果たせなくなっている。 人事の進め方、評価なども 結局 仲間同志の中でしか、考えられない 現実である。 検察や弁護士も法律の条文にばかりに囚われていて、法の精神や生きた社会や世界的な視野に欠けて、おかしな判断をすることが多い(再生核研究所声明 31:法の精神と-罪と罰)。
上記 事例で分かることは 愚かさの故の行為と 背後に利害が絡んでいて 理に反しても強弁している場合とがあるということである。 何れも人間の本質的な弱点であると自戒したい。 そこで、 単細胞的な思考 に陥らない心得を 次のように纏めて置きたい。
1) 絶えず、逆の立場、反対を考えて、みる。
2) その意見を 徹底的に進めたら どうなるかを考えてみる。
3) みんなが、それに賛成、実現したら、どうなるかを考えてみる。
4) 特に関係の無い第3者や 素人の意見も参考にする。
5) 世の問題は、真か偽か、正しいか正しくないか、赤か白かのように きちんと分けられるものでは ないものであり、微妙に入り混じっている複雑な在り様であり、在り様の在り様を 多様に考える 幅の広さに心がける。
6) 一度決めるとそれに拘り、その意見に固執しがちであるから、絶えず高い立場の見解、良い意見に止揚していく心構えを柔軟に持つ。
7) くれぐれも派閥、仲間、専門家あるいは、地域、職業、宗教などの集団の枠、組織に囚われない。 また、考えを固定化したり、人を分け隔てたような考え方をとらない。
8) ある程度時間をかけて、大事な問題ほど、影響が大きい問題ほど じっくり考える。 全体の状況が 見えるまでは 謙虚な態度で臨む。
これらを 単細胞的思考から抜け出す心得としたい。しかしながら、人間は 本質的に愚かであり、予断と偏見に満ちた存在であること を肝に銘じて置きたい。
なお、個人と社会の在り様については 次を参考にして頂きたい: 再生核研究所声明 35:  社会と個人の在りよう ー 細胞の役割(この声明の趣旨は 人体と細胞のように国家と個人は、社会と個人は有機体の存在として、 調和ある存在 になろう ということにある。 実際、一個の人間の存在は 細胞が生体の中で有機的な存在であるように、本来社会の中で有機的な存在ではないだろうか。 生体が病んでしまったら、個々の細胞の存在はどのようになるかに 想いを致したい。 実際、人類の生存は、如何なるものをも超えた存在である(最も大事なこと:声明13)。
                                    以 上



再生核研究所声明215(2015.3.11) ゼロ除算の教え
ゼロ除算は、数学ばかりではなく、 人生観、世界観や文化に大きな影響を与える:
再生核研究所声明166(2014.6.20)ゼロで割る(ゼロ除算)から学ぶ 世界観
再生核研究所声明188(2014.12.16)ゼロで割る(ゼロ除算)から観えてきた世界
ゼロ除算における新現象、驚きとは Aristotélēs の世界観、universe は連続である を否定して、強力な不連続性を universe の現象として受け入れることである。
と述べた。
ゼロ除算は 無限遠点(無限)が 実はゼロ点(ゼロ)と一致していたという 驚嘆すべきことを言っているが、それらは対立するものの奇妙な一致を述べている。
食物連鎖の厳しい現実は、食べるものと食べられるものの一致、生と死の一致、愛と憎しみ、愛と性など 一見反するものの微妙な調和、同等性、一致はそれこそ universe に普遍的に見られる現象ではないだろうか。 そのような視点は universeの理解、概念に新しい感覚と世界を拓くだろう。またそのような事実、世界を肯定できなければ、universe を肯定できないのではないだろうか。
富める者は貧しき者であり、貧しき者は富める者である。強いものは弱いものであり、弱いものは強いものである。敵は味方であり、味方は敵である。幸せな者は不幸であり、不幸な者は幸せ者である。
一般に考えられているのとは逆に、長命なものは不幸であり、短命なものこそ幸せであるとは言えないだろうか。
進化は退化であり、退化は進化であり、美しいものは醜く、醜いものは美しいものである。
賢い者は愚かな者であり、愚かな者は賢い者である。優れるものは劣るものであり、劣るものは優れたものである。正義は悪であり、悪は正義である。明は暗であり、暗は明である。動は静であり、静は動である。
それらは、ゼロ除算のように惹きつけるものがあるのではないだろうか。
ゼロ除算の研究とは、哲学であり(哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。)修行であり、信仰であるとも言える。 信仰こそは ゼロ除算の典型であると言える。実際、ゼロ除算は ゼロから無限へのワープであり、信仰とは 心の中心から 神へのワープである。
以 上
ゼロ除算は、不可能であると誰が最初に言ったのでしょうか・・・・

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