2015年4月18日土曜日

1歳の赤ん坊は世界をどう理解するか-手法は科学者と共通

1歳の赤ん坊は世界をどう理解するか-手法は科学者と共通

原文(英語)

2015 年 4 月 16 日 14:04 JST

赤ん坊は並の大人より有能な科学者かもしれない Getty Images

 1歳の赤ん坊をしばらくの間注意深く観察し、いくつの「実験」をしているか数えてみよう。1歳5カ月の孫娘ジョージアナは先週末にわたしの家に来たとき、イースター(復活祭)で飾られる斑点模様の発泡スチロール製卵を15分もの間いじっていた。それはチョコレートの卵なのか、あるいは固いゆで卵なのか。それはバウンドするのか。転がるだろうか。食べられるのだろうか。

われわれを人間らしくしたのは何なのか―愛くるしい赤ん坊

 わたしと一部の同僚たちは過去20年間、生まれて間もない赤ん坊でさえ、科学者たちがするのとほとんど同じ方法で世界について学習していると主張してきた。彼らは理論を組み立て、統計を分析し、予測していなかった出来事の説明を試み、実験することすらある。この「理論説」(人は一般的な知識に基づいて他者の心的状況を理解するという説)を学術誌に執筆する時、わたしは哲学、コンピューター科学、進化生物学の概念を使って極めて抽象的に語る。

 しかし真実はと言えば、わたし個人に関する限り、孫娘を観察することは、あらゆる実験あるいは主張と同じくらい説得力がある。わたしは彼女のおじいちゃん、つまりわたしの夫に、「あなた、あれ見た? 素晴らしい。彼女はきっとエンジニアになるわ」と叫ぶ。科学者ではない普通のおばあちゃんと同じように、大きな誇りと驚きをもって叫んでいるのだ(そして独り言を言う。「この小さな頭の中で何が起こっているのかを理解するのがわたしの仕事だとすれば、どれほど素晴らしいことか」と。もちろん、それはわたしの仕事だとされている。しかし、情報社会における他の誰もがそうであるように、わたしが実際にしているのは、電子メールに返信することだとしばしば感じてしまうのだ)。

 だが、逸話が蓄積してもデータにならないのと同じように、孫に甘い祖母の観察は科学ではない。赤ん坊が何を考えているか推量するのは容易だし面白いが、それを証明するのは本当に難しい。精緻な実験技術が必要だ。

 ジョンズ・ホプキンズ大学のエイミー・シュタール、リサ・ファイゲンソン両氏は、米科学誌サイエンスに掲載された驚くほど鋭い論文で、生後11カ月の赤ん坊が科学者たちと同じように、自分の予測が外れた時に特別の注意を払い、その結果としてとりわけよく学習し、何が起こったのか突き止めるために実験しさえすることを系統的に示している。

 両氏は、赤ん坊は予期しなかったことを目撃したときにそれを普段よりも長く観察することを示した古典的な研究から始めた。研究の対象になった赤ん坊たちは、あり得ない出来事(例えば固いれんがの壁をボールが一見して通過するようにみえること)、あるいは普通の出来事(同じボールが単純に空間を通過して動いていくこと)のいずれかを見た。その時、彼らはボールが雑音を発するのを聞いた。ボールが雑音を出したと赤ん坊が学習する確率が高かったのは、ボールが予測どおり空間を動いた時よりも、壁を通過した時のほうだった。

 2番目の実験で、何人かの赤ん坊に、融解する不思議なボールないし、普通の固体のボールを見せた。他の赤ん坊には、棚にそって転がるボールか、あるいは棚の端から外れ、空中で止まったままに見えるボールを見せた。その後、これらの赤ん坊たちにこのボールを手渡して遊ばせた。

 すると赤ん坊たちは、予期せぬ動きをしたボールをより丹念に調べた。また、ボールが「どのように」予期せぬ動きをしたかに応じて、調べ方を変えた。壁を通して消えたかに見えたボールの場合、赤ん坊はボールを表面に対して打ち付けてみた。一見して空中で停止していたボールについては、それを落としてみた。それは、ボールが本当に固いのか、あるいは本当に重力に逆らっていたのか実験しようとしているかのようだった。それは、孫娘がイースターの籠の中の偽の卵を試しているのとよく似ていた。

 これらの実験は、赤ん坊が並の大人よりも有能な科学者であるかもしれないことを示唆している。成人は「確証バイアス」の被害を受けている。つまり、われわれは、自分にとって既知のものに適合する出来事に注意を払い、われわれの先入観を動揺させるかもしれないものを無視しているのだ。チャールズ・ダーウィンは、自分の理論と食い違うあらゆる事実の特別リストを保持していた。そうしないとそれらの事実を無視する誘惑に駆られるか、あるいは忘れてしまうことを知っていたからだ。

 これに対し、赤ん坊は予期しない出来事に食指が動くようだ。科学哲学者カール・ポパーが提示した理想的な科学者のように、赤ん坊は自分たちの理論をねじ曲げる事実を常に求めている。皆さんも宇宙の神秘を学びたいと望むなら、こうした奇妙な卵に目をこらしてみることだ。

(訳注)筆者のアリソン・ゴプニック氏は米国の著名な心理学者http://jp.wsj.com/articles/SB11581577432647144308704580583552778895696

無意識に本能的に学習していると思いますが、その辺は 極めて、興味深い未知の世界では 1歳児。


再生核研究所声明218(2015.3.19)興味、関心、感動;人間とは

(2015.3.14:13時頃、歩けることの不思議さを感じながら、春先の 昼食後の散歩の折り、自然に湧いた考えである。)

考えの中心が 次の声明にあるので、まず要点を引用する:

再生核研究所声明 76(2012.2.16)  教育における心得 ― 教育原理:

(前略)

まず、大いに注意したいのは、 人間が教育を受けて、大きく性格、人格、価値観、感性などなどが 強い影響を受ける事実である。これは教育を受けて を 環境によってと 広く言い換えられる。 特に幼児教育の影響は甚大であるとも言える。 あたかも人間が形成されていくように思える程である。 顕著な例が、言葉の学習である。 実際、普通の人間ならば、 幼児の時代に過ごした、どのような世界の言語も 自然に話せるようになるだろう。 これは事実驚異的なことと言える。 幼児教育が、どのような環境、教育でどのような影響を与えるかの研究は ほとんど未知の研究分野ではないだろうか。

いろいろな天才の出現; 音楽や芸術の才能、スポーツの才能の開花、数学の才能の開花、などなど広範に及ぶ、才能の開花と環境の影響である。 大きな未知の分野として、触れておきたい。

次に人格形成の時期における問題である。 人は好きなことをやりたくなり、感動する分野で,価値を見出すであろう。 ここが大問題である。どうして、そのような感性がどのような環境、教育で育つのであろうか。 好き嫌いなどの感性、感動する対象がどのようにして定まって来るのであろうか。 固有の人間の生命活動と、環境の極めて複雑な関係で発達するようにみえ、その過程は極めて漠然としているのが現状ではないだろうか。

あまりにも未知のことが広くて、深いので、そこで、基本として自由放任主義や自由を尊重した教育原理が考えられるのは、当然である。また、それは、自然に帰れとも表現されるだろう。

もちろん、これでは、 良き社会人としての人間の成長が望めず、また、社会、文化の継承の面からも基本的な問題が生じる、 そこで、基本的なカリキュラムを用意して、学校生活を 調えて、教育を組織的に行うことになる。

個性を生かす、個人の能力を活かす、個人の全人的な成長を図ること; 良き社会人を育成し、文化の継承を図る、これらは教育の基本的な要素、教育原理であると考えられる。

軍国主義的な教育、偏狭な愛国主義的な教育が、 また、宗教などが 全人格に甚大な影響を与えてきた事実を振り返るまでもなく、学校教育の影響も強く、他方、いろいろな個別的な、専門教育も、特殊教育も個人に甚大な影響を与えてきた多くの例を想起したい。

特に注目したいのは、初めて受けた教育の影響の大きさである。 若いときに受けた教育の影響が 後々まで影響を与えて、3つ子の魂百までもの諺は、教育の故か、人の性格は変わらない事実を 如実に示している。 3つ子の性格は もちろん大きく、環境と教育の影響を受けているのは当然である。 狼に育てられれば、狼のようになってしまう。 大学で、ある専門に惹かれると、終生その学問・研究に惹かれ、没頭して、そこに自分の世界を見出すのは 世に多い現象である。 後で、変更できないような甚大な影響を受けるので、何事初期教育は極めて大事な観点ではないだろうか。

この声明の意図は、教育の枠をはめすぎ、型にはめすぎると、変な人間ができる危険性が高いのではないかと 注意を喚起することである。(以下略)

人間は 多くは本能原理で、生物面では共通にできているが、純粋に趣味、関心、興味、好みなどに於いては 驚くべき多様性を有し、それは社会の多様性、人間世界の広さと深さの原理である。問題は、喜びを感じる、感動することが、人によって相当に違いがあり、それが価値観の相違となって現れてくると言う事である。1日 本当に自由な日が与えられたとき、どのように過ごしたいかは、人それぞれである。価値判断もそれぞれである。そのような感性、人生観や世界観がどのように構成されるかは、人間とは愛するところのものである ともみなせるから、上記声明76のように極めて興味深く、大事な基本的な問題ではないだろうか。

人間には、共感、共鳴したい本能があるから、共通の感動を覚えたり、共通の価値観を持つ者が群がり、ある社会を構成するだろう。これは人間社会に無数に存在する、社会の細胞のようなものになる。俳句会やお花教室、談話会や教室、塾 等々。

8歳で巨大素数の構造に興味がある、6歳で無限に興味があるなど、どうしてそのような興味を抱いたかは、大いに興味がある。一般に、早く、あるいは長く関与したり、学習していると愛情が深まり、興味が深まり、 どんどん能力が進み、感性も発展して、志や夢、感動の元となるは 世に広く見られる。

このように考えて来ると、個人でも、集団でも、人間と数学は同じようなところがあることに気づく。 数学は、膨大に広がっているが、興味を持たれる部分がどんどん発展して、研究者は専門や分野の中に 人生を掛けていくことになる。個人でも、ある集団でもそうである。応用される分野では 要請される課題の研究になるが、純粋数学の場合には本質的に興味によって方向が定まると言える。そこで、なぜ、興味を抱くか、どうしてそのような数学に興味を抱くか、それは、人間とは 何者かと問うことである。何をするように人間は 作られているのだろうか。生存の問題を超えた、高いレヴェルの段階における問題を提起している。人間存在の原理; 存在、智、愛、すなわち、存在することは、 知ることであり、また、何かを求めることである。 存在することを求めるは 当然理解できるが、 しかし、それらを超えて、人間は何を求めているのだろうか。真、善、美、聖と表現されることを求めるは 古来から、知られてきているが、その背後に、感動することを求めるは、当然であるが ― 人間が好きなことをして、好きなことを求めるは当然であるから – 人間は何に感動するかと問うている。すなわち、人間は、何をするように作られているか。それが、個人の生命、もともとのものと環境によって定められていることは 確かである。

数学にいろいろな公理系が有って、いろいろな数学が有るように 人や民族にはいろいろな文化背景を持っていて、感動するもの、仕方、価値観などでも相当な違いが存在する。それらの間の関係と評価、交流などは基本的な問題があるが、人間には、新規なもの、珍しいもの、に興味と関心をもつ本能があるのは確かであるが、最終的な評価はどのようになるであろうか。

この声明は 論旨が不明瞭であるが、基本的な興味深い、未知の世界に注意を喚起させたものとして、未完の声明としたい.

人間は、何をするように作られているかの問題について、相当に良い解答を得ていることに気づく:

― 哲学とは 真智への愛 であり、真智とは 神の意志 のことである。哲学することは、人間の本能であり、それは 神の意志 であると考えられる。愛の定義は 声明146で与えられ、神の定義は 声明122と132で与えられている。―

関係話題について、下記の声明も参照:

再生核研究所声明 112(2013.3.14) 公理系からの脱却、論理的思考、逆思考によって、視野を高め、広めよ ― 平成暗黒時代を このまま終わらせて 良いものか

再生核研究所声明173(2014.8.6) 愛が無ければ観えない

再生核研究所声明175(2014.8.8) 人間の擁く 大きな虚像

再生核研究所声明198(2015.1.14)計算機と人間の違い、そしてそれらの愚かさについて

再生核研究所声明191(2014.12.26) 公理系、基本と人間

以 上

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