2015年2月15日日曜日

後藤健二さんらの功績たたえる 国連で米大使が演説

後藤健二さんらの功績たたえる 国連で米大使が演説
ニューヨーク=金成隆一2015年2月13日10時44分
「イスラム国」など過激派組織の資金源を断つための新しい国連安全保障理事会の決議が12日(日本時間13日未明)、全会一致で採択された。米国のパワー国連大使は決議に賛成する討論で、人質事件の犠牲になったとみられるフリージャーナリスト後藤健二さんらの活動を紹介し、功績をたたえた。
特集:「イスラム国」
パワー氏は採択直後の演説の中で、後藤さんについて「誘拐された友人の湯川遥菜(はるな)さんを捜しにシリアに入った。ケンジは紛争を伝えることに人生を懸け、賞を受けた子ども向けの著書『ダイヤモンドより平和がほしい』では、シエラレオネの元少年兵の物語を伝えた」と述べた。
援助の仕事でシリア入りした米国人のケイラ・ミューラーさんや、ヨルダン軍パイロットらについても触れ、「これらの人々を失ったことが、過激派根絶に向けた私たちの決意を深めている」とも強調した。ヨルダン次席代表も「パイロットの殉職で、ヨルダンは対テロの努力をより前進させる決意だ」と採択を歓迎した。決議の共同提案国には日本やヨルダンなど少なくとも50カ国以上が名を連ねた。
安保理は「イスラム国」など過激派対策の決議を複数採択してきたが、日本人の人質事件以降は初めて。これらの決議の実効性は、今後の各国の取り組みにかかっている。(ニューヨーク=金成隆一)
再生核研究所声明205(2015.2.11) 宿命論

人生、世界については 結構多くの見解を述べてきた。最近も
再生核研究所声明203(2015.2.4) 人間とは何か、人生とは何か
(ちょっと風邪気味の日が続いて回復したとき、ひとりでに閃いた,人間、人生についての断面である)
― 人生とは、始めも分らず、終末の先も分らない。周りの環境と分けの分らない感情、情念で、ふらふら生かされているようにみえる。背後には 本能である生命の活動があることが実感できる。―  
また、
今回,明確に実感したのは、我々が感じ、意欲が湧いたり、喜びを感じたりするのは、原理的に健康状態に左右されて、理屈や夢や思想や我々の理性的な面では無くて、生命力が大きいということである。多くの人間の悩みや、迷い,不安さえ、その元には健康問題があり、健康状態の問題が、人間の精神状態に大きな影響を与えているのではないかという、基本に対する省察を実感したということである。生命力が有り、健康ならば、ひとりでに人生に夢が湧き、喜びや、感動が 些細なことからも湧いてくるだろう。従って、絶えず健康状態に気遣うは、人間を考える場合ばかりではなく、人生における基本であると言える。汝自らを知れ、汝 足元を見よ。汝自らの生命を思え。―
さらに、
―人間とは何か、人生とは何か。 それらは、肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる、雲のような存在であるが、人間を精神と捉えると結構安定している存在であると言える。実際、人は何十年と私は、私と思うだろう。我々が 広く環境と自己に 何時も留意するのは 大事な心得と言える。―
このように考えると、人間が積極的な存在ではなく、受動的で、何者かによって生かされている現実を深く受け止めることになる。私たちは 若い頃、寿命も、運命も定まっている、場合によっては、前世からの因縁で 定めだから仕方ないという発想を、老人たちから幾度となく聞かされてきて、相当な時代、そのような世界観を人々は 仏教の影響を除いても 本能的に感じてきたのではないだろうか。結構、悟ったように、それは定め、因縁だから仕方ない、― そのような人生観、世界観は世に多いのでは ないだろうか。いま、それらを諒として 自然に受け入れられる心を実感している。
しかしながら、積極的に人生を意志して行こうという精神からは そのような心情から新しい局面を観たい。
最近、心を痛めた、イスラム国による、人質事件と処刑、死刑囚の処刑、痛ましい痛切残念な事件、あるいは痛ましい殺人事件。宿命論とはこの場合、それぞれの立場では 仕方がなかったという視点である。日本人人質も、パイロットもそれぞれの義を通したものであり、死刑囚と言えども 兄弟など爆死させられて、絶望に追い込まれた、心情は痛いほど理解できる。パイロットなどは上官の命令で命をかけて、任務を遂行したものであり、何ら罪、責任が問われる立場ではない. 後藤健二氏などは 危険を顧みず友人の救命に向かい、イラクの人々のために尽くした行為は まさに聖人レベルではないだろうか。痛切残念である。ここで述べたい視点は、ある者や国を批判することではなく、それぞれの立場で、言わば義があり、仕方のない面があるという視点である。殺人事件が起こると、大騒ぎを起こして騒ぎ立てるが、相手の立場に立てば、それなりに追い詰められた苦しみや、状況があり、誰でもそのような立場になれば、同じような状況に追い込まれるものである という、人間の普遍性、人間は皆同じような存在であり、偶然、そのような環境や状況では、皆同じようではないだろうかと、観る視点に想いを致すことである。
たまたま、環境で、状況で そのような幸運や不運にあっているという、視点は 人間を優しくし、社会を明るくするのではないだろうか。生きるもの全ては、哀しい運命を共有する仲間たちではないか。切ない。マスコミは 弱いもの虐めのようなことは よして欲しい。 明るい世相を描いて欲しい。
以 上

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