2014年7月1日火曜日

記事 橘玲2014年06月25日 06:00テレビはバカに娯楽を提供するメディア

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橘玲2014年06月25日 06:00テレビはバカに娯楽を提供するメディア


最新刊、『バカが多いのには理由がある』から「はじめに」を掲載します。

ずいぶん昔の話ですが、仕事の企画で民放テレビのディレクターに会いにいったことがあります。彼は30代後半で、視聴率の高いワイドショーを担当し、業界ではやり手として知られていました。

「僕の話なんか聞いたって仕方ないですよ」

開口一番、彼はそういいました。

「昼間っからテレビを見ている視聴者って、どういうひとかわかりますか? まともな人間は仕事をしているからテレビの前になんかいません。暇な主婦とか、やることのない老人とか、失業者とか、要するに真っ当じゃないひとたちが僕らのお客さんなんです。彼らをひとことでいうと、バカです。僕らはバカを喜ばせるためにくだらない番組を毎日つくっているんですよ。あなたの役に立つ話ができるわけないでしょ」

彼はテレビ局のエリート社員ですから、この偽悪ぶった言い方がどこまで本音かはわかりません。私が驚いたのは、その言葉の背後にある底知れぬニヒリズムです。

彼によれば世の中の人間の大半はバカで、1000万人単位の視聴者を相手にするテレビ(マスコミ)の役割はバカに娯楽を提供することです。その一方で、テレビは影響力が大きすぎるので失敗が許されません。そこでテレビ局はジャーナリズムを放棄し、新聞や週刊誌のゴシップ記事をネタ元にして、お笑い芸人やアイドルなどを使って面白おかしく仕立てることに専念します。これだと後で批判されても自分たちに直接の責任はないわけですから、番組内でアナウンサーに謝らせればすむのです。

「バカだって暇つぶしをする権利はあるでしょ」彼はいいました。「それに、スポンサーはバカからお金を巻き上げないとビジネスになりませんしね」

いまではこうしたニヒリズムがメディア全体を覆ってしまったようです。嫌韓・反中の記事ばかりが溢れるのは、それが正しいと思っているのではなく、売れるからです。ライバルが過激な見出しをつければ、それに対抗してより過激な記事をつくらなければなりません。

近代の啓蒙主義者は、「バカは教育によって治るはずだ」と考えました。しかし問題は、どれほど教育してもバカは減らない、ということにあります。

だとしたらそこには、なにか根源的な理由があるはずです。

『バカが多いのには理由がある』(集英社)http://blogos.com/article/89169/


そのような面はあるのでは。 

昔、テレビが出現した時、そう白痴化 危険性が と警戒されたのですが、その危険性は 高いのでは。

楽しいテレビ番組で、人生すっかり奪われかねない。

しかも、虚像の世界で、


再生核研究所声明168(2014.6.24) 霧の中 ― 環境の中の人間、盲目、偏見

(5年ぶりに帰国して、日本の素晴らしさに感銘を受けて、いわば単純で、質素なキャンパスライフから、日本社会に触れて、抱いた感想である)

下記声明にも述べられているように、人生の意義について、いろいろ考察を進めて来たことが良く分る:

再生核研究所声明57: 人生とは何か、人生如何に生きるべきか

再生核研究所声明68: 生物の本質 ― 生きること、死ぬること

再生核研究所声明69:  単細胞人間 ― 単細胞的思考

再生核研究所声明72: 慣性の法則 ― 脈動、乱流は 人世、社会の普遍的な法則

再生核研究所声明74(2012.2.8): 人生・生命の肯定について

再生核研究所声明77(2012.2.18): 人生における心得

再生核研究所声明85(2012.4.24): 食欲から人間を考える ― 飽きること

再生核研究所声明105(2012.11.06): 人間の愚かさ、弱点について

再生核研究所声明118 (2013.5.16): 馬鹿馬鹿しい人生、命失う者は 幸いである、 と言える面もある ― 

再生核研究所声明141 (2013.11.14): 結局、人間とは、人生とは 何だろうか、どの様なものか

再生核研究所声明145 (2013.12.14): 生きること、人間として在ることの 究極の意義 についての考察

再生核研究所声明149(2014.3.4): 生きること、生命の本質、活動して止まないもの

再生核研究所声明155: 生きる意味は 文学者にも分からない??

再生核研究所声明158(2014.5.22):  生命と人生

そして、結局、― 人生とは、始めも分らず、 終末の先も分らない。周りの環境と分けの分らない感情、情念で、 ふらふら生かされているようにみえる。 背後には 本能である生命の活動があることが実感できる。- (声明157)と述べている。簡素な環境で暮らしていれば、人生の素朴な問題が、あらわに見えて来るが、日本の世相を見ると(正確には、現在の身のまわりの環境、情報) 楽しい生活に満ちているようである。 目を覚ませば、小鳥たちがさえずり、鶯さえ啼いている。美しい自然環境、テレビでは美しい画面で、 楽しい、信じられないような美しい情景と素晴らしい演技、ドラマ、いろいろな文化的な楽しい番組、新聞は多くの豊かな情報を与え、吸収できないほど豊かで、深い。 楽しい食事、食の多様性、質の高さ、沢山の外食店、温泉やサウナ、散歩する公園や手ごろな山々に囲まれている。庭や家の整備や修理なども楽しい。 特にテレビ番組の充実、多様性、素晴らしさで、迂闊に暮らしていると、楽しい生活で、人生さえみえなくなってしまうように感じられる。 人生、楽しいことで一杯に成ったら、さて、人生とは何だろうかと考えてしまう。良くはみえないが楽しい、日常の霧の中で、始めも分からず、先も分からない、 現世も分からないが、楽しい日常生活で満ちていた。楽しい日常生活は 霧の中のように分からず、 周りの環境と共に 酔っていて、ちょうど環境に流されているようである。環境が、あまりに良く、楽しいもので囲まれていれば、人生とは結局、何だと言えるだろうか。- テレビの生活への影響、ドラマなど充実して楽し過ぎると、 ドラマや、テレビ番組の虚像に すっぽり、人生を奪われかねない危惧が 出て来る。- そこで、ニ-チェの言葉が思い出される ― 生を容易にしたいか、そうならば、 大衆に溶け込み、大衆と共に我を忘れるがよい。

人間は、人生は、テレビやいろいろ楽しい遊びに うつつを抜かしていれば良いだろうか? もちろん、楽しく好きなことで酔っているのだから、それは それでよい。しかし、

人生にかける虹、志などしっかり持てれば、上記ふらふらの人生にとって、幸いではないだろうか - 人生の意義は 感動することにある - 人生の基本定理。この世に生を享けたからには、神をも感動させるような、感動をしたいものである(声明158)。

とも言える。

確かに、現在、世界では、生活も 環境も豊かで、自由で、理想的な生活を送っている者は 相当に多いと言える。その先の世界を観ている。― 良く生きるということは、どの様なことか?

以 上

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