2015年2月12日木曜日

「イスラム国へ行った人は自己責任」に潜む大問題 「家族、日本人に関係なければどうでもいい」に極まる国際音痴ぶり

「イスラム国へ行った人は自己責任」に潜む大問題
「家族、日本人に関係なければどうでもいい」に極まる国際音痴ぶり
2015.02.10(火) 伊東 乾

中東の危険な地域に自ら赴き、その結果テロリストに誘拐され被害に逢った人たちについて「自己責任」という言葉を使う論議が取りざたされています。
ある調査によれば83%の人が「自己責任」と言っているという。目を疑いましたが実際そのように印字されていました。これはいったいどういうことか、考えて見なければ、と思った次第です。
「湯水と情報はただ」の意識?
イスラム国、「日本にとって悪夢の始まり」 後藤さん殺害動画
都内で開かれた催しで中東情勢について語る後藤健二さん(2014年3月4日撮影、2015年1月21日国際援助団体提供)〔AFPBB News〕
身の危険を顧みず、戦闘地域に入って取材する従軍記者、カメラマンなどの職業があります。彼らは自己の判断においてそうした仕事に就き、私たちが行くことのできない危険な地域の1次情報をもたらしてくれます。
それらの情報は、様々な判断を下すうえで時に決定的な意味を持ちます。情報であれば報道ですが、諜報であればスパイ、捕まれば命はありません。
そういう仕事は「自己責任」で行われるものなのでしょうか?
私たち情報を得る側は、徒手して平和な日本にとどまりつつ、日本語ベースで中東の凄まじい状況を手に取るように知りながら、いざ何かあると「自己責任」でことを済ませてしまうのか?
日本語には「湯水のように」という表現がありますが、情報は湯水と同様無料なのでしょうか?http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42874

自己責任の原則はあるが、最善を尽くすは 当然では?

再生核研究所声明205(2015.2.11) 宿命論


人生、世界については 結構多くの見解を述べてきた。最近も
再生核研究所声明203(2015.2.4) 人間とは何か、人生とは何か
(ちょっと風邪気味の日が続いて回復したとき、ひとりでに閃いた,人間、人生についての断面である)
― 人生とは、始めも分らず、終末の先も分らない。周りの環境と分けの分らない感情、情念で、ふらふら生かされているようにみえる。背後には 本能である生命の活動があることが実感できる。―  
また、
今回,明確に実感したのは、我々が感じ、意欲が湧いたり、喜びを感じたりするのは、原理的に健康状態に左右されて、理屈や夢や思想や我々の理性的な面では無くて、生命力が大きいということである。多くの人間の悩みや、迷い,不安さえ、その元には健康問題があり、健康状態の問題が、人間の精神状態に大きな影響を与えているのではないかという、基本に対する省察を実感したということである。生命力が有り、健康ならば、ひとりでに人生に夢が湧き、喜びや、感動が 些細なことからも湧いてくるだろう。従って、絶えず健康状態に気遣うは、人間を考える場合ばかりではなく、人生における基本であると言える。汝自らを知れ、汝 足元を見よ。汝自らの生命を思え。―
さらに、
―人間とは何か、人生とは何か。 それらは、肉体と環境の中にふらふら浮かんでいる、雲のような存在であるが、人間を精神と捉えると結構安定している存在であると言える。実際、人は何十年と私は、私と思うだろう。我々が 広く環境と自己に 何時も留意するのは 大事な心得と言える。―
このように考えると、人間が積極的な存在ではなく、受動的で、何者かによって生かされている現実を深く受け止めることになる。私たちは 若い頃、寿命も、運命も定まっている、場合によっては、前世からの因縁で 定めだから仕方ないという発想を、老人たちから幾度となく聞かされてきて、相当な時代、そのような世界観を人々は 仏教の影響を除いても 本能的に感じてきたのではないだろうか。結構、悟ったように、それは定め、因縁だから仕方ない、― そのような人生観、世界観は世に多いのでは ないだろうか。いま、それらを諒として 自然に受け入れられる心を実感している。
しかしながら、積極的に人生を意志して行こうという精神からは そのような心情から新しい局面を観たい。
最近、心を痛めた、イスラム国による、人質事件と処刑、死刑囚の処刑、痛ましい痛切残念な事件、あるいは痛ましい殺人事件。宿命論とはこの場合、それぞれの立場では 仕方がなかったという視点である。日本人人質も、パイロットもそれぞれの義を通したものであり、死刑囚と言えども 兄弟など爆死させられて、絶望に追い込まれた、心情は痛いほど理解できる。パイロットなどは上官の命令で命をかけて、任務を遂行したものであり、何ら罪、責任が問われる立場ではない. 後藤健二氏などは 危険を顧みず友人の救命に向かい、イラクの人々のために尽くした行為は まさに聖人レベルではないだろうか。痛切残念である。ここで述べたい視点は、ある者や国を批判することではなく、それぞれの立場で、言わば義があり、仕方のない面があるという視点である。殺人事件が起こると、大騒ぎを起こして騒ぎ立てるが、相手の立場に立てば、それなりに追い詰められた苦しみや、状況があり、誰でもそのような立場になれば、同じような状況に追い込まれるものである という、人間の普遍性、人間は皆同じような存在であり、偶然、そのような環境や状況では、皆同じようではないだろうかと、観る視点に想いを致すことである。
たまたま、環境で、状況で そのような幸運や不運にあっているという、視点は 人間を優しくし、社会を明るくするのではないだろうか。生きるもの全ては、哀しい運命を共有する仲間たちではないか。切ない。マスコミは 弱いもの虐めのようなことは よして欲しい。 明るい世相を描いて欲しい。
以 上

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